北永劫回帰線

かつて我々は精神であった。ところが、今や我々は欲望である。

「パソ街!」21―25

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(二十一)

                     (二十一)



 バロックが言った、

「それでも誰もが認める美しい絵画はあるやないか?」

「ある!」

 私は以前、暇つぶしに訪れた美術の公募展で、足を止めるほど

の興味ある作品に出会えずに、かえって暇を広げてしまったこと

を後悔しながら休憩室の長椅子に腰を下ろして、もう一度暇つぶ

しに考えた。果たして、絵画は何の為に描かれるのだろう。画家

は本当に伝えたいことを描いているのだろうか?つまり写真や言

葉では伝えられないものを、はっきり言えば画家自身の心情を筆

に伝えて描いているのだろうか?古くから残る落ち着いた佇まい

の街並や、陽を浴びて色を薄める若葉に彩られた樹木や、風雪に

曝されても動じずに佇む山々や、不思議なポーズで虚空を見つめ

る裸婦、在り得ない視点からの迫力のある風景、精緻に描写され

た静物、どれも優れた絵画の技法を駆使して描かれているが、観

る者の親しみや共感を拒絶していて、入ってはいけない場所へ足

を踏み入れた部外者の疎外感を禁じ得なかった。それは明かに、

技法に傾くあまり観る者に何を伝えるかを忘れ、観る者は唯その

技巧の上手さに感心はしても、会場の出口を過ぎればすぐに日常

に引き戻され、空腹に気付いて絵画のことは忘れてしまう。

 たとえば「美しい絵画」という場合、絵画の「美しさ」は一体

どこにあるのだろうか?それは美しい対象を忠実に模倣すること

であれば、何もわざわざ描かなくても近頃はK帯で一瞬に写せる

。だがもし画面にこそ「美」があるとすれば、絵画は殊更「具象

」に拘る要はないではないか。富士山の頂上にマンハッタンの摩

天楼があっても「美」は成り立つのではないか。何故「美」は器

の飾りから独立できないのか。何故「美」は具象の中でしか認め

られないのか。純粋に「美」と呼べるものは生まれないのか。

 「それやったら抽象絵画があるやんか?」

私の饒舌を諫めるようにバロックが言った。私は温くなったジョ

ッキのビールを飲み干して、

「そうなんだ、そのとおりだよ。」

「あかんのか、抽象画は?」

「おかしいと思わない、抽象化された『美』なんて?」

「えっ!あんたの言うてることがおかしいよ。具象を離れた『美』

は抽象化された『美』になるやんか?」

「そうだよね、だから解からなくなるんだよ、そこで。『美』を見

失うんだ。」

「抽象化する時に?」

「そう、そこで言葉で確かめようとして、難解な説明書付きの絵画

が創られるんだ。」

「ああっ、あるな、わけの解からん絵が。」

「観る者も混同しているんだ『美』を。」

「『美』と巧さを?」

「うん、メタフィジックと。」

「何それっ?」

「説明されないと解からない『美』。」

「そんなの『美』と違うんちゃう?」

「そうっ!だから解説を拒否しなくちゃダメだ!」

「一瞥で決めんとな。」

「あっ!それっ、一瞥!『一瞥美』、『一瞥主義』。」

「それ結局、女と一緒と違う?」

「そうかもしれない、美しさって理解するものじゃないし、美しさ

を言葉で表せるくらいなら絵画なんて描かないさ。」

「それじゃあ、あんたは一体どんな画家がいいと思っているの?」

私はしばらく考えて、

「ミロ。」

「えっ、何を?」

彼は首を回して後ろを見た。

「いやっ、名前、ジョアン・ミロ。」

「・・・知らん!」

                           (つづく)

(二十二)

                  (二十二)



