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野村克也氏、巨人・大城のリード&打撃を絶賛「育ててみたいよね」

2019年4月29日 10:22スポーツ報知
◆巨人7―2DeNA(28日・東京ドーム)

 元楽天監督の野村克也氏(83)が29日深夜に放送されたTBS系「S☆1」(日曜・深夜0時15分)に出演。巨人・大城卓三(26)の攻守について解説し、正捕手獲りに期待を寄せた。

 野村氏は28日の巨人―DeNA戦で先発マスクを務めた大城について「キャッチャー大城って初めて見るんだけど、味のある配球するしね。相手バッターの分析力とか観察力ってのは良く出てると思うよ。面白いよ、このキャッチャー」とリード面を称賛した。

 さらに4回2死三塁の場面で一、二塁間を破る2試合連続の適時打について「ハハハ。このタイムリー大きいな。いつも真っ直ぐしか待ってない。真っ直ぐに合わせて変化球に対応するという。理想型のバッティングしてる」と称えた。続けて「あぁ大城。レギュラー獲れるぞ、頑張れオラ。今、キャッチャー空いてるじゃん巨人。(小林、炭谷がいるが)目標が低いからいいじゃん。大したことないから、バッティングは」と正捕手獲りに期待を寄せた。

 さらに「頑張れっていう声援を送りたくなるキャッチャーだな。育ててみたいよね」と育成にも色気を見せていた。

ふんふん。

甲子園で誰よりも勝った「眦菴隆篤」の生き様

智辯和歌山での葛藤と決断の日々

眦茣篤弔2018年退任。第100回全国高校野球選手権大会の初戦で敗退した智辯和歌山。(写真:共同通信社)
甲子園の歴史の中で、数々の名勝負、名選手、そして名監督が生まれてきた。100回の夏、91回の春の歴史を誇る甲子園大会において、誰よりも多く勝利を収めたのが、智辯和歌山高校・眦菴痢覆燭しま ひとし)だ(現・名誉監督)。智辯学園、智辯和歌山を率い、春夏の甲子園出場38回、通算勝利68勝はいずれも歴代最多。古希を迎えてもなおグラウンドに立ち続け、2018年夏を最後に惜しまれつつ勇退した高校野球界きっての名将である。
そんな監督の48年に及んだ指導者生活、さらには人生を追った『一徹――智辯和歌山 高嶋仁 甲子園最多勝監督の葛藤と決断』の著者・谷上史朗氏が、改めてその歩みを振り返った。
選抜大会が行われた甲子園のネット裏で顔を合わせると「なんやかんや忙しいやってるわ」。明るい顔と共に返してきたが、グラウンドへ向けた視線は少しうらやましげに見えた。智辯学園(奈良)、智辯和歌山(和歌山)を率い甲子園出場38回、通算68勝(共に歴代1位)。
昨夏を最後に智辯和歌山の監督を退いた眦菴痢文宗μ祥栖篤帖砲蓮何よりも高校野球とグラウンドが好きな男である。
出身は長崎県五島列島の福江島。1946年5月、終戦間もない九州最西端の地で団塊世代のトップをきって生を受けた。野球を始めた中学校のチームで男気あふれる指導者に出会い、グラウンドへ向かうのが一層楽しくなった。外野手兼投手だった中学3年の夏、五島のチームとして初めて県大会を制覇。
自信も芽生え、翌春、弟が2人もおり経済的には極めて厳しかったが、“野球で勝負をしたい”と島を出た。進んだのは長崎市内にある私立の海星高校。眦茲中学1年の夏に甲子園初出場、3年時には春夏連続出場。昇りゆく勢いに乗っていた強豪校のグラウンドは活気と殺気に満ちていた。

