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ほうほう。

ついに男性の時代が来た! Gapの最新メンズウェア・ブランドが狙う新たな市場と強み

ヒル・シティ
スタイリッシュでハイパフォーマンスなウェアを提供するヒル・シティ。
Courtesy of Hill City
  • ギャップ(Gap)は2018年10月、新たなメンズウェア・アスレチック・ブランド「ヒル・シティ(Hill City)」を立ち上げた
  • スタイリッシュなハイパフォーマンス・ウェアを手掛けるヒル・シティでは、撥水加工をしたチノパンが128ドル(約1万4000円)、ダウンのジャケットが168ドル(約1万9000円)で売られている。
  • ブランドを率いるノア・パーマー(Noah Palmer)氏はBusiness Insiderのインタビューで、ヒル・シティがいかにアスレジャーやアウトドア服のブーム、ショッピングに対する男性の関心の高まりを利用していくか、考えを語った。
ギャップは、その新たなメンズウェア・ブランドに最新流行と北欧のミニマリストの美学を取り入れようとしている。
2018年10月に誕生したヒル・シティは、男性向けのスタイリッシュでハイパフォーマンスなウェアを提供する。ブランドの平均単価は約80ドルで、撥水加工をしたチノパンは128ドル、ダウンのジャケットは168ドルで販売されている。これは、消費者がこれまでに見たことのない、同社の動きだ。
ヒル・シティはギャップ社の意図を完璧に反映したブランドと言えそうだ。現在では「NewCo」として知られる同社は、ギャップやバナナリパブリック(Banana Republic)、インターミックス(Intermix)、アスレタ(Athleta)、そして直近ではヒル・シティといった、より高い価格帯の、環境に配慮したブランドを束ねている。
一方、価格帯の低いオールドネイビー(Old Navy)はスピンオフ(事業の分離・独立)し、異なる顧客層にアピールする。

ギャップよりもミニマリストかつトレンディーなヒル・シティ

ヒル・シティ
ヒル・シティの「サーマル・ライト・ボンバー」(168ドル)。
Courtesy of Hill City
オールドネイビーのメンズ・マーチャンダイジングの元責任者で、現在はヒル・シティのトップを務めるノア・パーマー氏は、新ブランドのセールスポイントは、ブランドのキャッチフレーズである「服を着替えることなく、全ての活動を乗り切れるメンズウェア」の精神で、見た目の良いハイパフォーマンスな服を提供できる力だとBusiness Insiderに語った。
パーマー氏は「スポーツウェアやハイパフォーマンス・ウェアでうまくいっているブランドは数多くあるが、消費者の1人として、わたしはこれらの服があまりクールだとは思わない」と言い、「生地がものすごくテッキーで、からだのラインにぴったりかつ派手だ」と指摘した。
アウトドア・ブランドは近年、ブームになっている。ザ・ノース・フェイス(The North Face)のウィンター・ジャケットやパタゴニア(Patagonia)のフリースは、山だけでなく、ニューヨークの街中でもしばしば見られる。
ザ・ノース・フェイス
純粋に「実用的なブランド」と見なされてきたザ・ノース・フェイスは、「ファッション・ブランド」へと変化した。
The North Face/Tim Kemple
パタゴニアの広報担当者は2018年、同社の売り上げが過去10年で4倍になったとBusiness Insiderに語った(ただし、非上場企業であることを理由に、具体的な数字は明らかにしなかった)。ガーディアンによると、パタゴニアの2016年の売り上げは推定8億ドルで、2010年の約2倍だという。
同様に、リー(Lee)やラングラー(Wrangler)、ヴァンズ(Vans)の親会社、VFコーポレーションの傘下のザ・ノース・フェイスも近年、売り上げを伸ばしている。純粋に実用的なブランドと見なされてきた同ブランドは、ファッション・ブランドへと変化した。
直近の決算発表では、ザ・ノース・フェイスのアメリカでの売り上げは2018年10〜12月期で15%増、4〜12月期で8%増だった。
パーマー氏は、ヒル・シティがこうした近年ファッショナブルになったハイパフォーマンス・ブランドと、ライフスタイル・ブランドのギャップを埋めようとしているという。
同氏は、競合するライフスタイル・ブランドは、ヒル・シティに比べて技術面で足りない部分があると言い、ヒル・シティが提供するアイテムは、例えばチノパンなら職場に着て行けるくらいスタイリッシュだが、撥水加工がされているし、軽くて通気性のよいボンバージャケットは、どんな天候でも体温調整可能だ。
だが、ヒル・シティが市場に参入したのは、アスレジャー大手のルルレモン(Lululemon)がメンズウェアの強化に乗り出したタイミングだった。ルルレモンは3月、第4四半期および通期の売り上げが好調だったと発表。これを受け、株価は上昇した。同社は新たに立ち上げたメンズウェア部門を2020年までに10億ドルのビジネスに成長させる計画で、順調に伸びているという。
ルルレモンのCEO、カルバン・マクドナルド(Calvin McDonald)氏は3月、「メンズウェアは未来の成長が期待できる、我々にとって最も大きな、エキサイティングな分野の1つだ」と投資家らに語った。
だが、パーマー氏はあまり動揺していないようだ。
「メンズウェアは盛り上がりを見せていて、どのブランドにもそれぞれちょっとした有利な点がある」
そう語るパーマー氏は「我々は初めから、自らの市場における役割は(ライフスタイル・ウェアとパフォーマンス・ウェアという)スペクトラムの両端を近づけることだと考えてきた」という。
ギャップ社は最も規模の小さいヒル・シティの売り上げなどを明らかにしていないが、同社CEOのアート・ペック(Art Peck)氏は直近の決算発表で、今のところ顧客の評価は上々で、ブランドに新たな視点をもたらすべく、同社のeコマースのメイン・プラットフォームを訪れる数百万の顧客の存在をいかすことができていると述べた。
エンジニアが変わる。たった一つの仕掛けとは?
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メンズウェアは新たなウィメンズウェア?