 「美」が世界に在るのではなく、我々の意識の中に在るとすれ

ば、それは「美」だけのことではなく、「真理」もまた我々の都

合のいい認識に過ぎないのではないか。我々は膨張する宇宙の片

隅で、物質の物理現象や化学反応で生成されたガラクタを眺めな

がらその「美」に感嘆したり、「真理」を見つけ出して狂喜した

りしているのかもしれない。膨張する宇宙とは時々刻々と変化す

る空間だ。つまり昨日の宇宙と今日の宇宙は違うのだ。昨日は正

しかった事が今日も同じように正しいとは限らない。膨張する宇

宙とは相対的な宇宙だ。宇宙は空間を歪つにして拡がり、或ると

ころでは裂け、また或るところでは重なり合う。ここで「真理」

であってもそれが宇宙の「真理」であるとは言えない。つまり、

我々の「美」や「真理」などの様々な認識は、この世界に在るも

のではなく、我々の都合のいい思い込みに過ぎないのだ。

変化の記憶が昨日や今日という時間を生み、時間の経過はやがて

生命を宿し、生命は宇宙の変化に促されて進化する。生存の記憶

は知識として受け継がれ認識を共有する。つまり、我々の認識は

生在からもたらされ、その認識で生在の意味を解いてもその向こ

うには認識の及ばないガラクタしか認められないだろう。

 バロックが奢ってくれた就職祝いもお開きになって、私は牛乳

屋の四階の「マイホーム」に向かって、面接の時に歩いた同じ川

沿いの道を、また首の螺子が緩み始めたことを気にしながら歩い

た。街は寝静まっていたが、柵で仕切られたドブ川からは、さっ

きまでそれぞれの家庭の浴室から吐き出されたシャンプーやソー

プ、入浴剤などの馴染みのある芳香が汚水と混ざり合って、何と

も馴染めない臭いに酔いが加わって、ついには目眩がしてきて吐

き気を覚えた。私はしばらく歩いて川沿いの公園のベンチに腰を

下ろした。私にとって、吐き気と公園は何時の頃からか繋がりの

深い関係になっていた。消費期限の切れた惣菜や腐敗した食品を

絶えず口にしていると、高い確率で腹具合がおかしくなり、そう

なると公園に行って出来るだけ早く吐き出して身体の具合にまで

至らない様に心掛けた。東京砂漠を彷徨うホームレスにとって水

の有る公園はオアシスそのものだった。ベンチに腰だけを置いて

前屈みになったまま、さっきまで「美」について語った口から今

度は汚物を吐き出した。繰り返し襲う吐き気に、私が嘔吐をして

いるのか、嘔吐が私にそうさせているのか解からなくなって、

「実存しているのは私だ!」

と大きな声で叫ぶとまもなく酔いが覚めて、ベンチの横に張り出

したポプラの根を見ても、もう吐き気はしなかった。ただ、酔い

から醒めた頭にはサルトルの言った「アンガージュマン」(社会

参加)こそが我々日本人に欠落しているのだと「ハタッ」と気付

いた。さて、それでは、私はこの社会に対して何か「アンガージ

ュマン」出来るかといえば、せいぜいネットの掲示板に「皆な殺

してやる!」と書き込むくらいが関の山で、もしこの国の主権が

国民にあるのなら、我々は声に出さねければいけないのではな

いだろうか。民主政治というのはどこまでも「素人の政治」のこと

で、権力を一党一派のプロの人に占有させない為にある。それは

一に権力の分散の為の制度であって、「素人の政治」の結果責任

は主権者たる国民が負わなければならない。ところが、この国で

は政治の責任は政治家や官僚に負わせて国民はその悪政の犠

牲者であるかのようにマスコミも煽るが、それでは国民主権が成り

立たない。悪政の結果は国民に及ぶことで責任を取らされるが、

政治のことは政治家まかせにして、責任は政治家に負わせて、そ

れで政治に絶望している姿を見れば、主権が国民にあるとは思え

ない。果たして我々は政治家とは代議員で選挙によって我々が選

んだのだ、と言う事を判っているのだろうか?幼い頃から「長幼の

序」を諭され、長じて目上の者への礼儀を弁え、出ることを戒め、

朱に染められて、大樹の陰で長い者に巻かれて、慎み深く謙虚に

あれかしと教えられて、家族の名誉を負わされて、組織への忠誠

を誓わされ、ところが、ある夏の日の朝に「主権は君たちに在る。」

と唐突に告げられて民主主義を上塗りされても、厚く下塗りされた

儒教の教えは、上塗りの下から「朱」を覗かせる。私はデモクラシー

と儒教道徳は相容れないと思う。「餡が充満」したアンパンを作るパ

ン屋のオーナーのアンガージュマンが住民に支持されて選挙で委

託を請けて代議員となって議会で意見を主張してその意見が代議

士に支持されて意見に沿った法案を作成して議員によって採決され

法律が生まれるという立法の手続きと、「由らしむべし、知らしむべ

からず」では話しにならないだろう。我々の個人主義は知らぬ間に「

アンガージュマン」すらも取り上げられて、「文句を言うな!」に文句

も言えずに従わされ、それぞれの安全な「死」をシラケて生きるだけ

しかないのだろうか。もしかして俺達はただ無事に死ぬ為だけに生

きていない?いずれ死ぬのに・・・。

                                   (つづく)

