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			<title>虹のはなし</title>
			<description>虹は、万葉集の東歌の中に１度だけ登場しますが､不思議なことに、それ以来「古今集」にも「新古今集」にも姿を現わすことはありません。この不思議な現象について､皆さんと一緒に考えてみたいと思います。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/akagisanroku</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>虹のはなし</title>
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			<description>虹は、万葉集の東歌の中に１度だけ登場しますが､不思議なことに、それ以来「古今集」にも「新古今集」にも姿を現わすことはありません。この不思議な現象について､皆さんと一緒に考えてみたいと思います。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/akagisanroku</link>
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		<item>
			<title>37. k. 半数以上の歌の国名が不明である。</title>
			<description>「j. 方言や訛りを多く含んでいる。」は、前記のとおり、東歌が東国の農民の歌であることを考えれば、これは、むしろ当然なことであると思われるので省略する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東歌は、筑波山の歌垣の場で披露されたものであるが、これらの中の大半の歌は元々はそれぞれの国の歌垣で歌われていた歌であったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
再三繰り返してきたように、歌垣は土地や山の神に対して、その土地の人々が豊作や豊漁の願い祈念すものであったので、土地や山の名前から歌い始めることが自然な形であると思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、238首の内の143首は国名が分からない。&lt;br /&gt;
そればかりか、明らかに都人の作と思われるものや防人の歌、あるいは著名な古歌集からの引用や改作と思われるものまで含まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは、信仰心の希薄化によって祭が儀式化されたことから、本来は自国で歌っていた歌を筑波山に持ち寄って披露し合った為であると考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、筑波山の歌垣は、東国各地の人たちが歌を披露し合う場であったのだ。&lt;br /&gt;
その為、この祭りの場では、上記のような信仰とは関わりのない歌が混在することになったものと思われる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/akagisanroku/48078487.html</link>
			<pubDate>Thu, 28 May 2009 17:51:44 +0900</pubDate>
			<category>ノンフィクション、エッセイ</category>
		</item>
		<item>
			<title>36. i. 大半が相聞歌である。-2</title>
			<description>盆踊りは、インドの祖先の霊を慰めるためのピンダの祭に、念仏踊りなどが融合してできたものだと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この踊りは、今日では夏の風物詩とされ各地で行われているが、祖霊慰撫のためのものだと知る人は少なく、夏休みに帰京した人たちや男女の交流の場なっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは、歌詞も旋律も男女の情交に似つかわしいものになっていることが多いためと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昨今では、全国から膨大な数の観光客を集めている「おわら風の盆」の歌詞も旋律も同様である。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/akagisanroku/48078472.html</link>
			<pubDate>Thu, 28 May 2009 17:50:00 +0900</pubDate>
			<category>ノンフィクション、エッセイ</category>
		</item>
		<item>
			<title>35. i. 大半が相聞歌である。</title>
			<description>東歌は、大伴家持によって編纂されたとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は、土地や山などの名前を手掛りに、国名の明らかなものとそれ以外のものとに分け、それらを更に、当時一般的に行われていたと思われる、雑歌、相聞、防人歌、比喩歌、挽歌に分類した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とは言え、238首中196首は相聞であり、雑歌は22首、比喩歌は14首、防人歌は5首しかなく、挽歌に至ってはたった1首しかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その上、雑歌、比喩歌に部立てされているものも、そのほとんどの内容は相聞であるので、東歌の大半は相聞歌であるということができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こう見てくると、家持がなぜ部立てに拘ってこうした不自然な編纂をしたのか、その理由を知りたくなるが、今となっては知る術がない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東歌の大半が相聞であることは、再三繰り返してきたように、これらの歌が筑波山の歌垣の場で採録されたことを思えば、むしろ当然なことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歌垣は、感染呪術の方法で山や土地の神に実りを祈念する祭であったが、これは、祭の中心に性が持ち出されていたことが、この祭が長い間保持された理由の一つとなっているようにも思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あからさまに言っしまえば、性は万人の関心事であり、欠くべからざるものであったからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東歌の中の防人や都人の作と思われる歌は、祭りの場の雰囲気に乗じて披露された異物であろうと私は考えている。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/akagisanroku/48078449.html</link>
			<pubDate>Thu, 28 May 2009 17:48:30 +0900</pubDate>
			<category>ノンフィクション、エッセイ</category>
		</item>
		<item>
			<title>34. h. 唄われている素材や生活感情が、庶民的、農民的である。-2</title>
			<description>文字も無かった時代の歌の発生や伝承を、今日的な見方で捉えるべきではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえ無名の個人が優れた歌を作ったとしても、それが何年人々の記憶に残リ得たであろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歌が忘れられずに伝えられるためには、歌う必要性と繰り返し歌い続けられる場が必要な筈である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが春・秋に共同体ごとに行われた祭の場、すなわち歌垣の場であったのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歌は文芸の意識によって歌い始められたものではなく、土地や山の神への祈念の方法の一つだったのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この祭りの支え手は、都から遣わされた役人でも豪族でもなく、その土地の農民達だったことを考えれば、東歌の歌風が庶民的で農民的なものであるのは、むしろ当然の結果であると言うべきである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/akagisanroku/48078432.html</link>
