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(* ̄- ̄)ふ〜ん

「心の専門家」に、ピエール瀧氏を「分析」させるメディアの罪

2019年4月19日(金)15時55分
荻上チキ(評論家)、高史明(社会心理学者)
Grafissimo-iStock.
<ピエール瀧氏をめぐる報道では、臨床心理士がわずか2分の映像をもとに瀧氏の「深層心理」を読み解くものまで登場した。一方、アメリカでは精神科医によるこうした行為の是非について活発な議論がなされてきた。「ゴールドウォーター・ルール」から日本が学ぶべき視点>
精神科医やカウンセラーがメディア上で、会ったことのない著名人について「診断」することはどこまで許されるべきだろうか。その行為は、倫理に反するのか?
ここ数年のアメリカでは、トランプ米大統領の支離滅裂な言動について精神科医がメディアでコメントすることをめぐり、激しい論争が起きている。
この論争には、歴史がある。鍵となるのは、アメリカ精神医学会(APA; American Psychiatric Association)が設けている「ゴールドウォーター・ルール(Goldwater rule)」と呼ばれる規定だ。そこには、「(メディアに対する一般的な知識の提供は問題ないが)当人に対して実際に診察を行い、かつ情報公開に対して適切な認可を与えられていない限り、精神科医が専門家として意見を提供することは非倫理的である」と書かれている。

このルールができた背景は、半世紀以上前に遡る。1964年の大統領選挙の際、アメリカの雑誌「Fact」が、共和党候補者であるバリー・ゴールドウォーター(Barry Goldwater)氏の適性に疑問を投げかけた。ゴールドウォーターは、差別的な言動を繰り返し、核兵器の使用をほのめかす過激な人物として注目されていた。
問題は、その記事の手法だった。「Fact」は多数の精神医学者にアンケートを取った上で、回答者の半数近くが「ゴールドウォーター候補が大統領としての適性を欠く精神状態であると判断した」と紹介。また、集まった回答の一部の記述を抜粋し、「パラノイア」「肛門期人格」「危険な異常者」といったコメントを掲載したのだ。
後にゴールドウォーターは、「Fact」を相手に名誉毀損の訴訟を起こす。そして裁判所は、「Fact」と編集者に対し、1ドルの補償的賠償金と、75,000ドルの懲罰的損害賠償を命じた。
この事件及び判決は、精神医療の専門家に波紋を広げた。判決の数年後、APAは「精神科医のための注釈を付した医療倫理綱領」(The Principles of Medical Ethics With Annotations Especially Applicable to Psychiatry)の第7条 に、先のゴールドウォーター・ルールを設けることとなった。そして、精神科医がメディアから、著名人についてコメントを求められた際、 一般的な知識の提供以上の発信をすることに警鐘が鳴らされたのである。
このルールは長らく自明視され,学術的議論の対象とはされてこなかった。しかし近年では冒頭に述べたように、特にトランプの発言をめぐって議論が本格化するようになった。

精神科医の社会的発言を禁じるべきか

精神科医・政治心理学者であり、CIAや議会で数々の証言を続けてきたジェロルド・ポストは、次のように述べている(2002)。APAの倫理規定はゴールドウォーター・ルールと同じ7条の別の項で、「公衆を教育し政府に助言すること」を精神科医の倫理としているが、これは時に、ゴールドウォーター・ルールとバッティングするのではないか。また、政治学者や歴史学者なども、著名人についての見解を述べて公共に貢献することがある。それなのになぜ精神科医だけは、公共の福祉に貢献すべき場面で沈黙しなければならないのかと。
ともに精神科医であるジェローム・クロールとクレア・パウンシーも、共著において基本的にはこの見解に同意する(2016)。そして、社会の脅威となる可能性のある人物について精神科医がコメントできず、パブリックな議論が抑圧されるのであれば、むしろその方が倫理に反すると論じた。
強い影響力を持つ政治家があからさまな精神的問題を抱えていることに気づいていてなお沈黙してしまうのであれば、むしろそれこそが罪深いのではないか。ならば、メディアでのコメント自制を求めるゴールドウォーター・ルールは、決して破ってはならない中核的倫理原則ではなく、単なるエチケットの地位に引き下げられるべきであると主張するのである。
一方でこうした議論は、ゴールドウォーター・ルールの文言が曖昧であるせいで混乱しているとする声もある。精神科医のジョン・マーティンジョイは、論文の中で「直接の診察と本人の同意を経ない限り、精神科医が公にコメントしてはならない」というゴールドウォーター・ルールの理解は、あまりに単純化されており、APAの本来の意図と異なっていると指摘した(2017)。このルールの意図するところは、精神科医の社会的発言の一切を禁じるものではないはずだと。
ルールはこれまで、APA会員による学会への質問とそれへの応答という形を取りながら、何を禁止し何を許容するのかの線引きを書き加えてきた。例えば、「歴史上の人物の精神状態を、記録にもとづいて分析することは非倫理的だろうか?」「保険金の支払いのために、事後的に行った分析を保険会社に提供することは非倫理的だろうか?」といった形で。それが忘却され、あたかも精神科医の発言を一律に禁止するかのように受け止められているのは問題だというのだ。

