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おなかがすいてきた。時計を見るとちょうど12時だった。凱旋門をしっかり目に焼き付けて、さて、レストランを探すことにした。フランス初日の昨夜は思いがけずトルコ料理になってしまった。それはそれで旅の思い出となり、味も悪くはなかったのだが、せっかくパリに来ているのだから、安いビストロでもいいから本場のフランス料理を食べてみたかった。しかも今立っているのはシャンゼリゼ通りである。ざっと通りの果てまで見渡したところ多くのカフェやレストランが巾の広い歩道にイスやテーブルを並べてテラス席を出している。やはり、一度はこの景色と雰囲気の中でパリの太陽の光を浴びながら食事がしたくなった。 凱旋門のあるシャルル・ド・ゴール広場からコンコルド広場方面へ手ごろなレストランを探して歩いてみた。イタリア料理やカフェはあるのだが、やはりこじんまりとしたいい感じのビストロはない。当然であろう。世界を代表する目抜き通りである。この数週間後なら私たちも旅慣れてきて、観光客ではなく地元の人が通うようなローカルフードを供してくれるレストランを探すコツというか嗅覚を身に付けたが、この時はまだまだ完全にヨーロッパ旅行初心者であった。そういう店はだいたい裏路地を入った観光客があまり寄り付きそうにないところにひっそりと建っているものである。 途中、通りの反対側に巨大な見覚えのある柄のバッグがビルに飾り付けられていた。高さはビルの3〜5Fぐらいに達していようか。ルイ・ヴィトン本店だ。幸い妻も私もブランド物には全く興味がない。 「きっと卒業旅行のシーズンやGWには日本人観光客の女の子たちがここに殺到するんだろうな。」 そう言いながら、街のモニュメントとしては面白いので写真を一枚撮っておいた。 その後もしばらく手頃なフレンチレストランを探してみたがやはりなかった。仕方がないから来た道を戻って先ほどのイタリアンレストランに入ることにした。 フランスに来てなぜイタリアン?普通そう思うのだが、この時はただ、ただ、ここシャンゼリゼ大通りのテラス席で食事をしたかったのだ。 店とテラス側を忙しそうに行き来しているウエイターを捕まえて食べられるかどうか聞いてみた。店内か外かどっちがいいか聞かれたので当然テラス側を選んだ。さすが場所がいいのか外はほぼ満席状態だった。カルトを読むのは全く問題ない。イタリアンレストランだから最初にイタリア語で書いてある。私はイタリア語はしゃべれないが、イタリア料理は大好きなので料理の名前なら大体理解できる。アンティパストにイタリアンハムの盛り合わせ、プリモピアットに妻は魚のグラタン、私はキノコのトマトソースのスパゲティーを頼んだ。 やはりロケーションも雰囲気も最高である。心地よい日差しの下、世界一おしゃれと評される天下のシャンゼリゼ通りの一角に腰掛けているのである。申し分なかった。ただひとつ不安がある。フランス人が作るパスタって本当においしいのだろうか…? 前菜のハムがやって来た。これは加工品を切るだけだからまず味に問題はないだろう。予想通り「うんま〜いい!!」と叫びたくなるほどおいしかった。まことに本場ヨーロッパのハム・ソーセージはおいしい!日本の添加物と化学調味料たっぷりの工場で促成製造されたそれとは比べ物にもならない。さすが肉食文化圏である。 ところでちょうどそのころ、隣のテーブルにビジネスマン風の2人の男性がやってきた。なにか商談でもしているのか、とても聞き取れないスピードで話し込んでいる。ただ、彼らが2人ともウエイターにカルパッチョをオーダーしたことはわかった。カルパッチョといえば日本ではなぜか刺身の前菜であるが、本来は生の牛ヒレ肉を薄く延ばしたものにルッコラ、パルメザン、マヨネーズソースをかけた一品である。 さてパスタが来た。皿を見て不安が現実のものとなりつつあることを悟った。トマトソースの真中に茹で上げた白いパスタが盛り付けられている。イタリア料理では大抵パスタとソースをフライパンでしっかりと絡めて客に供される。このスタイルはアメリカかフランスのものだ。 食べてみた。案の定、スパゲッティーは完全に茹で上がったムニュムニュした柔らかな歯ごたえだった。ご存知の通りイタリア料理ではパスタやリゾットはアルデンテと呼ばれる固ゆでが基本である。ソースもまずくはないがうまくもなかった。 「やられた…!パリまで来てイタリアンレストランに入ったのが間違いだった…」 と妻と苦笑し合った。妻のグラタンは悪くはなかった。そりゃそうであろう、グラタンはフランス人も得意中の得意である。 ところで再び隣のテーブルだが、彼らが頼んだカルパッチョが運ばれてきた。少し目を疑った。