			<pubDate>Thu, 28 May 2009 17:46:47 +0900</pubDate>
			<category>ノンフィクション、エッセイ</category>
		</item>
		<item>
			<title>33. h. 唄われている素材や生活感情が、庶民的、農民的である。</title>
			<description>「f.　山や地名が多く詠み込まれている。」及び　「g. 類歌が多い。」については、前項で説明したので省略する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東歌の素材は、いずれも生活の場や身の回りに実在するものが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえば山や川の様子にしても植物の類いにしても、そこに暮らす者が常日頃身近に接することによって、初めて認識できる属性が歌われている場合が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とおり一遍の観念的な事象ではなく、具体的な嘱目を歌っているので説得力がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、しばしば通い婚の不遇を嘆くものに出会うので、庶民的、農民的という印象を受ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、かなり頻繁に懸詞を交えて歌われているので切迫感が薄らぎ、おおらかな心象を受ける。これも庶民や農民の雰囲気を感じさせる要因の一つになっているように思われる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした歌風から、東歌の中心的な作者層は庶民層や農民であろうと考えられているが、加藤静雄さんは、「東歌の作者層についての一考察ー東歌序論」(上代文学22号)の中で、疑問を呈しておられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、東歌に詠み込まれている馬について、「馬」と表記されているのは４例であるのに対して１５例が「駒」と表記されていることから、東歌の作者層は、一部豪族や富裕階級ではなかったかとするものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、駒という表現と共に、馬は高価であったと思われるので、庶民には馴染みが薄いものだったのではなかろうかされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この意見については、どの農家でも馬によって農耕や運搬が行われていた山村に育った私は、次のように考えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬は農民にとっては欠くことのできない家畜であったので、当時もどの集落でも当たり前のように飼われていたものと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
したがって、それがたとえ高価であったとしても、飼っていた農民にとっては、漁師が一般には高価とされる鮑や鮪を食べるように、た易いものだったと思っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「馬」ではなく「駒」という表現を用いているのは、短歌形式を採り入れている心理と同様に、都に対する憧れの気持によるものだったのではなかろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
６世紀の榛名山の噴火によって埋没した「黒井峰遺跡」からは、牧場の跡が発掘されているが、馬は上野国に限らずどの国でも頻繁に飼われたいとものと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに、明治政府が開設した「新冠牧場」には、2,200頭の野生馬を捕獲して収容したと記録されている。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/akagisanroku/48078418.html</link>
			<pubDate>Thu, 28 May 2009 17:45:30 +0900</pubDate>
			<category>ノンフィクション、エッセイ</category>
		</item>
		<item>
			<title>32. e. すべてが作者不明である。-2</title>
			<description>先述したとおり、東歌は筑波山の歌垣で披露されたものを、高橋虫麻呂が採録したのだと私は考えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの歌は、その大半がそれぞれの国の歌垣の際に歌われていたと考えることができるので、土地や山の名前が詠み込まれている歌が、本来の歌垣の歌であったと考えることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東歌には、明らかに都人の作と思われるものや防人の歌なども含まれているが、これらの歌は、祭の参加者がその場で披露したものであろうと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人麻呂歌集をはじめとする古歌集などと似通った歌が散見されるのは、歌い手が曖昧な記憶を頼りに引用したためではなかろうかと私は考えいる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/akagisanroku/48078386.html</link>
			<pubDate>Thu, 28 May 2009 17:43:07 +0900</pubDate>
			<category>ノンフィクション、エッセイ</category>
		</item>
		<item>
			<title>31. e. すべてが作者不明である。</title>
			<description>東歌は、238首全ての作者が不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巻14以外で全巻の作者が無い巻は、先に挙げた巻10～13の他に巻7がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巻10～13の歌の大半が天平期頃のものであろうとされているのに対して、巻7は、白鳳期か平城期のものであろうと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この巻の歌が、柿本人麻呂歌集や古集・古歌集などから採られている点は、巻10、11と共通している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巻14は、作者不明ながら前半は国別に分けられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは、大伴家持によって地名や山の名前を頼りに分類されたものであろうと言われているが、この巻の作者不明の事情は、他の巻とは違う部分があるような気がする。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大伴家持がこの巻の歌を国別に分類したのは、原東歌とも言うべき資料の中に、地名や山の名前が頻繁に詠み込まれていた為であると思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、国別に分類されている歌の数は、238首中95首である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地名や山の名前が詠み込まれているのは、先述したとおり、その土地の神に豊作祈願や感謝の思いを伝える為のものであったと私は考えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この思いは、その地域の共同体のものであったので、たとえ個人の作品であったとしても名前は忘れられてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そもそもが、こうした歌は文芸や創作といった意識で作られたものではなかったからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに、「おわら風の盆」の歌詞も毎年新作が募集されるが、祭りの場で披露される時には作者名が公表されることはない。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/akagisanroku/48078363.html</link>
