|
(二十六)
研修生、彼女は居酒屋のアルバイトで付けていた「研修中」の
プレートを、バロックに言われて路上で歌う時にも付けていた。
彼女が唄い始めてから、それまでの中年オヤジ達の鬱屈した怨嗟
の掃溜めのような、何時終わるとも知れない泥酔いコンサートは
一変して、彼女の清んだ匂いに吸い寄せられた若い男達が中心の
華やかで、健全とは言いがたい、というのも客の大半は彼女の歌
に魅了されてというよりも、やはり、もっと下心に促されてそこに
立っていた。彼女もそれをよく心得ていて、何も歌を唄うのにそ
んなに肌を見せなくてもいいだろうと言いたくなる程、彼女を覆
い隠す衣装の面積は乏しくなっていった。高音を延ばす為に上体
を反らして唄っている時には、短いTシャツとローライズのパン
ツの間から落ちないように金具で止められたヘソが見えた。それ
は彼女から受ける印象と掛け離れていたので驚いた。ただ彼女
を覆う衣の面積が少なくなればなる程、それに反して、何かに
促されてそこに立ちつくす男たちが多くなった。彼女のそんな
ファッションにバロックは全く無関心だった。私も、彼女とバロ
ックの関係について気にはなったが、二人が音楽のこと以外で
とりとめのない話しをしていても、それ以上には思えなかったし、
私も二人に改めて問い質したりしなかった。
「アート!あんたもここで絵を描きなよ?」
彼女は急に思い付いたように言った。
「描いてどうするの?」
「売ればいいじゃん!ねえ、バロック。」
「ああ、ええんちゃうの。」
明らかに、私とバロックは彼女にお仕えしていた。
「売れないよ。」
私はマンガが失敗したことで描くことに自信を無くしていた。そ
れなのに人前で描ける訳がなかった。
「何を描くの?」
「わたし!」
彼女は躊躇せずに言った。私とバロックは顔を見合わせて笑った
。それを見て彼女が、
「って、冗談に決まってんじゃン、もう。」
「そうだっ、あんたが居酒屋で働いていた頃の絵なら描いてやる
よ、ハッピ着てる時の。」
「ギィヤーッ!ヤメテッ!」
彼女は居酒屋で着せられるハッピを嫌っていた。それが嫌で辞め
たとまで言っていた。彼女は近くに在る電子工学系の専門学校が
新設したミュージックカレッジで歌唱の勉強をしていたが、授業
料が払えなくて休学中だった。お金を貯めて復学するつもりでい
たが、「もう、無理。」と言っていた。お金のことはホームレス
の私にはどうする事もできなかったが、ただ話しだけは聞いてや
れた。
「そんなに高いの?」
「ぼったくり!」
かつては男子生徒がほとんどの技術系の専門学校だったが、今で
はマンガの描き方から鍼灸や接骨、さらに宇宙技術の学科まで出
来ていた。
「歌手になるつもりだったの?」
「違うよ、アイドルになる為よ!」
彼女はそう言ってから笑った。どうしていいか途方に暮れている時
に、あの居酒屋でバロックと出会い、彼の路上パフォーマンスに一
縷の望みを賭けてみようと思ったらしい。更に話しをしていると、私
の隣の県の出身だと分かった。
「よかったじゃん!アイドルになれたじゃん!」
「えっ、アイドル?」
「アイドルだよ、ここら辺じゃ。ねえ、バロック?」
「路上アイドルだよ。」
「やめてーっ!」
黙っていたバロックが突然に、
「アート、昼からは暇なんやろ、もしよかったら絵描いてミイヒンカ?」
私は後の「ミ・イ・ヒ・ン・カ」の意味が判らずに黙ってしまった。
(つづく)
|
「パソ街!」26―30
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
|
(二十七)
人間は本能と理性で生きている。本能とはすべての生き物の中
心にあって生きる力である。本能は生きることの是非を問わず、
ただひたすら「生きようとする」が、予期せぬ危機に直面して死
