九州博多湾志賀島・ついに来ました憧れの金印と安曇族の拠点。
玄界灘の海岸から150メートル・裏は猪がすむ山という立地に住む友人と、今度博多に来たら「志賀島」に連れて行けとねだっていたことが、今回叶うことになった。その友人に「志賀島の安曇族」について話した。信じるかなと彼の顔を見ると、「ウン・俺の親戚が志賀島神社の宮司をしている・名前は安曇だ!」と言われ、こちらが「んーッ・本当?」
昔・昔の話です。
中国で「呉の国」と「越の国」が争い、越が勝利し、呉は負け全滅を避けるために呉の水軍の船で大陸か
ら福岡の志賀島に逃げのびたのです。呉は交易などしながら県土従来何時の日か大陸に攻め上ろうとしていました・
だが、大陸では「越」の国は「楚」の国に破れ、全滅寸前にまで追い詰められました。志賀島の呉の人たちは之を聞き、「越」に助け舟を出します。之を「呉越同舟」といいます。
この呉の人間が「安曇族=呉」なのです。越は呉の手引きで暮らし安く稲作に向く北陸へと居を広げます
越の人々が暮らす「越後」「越中」などがそうでしょう。
安曇族は現在の長野方面にまで稲作開墾し「安曇野」などに定着します。
「文永の役(1274年)、弘安の役〔1281年)の「元冠」があり、弘安の役の折、蒙古軍が
博多湾に上陸を試みるが日本軍は20kにも及ぶ防塁を築き之を迎え撃った・いち早く到着した東路軍は
防塁の無い「志賀島」に弘安4年6月6日上陸したが日本軍の切り込みを受けた・博多の北部に東西10キロにも及ぶ細長く伸びた半島で通常「海の中道」とよばれ、志賀島に上陸して内陸に攻め込もうとしても難攻攻守の地であり、地形を知らない元軍は日本軍の餌食となった。志賀島は弘安の役の主戦場・6月13日元軍は江南軍と合流すべく伊万里湾に引き上げたが、ここで台風に会い全滅した。
元軍を壊滅させた後、日本軍は高麗人とモンゴル人、及び漢人は捕虜とせず殺害、かってより交易のあった「南宋人」は捕虜として助命、それ以降、博多の唐人町は南宋人の町であるとも言われている。」
南宋とは現在の上海周辺のこと。
志賀島の樹木の植生を知るために神社の裏山に入り込みました、植林の後などなく薬木のウラジロガシの木の大木が繁ります・興奮してドンドン深い山に分け入ります。だが、あちらこちらで「ドン」「バン」と音がします・近くにあった看板を見て驚きました。猪捕獲のため立ち入り禁止地区で鉄砲の音だったのです。あわてて山を走って降りました。
あしたに続く
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