辞めそうになると島の母を思い出し踏みとどまった

1年時の練習はグラウンドの外をひたすら走ることと、ネットへ向け球を投げ続けること。合間には指導者、上級生からしばしば“気合”を入れられた。当時の練習グラウンドには三塁側奥に防空壕の跡が残っており、そこへ1年生が呼ばれると、しばらくし、中から重い音が響いてきた。
ベースランニングでは、一塁ベースの横で上級生が走者の通過に合わせ、ブンッとバットを振っている。膨らまずに走らせるため、という理由だが、一歩間違えば……、の世界。眦茲指導者となってからベースランニングを全体練習の中でほとんどさせなかったのは「あの頃を思い出すから」だ。
入学時、ゆうに100人を超えていた同学年の部員が最後にはマネージャーを含め11人となった。眦茲皺薪戮蘯めそうになったが、そのたび思い出したのが母の顔だった。父を説得し、自身は寝る間を削り内職。島から送り出してくれた母への思いがグラウンドに踏みとどまらせた。
高校2年、3年の夏に甲子園出場。初めて立った開会式の感動がその後の道を決めた。
「グラウンドから見たら360度ぎっしりお客さんが入っていてスタンドは真っ白、空は真っ青。そんな中を歩くんやから、そら足も震えるし、ホンマに辞めんでよかったって思うてね。また絶対帰ってくる、将来も指導者になって帰ってくる、ってあのとき決めたんです」
 卒業後は、日本体育大学へ進み、教員免許を取ると、1970年春に赴任したのは奈良の智辯学園。ここからは、のち理事長となり、眦茲鮹辰┥紊欧討い藤田照清監督(故人)の強烈な“圧”に耐える日々が始まった。
大会に敗れ報告へ向かうと「何回負けとるんや!学校潰す気か!」と吹き飛ばされそうな勢いで凄まれた。パワハラの言葉など影も形もない時代。ひたすらクソッタレ!と奥歯をかみしめ、耐えるしかなかった。やがて、その存在が自らの力を引き出すものと知るようになるが、眦茲砲箸辰篤E弔録誉減蚤腓瞭馘┐世辰拭
「奈良の時代はほんまにボロカスやった。さすがに自分から辞めようと思うことはなかったけど、もし、辞めるときはこのおっさんを殺したる、と思うことはあった(笑)。あの人がおったから今の自分があるのは間違いないけど、当時はそんなふうには思えんかったからね」
見返すには結果を出すしかない。グラウンドでは鬼と化し選手をしごいた。そして、後がないと覚悟を決めて挑んだ監督4年目。秋に近畿大会ベスト8に入り、翌1976年は春の選抜でついに甲子園出場を果たした。ここでベスト8。翌年にも春ベスト4、夏ベスト16。ところが、全国の頂点も見え、さあ、ここからという1979年、監督から外され副部長に。翌年には前年開設したばかりの智辯和歌山への異動を命じられた。

智辯和歌山の監督として一気に高校野球界の主役に

なんでや……。この処置が藤田が期待を込めてのものだったかはわからないまま、前年に春夏連覇を果たし絶頂期にあった箕島がそびえる和歌山で部員2人からの再スタートとなった。しかし、20年かかると思った甲子園に1985年春、6年目でたどり着くと、1987、1989、1991、1992年……と夏に続けて出場。
甲子園大会5連敗からのスタートではあったが、1993年夏に初勝利を飾ると、1994年選抜で日本一に。以降、1996年春準優勝、1997年夏優勝、2000年春準優勝、夏優勝、2002年夏準優勝……。一気に高校野球界の主役に躍り出た。 
眦茲硫燭凄いのか。選手、OBらが語って来たのはその理論や理屈より、グラウンドで見せる姿、姿勢、そして、人としての魅力だった。
「僕らの頃は眦茲気鵑30歳になった頃で、エネルギーもあり余っていて、もちろんとんでもなく厳しかった。でも、厳しさの一方で強く残ってるのは僕らと同じ野球小僧だったということ。本当に朝から晩まで僕らにつきあってくれたし、夜の練習なんかでは兄弟みたいに近い雰囲気を出してくれることもあった。だから今、ごつい熊みたいな顔ももちろん記憶に残ってますけど、熊が笑った顔もしっかり残ってる。それが懐かしいし、うれしいんです」(智辯学園1977年主将、中葉伸二郎)
酒、カラオケ、ゴルフ……といったものとは無縁の生活。平日はもちろん、休みの日になればそれこそ朝から晩までグラウンドに立ち、全力で選手と向き合った。智辯和歌山のグラウンドにはほかの強豪校のグラウンドにあるようないわゆる“監督室”的なスペースがない。眦茲指導していた当時の智辯学園も同様で、学校に求めれば作れただろうが、求めなかった。
眦茲浪討瞭も冬の日もいつも選手と同じグラウンドに立ち、ノックを打ち、選手を見続けた。眦茲率いたチームの最後の主将、文元洸成(慶応大)はこう言った。
「僕たちのときは体のこともあって直接指導される場面は確かに減りました。でも、本当にいつも自分たちのことを見てくれていてひと言、ふた言アドバイスをもらうことで調子が上向いたりするんです。最後の夏も県大会の初戦でみんなが打つ中、僕だけノーヒット。
試合のあと『お前は結果じゃなくて4番らしい姿、4番らしいスイングを見せてくれたらええんや』と言っていただいて、スッと気持ちが軽くなった。シンプルなんですけどいつも見ていてくれる高嶋先生のひと言だからそれだけの効果があったと思います」