2人なのにウエイターは同じ料理を6皿置いていった。 「・・・・・・一人で3皿も食べるのか?!」 しばらく妻と目が合わせてキョトンとしていたが、日本語で「欧米人は食べる量が違うからねぇ。」と話した。こういう時に外国語は便利である。 彼らはおしゃべりをやめることなくそれらをペロリと平らげた。そしてウエイターに次の皿を注文した。次はきっとパスタだろう。ところが運ばれてきた皿を見てまた驚いた。同じカルパッチョをまた6皿置いていったのである。再びこっちは目が点になった。 やはり彼らはマシンガントークをやめることなくそれらをぺろりと平らげてしまった。そして再び次の皿を注文。まさかと思ったがやってきたのはやはりカルパッチョ6皿だった。彼らはやはり何事もないように食べている。さすがに私たちも、これはこちらのドッキリカメラかなにかかと勘ぐり、さりげなく周囲を見渡してカメラを探してみた。しかし、そんなものはどこにも見当たらなかった。 いったい彼らはなんなんだったんだろう。食後のコーヒーを飲み終え、欧米式にテーブルでチェックを済ませ、妻と笑いながら席を立った。 世界には不思議な人がたくさんいるものである。 **** コメントおまちしてま〜す! (・∀・)ノシ ****
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パリ 5-9区
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それにしても凱旋門とはおもしろい。我々日本人の文化には全くない発想の建物だ。もともとこれを好んで建てていたのは古代ローマ人である。今でも当時の凱旋門がフォロ・ロマーノに幾つか残っている。他国との戦いで大勝利を収めた執政官、将軍、皇帝を称えるために建てられた記念碑的建造物である。 門は古代の人々にとって特別の意味があったのであろうと思う。戦争は通常街の外、もしくは遠く離れた外国で行われる。我が軍大勝利の報告の後に本隊が街へ捕虜や大量の戦利品を抱えて帰ってくる。人々はまず街の玄関である城壁の門によじ登り、またその下に群がり集まり勝利を収めた将軍と同胞を歓迎し祝福した。 また昔は都市そのものが国であり、街は堅牢な城壁と門によって外の世界と隔てられた。街の一歩外は無法・無政府地帯、野生動物や妖精やモンスターなどのもののけが住む世界と考えられた。戦場から帰ってきた兵士たちは戦場の血の匂いから、それら目に見えない悪霊たちをひきずって帰還してきたと考えられ、街に入る際、国や民族にもよるであろうが、城門で香をたいたり塩をまいたりなどの軽い儀式を行ってそれらをふり払った。古代の人々は、門に対して単に街の玄関、出入り口という機能以上の思い入れがあったにちがいない。 とりわけローマ帝国では歴史的な大勝利を収めた将軍に対して凱旋行列という勝利パレードを後日に行う習慣があったため、城壁の門と神殿がある広場は最も人々の賞賛を浴びる人気の注目スポットとなった。それで時代の流れと共に本来、街の防衛が目的の門が凱旋門として独立し、勝利を記録する装飾的記念碑として街の中心に据えられるようになったのではないだろうか。 今も昔もヨーロッパ人は自分達の源流が古代ローマ帝国にあることを誇りとする。熱烈なローマ帝国ファンなのだ。ナポレオンも例外ではない。特に彼は学生時代、本の虫だったという。当然ギシリャ神話から古代ローマ史までくまなく読んだことであろう。そんな彼が古の帝国に憧れて自分のためにローマ式の凱旋門を造ったことは納得がいく話である。 このエトワールの凱旋門は1805年に彼が率いるフランス軍がアウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍に芸術的とも評価される戦術で大勝を納めたことを記念するために1806年に建造がナポレオン自身によって命じられた。もっとも彼はその完成を見ることなく1821年に幽閉先のセント・ヘレナ島でこの世を去ってしまう。 その後この凱旋門は1836年に完成した。1840年に彼の亡骸がパリに移された時初めて、自分の命で自らの栄光のために造らせたこの門をナポレオンはくぐった。 門には表裏に4つの巨大なレリーフがある。フランス義勇兵の「ラ・マルセイエーズ」を描いたものやナポレオンの戦いを描いたものがある。下から仰ぎ見てみたがこれも想像を絶する大きさで、立派であった。 門の内部の真下に行ってみた。天井は飾り模様でびっしり装飾されており、壁には歴代のフランス軍の将軍の名前が彫られていた。当然天井はこれまた高かった。 そこからシャンゼリゼ通りに目をやると多くの献花があり、その中心にモニュメント的な炎がともっていた。ここには第一次世界大戦の無名兵士が葬られている。