大統領の分析はそもそも裏付けに乏しい

マーティンジョイは、APAは会員である精神科医に「適切な権限を与えられた場で」「十分な情報にもとづいて行われ」「学術的なスタンダードを満たす限り」においては、直接の診察と本人の同意を経ない場合であっても、一定のコメントを許容していると見る。法医学者が法廷で行う証言、保険会社への情報提供、議会や情報機関での証言など、精神科医が倫理的に行いうる貢献は多岐に及ぶ。他方で、ことにメディアにおける精神科医のコメントは、これらの前提条件を満たさないため、精神医学と分析の対象への信頼を損なう非倫理的なものであるとしている、と考える。
どのような発言が、ゴールドウォーター・ルールによって禁止されるのか。その線引きは必ずしもクリアではない。だからこそゴールドウォーター・ルールは、報道する際の倫理を巡る議論の際にしばしば持ち出される。ジャーナリズムについて教えるメレディス・レヴィンは、今でもルールの機能を重視する一人である。
公衆を教育するのが精神科医の義務だとしても、マスメディアはそのために必要な丁寧な議論の場ではない。多くの報道は、厳しい締め切りなどにより、情報を十分に精査できない。そのため、不正確なパラフレーズや脱文脈化が頻繁化し、精神科医の啓蒙の努力は徒労に終わる。そもそも、限られた情報の中で行われる精神科医のコメントは、せいぜい「弱い仮説」に過ぎない。にもかかわらず、現在のメディア環境では、精神科医が付け加えた慎重な留保などはすっ飛ばし、確たる事実として伝えられてしまう。
テロや無差別銃撃事件のようなマス・バイオレンスの場合を考えてみよう。初期の、つまりは法廷での精査を経ない段階での情報は、いつも混乱している。その中で、記者が断片的な知識を提供した上で、精神科医に意見を求めたとしても、出されるコメントは当然不正確なものになる。
そもそもアメリカでは暴力犯罪のうち精神疾患の者によってなされるものは1割以下とされる。にもかかわらず、事件の衝撃に惑わされて,暴力犯罪と精神疾患に強い関連があるかのようにコメントをするのは問題がある。また、一つの事件の背景には、常に様々な要因がある。仮に実際、ある犯罪が精神疾患の当事者によってなされたとしても、それが「精神疾患が引き起こした犯罪」であるかは別だ。だが、専門家の「分析」は、こうしたバイアスを強化してしまう。
大統領の精神分析にも、問題が多い。そもそも分析対象となる大統領の発言とされるものが、裏付けに乏しいのだ。というのも、例えばトランプの支離滅裂な言動が、ゴーストライターが書いた文章なのか、秘書が公式アカウントから行ったツイートなのか、スピーチライターが書いた原稿なのか、事前に練られて演じられた役割であるのかといった、様々な可能性を排除できていないのである。そして暗に、または公然と、精神的に健康でなければ大統領に不適だというメッセージを伝えているのも問題であるとレヴィンは難じる。実際には、歴史上の卓越した政治家には精神的な問題を抱えていたと目される者も多いというのにもかかわらず、だ。
ゴールドウォーター・ルールをめぐる議論には、様々な立場がある。だが、多くの論客に一貫しているのは、専門家としての責務を果たせるのはいかなる仕方なのかを問うていることだ。また、「精神医学を装った攻撃」には、あくまで厳しい姿勢でいるという点も共通している。
改めて確認すると、ゴールドウォーター・ルールは絶対的な基準であるわけではない。また、APAに属さない人々の振る舞いを制約できるものでもない。しかし重要なのは、自らの専門知をいかに活用すべきか、専門家が信頼に足る存在であるにはどうすればよいのかを、専門家らが真正面から議論をしているという事実である。ルールをめぐる論争そのものが、専門家としての規律的振る舞いをアップデートしようとしているのだ。
そんなアメリカでも、メディア上には問題のあるコメントが溢れている。マスシューティング犯の「犯行動機」のプロファイリングなどの中に、「精神医学を装った攻撃」がしばしば見受けられてしまう。また冒頭で述べたように、トランプ大統領の精神状態の分析をめぐっては、今でも激しい論争が続いている。その論争の一端は、日本でも『ドナルド・トランプの危険な兆候――精神科医たちは敢えて告発する』(バンディー・リー著、村松太郎訳、岩波書店、2018)などの著作物で読むことができる。