(二十三)

                    (二十三)



 牛乳配達は軽トラに乗って配達した。朝の五時から始めて八時

には配達を終え、片付けをして九時には解放された。それから都

心にある絵画のアトリエで、まずはデッサンから習い始めた。そ

の教室はネットで探し出した。美大受験の為の教室では無いので

、定年を終えてから初めて絵筆を持つ初老の男性や、暇つぶしに

趣味で始めた主婦がほとんどで、それでも僅かではあるが熱心に

取り組む若者もいて、結構大勢の者が無言でモデルの裸婦を囲ん

でいた。私はマンガしか描いたことが無いので、一つのデッサン

に何日も費やすことに苦労した。どうしても線で描いてしまい質

感の無い絵になってしまった。先生は美術会の理事をしていて、

美術界では一応名前の通った人だった。ただ生徒にはほとんど教

えることをしなかった。それは絵画はこう描かねばならないとい

う事は無いんだと言って、それぞれの個性を矯めることに慎重だ

った。彼は印象派全盛の時代に時流に流されずに多くの個性的な

画家を輩出したギュスタブ・モローの教え方に甚く心酔していた

。御蔭で私のデッサン力はトンと進歩せず、いつまでたってもマ

ンガの域を出なかった。

「描く前に対象をよく見るんだよ。」

そう言われて若いフランス人の裸婦を穴が開くほど見つめている

と(下ネタじゃないからね!)、やがて人体の奇妙さに心を奪わ

れた。長い腕や膨れた乳房、裏っぽい背中、その不均衡な身体を

覆う痛々しい皮膚、一体人間は何て皮膚をしているんだ!もし、

人間と動物の違いは何かと問われれば、間違い無くこの剥き出し

になった皮膚だ!そもそも「裸」という奇妙な状態で存在する動物

が他にあるか?体毛が身体を保護する為にあるとすれば、人間

はそれを衣服に換えることで体毛を退化させ、剥き出しになった

神経は直接伝わる鋭敏な刺激を脳に伝え、脳が過剰に反応して我

々を神経質な思惑のある動物に生まれ変わらせたのだ。剥き出し

の神経は恐怖に敏感になり不安から身を守る為に自我を目覚めさ

せ、その剥き出しになった自我を偽装する為に衣を纏う。衣服は

身体を保護する役割を終えても、我々が裸でいる事の羞恥に耐え

られないのは、剥き出しの皮膚の神経が人の視線に反応するから

だ。神経は露出を嫌う。こうして人間の二面性、剥き出しの神経

に繋がった裸の自我と、社会という衣を纏って偽装された自己が

現れる。この二面性こそ我々人間だ。剥き出しにされた鋭敏な神経

、それは恐怖を増幅して猜疑を生み、過剰な反応が更に我々を不信

に陥れる。その震える神経を悟られまいとして、我々は華やかな衣服

で偽装を図るのだ。

 霊長類のサルとヒトをどう分けているのかはしらないが、決定

的な違いは何かと尋ねられたら、私は自信を持って皮膚だと答え

る。それよりも、名立たる霊長類の研究者が、こんなにもはっき

り解かる違い、体毛が有るか無いかを見逃して、つまり裸になれ

るかどうかを見逃して、遺伝子や脳の比率に違いを求めようとし

ていることが信じられない。それでは、サルの体毛を退化させる

為に代々服を着せて、やがて皮膚が剥き出しになって、ついには

衣服を着用せずには居れなくなった時に、彼等の衣服を剥ぎ取っ

て裸のままで放っておくと、彼等は必ず「恥ずかしい」と言葉を

言葉を発するに違いない。

 私がいつまでも彼女を見ていると、普段は何も言わない、頭の

剥げた先生が、

「どうして描かないの?」

と私の後ろから言葉を発した。
 

                                  (つづく)