野球に真っ直ぐ、眦茲貫いた姿勢

智辯学園時代は監督、部長としてコンビを組み、以降も高嶋を見続けてきた和泉健守もやはり「あの姿勢です」と言って続けた。
「口先だけの指導者だったら選手はついてこない。少々厳しい指導をしても、指導者が自分にも厳しい姿勢を取り、野球に賭ける姿を見せていたら子どもはついてくる。選手は指導者の背中をいつも見てますから。偽りがあるとすぐ見抜かれる。眦莊がこれだけ勝ってきたのは自分にも厳しく、野球には真っ直ぐ、あの姿勢があったから」
またこんな声もあった。
「入部して驚いたのが、日本一の監督がゴミ出ししてる!ってことでした。それだけじゃなくて、グラウンド整備、ネット修理、トイレ掃除、部室の掃除、ボール縫い……。生徒に言うだけじゃなく自分でもされる。僕らは授業が終わって着替えて練習に入っていくだけで、アップをしてるときに眦萓萓犬ほうきで掃きながら、ゴミ出しもやってくれてる。そんな姿をいつも見てると、この人のために頑張りたい、お返しをしたいって思うようになって、それはすごくありました」(智辯和歌山2009年主将、左向勇登)
大人の裏表を見抜くことに長けた高校生たちのこと、うわべの言葉や指導ならすぐに見破り、心離れただろう。しかし、眦茲枠爐蕕琉象をおそらくそれぞれの3年間裏切ることがなかった。揺るぎない信頼関係が出来上がった中なら、時に1発、2発が飛んできても何ということはなかった。
『一徹――智辯和歌山 高嶋仁 甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします
ただ……。眦茲帆手の関係は変わらなかったが、時代は変わった。
2009年秋の練習試合中、生徒に足が出たことがあった。目撃者から高野連へ通報が入り、謹慎3カ月。後にも先にも監督として処分を受けたのはこの一度だけだが、高校野球を取り巻く環境、智辯和歌山を取り巻く環境の変化を示す“事件”だった。
ここから勇退までの10年間、練習法や選手への接し方……。自らが信じ、貫いていたものが揺らぐ中、自問自答を繰り返す時間となった。
晩年は、70歳を超え、忍び寄る老い、内科系の難病とも闘いながら、まさに満身創痍。ノックに賭けてきた男が思うようにノックを打てなくなった。それでも……とノックバットを握ると、打ち終わったあと金網をわしづかみにしながら息を切らせ、しばらく動けなくなることもあった。
ノックの翌日、背中半身に真っ赤な発疹が出たこともあった(帯状疱疹)。日本一の練習には日本一の練習をさせられる体力が指導者にも必要と、かつてはほぼ毎日10キロを走り、晩年は早朝から4時間半をかけて山道を登る高野山詣で体と心を鍛え続けた。しかしその面からも、こだわってきたものが崩れた。最後の数年はユニフォームを脱ぐ時期をつねに考えながら、大好きなグラウンドと別れる寂しさ思い、葛藤する日々でもあった。