ピエール瀧氏の「深層心理」を読み解く?

この論争は対岸の火事だろうか。精神科医であれその他の職であれ、人間の心理についての専門家は、メディアでの無責任な発言に対して慎重であるべきだ。しかし日本に目をやれば、同じような問題が存在していることに気づくだろう。
容疑段階であるにもかかわらず、「犯行動機」をプロファイリングしてみせる心理学者。政敵を批判する際に、病気のメタファーを用いる精神科医。専門知で把握できる範囲を逸脱して、男と女の違いなどをあまりに単純に「説明」してしまう心理学漫画。日本のメディアにも、問題のある発信は溢れている。
さらに一つ、具体例をあげてみよう。
2019年4月5日に放送された日本テレビのワイドショー「ミヤネ屋」では、薬物使用の疑いで逮捕され、その後釈放されたピエール瀧氏――2019年は「ウルトラの瀧」名義で活動――についての特集を放送していた。その際に同番組は、「臨床心理士」のコメントを紹介しながら、わずか2分間の映像を元に、ピエール瀧氏の「深層心理を読み解く」というコーナーを展開した。以下はその詳細である。


「カメラの前に姿をみせたおよそ2分間、瀧被告は何を思っていたのか。そして、その心理状態は。人間の深層心理を読み解くプロ、臨床心理士の矢幡洋氏は、保釈時の瀧被告について......」

矢幡:場面緊張という言葉がありますけれど、特別な場面になると萎縮したり怖がったりしてしまうというようなことがあります。非常によく知られた現象ですけど、よく知られた現象が、このシーンのなかではまったく見られないんですね。

「矢幡氏が指摘する複数の違和感とは――」

矢幡:謝罪の場のはずが、出て来てまずぐるっと見回す。それからお辞儀をしてまた見回したり、喋る前に左右をみたりとか。つまり全然萎縮していない。上半身がフリーに動いている。さらに一瞬手を後ろに組むなどですね、ちょっと謝罪にはあまり似つかわしくない姿勢も。これほど余裕綽々とした人を私は保釈時、Vで見たことがない。もしかしたらこれ拘留されている二十何日間でいろんなシミュレーションを組み立てて、役者としてやっているのかなという印象も受けます。

「また、矢幡氏は、謝罪の言葉にも違和感があるという」

<このたびは、私ピエール瀧の、反社会的な行為により大変多くの皆様の方にご迷惑とご心配をおかけしてしまいました>

矢幡:反社会的というような、報道ニュースで使うような言い方をしていて、まるで自分でやったことについてではなく、何かの事件についてコメントしているような言い方で終わっているところです。自分がやったことなんだというような、そういう生々しい感情がないのかなという気もいたしました。