パーマー氏は恐らく、服にもっとお金をかけるようになった男性の変化に最も興奮している。
同氏は「どんなものを着るか、それが自分たちの何を表しているか、気にする男性が増えている。彼らは、自らの可処分所得のより多くをアパレルに使うようになっている」という。
調査会社「ガートナーL2(Gartner L2)」は、今後わずか2年でメンズウェアの売り上げの伸びはウィメンズウェアの伸びを上回るだろうと見ている。また、ユーロモニター・インターナショナルも、今後6年でメンズウェアがウィメンズウェアをしのぐだろうと見ている。
トレンド予想を手掛けるWSGNのキャットウォーク・ディレクター、リジー・ボーリング(Lizzy Bowring)氏は、「ファッションといえば、常に女性のものだった」とBusiness Insiderに語った。
「だが、ついに男性の時代が来た」

ほうほう。

『天皇の憂鬱』が解き明かす、象徴天皇をかたちづくった「軽井沢」

2019年4月22日(月)19時30分
印南敦史(作家、書評家)
Newsweek Japan
<平成の天皇を6つの視点から謎解きした大宅賞作家の奥野修司。今上天皇が国民に寄り添う天皇になった背景には、戦後の皇室の新渡戸人脈とクエーカー人脈があるかもしれない>

 平成の時代が終わろうとするにつれて、平成とはなんだったのだろうと思うのは私だけではないだろう。皇室について考えるなら、平成は、国民と共に歩もうとした時代といえるかもしれない。(「まえがき」より)
『天皇の憂鬱』(奥野修司著、新潮新書)の冒頭に書かれたこの文章を目にし、共感する人は多いはずだ。また、もうひとつ注目すべきポイントは、『ナツコ 沖縄密貿易の女王』などで知られる大宅賞作家である著者がここで、どちらかといえば読者に近い目線で今上天皇を見ている点である。
例えば1989年、陛下が昭和天皇の崩御を受けて皇太子から天皇になられたとき、著者は「なんだか頼りないな」と感じたと当時を振り返っている。どこへいくにもカメラを提げて妻や息子たちを撮影しているその姿は、当時の流行語でいう「マイホームパパ」そのものだったというのだ。
それは自身の中に「天皇といえば昭和天皇」というイメージがあったからだろうと記しているが、このことについても、同じような思いを抱いていた人は少なくないのではないだろうか。
しかし、改めて振り返ってみるまでもなく、それこそが今上天皇の魅力である。

