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京都の幕末史跡でここは外せません。 坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡です。 今では京都一番の繁華街、河原町通りのアーケード中の阪急交通社になってます。 この辺りは全く開発されて昔の町の面影は残ってません。 まあ、私も中学生ぐらいの頃、この界隈によく遊びに来ましたが、幕末史なんて何にも興味がなかったの でいつも素通りでした。 19歳の時に司馬遼太郎の「龍馬がゆく」を読んで、「えっ、ここ???!!!」てな具合でした。 大政奉還も成し遂げ、いよいよ日本が変わるその直前にこの地で暗殺されてしまった龍馬と慎太郎。 この2人が生きていたら、その後の明治、大正、昭和はどうなっていたんでしょうか。 やっぱり龍馬は政治から離れて、三菱商事の総裁にでもなったんでしょうか。 革命の第二世代ともいうべき奔走家たちは、その才ゆえに遅かれ早かれ非業の死に倒れる運命なのです。 |
京都・洛中、中心部
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京都の幕末の史跡巡り。 今回は坂本龍馬の京での隠れ家のひとつ『酢屋』です。 この戸から龍馬が出入りしていたのかと思うと、ちょっと感動です。 幕末日本の政治的中心地は、江戸ではなく京都でした。 そのため龍馬も危険をかえりみず、京都に来ることが多く、その一番の滞在先がここでした。 土佐藩邸は近かったし、後藤象二郎らの働きで脱藩の罪は解かれていましたから、治外法権の藩邸にいた ほうが安全なのに、かたぐるしいのがいやだったんでしょうか、伏見の寺田屋、ここ、そして暗殺された 近江屋などに潜伏することが多かったようです。
酢屋といっても酢を売ってる店ではありません。
材木屋で、運河であった高瀬川を使った材木の商いで繁盛した店だったようです。龍馬はここの2階の部屋で高瀬川に向けてピストルの使い方の練習をしていたそうです。 寺田屋騒動の時に持ってたピストルでしょうかね。 すぐ近くに東海道の起点(京都人から言わせれば決して終点ではない)である三条大橋があります。 .
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京都、幕末の史跡巡りシリーズ第二弾 先回は新選組が大活躍した「池田屋跡」をご紹介しましたが、すぐ近くにここがあります。 佐久間象山と大村益次郎遭難の地。 面白いのは2人とも天才的であったこと。 まず佐久間象山ですが、もう維新の礎の礎を築いた人です。 兵学者でしたが、ペリー来航以前から、アヘン戦争の情報で西欧列強の脅威を感じていました。 弟子がすごい! なにせ、勝海舟、吉田松陰、真木和泉、河井継之助、宮部鼎蔵、橋本左内、そして坂本竜馬などなど。 もう幕末初期のビッグネームがずらりと揃ってます。 安政の大獄で蟄居させられたのが、罪をとかれて、一橋慶喜に呼ばれて京都に来た折に、池田屋騒動の数 日後に路上で暗殺されました。 まさにここでなんです。 そして大村益次郎。 緒方洪庵の適塾で学んだ医師でしたが、蘭学者として西欧兵法を学び、桂小五郎に長州に呼ばれ、第二次 長州征伐で天才的な軍略で幕府軍を撃退します。 戊辰戦争の際も、江戸の上野に立てこもった彰義隊を1日で鎮圧し江戸が火の海になるのを防ぎます。 これが手こずれば北海道辺りはフランスの植民地になっていたかもしれません。 ん?!・・・それはそれでよかったかも(コラ!www) 維新後は兵部大輔となり、日本陸軍の創設の祖となります。 その後、恨みを買った旧薩摩藩士に暗殺されてしましますが、遺言で西郷隆盛による鹿児島県の反乱を予 言し、それは西南戦争で予想通りとなります。 二人とも共通しているのが徹底的な現実主義者で、生きていたなら理想主義や観念主義に陥りやすい日 本人の大きな助けとなったに違いありません。 今でも日本の社会で、例えばある現実を目の当たりにして、ありのままの発言をすると「そういうこと は言ってはいけない」と言われて周りから集中攻撃されたり(ネット上でもよくありますよね)、自分た ちにとって都合の悪い現実に出くわすと「今のは見なかったことにする」とか「現実はそうだが、(精神 力や根性で)なんとかなるだろう」といった発言や行動をよく見ます。 日本人というより人間の全般的傾向なのかなと思いきや、友達のイギリス人やアメリカ人は(私も時々 驚かされたのですが)恐ろしく現実的にものを見て、ありのままの意見を言いますね。 目の前の現実より、「こうあらねばならない」的なその人の精神論に基づいた仕事の仕方に、時々呆れて います。 現実を見ようとしないのは日本人の悪い癖で、極端な話、こういう考え方が太平洋戦争の悲劇につながり ました。 そういった考え方から、まったく反対だったという意味で象徴的な2人だったと思うのです。 人付き合いが下手で誤解もされやすいのも同じ。 その2人が同じ場所で、イデオロギーの塊のテロリストたちに惨殺されたというのは偶然でしょうか。 3枚目は高瀬川の八重桜です。 |
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京都は古い町だけに、いろんな歴史が詰まっています。 なかでも、幕末史において京都はその中心地だっただけに、たくさんの史跡が残っています。 鴨川の三条大橋を渡ってすぐ、繁華街の木屋町通りと高瀬川を交差しますが、そこに池田屋跡はあります。 八月十八日の政変で京都政界から追い出された長州藩士が、京都を火の海にしてその騒ぎに乗じて、松平容保、一橋慶喜らを殺し、公明天皇を山口に連れ出すという、とんでもないクーデターを画策していました。 その過激攘夷派の溜まり場だった池田屋に、近藤勇率いる新選組が乱入し、このクーデターは阻止されました。 結果、新選組は大いに名を挙げ、京都守護において大きな力を持つことになりましたし、他方、長州藩では復讐だといわんばかりに過激攘夷に火がつき、蛤ご門の変、下関戦争、とつながっていきます。 後に、池田屋は攘夷浪士をかくまった罪で廃業し、現在では、こんな感じになってます。 先に見るのは河原町通り、そして三条のアーケード、奥には修学旅行生であふれる、京極通り、寺町通りがあります。 なにげなーく、小さな石碑だけが立っていますが、日本の歴史の大回転の起爆装置がここで爆発したのです。 昨今、日本人はテレビで中東などのテロや戦争を対岸の火事のように見ていますが、わずか百数十年前には日本も荒れに荒れていたんです。 ただ、武器が今と違って、火をつける、刀による殺傷、程度だっただけの話です。 |