「そして、この場面も(お辞儀)」

矢幡:約30秒間、ずっと頭を下げて、最後に関係者が促して、やっと頭をあげると。本当に反省の気持ちがそれだけ強かったというよりも、計算が働いたのかなと思います。

無自覚という罪とメディアの責任

テレビでは、ピエール瀧氏のみならず、メンバーである石野卓球氏にすら、謝罪や説明を求めるコメントも溢れていた。そうした論調の中で、このような「専門家」によるコメントは、「無反省」を叩くという空気を強化するものになるだろう。
薬物依存に関する問題においては特に、本人の「反省」を追及するモードが、治療と回復を妨げてしまうという側面がある。それでもあえて、公に専門知の権威を借りて、「無反省」を指弾することの意義はどのようなものなのだろうか。しかも、非常に薄い根拠をもって。
ここに興味深い文章がある。先の「ミヤネ屋」に出演していた矢幡氏が、かつて自身のブログに書いていたものだ。
「社会が心理学用語で事件解説を求めていることは確かなのだ。つまり需要がある。精神医学・心理学用語を使ってもっともらしい作文を1つ作れば、世間はそれで何かが『わかった』ような気がして、安心する。時代は、出来事を何でもかんでも『心理的な出来事』として位置付けることを求めている。コメンテーターの仕事は、社会を『わかったつもり』にさせて、出来事を整理済の棚の中に放り込むことにすぎない。それ以上の意義が無い事はわかっていながら、お金がないので仕事を選ぶことができない。テレビコメントの依頼が来たら、断らない」

これほどあからさまな告白も珍しい。あくまでお金のために、社会とメディアの求めに応じて、「わかったつもり」にさせるための「もっともらしい」コメントを行なっている――。そのことを隠さない点で、矢幡氏はある意味「誠実」なのかもしれない。
では、ここで何が問われてくるのか。最も重要なのは、メディアの役割だろう。
限られた情報の中で、本人の同意なく、精度の低いコメントである可能性をわかっていながら、精神医学や臨床心理学の専門家という権威を用いて、広く社会に発信する報道。それがいかなる正当性を持つものなのか、倫理的に許容されるものなのか。この点について、メディアは説明責任を持つ。
専門家のコメントを「時間や字数の埋め草」として捉えているのであれば、それは改められる必要がある。あまりに見慣れた光景であるために無視されがちだが、それは無益な慣習であるばかりでなく、社会に偏見を広げる有害な行為にすらなるのだから。
そうしたことに自覚的になるためにも、日本でもかような論争は知られるべきだろう。このようなルールを直ちに導入すべきだというわけではない。だが少なくとも、この論争が持つ意義や緊張感は、意識あるメディア関係者には共有されて欲しいと願っている。
引用文献:
・Kroll, J., & Pouncey, C. (2016). The Ethics of APA's Goldwater Rule. The Journal of American Academy of Psychiatry and the Law, 44(2), 226-235. Retrieved from http://jaapl.org/content/44/2/226
・Levine, M. A. (2017). Journalism Ethics and the Goldwater Rule in a "Post-Truth" Media World. The Journal of the American Academy of Psychiatry and the Law, 45(2), 241-248. Retrieved from http://jaapl.org/content/45/2/241
・Martin-Joy, J. (2017). Interpreting the Goldwater Rule. The Journal of the American Academy of Psychiatry and the Law, 45(2), 233-240. Retrieved from http://jaapl.org/content/45/2/233
・Post, J. M. (2002). Ethical Considerations in Psychiatric Profiling of Political Figures. Psychiatric Clinics of North America, 25, 635-646. https://doi.org/10.1016/S0193-953X(02)00011-4
・矢幡洋(2014) 心理コメンテーターのでたらめぶりを告白も含めて切る | 佐世保高1女子殺害の加害者は「女酒鬼薔薇」で詰み. Retrieved April 5, 2019, from http://crime-psychology.hateblo.jp/entry/2014/07/29/心理コメンテーターのでたらめぶりを告白も含

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ふんふん。

イタリアで実際に起きた事件を元に描かれた寓話的世界『幸福なラザロ』

2019年04月18日(木)17時00分
イタリアで実際に起きた事件を元に描かれた寓話的世界『幸福なラザロ』
<イタリアを代表する女性監督アリーチェ・ロルヴァケルの新作は、寓話的世界からイタリアの過去・現在・未来を映し出す>
カンヌ国際映画祭で前作『夏をゆく人々』(14)がグランプリに輝き、イタリアを代表する女性監督になったアリーチェ・ロルヴァケル。同映画祭で脚本賞を受賞した彼女の新作『幸福なラザロ』は、実話が出発点になっている。
その実話とは、イタリアで80年代初頭に小作制度が廃止された後に、領主が農民たちにその事実を知らせず、彼らを隔離して搾取しつづけていた詐欺事件だ。ロルヴァケルは、そんな実話からリアリズムではなく寓話的な世界を切り拓いていく。