(二十四)

                      (二十四)


  

 土曜の夜といってもこの頃は普段と変わることなく、仕事をし

ない者にとっては改めて確かめないと気付かずに、新幹線が通

過駅をスルーするように毎日が「惰性の法則」に従って過ぎてい

く。景気の悪さはこんなだらしない週末にも現れているのだ。「

花金」と言ってた頃が懐かしい。日本の産業技術はすばらしいと

言いながら、その技術力を国外の人を雇用して国外で生産をして

国外で販売していれば、もうそれは日本の産業とは言えないんじ

ゃないの?そういう産業が幾ら業績を伸ばしても、国内の雇用や

所得を改善する訳がない。それはトヨタが何兆円利益を上げよう

が、トヨタの株を持った者以外は「それで?」と白けるのも無理

がない。つまりいくら技術があってもその技術が活かせる工場と

市場が無ければならない。日本には工場はあっても市場が無いの

だ。それでも、日本の技術は優れていて他の国には及ぶことの出

来ない精度の高さや品質性があるというが、もしかすると我々は、

かつて苦境にも必ずや神風が吹いて危機を脱する事が出来ると

信じた「神風症候群」に陥っていないだろうか?我が国の技術力は

諸外国の力の及ばぬほど優れていると過信して、かつて神風を待

ったように、過去の技術神話に溺れて「技術過信症候群」にならな

ければいいが。だって、日本人だけが「あっ!」と閃く能力に長けて

いると思う?「そうじゃない!日本人の勤勉な性格が技術の精度を

高めているんだ」というならば、きっと早晩、開発途上国の実直な性

格の人の中からも、やがて寝ても覚めても技術革新のことを考える

人が現れて、世界を驚かす発明をすることに違いない。つまり、我々

は他とは違うんだという驕りこそ、かつての神風神話に逆戻りさせる

怪しい過信だと、オリンピックの日本柔道を見て思った。だって技術

移転なんて訳ないんだもん。

 牛乳配達の仕事は新聞配達とは違って日曜日の配達はない。ホ

ームレスから曲がりなりにもマイルームを手にしたことで、雑用

に時間を取られてしまいバロックにもしばらく会えずにいた。バ

ロックに会いに駅前の広場に行くと、やがて彼の歌声が耳に届い

てきて、さらに近づくとその周りには多くの人々が取り囲んでい

て、私はしばらくその様子を群衆の後ろから眺めていたが、熱唱

するバロックには恐らく気が付かないだろうと解かる程、彼は人

気を博していた。私は仕方なく少し離れたベンチに腰を下ろして

、久しぶりに彼のシガーボイスを聴いていた。やがて曲が終わり

、拍手が起こり、収まり、しばらく間があって、次の曲のイント

ロが弾かれて、ボーカルが歌い始めた、ら、その声は女性だった

!バロックじゃなかった。私は慌ててその声の女性を確かめよう

と、もう一度群衆の後ろからその歌声の女性を見て驚いた、あの

居酒屋の「研修生」のネエちゃんだった、カーペンターズだと思

う、上手かった、透き通る高音が滑らかで、思わず自分が居る場

所を忘れてしまうほどだった。

 彼女のイエスタディ・ワンス・モアを聴きながら、近頃は極端

に耳にしなくなった洋楽の事が気になった。まるで経済のグロー

バル化と軌を一にして、アメリカンソングは何故流行らなくなっ

たんだろう?事情が解からないがアメリカでも盛り上がっていな

いのかな?