以来、ここはフランスのために命を落とした兵士達の慰霊碑のような場所になっているようである。フランス軍は今も昔も活動的な軍隊だ。第二次世界大戦後もインドネシア半島で、今でも国連の常任理事国として、また宗主国としての責任を果たすため中東やアフリカの旧植民地で平和維持活動や軍事活動を展開しており、時折犠牲者が出る。 門の下に小さな入口がある。ここから螺旋階段を登れば凱旋門の屋上の展望台に出られる。ここから眺めるパリの街もまさに絶景だ。ここを中心に360度のパノラマが広がる。大きな広場の中心だけに道が放射状に伸び、ここから世界が広がっているような錯覚すら受ける。 が、ここでも私はまた大失態を犯してしまう。入場料7ユーロと272段の階段に恐れをなして登る必要なし、と判断してしまったのだ。階段はともかくとして、心配だったのはお金だ。まだこの旅は始まったばかりである。この先も各国の史跡名勝で入場料を払わねばならない。経済的な不安が再び押し寄せ、ここまで来て、ここに来れただけで満足することにしてしまった。後で思えばそんな心配は全く無用の事だったのだが…、こういう時に過度の心配性は損をする。ここの展望台もノートルダム寺院の塔と同様、次回の宿題となってしまった。 **** コメントおまちしてま〜す! (・∀・)ノシ ****
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巨大な門が私たちの前にそびえ建っている。パリを、いやフランスを代表する建造物の一つといっても過言ではない、だれもが知っているエトワール凱旋門である。 パリには他にも幾つか凱旋門がある、またローマには元祖の、そして幾つかの他国にもそれはあるが、やはり凱旋門といえば誰もがシャルル・ド・ゴール広場にあるこのナポレオンの凱旋門を思い浮かべる。 実は私たちは、シテ島からメトロでまずエッフェル塔に向った。だがこの日は残念ながらモヤがかかっていた。朝方から曇っていてここにきてようやく青空が見えてきたのだが、それでも朝モヤが晴れきらず、どうも遠くがぼんやりとしか見えない。エッフェル塔はパリの数ある建物の中でもとりわけ大きい。そして高い。下から見上げても、セーヌ河の対岸のシャイヨ宮から見ても腹立たしいぐらいにすっきり見えない。明日もあるので今日はエッフェル塔見物をあきらめてメトロ6号線で凱旋門にやって来た。 世界中から観光客が集まるこの場所は4つのメトロの路線が交わる大きなターミナル駅でもある。ホームはもちろん駅構内全体はすごい人だった。私はカメラを手に握って出口を目指していたのだが、途中駅員がそんな私を見かけて 「ムッシュー、カメラを盗られないように十分注意しろよ」と言ってくれた。恐らくそう言った。フランス語は分からない。 そういえば昨日から人ごみの多いところを歩き回っているが、これといってスリや引ったくりなどの危険な目に遭うことも、それらしい人が近づいてくることもなかった。ヨーロッパのスリなどはあからさまに近づいて手を伸ばしてくると聞いていたのだが。駅員にそう言われて少し気を引き締めなおして階段を上がった。 広い!それがここに来た第一印象だった。ごちゃごちゃとした電柱・電線がない上にここシャルル・ド・ゴール広場は12本の幹線道路が交わる交通の要所的ロータリーでもある。その中心から道が放射状に伸びた形から昔はエトワール広場と呼ばれていた。エトワールとはフランス語で「星」と言う意味である。 そういえば子供のころに見ていたフランス革命を舞台としたTVアニメ『ラ・セーヌの星』のオープニングソングで途中、フランス語で「エトワール・ラ・セーヌ!」と毎回叫んでいた部分があった。なるほど、そういう意味であったか。 その後この場所は第二次世界大戦のフランスの指導者的将軍にして後の大統領となるシャルル・ド・ゴール、その人の名が付けられた。ただここの中心にある凱旋門だけは今でもエトワールの凱旋門と呼ばれているようである。 そして数ある道の中でもとりわけ異彩を放っているのがやはりシャンゼリゼ大通りだ。道幅が広い上に歩道から車道まですべて石のタイルが敷き詰められている。その広い大通りが真っ直ぐ東のコンコルド広場へと伸びている。両脇には街路樹であるマロニエの木が整然と、かつ美しく植えられており、その下の歩道にもたっぷりとしたスペースが取ってある。多くのカフェやレストランがそこにオープンスペースを展開して、人々がコーヒーと共に思い思いの時間を楽しんでいる。ここぞまさにパリ!という景色だった。 ロータリーはすごい車なので地下道を歩いて凱旋門がある中央部に行ってみた。大きい。こんなに大きいものか!正直驚いた。