"聖なる愚者"ラザロ

物語は前半と後半に大きく分けることができる。前半では、山間部の架空の村で、公爵夫人に騙された農民たちが、外部から隔てられた生活を強いられている。ところが、この公爵夫人に反抗する息子が起こした狂言誘拐をきっかけに、夫人の悪事が露見し、村人たちは初めて外の世界に出て行くことになる。そして後半では、都市を舞台に村人たちのその後の生活が描き出される。
ロルヴァケルは、そんな設定にラザロという謎めいた人物を加えることで、現実をまったく異なる視点からとらえようとする。村人のひとりであるラザロは、"聖なる愚者"と呼ぶべき存在だ。村人たちは彼がお人好しなのをいいことに、仕事を次々に押しつけ、こき使っている。それを遠目に見る伯爵夫人は、自分が村人から搾取し、村人たちもラザロから搾取していると語る。
さらに、ヨハネ福音書のラザロを想起させるようなエピソードも盛り込まれている。前半の物語の終盤で、ラザロは足を滑らせ、崖から谷底に転落してしまう。やがて彼は、獲物を物色する野生の狼の気配で目覚めるが、村は廃墟になっている。そこで、村人を追うように街に出て、再会を果たすが、ラザロだけが昔のままで、村人たちはみな年を取っている。

監督が長い間関心を持ち続けてきた詐欺事件

本作で筆者がまず注目したいのは、その出発点となった実話だ。ロルヴァケルは高校生の頃にこの事件を知り、以来ずっと強い関心を持ちつづけ、リサーチなどもしてきたという。彼女が監督になる以前から持っていた関心は、これまでの作品にも影響を及ぼしている。筆者には、デビュー作の『天空のからだ』(11)と2作目の『夏をゆく人々』と本作を三部作と考えてみると、本作の世界観がより鮮明になるように思える。
『天空のからだ』では、13歳の少女マルタが、姉と母親とともに10年ぶりにスイスから南イタリアのレッジョ・カラブリアに戻ってくるところから始まる。だが、教会の堅信式を控えた少女は、厳格な教義に馴染めず、孤立していく。
『夏をゆく人々』では、トスカーナの辺境に暮らす4人姉妹の長女ジェルソミーナが、養蜂を営む頑固な父親の右腕として働き、独自の教育方針に縛りつけられている。しかし、テレビ番組のクルーが村を訪れ、一家が問題を抱える少年を預かったことから、彼女の心は揺れだし、大胆な行動に出る。
どちらの主人公も教会や家族に囲い込まれ、内部と外部をめぐるドラマを通して、その内面の変化が炙り出されていく。しかし、ロルヴァケルが描いているのは、少女の成長だけではない。背景にも注目する必要がある。
『天空のからだ』の舞台が南イタリアのレッジョ・カラブリアであることには深い意味がある。見逃せないのは、学校をサボったマルタが、なりゆきで山間部の故郷の村に向かう神父に同行するエピソードだ。神父は、信者を増やすために、廃村になった故郷の教会から十字架のキリスト像を持ち帰ろうとする。だが、信仰に情熱を注いでいるわけではない。彼は、自分の立場を利用して選挙運動に深く関わり、出世して荒廃した街を離れたいと思っているからだ。
このエピソードが意味することは、ジャーナリストのジョルジョ・ボッカが書いた『地獄 それでも私はイタリアを愛する』、その冒頭に収められた「日本の読者へ」に目を通すだけでも察することができるだろう。イタリアにはほとんど交流することのなかった二つの歴史があり、その深い溝が封建制度に縛られてきた南部を歪めることになった。その結果として注目したいのが、以下のような記述だ。

「何百万という農民が都市に流入しながら、働くべき産業がないまま、国家の助成金で生きるほかなくなり、公的資金の分配の流れにはまりこみ、国家に雇われたという形を取ったり、マフィア的経済に頼る形になったりする。選挙の票の売買や、票を買ってくれるような候補者に一票を投じる、そんなものを基盤にした政治制度が、せっかく生まれつつあったあの僅かな民主主義まで殺してしまった」
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『地獄 それでも私はイタリアを愛する』ジョルジョ・ボッカ
そんな現実を踏まえれば、ロルヴァケルがなぜ詐欺事件にこだわってきたのかがわかるだろう。本作の後半で、都市に出た村人たちは、ある意味で以前よりも悲惨な生活を送っている。貯蔵タンクを改造した空間に暮らし、人を騙したり、盗んだりして生計をたてるしかないのだ。

