|
|
「存在とは何だ?」
[ リスト | 詳細 ]
|
「存在とは答えだ」 |
|
「存在とは何だ」(4) 本「ハイデガーの思想」に戻ります。 以下は、著者(木田元) と ハイデガーの言葉が交錯しますので、 便宜上、「 」は著者の、『 』 はハイデガーの、それ以外は私の 言葉とします。 ハイデガーは、西洋形而上学はプラトン、アリストテレスによっ てもたらされたと言います。それは、アリストテレスによって、存 在者を「何であるか」(本質)と「それがある」(事実)に区別し概念 化されて、「『この区別の遂行こそが形而上学を成立させたのだ』と ハイデガーは見るのである。」 つまり、『存在が区別されて本質存在と事実存在になる。この区 別の遂行とその準備とともに、形而上学としての存在の歴史が始ま るのである』(ハイデガー著『ニーチェ』) それでは、それ以前のギリシャ人たちはどうだったのか?「彼(ハ イデガー)の考えでは、アナクシマンドロスやヘラクレイトスやパル メニデスに代表される〈ソクラテス以前の思想家たち〉は、<叡知> を愛する「アネール・フィロソフォス(叡知を愛する人)」ではあっ たが「哲学者」ではなかったし、彼らの思索も、「叡知を愛するこ と」ではあっても「哲学」ではなかった。彼らは哲学者よりも「も っと偉大な思索者」だったのであり、「思索の別の次元」に生きて いたのである。」そして、存在者に対する想いとは、「『存在者が 存在のうちに集められているということ、存在の輝きのうちに存在 者が現れ出ているということ、まさしくこのことがギリシャ人を驚 かせた』のであり、この驚きがギリシャ人を思索に駆り立てたのだ が、当初その思索は、おのれのうちで生起しているその出来事をひ たすら畏敬し、それに調和し随順するということでしかなかった、 と言うのである。」つまり、存在者〈がある〉ことに驚き、〈それ が何であるか〉(何のためにあるか)とは考えなかった。「彼(ハイデ ガー)は、このようにして開始された思索を『偉大な始まりの開始』 と呼ぶ。」 それでは彼ら(古代ギリシャ人)は存在者をどのように解 していたのだろうか。「万物を<ピュシス>(自然)とみていた早期の ギリシャ人は、存在者の全体を〈おのずから発現し生成してきたも の〉と見ていたにちがいない。」 「ハイデガーは、この<ピシュス> についてこんなふうに述べている。『ピシュスとはギリシャ人にと って存在者そのものと存在者の全体を名指す本質的な名称である。 ギリシャ人にとって存在者とは、おのずから無為にして萌えあがり 現れきたり、そしておのれへと還帰し消え去ってゆくものであり、 萌えあがり現れきたっておのれへと還帰してゆきながら場を占めて いるものなのである』」 ところが、プラトン・アリストテレスによって存在は本質存在と 事実存在に分岐され、「〈始原の単純な存在〉つまり〈自然〉とし ての存在が押しやられ、忘却されてしまう。この〈存在忘却〉とと もに〈形而上学〉が始まるのである。」 そして、『イデアとしての 存在こそがいまや真に存在するものへと格上げされ、以前支配的で あった存在者そのもの(つまり自然)は、プラトンが非存在者と呼ぶ ものに零落してしまったのである。』 つまり、『イデアの優位がエ イドス(形相)と協力して、本質存在(何であるか)を基準的存在につ かせる。存在はなによりもまず本質存在ということになるのである』 「以後、形而上学の進行のなかで、この<本質存在>を規定する形 而上学的(超自然的)原理の呼び名は、プラトンの<イデア>から中世 キリスト教神学では<神>へ、さらには近代哲学においては<理性>へ と変わってゆくが、それによって規定される〈本質存在〉の<事実存 在>に対する優位はゆるがない。」 つまり、「〈哲学〉にとっては〈それは何であるか〉という問い が本領であるが、そう問うことによってすでに〈存在〉を〈本質存 在〉に限局してしまっている、ということにほかならない。」それ では、ハイデガーはその哲学についてどう思っていたのだろうか。 もちろん、時代と共に彼の思想も変遷するが、「西洋=ヨーロッパ の命運を規定した〈哲学〉と呼ばれる知は、自然を超えた超自然的 原理を設定して自然からの離脱をはかり、自然を制作(ポイエーシス) のための単なる材料(ヒュレー)におとしめる反自然な知なのだ」。 そして、「近代ヨーロッパにおける物質的・機械論的自然観と人間 中心主義的文化形成の根源は、遠くギリシャ古典時代に端を発する <存在=現前性=被制作性>という存在概念にあると見るべきだ」。 そこでハイデガーは、「人間を本来性に立ちかえらせ、本来的時間 性にもとづく新たな存在概念、おそらくは〈存在=生成〉という存 在概念を構成し、もう一度自然を生きて生成するものと見るような 自然観を復権することによって、明らかにゆきづまりにきている近 代ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそうと企てていたの である」。ところが、彼の企ては挫折してしまった。それは、「人 間中心主義的文化の転換を人間が主導権をとっておこなうというの は、明らかに自家撞着であろう。」
「では、この形而上学の時代、存在忘却の時代に、われわれは何が
なしうるのか。失われた存在を追想しつつ待つことだけだ、と後期のハイデガーは考えていたようである。」(木田元・著「ハイデガー の思想」より) ほとんどが引用になってしまったが、ハイデガーは本質存在「何 だ?」ばかりを追い求め事実存在「ある」を見失ってしまった人間 に始原の〈自然「ピシュス」〉を復権させようとしたが、その自家 撞着によって挫折した。そして、我々にできることはただ「待つこ とだけだ」と言ったという。ところが、今や我々は人間中心主義的 文化の限界を実感して、合理主義経済がもたらす環境破壊によって 自然環境が激変し、想定(本質)外の自然(事実存在)の反乱に怯えて いる。たとえば、人間が主導権をとって人間中心主義的文化の転換 を図ることは自家撞着かもしれないが、それでは自然(事実存在)の 変動によってその転換を余儀なくされているとしたらどうだろうか? 本質存在の優位が事実存在の反乱によって脅かされ、「自然共生動 物」或いは「地球内生物」である「世界内存在」としての現存在が 文字通り〈存在=生成〉による転換を迫られているとしたらどうだ ろうか?自然の猛威とは本質存在に拘束されていた事実存在がその 束縛を断って反抗(生成)しているのだ。忘れ却られていた自然の摂 理がまさにその事実存在によって我々の存在了解(想定)を脅かし、 ハイデガーが言うように、再び我々の「叡知」が甦える時が来ると すれば、それは将に今こそがその時ではないだろうか。つまり、 ハイデガーの残した思想がようやく輝きを放って、歩むべき道を見 失った近代人を導いてくれるその時が来たのではないだろうか。 最後に、本の中で見つけたヴィトゲンシュタインの次の言葉を引 用します。 「神秘的なのは、世界がいかに〈あるか〉ではなく、世界がある 〈ということ〉である」 人・物など個々の存在物を、存在そのものと 区別していう語。〈大辞林より〉 尚、本書には到る所に原語のルビがふってありましたが、当然 その連関を失えば著者の意が伝わらなくなることを承知の 上で、出来るだけ分り易く伝えるために大部分割愛しました。 もし伝わらなかったとすれば私の不手際です。 |
|
|
|
「存在とは何だ」(2) |