平成は天災によく見舞われた時代であり、即位の礼の五日後に雲仙・普賢岳が爆発し、新天皇は被災者を見舞われたが、そのとき、跪いて被災者に話しかけられたことは私にとっても驚愕だった。昭和天皇にはありえなかったからだ。(「まえがき」より)
同じことは東日本大震災の際の対応にもいえるが、そこにあるのは国民に"寄り添う天皇"としてのあり方だ。ちなみに著者が"象徴天皇"とはなんだろうと考えるようになったのも、天皇の努力、バランス感覚、見えないものを大切にされる姿勢などを知ってからのことだという。
そこで本書において著者は、平成の皇室を「天災と天皇」「『生前退位』秘録」「美智子妃との交流」「戦争」「天皇家と東宮家の懐事情」「美智子妃との恋愛成就までの道のり」という6つの視点から眺めている。
そして、それぞれから象徴天皇がかたちづくられていく過程を謎解きしているのである。そのどれもが興味深いのだが、なかでもとくに心惹かれたのは、3章「なぜ軽井沢を深く愛されるのか――美智子妃、交流の記」だった。
「国民とともに」行動することを選んだ天皇は、いってみれば我々と同じ感覚で戦没者を追悼し、被災者を見舞われてきたことになる。そして、試行錯誤しながらそのスタイルに行き着くまでには、両陛下が毎年夏に滞在された「軽井沢」が大きく関わっているというのである。
昭和六十二(一九八七)年九月、天皇(当時は皇太子)は訪米に先立ってこう述べられた。
「バイニング夫人とお会いするのは九年ぶりになります。(略)思い出としては、いろいろありますが、軽井沢で泊めていただいた三日間が、思い出深いものです」
 バイニング夫人とは、昭和二十一年から二十五年まで、当時皇太子だった天皇の家庭教師をつとめた女性である。彼女は『日本での四ケ年――皇太子と私』の中で、〈今年(註・昭和二十四年)の四月以来、殿下の新しい御生活の幅が広められ、私の知っている限りでも、三つの新しい経験をなさいました〉と記している。三つの経験とは、皇太子がGHQのマッカーサーを訪問したこと、軽井沢でバイニング夫人を訪問したこと、西洋の少年と過ごしたことである。
 なかでも、バイニング夫人が軽井沢で借りた三井家の別荘に、天皇が三日間宿泊したことはよほど印象的だったようだ。(90〜91ページより)
なお、そのことをどう知ったのか、昭和22(1947)年に旧朝香宮の別荘を買い取った西武グループの創業者・堤康次郎は、この別荘を千ヶ滝プリンスホテルとして"提供"したのだという。翌25年から、毎年夏になるとここで過ごされるようになった天皇は、よくバイニング夫人から個人教授を受けるため別荘に招かれた。
このことに関して見逃せないのは、「殿下がバイニング夫人の別荘に泊まって、宿題などをやっていた」姿を目撃していたという学友の織田正雄のことばだ。

「彼女の教えから学んだことは多々あるのですが、なかでもよく覚えているのは昭和二十三年十二月十日に採択された国連の『世界人権宣言』(決議)です。この文面については、非常に熱心にやっていたので、強烈に残っています。
 その第一条に、『すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない』と書かれています、バイニング夫人の個人授業にうかがった際にも、私や殿下を前に、熱心にその文面の意味を語っていました。殿下にもっとも伝えたかったことなのではないかと思います」(91〜92ページより)
もうひとつ、同じく学友の明石元紹の発言も引用しておきたい。