場所や時代をあえて曖昧にしている意味

この村人たちの運命は、南部の現実を象徴しているように見えるが、ロルヴァケルはそれを新たな視点からとらえている。興味深いのは、本作では広範囲にわたるエリアで撮影が行われ、場所や時代が曖昧にされていることだ。彼女はその理由を以下のように語っている。

「私たちはしばしばイタリアを北と南に分け、縦軸の対立について話してきました。しかし今となっては北と南はほとんど変らないと感じています。ところが山あいにある内陸部の村と海岸部の街や都市を比べると、その違いは明らかです。歴史上でも、人類は隔離された場所から開けた場所へ移動してきました。その動きはもう縦軸では語り切れなくなり、斜め、ジグザグ、横方向など、あらゆる方向へ人は動くようになり、より複雑な風景を作り出すことになったのです」(プレスより)
そんなロルヴァケルの独自の視点は、前作『夏をゆく人々』にも反映されている。南部が背景ではなく、トスカーナの辺境と都市が対置されているからだ。しかもそこには、本作へと発展する重要な要素が盛り込まれている。
辺境で囲い込まれたジェルソミーナは、都市を象徴する華やかなテレビ番組に魅了されていく。その番組は、地方の伝統を食い物にするまやかしに過ぎない。彼女は、一家が預かった少年マルティンの存在によって目を開かれる。
更生のために預けられるマルティンは、本作のラザロの原型といえる。彼は、口をきかず、触れられることを拒み、命じられた仕事をこなす。ジェルソミーナはそんな謎めいた人物に試され、自己と世界の繋がりを確立することになる。
これに対して、場所や時代が曖昧にされた本作では、マルティンが時間の外に存在するようなラザロになり、歪んだ制度に取り込まれていく人々が試される。ラザロは、彼を取り巻く人々によって、聖人にも、愚者にも、凶悪な危険人物にもなる。ロルヴァケルは、そんなラザロという鏡にイタリアの過去・現在・未来を映し出しているのかもしれない。
《参照/引用文献》
『地獄 それでも私はイタリアを愛する』ジョルジョ・ボッカ 千種堅訳(三田出版会、1993年)
『イタリア南部・傷ついた風土』クラウディオ・ファーヴァ 中村浩子訳(現代書館、1997年)

映画『幸福なラザロ』
4/19(金)よりBunkamuraル・シネマほか全国順次公開
(c)2018 tempesta srl ・ Amka Films Productions・ Ad Vitam Production ・ KNM ・ Pola Pandora RSI ・ Radiotelevisione svizzera・ Arte France Cinema ・ ZDF/ARTE

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ふんふん!

石野卓球「もう事務所は辞める。瀧もいないし」

[2019年4月18日10時18分]
テクノユニット「電気グルーヴ」の石野卓球(51)が18日午前、ツイッターを更新し「もう事務所は辞める」と、所属事務所ソニー・ミュージックアーティスツ(SMA)を退社する意向を示唆した。
石野はツイッターで、5年前の電気グルーヴ25周年”塗糞祭”で販売した「ゆるしてニャン」と書かれたTシャツの写真をアップした。それに対して「再販して下さい」とツイッターのユーザーからリクエストされると「Tシャツも売っちゃいけないんだってさ。SONY系列のSMAだから。レコード会社はバックタイトルいじれなくなるからやめないけど。もう事務所は辞める」とツイート。相方のピエール瀧被告(52)がコカインを使用したとして逮捕、起訴されたことを受け、SMAは4月2日付でマネジメント契約の解除を発表しており、石野は「瀧もいないし」ともツイートした。
一方で「レコード会社はバックタイトルいじれなくなるからやめないけど」ともツイートした。石野は所属レコード会社のソニー・ミュージックレーベルズが、電気グルーヴの音源・映像の出荷停止、在庫回収、配信停止を行ったことについて、15日にツイッターで「市場に電気グルーヴの音源を再びリリースするには裁判の結果を待ってレーベルの親会社の判断を待つしか無いのが正直な現状です」と説明。「ただSONY(レーベルの親会社)との兼ね合いでどうしようもないようです」と今後の見通しを説明した。
その上で「ただ原盤権はSONYにあるため僕がレーベルを離れると今後電気グルーヴの音源を再リリースする場合に僕は一切タッチ出来なくなってしまいます」ともツイートした。ツイッターのユーザーから「原盤権があるからソニーに残らざるを得ない」と指摘されると、石野は「そう。出ないと再びリリースする時に俺が手出し口出し出来なくなっちゃうからね」と回答し、原盤権を持つソニー・ミュージックレーベルズには残る意向を示していた。
一方で「あと言っておきたいのはSONY MUSICにはみなさん同様に電気グルーヴの音楽の味方になってくれているスタッフはたくさんいる事は分かって下さい」と、ソニー・ミュージックレーベルズ内にも少なからず理解者はいることも強調している。

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こういう人、いい!