の恐怖が芽生え、この恐怖が記憶となって留まり、再び繰り返さ
れない様に意識され認識が育つ。この記憶と認識が積み重なって
理性が進化する。やがて理性は本能に従って、生きることを脅か
す様々な危機に対処して本能を死の恐怖から遠ざける。我々の理
性はこの様にして「生きようとする」本能が死の恐怖から受けた
記憶と認識から派生した。やがて理性は社会で共有されて高めら
れ、本能から離れ自在性を得た理性は、我々自身を認識し、世界
を認識し、宇宙を認識して、しかし、いかに認識を高めても存在
を超えたもの、つまり「生きる意味」については語る言葉を持た
ない。それは我々の理性が、ひたすら「生きようとする」本能か
ら派生したからに違いない。そこで理性が生きることの是非を問
うことは驕りであり「生きようとする」本能への背信である。何
故なら、理性には「生きようとする」本能を否定することが出来
ても、本能に取って代わる「生きる意味」を見つけ出せないから
だ。自殺とは、「生きる意味」を見出せない理性が、ただひたす
ら「生きようとする」本能の意志を挫く行為だ。我々の本能は、
そんな未熟で不完全な理性に生きることの是非を預ける訳に
は行かない。我々は理性による「生きる意味」が得られなくて
も、「生きようとする」本能から逃れられないのだ。サルトルが
そんなことを言ったかどうかは知らないけど、理性から見れば
人間とは意味もなく「生きようとする」本能に縛られた存在だ。
私はホームレスになって東京の街を彷徨いながら、生きていく
ことが鬱ざくなって何度も自殺を考えた。私にも予知能力が備わ
っているのかと思ったくらい、私の「嫌な予感」は見事に的中し
た。奈落の淵を臨みながら、どうしても避けなければならないと
判っていながら、そこに落ちていく自分を他人事のように見てい
た。そういうことを繰り返していると、始めのうちは、恐らく、
もう私の人生には私が望むような幸福は訪れないだろうと落ち込
んでいたが、それは身近だった世間が引き映像のように遠く小さ
くなっていく感じ、ところが、生きてさえいれば多少の辛さはあ
っても、自分が思っていたほどの崖っぷちでは無くて、冷静にな
って周りを見渡せば這って上がれる程度のものだった。それは、
表向きは幸せそうに見える他人の暮らしにも、口にはしないが色
々と悩みがあって、何も自分だけが辛い思いをしている訳じゃな
いんだと気付いた時に、孤独に苛まれた思いも、そういう柵(し
がらみ、ってこんな字!)のない身軽さにむしろ感謝してもいい
とさえ思うようになった。人は思い込みや雰囲気に流されて、時
としてどうしようもない絶望に見舞われることがあるが、幸不幸
の基準ほど当てにならないものはない。それからは、ホームレス
であったが、自分の境遇を世間に照らして悲観したり絶望したり
することは止めようと思った。私の幸せは世間に決めてもらうも
のじゃない、世間体を気にしてまた面白くも無い会社の奴隷に戻
る気はなかった。もう深淵の崖に立たされても恐くはなかった。
降り掛かる困難を楽しもうとさえ思った。私は理性を頼りに生き
ることの是非を問うことを止めて、「生きようとする」本能に縋って
意味なくただひたすら生きようと決意した。すると世間の浮き
沈みが、満員電車に乗って周りを気にせず座席に座る者と、周り
を気にして立っている者の違いくらいに思えた。どうせ同じ電車
に乗っているのだ。そう思っていると何故か幸せな気分にもなっ
た。私はそれを絶対幸福と呼んだ。
(つづく)
|
|
(二十八)
研修生はバロックのオールディーズにあまり興味がなかった。
それは彼女の派手な今風のファッションからも窺えた。二人のラ
イブは彼女に合わせて、まるでタイムマシンの目盛を現代に戻す
かのように、序々に新しい歌に変わっていき、今度はバロックが
