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このあたりは完全に、よく西洋絵画の題材となる聖書物語と合致する部分です。 まず一枚目はチグルスユーフラテス川沿いに発達したメソポタミアの代表的な古代都市のひとつ、ウルから出土した黄金の頭飾りです。 このウルの町は今から約3900年前にアブラハムが住んでいた都市です。 彼は神の命によりこの快適な先進都市を後にして、パレスチナの荒野で遊牧民となります。 彼の正妻サラには子供がいませんでしたが、高齢で息子イサクを授かり、同じく神の命でその息子を犠牲に捧げようとして信仰が試された逸話は有名です。 このイサクからヤコブ(イスラエル)が生まれ、イスラエル人が誕生しました。そして当然イエス・キリストの先祖となりました。 ですからアブラハムはキリスト教でも、イスラム教でも、ユダヤ教でも、聖人として敬われています。 そのウルの町は10階建てのビルが建ち並び、道はアスファルト舗装、下水道が完備されたとても裕福で進んだ町だったわけですが(3900年前の話だよ)、その栄華はこの頭飾りからもうかがえます。 当時はまだ銀が主流で、コインもなく物々交換が基本の時代です。 2,3枚目はそのアブラハムが天幕生活を送った、そして孫のヤコブの時代に飢饉でエジプトに移り住んで、モーセの時代に帰ってきたイスラエル人が攻め滅ぼしたパレスチナの原住民カナン人の発掘品です。 このカナン人は性崇拝と人身供犠の習慣があり、特に生後間もない赤子から6歳ぐらいまでの子供たちが生きたまま燃える炉に放り込まれ、豊作をバアル神に願ったようで、現地ではおびただしい数の子供の骨壷が発掘されています。 発掘品のあまりのひどさに、ある考古学者は「なぜ神はもっと早くにイスラエル人を遣わして、カナン人を滅ぼさなかったのか!」と嘆いたそうです。 その影響は強大で、生き残ったカナン人たちはそこに定住したイスラエル人を何度も背教させて、背教したイスラエル人は子供を捧げる儀式を行って神の怒りを買い、再三の(約900年)神の預言者たちからの警告を受けたにもかかわらず悔い改めず、北のイスラエル王国はアッシリア人に滅ぼされ、南のユダ王国はバビロン捕囚にあってしまいます。 旧約聖書のほとんどを占めるイスラエル王国の歴史のくだりは、このカナン人のバアル崇拝とアブラハムとイスラエル人の神エホバ(ヤハ、ヤハウェ)崇拝の闘いの記録です。 この辺りの預言者サムソン、サムエル、ダビデ、ソロモン、イザヤ、エレミヤ、エリヤ、エリシャ等などの活躍の場面も西洋絵画、彫刻の題材になってますので、ルーブルやナショナルギャラリーなどでたくさん見ることができます。 |
ロンドン・ソーホー
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コメント(11)
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イギリス人の大好物、ギリシャコレクションに進みます。 ここで大々的に展示されているのはギリシャはアテネの有名なパルテノン神殿のレリーフ群です。 大英帝国時代に権力に物を言わせてひっぺがしてきたようです。 今や立派な独立国家にして、観光で生きてるギリシャ政府は、再三にわたってこれらを返還してくれるようにイギリス政府に要請しているようですが、イギリスにとってもこれはお宝。適当にはぐらかしているようです。 この大英博物館にあるコレクションの多くはこんな感じですから、『強盗博物館』と陰口たたかれても仕方ありません。 まあ、ここにあったおかげでイランやイラクに代表される紛争に巻き込まれず、綺麗に保存されているコレクションも多いのも事実ですが。 イギリス人にとってバルカン半島の先端にあるギリシャは心の故郷であると同時に、通商貿易上非常に重要な国です。 イギリス人は紅茶がないと生きていけませんから、地中海−スエズ運河−紅海−中東海域−インド・中国の船のルートは何としてでも死守しなければ大変なことになってしまいます。 第二次世界大戦のヤルタ会談でも、ソ連のスターリンとの密約で、ポーランドと東欧との引き換えにギリシャだけは西側ということで交渉したぐらいですから。 話がそれましたが、さすが素晴らしいレリーフ群、そして彫刻群でした。 |
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大英博物館に入って、アッシリア、エジプトと見てきましたが、はて、なにか重要なものを忘れている気がする。 なんだったっけ、とギリシャコーナーに進もうと思ったら、あるガラス張りの展示の周りにすごい人だかりが。 覗いてみると、ああ、忘れてました!ロゼッタストーンです!! 歴史に興味がない方でも学校で一度は聞いたことあるでしょう。 ナポレオン軍がエジプト遠征の折、エジプトのロゼッタという港町で見つけた石碑です。 なのでてっきり、この石はパリのルーブルにあると思っていたんですが、大英博物館にあったんですね。 なぜこの石碑が有名なのかというと、この石には三つの異なった言語で当時の宗教会議の布告が刻まれているのですが、その言語とはコイネー・ギリシャ語、エジプト古来の象形文字である神聖文字、そして当時のエジプト人の大衆文字なんですが、この3つを比較することにより、発見された18世紀当時にまだ解読されていなかったエジプト神聖文字を解読することが出来たのです。 