「バイニング夫人は、禁欲的でとても良心的な人でした。「自分の意思を反映させる」ことを強調していましたが、それを教える授業にこれといった教材はなく、「こういう時、あなたはどうしますか」といった事例を出して話をしました。たとえば、穂積重遠東宮大夫が入院した時です。殿下に『行きましたか』と尋ねました。
『いやまだです』と殿下が答えます。
『なぜ行かないのですか。お世話になっている人のために、行きたいと思うのは誰ですか』
『私です』
『それなら私が行きたいと言うべきではないですか』
 こんな感じで、会話の中で気づきを与えるのです」
 およそ戦前には想像もつかない教え方に、若き皇太子は戸惑いと共に新鮮な驚きを覚えたことだろう。(92〜93ページより)
折しも、日本がポツダム宣言を受諾したあとも天皇の地位が定まらず、「退位論」が現実味を帯びていた時期。昭和23年に東京裁判の判決が近づくと、当時のメディアはさかんに「天皇退位」を取り上げた。
さらにA級戦犯が、皇太子の誕生日に絞首刑にされている。皇太子が軽井沢を訪れたのはその翌年だった。皇太子がバイニング夫人から、「将来、何になりたいか」と尋ねられ、「私は天皇になる」と答えたのも、天皇家を取り巻く厳しい状況があったからなのかもしれないと著者は推測している。
しかし、軽井沢はそうした厳しい現実をすっかり忘れさせてくれる場所だったということだ。やがて彼の地で正田美智子(当時)と出会ったことを考え合わせても、充分に納得できる話である。
ところで「象徴天皇」ということばを読み解いていくと、GHQに押し付けられたのではなく、国際的リベラリストで昭和天皇の信頼が篤く、クエーカー(キリスト教の一派で絶対的平和主義で知られる)教徒でもあった新渡戸稲造にたどり着くのだという。
そのことについて解説しているのは、新渡戸稲造の研究で知られる拓殖大学名誉教授の草原克豪だ。

「新渡戸は昭和六年に英国で出版された英文『日本』の中で、〈天皇は、国民の代表であり、国民統合の象徴である〉と述べています。
 その三十一年前にアメリカで出版された名著『武士道』においても、天皇が〈国民的統一の象徴〉(原文では〈Symbol of National Unity〉)であることを強調していました。アメリカはこうした新渡戸の天皇観を参考にしながら、戦後の象徴天皇制の基礎作りをしたものと思われます」(119ページより)

「クエーカーはもともと慈善事業に熱心で、戦後の日本の復興事業にも積極的に協力していたので、当時の日本におけるクエーカー人脈の果たした役割は軽視できないものがあります」と草原は言う。
 実際、現憲法に大きな影響を与えたマッカーサーの副官ボナー・フェラーズは新渡戸と同じクエーカー教徒であり、当然新渡戸の本は読んでいたといわれる。ちなみに、天皇の人格形成に影響を与えたといわれるバイニング夫人もクエーカー教徒である。
 新渡戸は軽井沢に別荘を構え、いまも新渡戸通りにその名を残す。(119〜120ページより)
新しく定められた象徴天皇を支えたのは、戦後、宮内庁長官になった田島道治であり、侍従長になった三谷隆信だが、このふたりは新渡戸の門下生。田島は新渡戸家の近くに別荘を持っており、皇后と同じく、戦時中は軽井沢に疎開していた。また、終戦直後の文部大臣で天皇の『人間宣言』を起草した前田多門とも交流があったそうだ。
戦後の皇室を支えた人物としては、前田多門の他に安倍能成(学習院院長)、田中耕太郎(最高裁判官)の名がしばしば登場するが、大正7(1918)年、新渡戸が後藤新平と軽井沢夏季大学を開設した際、その運営にあたったのが前田多門と鶴見裕輔(衆議院議員)らだったという。
天皇が皇后と初めて出会われた軽井沢会テニスコートのトーナメントにおいて、小泉信三(慶應義塾長)とともに見学していたのが田中。田中は小泉と親交が深く、軽井沢の万平ホテルでよく会っていたという。
田中は新渡戸の門下生ではないものの、人格的、思想的影響を受けていた。また田中と親しかった安倍も軽井沢に別荘があり、天皇を野上弥生子(小説家)の別荘に案内したりしている。
さまざまな人名が登場するが、こうして見てみると、戦後の皇室には新渡戸人脈とクエーカー人脈が深く張り巡らされ、軽井沢がひそかな舞台となっていたことが理解できる。新憲法下で象徴天皇制が決まると、彼らが旧体制の人脈を排除して新たな人脈を形成していったということだ。

