|
(二十五)
池本さんのお父さんが帰る日が来た。あやちゃんとお母さんはそ
まま留まって様子を見ながら暮らすことになる。お父さんまで仕事
を辞めて移り住むことは実際一家にとって大変なことなのだ。もち
ろん、池本さんが暮らす和歌山にも熊野の汚されていない大自然が
残されているので、態々(わざわざ)それを見逃して遥か遠方の地を
選ぶ道理はない。ただ、農家ほど近代技術を信奉し何の疑いも持た
ずに農薬(化学物質)に頼ろうとするので、空調の効いた都市のマン
ションの一室よりも被曝する可能性は高いと説明すると、
「ほしたら山奥でカシャンボみたいに生きるしかない」
「何?カシャンボて」
「熊野の妖怪てよ」
何よりも感受性を育む時期にいくら治療が第一と言ってもあやちゃ
んを実社会から隔離させることの不安が拭えなかった。どれほど本
を読んでもそこに書かれているのは過去の他人事であり、何と言う
か「衝動」を体感することが適わない。生きるということは本には
書かれていない無数の失敗や恥ずかしさや後悔のトラウマによって
更生される。それを体感できないということは自らの絶対性を照応
によって確かめる他者を持たないことになる。つまり、トラウマと
いうのは社会との関係性によってもたらされる。わが子を失った親
のトラウマは社会の中でその悔しさを増幅させる。我々はそのトラ
ウマと格闘しながら、トラウマを付き従えて生きているのだ。
そこで久々の一句、
「トラとウマ つき従えて 生きていく ゆーさん」
前日には前庭でみんなでバーベキューをして盛り上がった。あれ
ほど馴染めなかったサッチャンもスッピンに戻って自慢の声を披露
した。その素顔には能面のような無機質な化粧によって作られた美
しさにはない人間臭い温かさがあった。そのサッチャンも明後日に
はここを発つ予定だ。
ガカは、どういう経緯かは知らないが、なじみのあの温泉を手伝
うことになった、とその時告げた。もちろん絵を描きながらなので
忙しい時間だけ手伝うことにしたらしい。それでも彼は、さっそく
温泉の近辺を探索して人を呼べるスポットがないかを確かめた。温
泉施設は、我々の処から見るとちょうど猫背山の向こう側にあって、
麓から猫背山の裏側を頂上まで続く登山道が出来ていた。しかし、
昨今は誰も徒労を楽しむ物好きも減り、ガカが言うには、滑らぬよ
うに施した山道の横木も到る所で朽ち果て、倒木が山道を塞ぎ、案
内板は書き込みが消え、木橋は底が抜け、さながら映画のインディ
ー・ジョーンズの冒険に出てくるような危険極まりない登山道だ、
ということだった。それでも、登山道の入口は天台宗の名刹の参道
を通って山門を潜り抜け、古の厳かな佇まいを今に留める仏閣を拝
して、かつては寺社の神聖な山道を案内に従って登り始めると、悠
久を生きてきた無数の巨木が刹那を生きる人間を見下ろすように聳
え、凛々(りり)しさが漂っていた。登山道は傾斜を緩めるために左
に折れ右に曲がりを繰り返しながら眺望を変えて、やがて見上げた
その先にバロックが造ったスカイツリーハウスが目に入ってきた。
ガカは笑いながら、「もしかしたら人を呼べるかもしれない」と言
った。ほぼ一時間余りの登山道は俄かに増え始めた初心者の高齢登
山者にとっても負担に耐えられるもので、ただ、放り投げていた手
入れさえ施せば、打って付けだ、と言った。そこで、手始めに登山
道を修復するので、わたしに草刈り機とチェーンソーの使い方を教
えてほしいと申し出た。
「山歩きと温泉、いまの健康ブームにはピッタリだと思いませんか」
ただわたしは、登山道の整備や山の手入れが、初心者のガカ一人の
負担に耐えるものではないと思った。
池本さんが帰る時が来て、彼は途中にどうしてもあやちゃんと一
緒にあの温泉に立ち寄っりたいと言うので、今度は、池本さん家族
に元妻とミコ、それからサッチャンも付き合うことになった。我々
男たちは放り投げていた種まきや草取りを済まさなければならなか
った。作業を終えてガカの仕事のことをバロックに伝えると、彼は、
「そんなことで人が来てくれるかな?」
とガカの登山道再整備計画に冷や水を浴びせた。するとガカは、
「そら分らん。ただ、茨木か何処かの温泉が簡保からの払下げを引
き継いで万年赤字の経営を立て直したのは、遠方からの当てになら
ない一見客に頼るよりも地元のリピーターを増やしたからだってテ
レビでやってたんだよ。つまり、地元の人に如何に親しんでもらう
かが大事だと思うんだ」
「そらまあそうやけど、ただ、登山道の手入れなんかほんと大変や
で」
「まあ、焦らずにコツコツやっていくさ」
「よし分った。おれも出来るだけ手伝うわ」
「ありがとう、バロック!」
「それでも二人じゃ寂しいな」
するとガカが、
「あっ、そういえば山道のあっちこっちで『猫背山を愛する会』と
いう名前を目にしたけど、その人たちにも頼んでみたらどうかな」
それを聞いてわたしは、
「あかんあかん。そんなんとっくにあれへんって」
「なんだっ、そうなんですか」
するとバロックが、
「よしっ、そんなら『猫背山を(再び)愛する会』を立ち上げよう!」
「何か長い名前だね」
「じゃあ『N(F)A』っていうのはどうや?」
「それいい!それにしよう」
わたしは、
「それじゃあ、わたしもお寺の住職に檀家の人々に参加してもらえ
るように説得してもらえないか言うてみるわ」
「なんか急に出来そうな気がしてきた」
ガカは草の一本も取ってないうちから登山道に人が押し寄せる光景
を思い描いているのかもしれない。
(つづく)
|
ゆーさんの「パソ街!」21―25
[ リスト | 詳細 ]