譜面を睨みながらギターをあやした。バロックが私に呟いた、
「いいよなあラブソング、嘘っぽくて。」
「嫌なくせに!」私がツッコんだ。
この「嘘っぽい」は彼の口癖で、彼は悪い意味だけでなく良い意
味でもそれを使った。
私はバロックに勧められた路上で絵を描いて売ることに躊躇い
はあったが、手持ち無沙汰から仕方なくマンガで使わなくなった
B4版のケント紙の束を持ってきて、さて、何を描いていいか判
らずに、結局、研修生とバロックがライブに熱中している様子を
K帯で写してから、習っているデッサン風ではなくマンガ風に下
描きした。
「アート!上手いじゃん、背景描くの。」
何回目かのステージを終えて休憩に入った研修生がその絵を見て
言った。
確かに、私はマンガを描いていてもキャラクターを創るのが下
手で、主人公の顔が始めと終わりで別人に為っていると出版社の
担当に言われたことがあったが、仕事をしながらマンガを描いて
いると、どうしても途中でペンを置く事になって集中することが
出来なかった。やがて、アシスタントの話しがあって中堅の漫画
家の背景を描かせてもらったが、背景の人物を描くと先生のタッ
チと合わないと言われ、そのマンガ家のタッチを真似ていたら、
今度は先生のタッチが抜けなくなり、自分のマンガが描けなくな
って、半年で辞めてしまった。ただ、マンガ家といっても人を描
くのが下手な者や、クルマだけはフリーハンドで描ける者など様
々で、私の背景だけは先生に褒められた。しかし、教えられたマ
ンガは一様に似通ってしまい、最近のアニメのキャラクターを見
ているとタッチが似ていて気味が悪くなる。何だってあんなに流
行りを真似ようとするんだろう?自分のタッチを棄てることは個
性を棄てることなのに。そこで、絵画教室の先生の言った言葉を
思い出した。「マンガはこう描かなければならないというものは
ないんだよ。」すると、バロックが、
「それ、最近の音楽も同じ!皆な似てる。」と言った。
「アート!上手いじゃん、背景描くの。」
彼女が言った私の絵には、彼女とバロックのライブを描いたが、
背景などは描いてはいなかった。彼女は私の不安をからかったの
だ。
「見る眼があるね、サッチャン。」
彼女は「知可子」という名前だったが、自分のことを「私」とは
言わないで何時も「チカコ」と名前で言うので、バロックが唄い
ながら、
「チカチャンはね
知可子って言うんだ ホントはね、
だけど大きいのに
自分のことチカコって言うんだよ、
おかしいな『サッチャン』」
と最後を間違って、それが「サッチャン」の始まりだった。もち
ろん彼女はそう言われることをとても嫌った。それじゃあ本名を
紹介してもいいのかと言われて、渋々「サッチャン」と言う芸名
を承服した。
「チカコ、サッチャンか・・・。」
(つづく)
|
|
(二十九)
サッチャンこと知可子は楽天的だった。私は「バカ」だと思った
が、バロックは「アホ」と言った。もちろん、本人の前でそんな
ことを口が裂けても言わなかった。何故なら依然彼女は我々のマ
ドンナであった。それは誰でも彼女の歌を聴けばきっと解かる筈
だ。ただ、彼女にとって世界とは「人の世界」のことだった。そして
彼女はその世界の中心に居ると思っていた。地球は太陽を中心に
回っていて、地球の在る太陽系は銀河系の隅に在ることは知って
いたが、彼女にとって人の居ない宇宙のことはどうでもいいこと
だった。それよりも世界の中心に居る彼女にとって、今一番大事
なことは髪の毛が思い通りに「自然に」決まっているかどうかだ
った。彼女は少しでも時間があれば、決まってK帯のカメラで自
分を写して確かめた。
「チカコ、髪、カットしたいな。」
「ワシが切ったろか?」
バロックは、彼女が自分のことを「チカコ」と言う度に、「何故
か身体が疼く。」と言った。