平成二十五(二〇一三)年、皇后は七十九歳の誕生日に際して、日本における女性の人権の尊重を現憲法に反映させたベアテ・シロタ・ゴードンや「五日市憲法草案」にふれられた。
「五日市憲法草案」とは、明治憲法の公布(明治二十二年)に先立って、農民や市民が寄り合って書き上げた憲法草案で、現在の憲法に近いといわれる。改憲の空気が広がる中で、この憲法草案をあえて「世界でも珍しい文化遺産」と評価するところに、両陛下のリベラルな発想を感じる。それは、こうした人脈と無縁ではないだろう。(121ページより)
 
また、平成6(1994)年6月、ホワイトハウスで行われた歓迎式典で天皇が、19世紀の開国から、日米の戦争と戦後の歴史に触れつつ、「前世紀末、後に国際連盟の事務次長をつとめることとなった新渡戸稲造博士は、自分の若き日の夢を『太平洋の橋』になることとして海を渡り、貴国の地にまいりました」と、わざわざ個人名をあげて述べられた。このことからも、新渡戸の影響がうかがえると著者は指摘している。
確かにこれは、国民とともに平成を歩んできた天皇の原点として、非常に重要なトピックスだと言えるのではないだろうか。
いずれにしても、あと少しで平成が終わろうとしている今だからこそ、ぜひ読んでおきたいところだ。

(* ̄- ̄)ふ〜ん

ライカ、中国で炎上 天安門事件動画との関連は?

2019年4月22日(月)19時00分
4月21日、ドイツのカメラメーカー、ライカ・カメラは、中国のソーシャルメディアで「炎上」した天安門事件を巡る広告動画について、同社は関与していないと表明。写真は北京で19日、同社ロゴ(2019年 ロイター/Thomas Peter)
ドイツのカメラメーカー、ライカ・カメラは、中国のソーシャルメディアで「炎上」した天安門事件を巡る広告動画について、同社は関与していないと表明した。
5分間の動画には、天安門事件の際に戦車の前に丸腰で立ちはだり、「タンクマン」として有名になった男性を、報道カメラマンが警察から逃げながら撮影する姿などが含まれている。中国では天安門事件への言及が厳しく検閲されており、ソーシャルメディアには動画を批判する声が殺到した。
ライカの広報は「動画はライカ・グループのどの企業からも委託、資金提供、承認を受けていない。当社は混乱に遺憾を表明するとともに、当社ブランドの不正使用を防ぐためさらなる法的手段を講じる」との声明を出した。
ライカは動画ができた経緯を説明しておらず、動画を制作したブラジルの広告会社、F/ナスカ・サーチ・アンド・サーチとの関係にも言及していない。F/ナスカは16日に動画をツイッターに投稿した。
F/ナスカは取材要請に答えなかったが、香港メディアは、動画はライカの承認を得たとするF/ナスカ広報のコメントを伝えている。

[北京 21日 ロイター]