ロータリーの外側から見るとそれほどの大きさを感じなかったのだが、それはこの広場が、日本の道路事情ではちょっと考えられない広さのための錯覚で、この凱旋門の大きさ、高さは私の想像を超えていた。なにせ高さは約49M、巾は44M、奥行きは22Mもある。ちょっとしたビルに相当する。 何でもナポレオンはこの凱旋門の建造を命じ、出来上がった最初の門を見て、その小ささに愕然としたという。そして今の大きさに作り直させたそうである。初代の物がどれくらいの大きさかは知らないが、建築者たちは古代ローマ帝国の凱旋門の大きさを参考にしたのかもしれない。後でローマを訪れた際その幾つかを見たが、それでもそれなりに立派なものであった。しかしその大きさでは彼の偉業を表現するには不十分だったらしい。まことに野心と虚栄心に満ち満ちた人物であったのであろう。 **** コメントおまちしてま〜す! (・∀・)ノシ ****
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サント・シャペルを出た私たちは先ほどのステンドグラスの余韻に浸りながらメトロの駅に向った。多くの店や屋台がようやくオープンし、シテ島もだいぶにぎやかになってきた。 橋を渡りセーヌ河の対岸に出る。そこはサン・ミッシェル広場だった。建物の広場側正面がそのまま噴水になっているのが興味深い。ここからソルボンヌ大学を含む南側地域はカルチェ・ラタンと呼ばれている。ラタンとはラテン語を指す。もともと古代ローマ人がこの辺りに住み着いたことがこの名称の語源となっている。 ローマ人はラテン語を母語として話す。先にも言及したとおり、シテ島にはここの原住民であるガリアのパリーシ族が住んでいた。もちろん彼らは古ケルト語である。 (参照:http://blogs.yahoo.co.jp/akaisuiseinonya/4922995.html) それでローマ軍は対岸のこの辺りにキャンプを張り、ガリアが植民地になった後はここを中心に湿地を開拓してローマ風の町を建設していったのであろう。実際ここには古代ローマ時代の公衆浴場跡が残っている。後のフランク族は風呂嫌いであるが、ローマ人は大の風呂好きだったのである。 また、時は過ぎ1253年にソルボンヌ神父によりここに大学が興された。今のパリ第3、4大学、通称ソルボンヌ大学である。中世の知識人の公用語はラテン語である。そのためこの界隈にたむろする学生達はラテン語を話した。古代から伝統的に知的なイメージを持つラテン語を話す人々が住んでいた地区、それがこのカルチェ・ラタンである。 私にとってはここはパリでもたいへん興味深い地区である。そもそもその国を代表する大学がある町は第一級の歴史を持っている場合が少なくない。例を挙げればケンブリッジ、オックスフォード、ハーバード、東京大学など。 しかも昔から学生が出入りしているので、そこには若者文化が花開き、自由な雰囲気が漂っている。例のモノを投げ合ったといういわくつきの学生寮やロマネスク様式の教会、古代ローマの遺跡など興味は尽きないのだが、なにせ今回は時間がない。パリに来たからには、まずはどうしてもエッフェル塔や凱旋門、ルーブル美術館などを訪れてみたかった。また時間があれば来るということで、涙をのんでここはパスすることにした。 サン・ミッシエルの噴水の中には大天使ミカエルが悪魔サタンを踏みつけている像が立っていた。ミッシエルとは英語で言えばマイケル、日本語ではミカエルとなる。この天使は聖書の中でダニエル書と黙示録の2つの書に出てくる。その2つとも悪魔と戦っている。とりわけ黙示録ではその12章で、ミカエルが悪魔を天から地に放逐し戦いに大勝利を収めるという預言がある。ちょうどその場面をイメージしているのであろう。 全く日本の噴水はセンスのないものが多い。そこに像が立っていても、「若人」とか「ふれあい」とかの名前が付けられているいかにもそのような像か、現代彫刻の、理解に苦しむ不思議な形をしたものがほとんどである。その点ヨーロッパの噴水はいい。噴水も像も歴史的な重みや芸術を感じさせるまさに本物である。 そのすぐ隣にメトロの入口がある。私たちはここからメトロを乗り継いでエッフェル塔に向うことにした。 また、メトロのホームまでがセンスがいい。撮った写真はこのサン・ミッシエル駅のものかシテ駅のものか忘れてしまったが、ホーム内の照明ひとつとっても古きよき昔をしのばせるような曲線を生かしたデザインがなされている。個人はともかく、やはり国そのものとしては、こういうセンスでは日本はフランスには絶対かなわないのではないかと思ってしまう。 **** コメントおまちしてま〜す! (`・ω・´)ゝ”ビシッ ****
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