 ひと夏だけホテルのビヤガーデンでエレベーター係りのアルバ

イトをした事があった。外にあるエレベーターは屋上への直通に

は出来ないので、ビアガーデンの客がボタンを押してホテルの客

室フロアに勝手に降りないように、係員が操作してビアガーデン

の客を運ぶ仕事だった。ある時、アメリカ人のツアーがホテルに

宿泊して、その中の数人がビアガーデンに行く為にエレベーター

に乗って来た。二十歳前後の若くて美しい女の子が5,6人居て

、その中に高齢の婦人が一人居た。女の子達ははしゃぎながら乗

って来て、エレベーターの中でもはしゃいでいた。私は毎日酔っ

払いを相手にしているので気にもしなかったが、その高齢の婦人

が騒いでる女の子を叱責しながら思いっ切りビンタを浴びせた。

私は唖然としたが、その婦人は女の子に「彼に謝れ!」と言って

私の前に彼女を連れ出した。女の子は大泣きしながら私に「アイ

ム ソリー」と言った。私はあの毅然とした婦人の行いを目にし

て、アメリカ人に古くから培われた公徳心に、伝わってくるアメ

リカ人のイメージとは違った強い精神性を感じた。おそらく学生

と生徒の関係だと思ったが、詳細は解からない。私に、女の子と

共に謝る婦人に、「ここはビアガーデンで誰もが楽しむ所なんだ

から、それくらいのことを気にされなくてもいいですよ。さっ、お気に

されずにどうぞ楽しいひと時をお過ごし下さい。」と言いたかったが

言えないで、ただ「ドント ウオリー、ドント ウオリー。」と言った。

我々は矮小化された一面だけのアメリカだけで、アメリカが養って

きた精神を知りもせずに侮ってはいけないと思った。

 研修生の歌が終わって少し人が離れていった。バロックが私に

気付いて手を上げた。そして、

「ちょっと、すんません、休憩させて。」

とオーディエンスに言った。私は彼のそばへ行った。

                                 (つづく)

(二十五)

                    (二十五)



 バロックは研修生のネエちゃんを甚く気に入っていた。確かに

彼女の透き通った声はすばらしかった。彼女は研修中だった居酒

屋のアルバイトをあっさり辞めて、今はバロックに就いてストリ

ートミュージシャンの研修中だった。整った顔立ちの美人では無

かったが、歌の上手い女性独特の愛くるしさがあって、歌に集中

すると更にそれが際立った。彼女の声の魅力はバロックだけでな

く、彼女の歌を耳にした往来の男たちにも、足を止めずにその場

を通り過ぎることが後で悔やまれる、と思わせるほど男の何かを

刺激した。御蔭で、私とバロックの「サイモンとガーファンクル

」は引退を余儀なくされ、私は肩の荷が下りたが、代わりにバロ

ックと研修生の「カーペンターズ」が熱烈な歓迎を受けて路上デ

ビューした。ただ研修生は「カーペンターズ」の名前は知ってい

ても歌を知らなかったので、いつも歌詞カードを見ながら唄って

いたので、私が「『カンペ』ターズ」と命名した。

「アート、仕事取ってごめんね。」

私は絵を描いていることから彼女から「アート」と呼ばれたが、

バロックは、ポール・サイモンと別れて路頭に迷うアート・ガー

ファンクルの「アート」だと言った。確かに世間一般で言う、ち

ゃんとした仕事には就いていないが、また振り出しに戻って奴隷

からやり直す訳にはいかなかった。バロックの言う4つの選択の

中、奴隷とホームレスには戻りたくなかった。後は一発当てるか

死ぬかしか残されていない。ただ絵を描いて一発当てようなどと

は思っていないが、小林秀雄が「近代絵画」の中で画家ジョルジュ・

ルオーの言葉を紹介して、「人に教えられて上手く生きるよりも

、自分のやり方で失敗したほうがいい」みたいなことを書いてあ

って、(間違ってたらゴメン)それが気に入ってそういう生き方

をしようと覚悟を決めた。

「絵、上手くなったらモデルになったげるね。」

彼女は半身の腰を突き出してその骨盤に手の甲を掛けて、もう一

方の手を悩ましい表情を作った顔に添えた。それはあの居酒屋で

退屈そうに接客をしている研修生とは別人だった。彼女は生き々

々とした表情をしていて、その「生き々々している」という意味

がこんなにも性的な匂いを秘めているとは思わなかった。そして

女性にとっての生き甲斐と男の生き甲斐はやはり根本的に違って

いるのかもしれないと思った。体内に子宮があって周期的な排卵

による月経というフィジカル(肉体的な)な現実に付き合わされ

て、「生在に対する懐疑」などというメタフィジカル(形而上学)

な愚問に悩んだりはしないだろう。彼女らは厳然たる現実を生き

ているのだ。デカルトは、痔からの出血があったかもしれないが

、月経や妊娠や出産を体験しなかったからこそ生存に懐疑的で

いられたんだと思う。

                               (つづく)

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