トムソンロイター・ジャパン

Copyright (C) 2019トムソンロイター・ジャパン(株)記事の無断転用を禁じます

独ライカが関与を否定する動画


天安門事件を取り上げた動画。ライカは関与を否定するが...... South China Morning Post / YouTube

ほうほう。

ノートルダム大聖堂はなぜフランスの象徴か

2019年4月22日(月)19時00分
広岡裕児(在仏ジャーナリスト)
火災後もまだしっかり建っていたノートルダム大聖堂 (筆者撮影)
<宗教も党派も無関係に機会あるごとに人々が集まり、災害があれば避難する──だから、ノートルダムの火災は「キリスト教の悲劇」ではなく「私たちの悲劇」だった>
「ノートルダムは何世紀にもわたって、人類の精神(エスプリ)を象徴していた。(......)。ノートルダムは、パリの精神、そしてフランスそのものの象徴だった。(......)私は今喪に服している」
沈痛な面持ちで、ジャン=リュック・メランション氏は語った。彼はまた、ネットメディアへの寄稿でこうも書いている。
「無神論者も信仰者もノートルダムは私たちの共通の大聖堂である。あらゆる時代の波を乗り越えて私たちを運んでくれる船である。私たちはみんな同じようにそれを愛していると私は信じる」 (2019年4月19日、Leglob-journal)
4月16日の「リベラシオン」紙は、まさに崩れようとする尖塔の写真を1面いっぱいにつかって、ただ一言「NOTRE DRAME」と書いた。Notre Dameをもじったものだが、Drameは悲劇ということである。「私たちの悲劇」。
「悲しみ」「嘆き」「心痛」「涙」「破滅」「災難」......ノートルダム大聖堂の火災は数えきれない反響をよんだ。その中で、あえてこの2つを紹介したのは、メランション氏は左翼政党「不服従のフランス」党首であり、「リベラシオン」は左派系新聞だからである。つまり敬虔なキリスト教徒とは対極にある。

人の英知が生んだ建築

フランスは「教会(ローマ教会)の長女」といわれる伝統的なカトリック教国である。 調査会社Ifopによれば、1972年には87%がフランス国民のカトリック教徒だった。とはいえ、2010年には65%に減少、さらに、最低月に1度ミサに行くと答えた人はカトリック教徒の7%、国民全体では4.5%にすぎなくなってしまっている。
炎に包まれた大聖堂の前には祈りをささげる若者たちの姿があった。だが、ノートルダムの火災はキリスト教徒の悲劇ではない。ただただ「私たちの悲劇」なのである。
諸外国ではよく首都移転が議論される。実際、日本でも京都から東京に移った。しかし、フランスではパリから移すということは全く考えられない。つねにパリはフランスの中心である。そしてパリの文字通り中心にあるのがシテ島である。このセーヌ川の中州はパリの発祥の地でもある。
メランション氏はノートルダムの建築を讃えて「石の重さではなく人の英知によって支えた」という。それまでのように隙間なく大きな石を積み、それによって建物を支えるのではなく、外の支柱に力を逃がす構造でつくられている。これによって、大きな窓が作れ、華麗なステンドグラスが可能になった。まさに、人の英知が作り出した進歩である。
この建築は、ゴシック様式といわれているが、ルネサンス期のイタリアで従来の決まりと技術を守らなかったために軽蔑の意味で蛮族の名を冠しゴート族式と呼んだもので、この言葉ができる前は「フランス式」といわれていた。ギリシャ・ローマ文化を咀嚼してフランスの文化というものを創造した記念碑でもある。
今では、教会の前は広場になっているが、これは、19世紀後半のパリ大改造の時に作られたもので、それまでは集合住宅が密集していた。つまり街の中にこつ然と現れる大建築であった。
別に神に祈るためではなくとも、機会あるごとに人々が集まった。災害があると人々はノートルダムに避難した。
大聖堂は平安末期の1163年から南北朝時代の1345年にかけて建設されたが、着工から50年後ぐらいには雨露をしのげるようになり、1302年には、聖職者・貴族・有力市民の国会にあたる初めての三部会が開かれた。この伝統が500年続いて、ベルサイユで行われたときにフランス革命の発端となったのである。