コイネーギリシャ語は新約聖書が書かれた言語ですから、当然学者なら読むことが出来ました。 それで、この象形文字が読めるようになったおかげで、他のエジプトの遺跡やパピルス文書に刻まれている文章が解読されたのです。 エジプトになぜギリシャ文字が? アレキサンダー大王が電光石火の早業で、ギリシャからオリエントを平定した後、彼は病に倒れ死んでしまいます。 この広大なヘレニズム帝国は、彼の4人の将軍によって分割統治されます。 そのうちのひとり、プトレマイオスはエジプトの王となり、プトレマイオス朝を開きます。 彼らはエジプト人に受け入れられるため、ファラオ時代の王宮文化をそのまま踏襲しました。 ですから、この時代からクレオパトラがローマ帝国のシーザーとアントニアオと情事を重ねた時代までは、エジプトはエジプトの風俗に身を包んだギリシャ人が支配者階級となりました。 ですからクレオパトラはギリシャ人であり、プライベートはギリシャ風の生活をしていたようです。 で、ロゼッタストーンですが、実際この目で見られて興奮しました。 あやうく見逃して、大後悔するところでした。 すごい人だかりは実は日本人のおじいちゃんおばあちゃんの団体さんで、代わる代わる写真を撮りまくって嵐のように去っていきました。 他の国の団体さんもいたけど、やっぱり日本人の団体さんがインパクト最強ですね、どこで出会ってもw。 |
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古代エジプトといえば、ピラミッドと共にミイラが有名ですが、大英博物館にもたくさんありました。 古代エジプト人は、人間はカァと呼ばれる生霊が体に入って生きているとみなして、体が死んでもカァは不滅で死ぬことはなく体から離れ、将来体が再生されるならカァが戻り生き返ることが出来ると信じていました。 ですから、屍を腐らせることなく保存することが重要だったわけです。 ミイラのつくり方は、最も腐りやすい内臓の摘出から始まります。 まず、鼻の穴から金具で脳を掻き出します。 エジプト人は、脳を単なる鼻水を作る器官と考えていたので、どうでも良かったわけです。 思考は心臓がつかさどっていると信じていたので、心臓は最も重要な器官なので取り出さずに残されました。 取り出された内臓は四つの壷に分けて保管されました。 写真でも壷はだいたい4つセットになってますよね。 そして本体を薬品に数日漬け込み、洗って薬草などと共に包帯で巻いて、人型の棺に納められ、さらに石棺に入れられたようです。 最初はファラオにしか許されなかったミイラも、後には貴族や、猫など神の化身と考えられていた動物もミイラにされるようになりました。 ネコのミイラはパリのルーブルで見ることが出来ます。 |
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大英博物館の目玉の一つ、アッシリアのレリーフ群です。 グランドフロアの7〜9の展示室の長い部分に、この浮き彫りの展示が続きます。 この古代アッシリア帝国はとにかく残忍なことで知られており、捕虜の手足を切断し、鼻や耳をそぎ落とし、目玉をくりぬき、皮をはいで柱に貼り付けたり、生首で柱を作ったりしたそうです。 そのレリーフは写真で見たことあったので、探してみましたがここには展示されていませんでした。 また、エジプトもギリシャもまだ青銅器だった時代に、鉄器を使用し始めたきらいもありますし、とにかくこんなおっかない強国が北隣にあった古代イスラエルは気が気でなかったことでしょう。 3,4枚目の写真はアッシリアの王と守護霊のレリーフです。 彼らの宗教は精霊崇拝で、町や人や物などそれぞれに守護霊がいると考えていたようです。 このあたりは、後のカトリックの守護聖人信仰につながっていってるのかもしれません。 5枚目はライオン狩りのレリーフで、アッシリアを象徴するものの一つと言えます。 軍事国だったため、貴族の趣味としてライオン狩りが好まれたようです。 部分によっては、動物愛護団体から抗議がきそうな残酷な描写もあります。 これらから当時、この地域(現イラク北部)にまでライオンが生息していたということが分かります。 西洋絵画や彫刻でよくモデルとなる、古代イスラエルの裁き人サムソンと、二代目の王ダビデもライオン退治をしたことが聖書中に記録されています。 ちなみに、このアッシリア帝国は北のイスラエル王国を滅ぼしてしまいますが、住人のいなくなった北パレスチナ地区に別の民族を移住させます。 その時、ライオンが人を襲うという被害がひどかったので、彼らはこれをイスラエルの神の呪いと考え、後で言うユダヤ教に改宗します。 これがサマリア人で、当然本家のエルサレムのある南のユダヤ人からは認められず、同じ地域に住みながら険悪な状態が続きます。 後にイエス・キリストは隣人愛を説きますが、その最も有名なたとえ話「親切なサマリア人」のまさにサマリア人です。 今でも彼らの子孫はパレスチナに住んでおり、イスラエルとパレスチナの抗争の合間で、どちら側からも圧力を受けながらも少数派として生活しています。 (なんかえらい脱線したな・・・) |