眦茣篤弔貫いた姿勢から学ぶべきもの

昨夏“決断”を下した後、しみじみと口にした言葉が耳に残る。
「俺はええ時代にやらせてもろうた。これからの指導者はほんまに大変や」
指導、教育の正解は1つではない。その中で難しい時代にグラウンドに立つ指導者たちがこの男に学ぶべきものがあるとすれば、理論や理屈より、眦茲グラウンドで見せた姿、姿勢なのだろう。
何よりも己に厳しく、決して妥協せず、やると決めたらとことん……。ここへ少しでも近づけたなら、時代が変わっても変らないものが見えてくるのではないか。

へぇ〜


安定した巨人・丸の外野守備 チーム69年ぶりの大台を狙う

 【宮入徹の記録の風景】 当たり前のように落下点に入り、飛球をキャッチする。巨人の丸は今季外野手としての刺殺数がリーグ最多タイの46。外野手の刺殺は、ほとんどがフライを捕球することで記録される。そのためこの数字が多いほど、守備範囲が広いといえる。広島時代にレギュラーポジションを獲得した11年以降、丸の外野刺殺数とリーグ順位は11年252(3位)、12年142(10位)、13年256(3位)、14年293(3位)、15年273(2位)、16年284(3位)、17年274(2位)、18年230(2位)。8年間で3位以上が7度。13年から6年連続でベスト3入りしている。外野刺殺の連続シーズン3傑入りの最長記録は71〜83年福本豊(阪急)の13年。セ・リーグでは69〜80年山本浩二(広島)の12年が最長で6年以上は8人しかいない。丸の広い守備範囲は打撃のみならず、チームに大きなアドバンテージをもたらしている。

 丸が現在のペースで刺殺を積み上げると、最終299になる計算。シーズン300刺殺以上は昨年西川(日本ハム)が309刺殺でクリア。セ・リーグでは16年大島(中日)が300刺殺で記録しており、さほど珍しい記録ではない。ただし、巨人の場合は事情が違う。初めて300刺殺に乗せたのは1リーグ時代の48年。「じゃじゃ馬」こと青田昇が391、「塀際の魔術師」の異名をとった平山菊二が308と2人がマークした。青田の391刺殺は現在もプロ野球最多記録として破られていない。青田は49、50年も320、338と3年連続で300刺殺以上。中堅手として右に左に走りフライを捕り続けた。

 ところがその後、巨人で300刺殺を記録した外野手はいない。試みに60年以降の各年代ごとの外野手シーズン最多刺殺選手を出すと60年代=65年吉田勝豊293、70年代=75年柴田勲252、80年代=83年松本匡史257、90年代=97年松井秀喜287、00年代=00、01年松井秀喜278、278、10年代=11年長野久義262。球史を彩った名外野手も大台到達はならなかった。丸のシーズン最多刺殺は前出14年の293。チーム69年ぶりとなる300刺殺を達成しても不思議ではない。

 話を今季のパ・リーグに移したい。26日現在、外野手の最多刺殺は西浦(オリックス)の55。2位の田中(楽天=52)に3差をつけている。西浦は今季高卒2年目で5月21日に満20歳を迎える。過去のシーズン最多刺殺外野手の最年少は37年春の山口政信(タイガース)、44年堀井数男(近畿日本)、57年毒島章一(東映)、92年前田智徳(広島)の各21歳シーズン。20歳シーズンでリーグ1位なら最年少記録更新となる。ここまで西浦は全試合に中堅手として先発出場。打率・230(29位)、0本塁打、5打点、5盗塁(4位タイ)の数字を残している。外野手の場合、守備力も大事だが、やはり打力の充実が不可欠。試合に出続けるために、バットでの貢献度も上げたいところだ。

(* ̄- ̄)ふ〜ん

高校野球で「球数制限」の議論が進まないなぜ

勝敗も重要だがスポーツマンシップも大切だ

4月18日、新潟県で開催された指導者を対象とした「スポーツマンシップ講演会」の様子(筆者撮影)
新潟県高校野球連盟は、4月18日、春季県大会の組み合わせ抽選会を行い、県内からは連盟所属高校の野球部指導者が集まった。新潟県高野連は、この大会から「球数制限」を導入する予定だったが、日本高野連の「時期尚早」という判断を受けて、導入が見送られた。(以前の記事:
『日本高野連が待った、「球数制限」議論は進むか』2019年2月23日配信)。
これらの経緯について、新潟県高野連、富樫信浩会長(新潟県立新潟東高等学校校長)に話を聞いた。