千年、パリを見続けた

革命の時には攻撃され、彫刻、家具等が壊されたが、1793年、ロベスピエールが唱えた反宗教の宗教「理性宗教」の総本山になった。
しかし、老朽化も進んでおり、取り壊しの声も出た。
そんなとき、有力な政治家でもあるヴィクトール・ユゴーが「ノートルダム・ド・パリ」(邦題ノートルダムのせむし男)を発表した。宗教の場としてではなく、舞台としてノートルダムをつかい、聖なる場所を冒涜したという批判もあったが、彼の目的は遺産を守ることであった。かくして世論をバックに修復が行われ、現在に至った。ちなみに、「ノートルダム・ド・パリ」は20年前にはミュージカルにもなり大ヒットした。
第2次大戦のパリ解放の戦いでは広場を隔てた正面の県庁・警視庁がレジスタンスの本拠になり、ドイツ占領軍の攻撃をかいくぐって大聖堂に三色旗が掲げられた。解放直後の1944年8月26日、ドゴール将軍を先頭にシャンゼリゼから行進し、ノートルダムで勝利の讃美歌が歌われた。
「この地は何世紀にもわたって様々な争いをくぐってきた力強い場所なのです」と58歳の女性はパリジャン紙に語っているが、そのとおりである。
パリの欠かせない観光名所といえば、凱旋門、エッフェル塔、ノートルダムだが、初めの2つはフランス革命以降に作られたものだ。ノートルダムは千年の歴史を貫いて生き続け、良い事も悪い事もすべて見守っていた。
フランス国王の戴冠式はランスで行われた。墓所はサンドニである。ゴール(ローマ帝国のガリア=現在のフランス)の首座大司教の座はパリではなくリヨンにある。このように、ノートルダムは、聖俗の権力から若干の距離を保っていた。教会としてのノートルダムもまた何よりも「パリ」の、そしてフランス国民のものだったといえる。
フランス人にとってノートルダム大聖堂とは何なのか。一言で答えるならば「いつでもそこにあるもの」である。
火事騒ぎが終わって、改めて見てみると、今もある。屋根が焼けて、尖塔が崩れた。しかし、建物はしっかり残っている。
トランプ大統領が「空から水を落とせばいい」といったツイッターにパリの消防当局は、構造が壊れてしまうと反論した。たしかに上空からピンポイントで水を落としていたら、爆撃しているようなものだ。パリの石灰岩は案外熱に弱くて脆くなっているから、崩れ去ってしまっただろう。
消防隊員への賛辞が続いている。それはまちがいなく、フランス国民の象徴であり、フランスというものの象徴を守ってくれた人への感謝だ。 

ほうほう。

ノートルダム大聖堂はなぜフランスの象徴か

2019年4月22日(月)19時00分
広岡裕児(在仏ジャーナリスト)
火災後もまだしっかり建っていたノートルダム大聖堂 (筆者撮影)
<宗教も党派も無関係に機会あるごとに人々が集まり、災害があれば避難する──だから、ノートルダムの火災は「キリスト教の悲劇」ではなく「私たちの悲劇」だった>
「ノートルダムは何世紀にもわたって、人類の精神(エスプリ)を象徴していた。(......)。ノートルダムは、パリの精神、そしてフランスそのものの象徴だった。(......)私は今喪に服している」
沈痛な面持ちで、ジャン=リュック・メランション氏は語った。彼はまた、ネットメディアへの寄稿でこうも書いている。
「無神論者も信仰者もノートルダムは私たちの共通の大聖堂である。あらゆる時代の波を乗り越えて私たちを運んでくれる船である。私たちはみんな同じようにそれを愛していると私は信じる」 (2019年4月19日、Leglob-journal)
4月16日の「リベラシオン」紙は、まさに崩れようとする尖塔の写真を1面いっぱいにつかって、ただ一言「NOTRE DRAME」と書いた。Notre Dameをもじったものだが、Drameは悲劇ということである。「私たちの悲劇」。
「悲しみ」「嘆き」「心痛」「涙」「破滅」「災難」......ノートルダム大聖堂の火災は数えきれない反響をよんだ。その中で、あえてこの2つを紹介したのは、メランション氏は左翼政党「不服従のフランス」党首であり、「リベラシオン」は左派系新聞だからである。つまり敬虔なキリスト教徒とは対極にある。