「なんだ、気に入ってんじゃん!」
「そうなんかなあ?」
恐らく、彼女はバロックのその微妙な反応を見逃さずに効果を確
信したのだろう、この頃はやたら「チカコ」を連発するようになった。
「もう、アカンかもしれん。」
バロックはついにK帯に、彼女が自分のことを「チカコ」と言う
声を録音して、その声を聴かないと眠れなくなったと打ち明けた
。私はそれを聴かせてもらったが、延々と彼女の会話が録音され
ていた。それを聴いて私は大笑いした。バロックはもちろん最新の
曲はチェックしていたが、
「これが最近の一番のヒットやね!」
バロックは彼女から離れられないことは間違いない。
(つづく)
|
|
(三十)
何を描けばいいのか解らなかった。それはマンガを描くときも
そうだった。つまりテーマが見つからなかった。
「音楽も同じや!」
バロックが言った、
「ポール・マッカートニーって知ってるやろ?」
「ビートルズの?」
「そう。」バロックが続けた、
「ビートルズが解散した後、ポール・マッカートニーはウイング
スというグループで『Silly love songs』って
ヒット曲を出したんや。ノリのええ曲でワシも大好きやけど、そ
れはジョン・レノンが『Imagine』とか社会性の強い曲を
書いてるに『ポールはラブソングしか書かれへんのか!』って言
われて、それに反発して『ラブソングのどこが悪いんや!』って
曲なんや、」
「知ってるかな?」
「聴いてみぃ、満たされん性欲を持ってる若いモンには滲みる曲
やで。」
「何で?」
「アイ ラブ ユーが連発されるねん。」
「それで、?」
「えっ!それだけっ、やけどっ?」
「テーマの話しは?」
「あっ、そうかっ。要するにテーマなんてそう簡単に変えられな
いちゅうことや。」
「うん。」
テーマが見つからないのは私だけではない。もしかすれば我々の
社会こそがテーマを失ってしまったのかもしれない。否、大袈裟に
言えば人類こそがテーマを失ったのだ。画家は何を描けばいいの
か?ミュージシャンは何を謳えばいいのか?我々は何をすればい
いのか?
「ゴメン、ちょっと小便するわ。」
バロックは私に背を向けて駅ビルの便所へ行った。サッチャンは
、いつもの様に髪の毛を「自然に」見せる為にハードスプレーで
固めていた。
「アート、上手いじゃん。似てないけど。」
私の絵を見てサッチャンがダメ出しした。
「マンガだからさ。」
私はサッチャンのファンに合わせて、アニメ風のキャラクターに
デフォルメして描いた。マンガとは言ってしまえば現実逃避だ。
だが、それは退屈な現実からのポジティブな逃避である。それは
マンガに限らず小説も映画もそうだ。つまり、現実に対する譲れ
ない確執を持たずに逃避しても受け入れてくれるユートピアなど
ある訳が無い。今のアニメなどを見ていると、この現実に関わろ
うとせずに、ただひたすら逃避して自分達の都合のいいバーチャ
ル世界に逃げ込もうとする。しかし、いかに理想の世界であって
もこの忌わしい現実の中での仮想世界だ。目が醒めれば自分の思
い通りにならない現実に絶望するだろう。華やかなコスチューム
に仮装したキャラクターを描いていると、バロックでは無いが思
わず「嘘っぽい。」と言いたくなった。我々は現実から逃れること
は出来ないんだ。
「あのー、すみません。その絵売ってくれませんか?」
サッチャンのファンの一人が近づいてそう言った。すると、サッ
チャンが、
「いいよ、あげるよ!ねっ、アート。」
「でっ、でも・・・。」
「いいの、いいの、これ練習だから、ねえっ、アート。」
すると、そのファンは、
「あのー、もしよかったら、サッチャンのサインもここに頂けま
すか?」
「よろこんでっ!」
彼女は生涯初めてのサインをファンの為に書いた。
(つづく)
|
全1ページ
[1]


