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「j. 方言や訛りを多く含んでいる。」は、前記のとおり、東歌が東国の農民の歌であることを考えれば、これは、むしろ当然なことであると思われるので省略する。

東歌は、筑波山の歌垣の場で披露されたものであるが、これらの中の大半の歌は元々はそれぞれの国の歌垣で歌われていた歌であったと考えられる。

再三繰り返してきたように、歌垣は土地や山の神に対して、その土地の人々が豊作や豊漁の願い祈念すものであったので、土地や山の名前から歌い始めることが自然な形であると思われる。

ところが、238首の内の143首は国名が分からない。
そればかりか、明らかに都人の作と思われるものや防人の歌、あるいは著名な古歌集からの引用や改作と思われるものまで含まれている。

これは、信仰心の希薄化によって祭が儀式化されたことから、本来は自国で歌っていた歌を筑波山に持ち寄って披露し合った為であると考えられる。

つまり、筑波山の歌垣は、東国各地の人たちが歌を披露し合う場であったのだ。
その為、この祭りの場では、上記のような信仰とは関わりのない歌が混在することになったものと思われる。

盆踊りは、インドの祖先の霊を慰めるためのピンダの祭に、念仏踊りなどが融合してできたものだと言われている。

この踊りは、今日では夏の風物詩とされ各地で行われているが、祖霊慰撫のためのものだと知る人は少なく、夏休みに帰京した人たちや男女の交流の場なっている。

これは、歌詞も旋律も男女の情交に似つかわしいものになっていることが多いためと思われる。

昨今では、全国から膨大な数の観光客を集めている「おわら風の盆」の歌詞も旋律も同様である。

東歌は、大伴家持によって編纂されたとされている。

彼は、土地や山などの名前を手掛りに、国名の明らかなものとそれ以外のものとに分け、それらを更に、当時一般的に行われていたと思われる、雑歌、相聞、防人歌、比喩歌、挽歌に分類した。

とは言え、238首中196首は相聞であり、雑歌は22首、比喩歌は14首、防人歌は5首しかなく、挽歌に至ってはたった1首しかない。

その上、雑歌、比喩歌に部立てされているものも、そのほとんどの内容は相聞であるので、東歌の大半は相聞歌であるということができる。

こう見てくると、家持がなぜ部立てに拘ってこうした不自然な編纂をしたのか、その理由を知りたくなるが、今となっては知る術がない。

東歌の大半が相聞であることは、再三繰り返してきたように、これらの歌が筑波山の歌垣の場で採録されたことを思えば、むしろ当然なことである。

歌垣は、感染呪術の方法で山や土地の神に実りを祈念する祭であったが、これは、祭の中心に性が持ち出されていたことが、この祭が長い間保持された理由の一つとなっているようにも思われる。

あからさまに言っしまえば、性は万人の関心事であり、欠くべからざるものであったからである。

東歌の中の防人や都人の作と思われる歌は、祭りの場の雰囲気に乗じて披露された異物であろうと私は考えている。

文字も無かった時代の歌の発生や伝承を、今日的な見方で捉えるべきではない。

たとえ無名の個人が優れた歌を作ったとしても、それが何年人々の記憶に残リ得たであろうか。

歌が忘れられずに伝えられるためには、歌う必要性と繰り返し歌い続けられる場が必要な筈である。

それが春・秋に共同体ごとに行われた祭の場、すなわち歌垣の場であったのだ。

歌は文芸の意識によって歌い始められたものではなく、土地や山の神への祈念の方法の一つだったのだ。

この祭りの支え手は、都から遣わされた役人でも豪族でもなく、その土地の農民達だったことを考えれば、東歌の歌風が庶民的で農民的なものであるのは、むしろ当然の結果であると言うべきである。

「f. 山や地名が多く詠み込まれている。」及び 「g. 類歌が多い。」については、前項で説明したので省略する。

東歌の素材は、いずれも生活の場や身の回りに実在するものが多い。

たとえば山や川の様子にしても植物の類いにしても、そこに暮らす者が常日頃身近に接することによって、初めて認識できる属性が歌われている場合が多い。

とおり一遍の観念的な事象ではなく、具体的な嘱目を歌っているので説得力がある。

また、しばしば通い婚の不遇を嘆くものに出会うので、庶民的、農民的という印象を受ける。

そして、かなり頻繁に懸詞を交えて歌われているので切迫感が薄らぎ、おおらかな心象を受ける。これも庶民や農民の雰囲気を感じさせる要因の一つになっているように思われる。

こうした歌風から、東歌の中心的な作者層は庶民層や農民であろうと考えられているが、加藤静雄さんは、「東歌の作者層についての一考察ー東歌序論」(上代文学22号)の中で、疑問を呈しておられる。

それは、東歌に詠み込まれている馬について、「馬」と表記されているのは4例であるのに対して15例が「駒」と表記されていることから、東歌の作者層は、一部豪族や富裕階級ではなかったかとするものである。

そして、駒という表現と共に、馬は高価であったと思われるので、庶民には馴染みが薄いものだったのではなかろうかされている。

この意見については、どの農家でも馬によって農耕や運搬が行われていた山村に育った私は、次のように考えている。

馬は農民にとっては欠くことのできない家畜であったので、当時もどの集落でも当たり前のように飼われていたものと思われる。

したがって、それがたとえ高価であったとしても、飼っていた農民にとっては、漁師が一般には高価とされる鮑や鮪を食べるように、た易いものだったと思っている。

「馬」ではなく「駒」という表現を用いているのは、短歌形式を採り入れている心理と同様に、都に対する憧れの気持によるものだったのではなかろうか。

6世紀の榛名山の噴火によって埋没した「黒井峰遺跡」からは、牧場の跡が発掘されているが、馬は上野国に限らずどの国でも頻繁に飼われたいとものと思われる。

ちなみに、明治政府が開設した「新冠牧場」には、2,200頭の野生馬を捕獲して収容したと記録されている。

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