人の英知が生んだ建築

フランスは「教会(ローマ教会)の長女」といわれる伝統的なカトリック教国である。 調査会社Ifopによれば、1972年には87%がフランス国民のカトリック教徒だった。とはいえ、2010年には65%に減少、さらに、最低月に1度ミサに行くと答えた人はカトリック教徒の7%、国民全体では4.5%にすぎなくなってしまっている。
炎に包まれた大聖堂の前には祈りをささげる若者たちの姿があった。だが、ノートルダムの火災はキリスト教徒の悲劇ではない。ただただ「私たちの悲劇」なのである。
諸外国ではよく首都移転が議論される。実際、日本でも京都から東京に移った。しかし、フランスではパリから移すということは全く考えられない。つねにパリはフランスの中心である。そしてパリの文字通り中心にあるのがシテ島である。このセーヌ川の中州はパリの発祥の地でもある。
メランション氏はノートルダムの建築を讃えて「石の重さではなく人の英知によって支えた」という。それまでのように隙間なく大きな石を積み、それによって建物を支えるのではなく、外の支柱に力を逃がす構造でつくられている。これによって、大きな窓が作れ、華麗なステンドグラスが可能になった。まさに、人の英知が作り出した進歩である。
この建築は、ゴシック様式といわれているが、ルネサンス期のイタリアで従来の決まりと技術を守らなかったために軽蔑の意味で蛮族の名を冠しゴート族式と呼んだもので、この言葉ができる前は「フランス式」といわれていた。ギリシャ・ローマ文化を咀嚼してフランスの文化というものを創造した記念碑でもある。
今では、教会の前は広場になっているが、これは、19世紀後半のパリ大改造の時に作られたもので、それまでは集合住宅が密集していた。つまり街の中にこつ然と現れる大建築であった。
別に神に祈るためではなくとも、機会あるごとに人々が集まった。災害があると人々はノートルダムに避難した。
大聖堂は平安末期の1163年から南北朝時代の1345年にかけて建設されたが、着工から50年後ぐらいには雨露をしのげるようになり、1302年には、聖職者・貴族・有力市民の国会にあたる初めての三部会が開かれた。この伝統が500年続いて、ベルサイユで行われたときにフランス革命の発端となったのである。

千年、パリを見続けた

革命の時には攻撃され、彫刻、家具等が壊されたが、1793年、ロベスピエールが唱えた反宗教の宗教「理性宗教」の総本山になった。
しかし、老朽化も進んでおり、取り壊しの声も出た。
そんなとき、有力な政治家でもあるヴィクトール・ユゴーが「ノートルダム・ド・パリ」(邦題ノートルダムのせむし男)を発表した。宗教の場としてではなく、舞台としてノートルダムをつかい、聖なる場所を冒涜したという批判もあったが、彼の目的は遺産を守ることであった。かくして世論をバックに修復が行われ、現在に至った。ちなみに、「ノートルダム・ド・パリ」は20年前にはミュージカルにもなり大ヒットした。
第2次大戦のパリ解放の戦いでは広場を隔てた正面の県庁・警視庁がレジスタンスの本拠になり、ドイツ占領軍の攻撃をかいくぐって大聖堂に三色旗が掲げられた。解放直後の1944年8月26日、ドゴール将軍を先頭にシャンゼリゼから行進し、ノートルダムで勝利の讃美歌が歌われた。
「この地は何世紀にもわたって様々な争いをくぐってきた力強い場所なのです」と58歳の女性はパリジャン紙に語っているが、そのとおりである。
パリの欠かせない観光名所といえば、凱旋門、エッフェル塔、ノートルダムだが、初めの2つはフランス革命以降に作られたものだ。ノートルダムは千年の歴史を貫いて生き続け、良い事も悪い事もすべて見守っていた。
フランス国王の戴冠式はランスで行われた。墓所はサンドニである。ゴール(ローマ帝国のガリア=現在のフランス)の首座大司教の座はパリではなくリヨンにある。このように、ノートルダムは、聖俗の権力から若干の距離を保っていた。教会としてのノートルダムもまた何よりも「パリ」の、そしてフランス国民のものだったといえる。
フランス人にとってノートルダム大聖堂とは何なのか。一言で答えるならば「いつでもそこにあるもの」である。
火事騒ぎが終わって、改めて見てみると、今もある。屋根が焼けて、尖塔が崩れた。しかし、建物はしっかり残っている。
トランプ大統領が「空から水を落とせばいい」といったツイッターにパリの消防当局は、構造が壊れてしまうと反論した。たしかに上空からピンポイントで水を落としていたら、爆撃しているようなものだ。パリの石灰岩は案外熱に弱くて脆くなっているから、崩れ去ってしまっただろう。
消防隊員への賛辞が続いている。それはまちがいなく、フランス国民の象徴であり、フランスというものの象徴を守ってくれた人への感謝だ。 

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