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「あほリズム」
(333)
わが国の経済成長が著しい頃、つまり反権力運動が全盛の時代に、
仮に今の中国のような国と領土巡って紛争になったとすれば、夢を
信じることができた若者たちはいざ戦争となれば、案外、祖国のため
に信条を捨て身を棄てて果敢に戦ったかもしれない。
それとは反対に、その危機が現実に迫りつつある今日において、
ナショナリズムが声高に叫ばれる中、失われた時代に夢を諦めた
若者たちはいざとなったら、案外、信条を捨て身を翻すかもしれない。
というのも、人は自分の弱さを隠すために言葉によって偽装するから
だ。つまり、言葉は行動を保証しない。
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アフォリズムではありません
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「あほリズム」
(328)
われわれが自虐的であるのは、われわれの社会が序列道徳を重ん
じ立場の弱い者に「慎み」や「謙虚さ」を美徳として強いてきたか
らではないか。では、われわれの美徳である「慎み」や「謙虚さ」
を他方で自虐的だと貶すことは、われわれの道徳文化を否定する
ことにならないのだろうか?つまり、この国のナショナリストたちは、
内に向けては自虐道徳を説き、外に向かっては自虐的であるなと
言う。つまり矛盾している。
(329)
「慎み」や「謙虚さ」は、相手の「思いやり」に応えるための美
徳である。ところが、相手が「思いやり」など持ち合わせない時、
それらの美徳は一転して自虐的に映る。では、これを自虐史観に当
て嵌めてみると、われわれは過去の過ちを謝ったが彼らは許さなか
った。つまり、われわれが自虐的なのではなくて、彼らが「思いや
り」を示さなかっただけのことではないか。
(330)
いまや、われわれが彼らの癒えぬ恨みを労わるしかない。
つまり、われわれが自虐的に映るのは、われわれが彼らを
思いやっているからなのだ。
(331)
しかし、「思いやり」が相手の胸に届くとは限らない。
(332)
儒教道徳は身分の違いによって道徳が異なる。権力者は人々を道
徳に従わせても自らはそれに与らない。つまり、「お前には許さないが、
俺には許される」。この不公平な序列道徳こそが儒教思想である。
つまり矛盾している。
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「あほリズム」
(327)
われわれは、これまで世界を変えることばかり考えてきたが、
多分、やがてわれわれ自身を変えなければならなくなるだろう。
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「あほリズム」
(326)
もしも、この世界が絶対的な存在によって支配され、その意に
背くことは過ちであるとしたら、私はこんなにも死を躊躇うことは
なかっただろう。
絶対的な存在などない、だからこそ私は生きようと思う。
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「あほリズム」
(322)
社会とは、一言で言うと「賭場」のようなものである。
(323)
それぞれが自分を賭して社会的価値を得ようとする。
(324)
しかし、社会そのものが幻想だとしたら・・・
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