石野卓球 電気グルーヴ解散質問に「するかよバーカ!」報道陣に否定…周囲騒然

4/17(水) 22:06配信  
デイリースポーツ


石野卓球 電気グルーヴ解散質問に「するかよバーカ!」報道陣に否定…周囲騒然
ライブを終え引き揚げる石野卓球(左から2人目)。やじ馬も殺到した=東京・新宿(撮影・開出牧)
 「電気グルーヴ」の石野卓球(51)が17日、新宿LOFTでDJとしてライブに出演した。相方のピエール瀧被告(52)がコカインを摂取したとして、麻薬取締法違反の罪で3月12日に逮捕され、今月4日に保釈されたばかり。報道陣から解散について質問が飛ぶと、「するかよ、バーカ!」と言い残して迎えの車に乗り込んだ。

【写真】会場入りの際には謝罪?ポーズ「許してニャン」

 午後10時前、正面入り口から姿を見せた卓球。報道陣を取り囲むようにやじ馬ら約200人が集まり、歌舞伎町は騒然。もみくちゃになりながら関係者にガードされ、車に乗り込み、そのままドアを閉めようとしたが、「(電気グルーヴは)解散はしないですね」の問いかけに反応。「するかよ、バーカ!」と半笑いで毒づいてみせた。

 集まった人たちからは「卓球!」「がんばれ」「ありがとう」などのかけ声が飛んでいた。

 この日は午後5時半ごろに会場入り。集まった報道陣から「ピエールさんと何か話をしたんですか?」と質問されると、「エロい話」とニヤリ。報道陣に向かって白い歯を見せ、右の拳をあげてみせた。

 卓球のツイッターによると、「ガッツポーズじゃないよ!許してニャン!」と説明。謝罪?ポーズであるとしている。








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ふんふん!

【動画】『グッド・ドクター2 名医の条件』インタビュー《1》フレディ・ハイモア「チャンスをもらえてラッキーだったね」

news
いよいよ4月18日(木)よりWOWOWプライムにて放送がスタートする『グッド・ドクター2 名医の条件』。主人公ショーンを演じるフレディ・ハイモアのインタビュー映像を、当サイト独占でご紹介。
本作は、『Dr.HOUSE ―ドクター・ハウス―』のデイヴィッド・ショアが製作総指揮を務め、サヴァン症候群を抱えながらも、天才的記憶力と空間認識能力をもつ若手外科医ショーン・マーフィーが、仲間とともにドクターとして成長していく全米で大ヒットのヒューマンメディカルドラマ。
映画『チャーリーとチョコレート工場』や『ネバーランド』などで名子役として活躍し、サスペンスドラマ『ベイツ・モーテル』で殺人鬼に変貌していく青年の怪演が高く評価されたフレディ。本作でも好演し、ゴールデン・グローブ賞にノミネートされている。
そんな彼が、今シーズン第1話「別れと再会」で脚本を、第15話「Risk and Reward(原題)」では監督を務めることになったきっかけなど、シーズン2の見どころを語った。

■フレディ・ハイモアのインタビュー映像《1》

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周囲から医師としての能力を疑われるも、類いまれなる才能を発揮し徐々に信頼を得ていくショーンの物語であると語るフレディ。すでにシーズン3の製作も決まっており、膨大な医学の知識を駆使して大病院に新風を吹き込む今後の彼の成長が見逃せない『グッド・ドクター 名医の条件』新シーズン。『グッド・ドクター 名医の条件』の視聴記録やレビューは、海外ドラマNAVI作品データベースをチェック!

■『グッド・ドクター2 名医の条件』放送情報

WOWOWプライムにて
4月18日(木)スタート(全18話)[第1話無料放送]
 毎週木曜 夜11:00 [二][字]
 毎週金曜 夜10:00 [字]
公式サイトはこちら
20190415-00000007-dramanavi-1-00-view.jpg
フレディ・ハイモアのインタビュー《Part2》もお楽しみに!(海外ドラマNAVI)

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