子供たちの将来を守るのが、大人の責務

「私たちは、2011年11月に新潟県青少年野球団体協議会を立ち上げ、子供たちを『野球肘』など健康被害から守る活動をしてきました。子供たちの将来を守るのが、大人の責務だと思っています。その活動の中で、高校野球にも健康被害の予防のために、何らかの施策が必要だという考えが出てきました。
『連投過多』など他の問題もありましたが、まずは『球数制限』を導入してみよう。そしてデータを取りながら、連投は大丈夫なのか、など野球による健康被害について、総合的に考えていこうと思ったわけです。やるなら早いほうがいいだろう、そして早くデータ化したほうがいい、という考えでした」
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重要なのは、新潟県青少年野球団体協議会の存在だ。ここには新潟県高野連だけでなく、新潟県中体連軟式野球専門部、新潟ボーイズ、リトルシニア新潟ブロック、リトルリーグ新潟ブロック、新潟県スポーツ少年団、ヤングリーグ、ポニーリーグと県内のすべての少年野球団体が加盟している。
新潟県内では新潟県高野連も他の団体も「野球を通して子どもの未来を考える」同志、仲間になっている。
この協議会に加盟する「野球障害ケア新潟ネットワーク」は、2012年からサイトを立ち上げ、野球による健康障害についての情報発信や啓もう活動を行っている。「球数制限」の導入は、こうした少年野球界を挙げた「一枚岩」の活動を通して生まれた。
さらに言えば、新潟県青少年野球団体協議会の上部には、学生野球、社会人野球、女子野球、独立リーグ(新潟アルビレックスBC)から、新潟県還暦軟式野球連盟までもが参加した新潟県野球協議会がある。
新潟県青少年野球団体協議会は、新潟県野球協議会の「強化育成部門」と位置付けられている。多くの地方では、プロ、アマ、学生野球、独立リーグはバラバラに活動し、連携はほとんどないのが現状だ。この「縦割り」が、野球改革の取り組みの障壁となっているが、新潟県ではその障壁はなく「みんなで野球を考える」ことが当たり前になっている。
富樫氏は協議会の設立を推進した一人でもあるのだ。
取材に応じた新潟県高野連の富樫会長(筆者撮影)
「こういう協議会があるのは、全国でも新潟県だけでしょう。もともと県立野球場の建設などの目的で、県内の野球団体がまとまったのがきっかけですが、協議会ができたことで新潟の野球を包括的に考えることができるようになりました。
今回の高野連の『球数制限』についても、他の野球団体へのアンケートも行って、新潟県野球界の総意として導入を決めました。機関決定は誠にスムーズでした。
新潟県高野連は、球数制限をすることで、新潟県の野球界をけん引するというプライドを持って推進しようとしていました」

「球数制限」導入の機運は高まったが…

こうした経緯で、2018年12月22日、新潟県高野連は、新潟県青少年野球団体協議会主催の「NIIGATA 野球サミット 2018」の席上、4月の新潟県大会から100球を上限とした「球数制限」の導入を発表した。
これに続き2019年1月5日の「ぐんま野球フェスタ2019」では、全日本軟式野球連盟の宗像豊巳専務理事が、今夏からの学童野球での球数制限の導入を推進すると発表。
筆者はこのときに宗像専務理事に話を聞いたが「新潟県高野連の英断に勇気づけられた」と語っていた。
この時期、「球数制限」を導入する機運は、全国的に高まっていたといえるだろう。
「しかし、発表すると日本高野連の内部では、応援していただけるという声はほとんどありませんでした。外部の声も、当初は賛否両論ありましたが、導入の真意が伝わるとともに、賛成の声が圧倒的に多くなりました。プロ野球選手なども含めて、導入に踏み切るべきだと言ってくださったのですが、高野連内部と外部の意見のギャップには戸惑いました。
当連盟の杵鞭義孝専務理事が1月7日に日本高野連に赴いて、なぜそうなったという経緯を説明しましたが、そこでは結論は出ませんでした」
結局、日本高野連は「時期尚早」という結論を出した。
当初は、賛同が得られなくても導入する選択肢も考えていた。
「そのための準備もしていた。具体的にはイニングが終わったときに累積の球数をアナウンスするつもりでした。球数をカウントするという仕事が増えますが、新潟県高野連では球数も含めた公式記録を作成できる生徒やスタッフを育成してきました。だからスタッフを増員することなく、『球数制限』を導入できると考えていました」
しかし、最終的には導入を見送った。
「日本高野連に加えて、各都道府県連盟が賛同していないのに無理だろう。ここで強行してしまっては、われわれの立ち位置が変わってしまうということで、断念しました」