			<pubDate>Thu, 28 May 2009 17:41:27 +0900</pubDate>
			<category>ノンフィクション、エッセイ</category>
		</item>
		<item>
			<title>30. d. 懸詞を含む序詞が多く含まれている。－2</title>
			<description>序詞と共に懸詞が多いことも東歌の特徴である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
室伏秀平さんはその著書「万葉東歌」の中で、懸詞式の序詞の数を百首内外とされ、単独に用いられているものを含めると百数十例の多きに達すると書いておられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
懸詞とは、一語をもって二語を兼用するものであり、今日的な言い方をすれば駄洒落れの一種である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
短歌の技巧としては初歩的なものであるが、それだけに大衆受けするように思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全体の半数近い歌が、懸詞を含む序詞で歌い始められていることは、東歌の作者層や支持者が農民などの庶民であったことを物語っているように思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
序詞で思い浮かぶのは、百人一首の中の柿本人麻呂の次の歌である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足引きの山鳥の尾のしだり尾の　長々し夜をひとりかも寝む&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この歌は、ひとり寝の所在なさを詠んだものだが、全体の半分以上が序詞で費やされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
畳み込むようなリズム感によって「長々し」に導かれるが、読み返してみると夜の長さは人によって異なるので、もっと客観的に説明してもらいたいと思う人もあるような気がする。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/akagisanroku/48078323.html</link>
			<pubDate>Thu, 28 May 2009 17:38:40 +0900</pubDate>
			<category>ノンフィクション、エッセイ</category>
		</item>
		<item>
			<title>29. d. 懸詞を含む序詞が多く含まれている。</title>
			<description>「c. 大半が１字１音で表記されている。」については、すでに説明したので、ここで改めて補足する事項はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
序詞はその捉え方が人によって異なることから、東歌の中の序詞の数も、88首から102首と見解が分かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
仮に境田四郎さんの102首説に従って、同じく境田さんが調査した万葉集全体の序詞の比率と比較してみると、万葉集全体の平均値が17.5%であるのに対して東歌の序詞は42.9%であり、倍以上の比率を示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに、先述の「古今相聞往来歌」と目録に記載されている巻11は33.6%、巻１２は30.5%、宮廷に伝えられた詞章を集めたものかと言われている巻13は21.3%となっているが、他の巻には20%を越えているものはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この３巻は、序詞が多いことと共に、いずれも作者不明であるとことから、東歌と類似している点が多い。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/akagisanroku/48078305.html</link>
			<pubDate>Thu, 28 May 2009 17:36:39 +0900</pubDate>
			<category>ノンフィクション、エッセイ</category>
		</item>
		<item>
			<title>28. b. 238首全てが短歌形式で統一されている。-2</title>
			<description>東歌が全て短歌形式で統一されているのは、当時の都では短歌形式が最も代表的な形式であったことから、これに倣ったことが考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各国々は、それまで伝えられていた様々な形式の歌を、都風の短歌形式に改めて発表したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは、後述するとおり、他の巻に比べて東歌には序詞が異常に多いことから想像されることである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
序詞は、意図する言葉を強調する役目と共にリズムを発生させる働きがあるが、東歌の序詞は、歌の長さを調節するために使われているものが多いように思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東歌を東国の民謡であろうとする説がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
作者や歌い手が庶民や農民であったと思われることから、民謡の定義に当てはまるが、私は、いわゆる民謡とは別のものであろうと考えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
短歌形式は歌いにくい形式であるとは、しばしば指摘されているが、東国の民謡が全て短歌形式であったとはどう考えても考えられないことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東国の国々では、今日の日本民謡のように、様々な形ちの様々な内容の歌が歌われていた筈である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
にもかかわらず東歌が短歌形式で統一されているのは、筑波山の歌垣の場が短歌形式で発表する場であったのではないかと私は考えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、万葉集には里謡の類は無いことを考えると、この短歌形式が家持によって万葉集の中に編入されるための不可欠の形式であったようにも思われる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/akagisanroku/48078277.html</link>
			<pubDate>Thu, 28 May 2009 17:34:25 +0900</pubDate>
			<category>ノンフィクション、エッセイ</category>
		</item>
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