有識者会議で掘り下げたいこと

富樫氏は4月から日本高野連が諮問する「投手の障害予防に関する有識者会議」の13人のメンバーの1人として議論に参加する。
「『球数制限』の導入発表で、高校野球のあり方に一石を投じたつもりです。端的に言えば『球数制限は球数制限にあらず』です。
『球数制限』というと、ファウル打ちをされたら、投手がいなくなるなど、いろんな反論がありますが、私たちは次元の違う話をしています。
日本高野連では『勝敗にかかわることだから慎重に議論すべきだ』と言っていますが、スポーツは勝敗を決めるためだけにするのではなく、スポーツマンシップに則ってやるものです。もちろん勝利を求めますが、それよりも大事なものがある。それを掘り下げるのが、この会議の目的だと思います。
『球数制限』の問題を通して、子供たちの身体の健康の問題に言及すべきだと思います。それと同時に生徒の心の健康面、スポーツ、スポーツマンシップの在り方なども深まるような有識者会議になってほしいと思います。『球数制限』の問題を、日本高野連はルール化の問題だと思っていますが、私はルールの話ではないと思っています。その時点でボタンの掛け違いがあると思います。
また『球数制限』をすることで、選手層の薄い公立高校が不利になるという話がありますが、それもおかしい。別に甲子園に行くことだけが高校野球の目的ではありません」
「『球数制限』をすれば、選手が投手をする機会が増えます。これまで指導者が固定観念で、『投手はこの子にしかできない』と思っていたのが、100球に達してしまったから別の子に変えてみたら、すごいいい球を投げた、これは試合で使えるぞ、となれば新たな展開が広がる。
『球数制限』は直接的には投手に関する話ですが、そういう形で固定観念がなくなっていってゲームのバリエーションが広がります。選手の活躍の機会も増えます。『球数制限』は『球数制限』にあらずとはそういう意味です。こういう発想をしていかないと、野球の未来はないでしょう」

「甲子園至上主義」でいいのか

富樫氏は地域の格差にも言及した。
「甲子園はいろいろ問題があるにせよ、今も人気はあって繁栄していますが、地方はそういう状況ではありません。人口減少、高齢化に加えて『野球離れ』も進行しています。野球が、子供たちの健康を考えないスポーツということになれば、『野球離れ』はさらに進行します。球数制限だけでなくて、野球の未来を見据えた改革が必要です。今の高校野球は『甲子園至上主義』ですが、そればっかりでいいんですか、ということですね。
2011年に文部科学省が制定したスポーツ基本法には、『これ(スポーツ)を通じて幸福で豊かな生活を営むことが人々の権利である』と書かれています。スポーツマンシップは、この権利のために存在する。そしてそれを体現するのが高校野球などスポーツの責務だと思います。
日本スポーツマンシップ協会代表理事で、千葉商科大学サービス創造学部専任講師の中村聡宏氏の講演の様子(筆者撮影)
『球数制限』は、原点に戻って、みんなのための高校野球を考えるきっかけになればと思います。
今春の甲子園でも『サイン盗み』の疑惑が問題になっていましたが、スポーツマンシップに則れば、あのような疑わしいと思われる行為は起こらないと思います。
野球のルールや戦術ではなくてスポーツマンシップを再度理解する必要があるのではないでしょうか」
新潟県高野連は、この日の抽選会の後、指導者を対象とした「スポーツマンシップ講演会」を開催した。講師は日本スポーツマンシップ協会代表理事で、千葉商科大学サービス創造学部専任講師の中村聡宏氏と、アジア野球連盟審判長の小山克仁氏だった。
「球数制限」で高校野球界に一石を投じた新潟県高野連は、さらに前進しようとしている。

野村克也氏が選ぶ“平成の最強ベストナイン”右翼はイチロー!投手は究極の選択に…

4/22(月) 21:45
スポニチアネックス
野村克也氏が選ぶ“平成の最強ベストナイン”右翼はイチロー!投手は究極の選択に…


野村克也氏が選ぶ“平成の最強ベストナイン”右翼はイチロー!投手は究極の選択に…
野球評論家の野村克也氏
 野球評論家の野村克也氏(83)が20日深夜放送のTBSスポーツ情報番組「S☆1」(日曜深夜0・00)に出演。番組企画で“平成の最強ベストナイン”を選出した。

【写真】美貌が話題!イチローと一緒に米シアトルへ向けて出発した弓子夫人

 令和に残したい平成野球として“平成の最強ベストナイン”を厳選。名選手がずらりと並ぶ候補の中から「迷うねえ…」と悩みながらも各ポジションのベスト選手を選んだ。

 まず投手の先発部門。「エースねえ。誰だろう。菅野くんも桑田くんもそうだし…」といきなり究極の選択となったが「ダルビッシュにするか」とカブスのダルビッシュ有投手を選択。「いろんな球種を投げるし、直球も速いし、コントロールもそこそこよい。将来、大投手になる予感はあった」とコメントした。

 中継ぎは阪神、ロッテで活躍した遠山奬志投手。「投手らしい性格をしている。松井秀喜専属ストッパーみたいな。何がいいって度胸がいい」と言及。抑え部門は「ここはもう大魔神でしょ」と横浜、マリナーズで守護神を務めた佐々木主浩投手を指名。「くせ探しを一生懸命やったけど見つからない。フォークスライダーとフォークシュートを投げる。ボールを挟んで色々な変化球を投げるんだよ」と凄さを説明した。

 もっともこだわる捕手部門は「キャッチャーは日本シリーズ出ると本当によくなる。1球たりともおろそかにできない。良いキャッチャーはみな日本シリーズを経験している」と持論を展開してから「古田敦也だろうな」とヤクルト時代の教え子、古田敦也の名を挙げた。「新人のころからベンチでは俺の隣に座れと。一生懸命に打者攻略法を教えたら、彼は抜け目がないね。バッティングにまで生かして、打撃もよくなっちゃった。古田は圧倒的です」と称えた。

 野村氏が選んだ“ベスト野手”と“夢の最強オーダー”は以下の通り。(選手名のカッコ内は主な在籍・所属球団)

 【一塁手・落合博満(中日)】「文句なくという言い方をしていいか分からないが、落合博満だろうね。ライトでもレフトでもどこでもヒットが打てる。こういう長距離バッターは見たことない」

 【二塁手・辻発彦(西武)】「野球の目のつけどころがいい。視野が広い。状況判断という面ではナンバーワン。野球の真髄みたいな選手」

 【三塁手・原辰徳(巨人)】「三塁手は原(辰徳)だよ。長嶋茂雄の影響を多分に受けているんじゃない?長嶋に似ているよね」

 【遊撃手・宮本慎也(ヤクルト)】「みんな選びたいけど、宮本だろうね。勉強家だよ。なんでも知りたがる。監督をやらせたい人材だね」

 【外野手・松井秀喜(巨人)、柳田悠岐(ソフトバンク)、イチロー(マリナーズ)】「レフトは松井。一番の魅力は長打力でしょう。センターは柳田。ライトは文句なしでしょう。イチロー。三拍子も四拍子もそろっている。欠点がないよ」

 【“平成”夢の打順】(1番)イチロー(2番)辻発彦(3番)松井秀喜(4番)落合博満(5番)原辰徳(6番)柳田悠岐(7番)古田敦也(8番)宮本慎也(9番)ダルビッシュ有

 ラストは“誰が指揮官に?”という質問に表情を緩めて「そんなの聞く必要ないね。俺でしょ。俺にやらせたら最高だろうね」とコメントした。























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