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 ノートルダム寺院を後にした私たちは観光客で満ちた広い、広い、広場をまたいで、同じシテ島内にあるサント・シャペル教会に向った。
 広場の向かいはパリ警視庁だ。そういえば、ここで重いバックパックを担いで、暗闇の中ホテルを探していたのは昨夜のことである。あの時は本当にどうなるのかと肝を冷やしたが、わずか半日後に一観光客としてこの辺りを気楽に散策しているのが少し不思議だった。問題は解決さえしてしまえばなんでもないことなんだと、ふと思った。

 お目当ての教会はこの警視庁のさらに反対側のはずである。しばらく歩いてその通りに出たが、それらしき建物は見当たらなかった。シテ島の横の端から端、つまりサン・ミシュル橋からサンジュ橋まで歩いてみたがどうも見当たらない。歴史的な巨大な建物なら目の前に建っているのだが…。しかも教会どころかこの建物には警備している警官の姿がちらほら見られ、物々しいとまではいかないにしても、とても観光地とは思えない雰囲気であった。
 観念して地図で確認してみた。なるほど、ここは最高裁判所だった。しかし教会の位置は間違っていない。実はこのサント・シャペル、裁判所の中庭に建っていたのである。一見裁判所に入るかのような細い道があり、そこを入っていくと教会の後姿が見えてきた。なんともややこしい。
 世界的に有名な観光地なのだから、日本のように看板でも立ててくれればよいのに、と思うのは野暮な考えなのだろう。確かに品位を落とす大きな観光案内の看板はこのパリの街には似合わない。

 教会の全景は黒っぽかった。なぜならこの教会はおびただしい数のステンドグラスで有名なのだ。ステンドグラスは、日中外から見ると黒く見える。
 建物に沿って回りこむと、どこかのテーマパークのような行列対策のジグザグに仕切られた通路とチケット売り場があった。さすがにここは教会自体に入るのに入場料が必要のようだ。幸い、すいていて並ぶことなくチケットを買うことができた。ブース内には少し小太りの20代の白人女性がいた。
「ボンジュール」と声をかけると彼女も優しく微笑んで「一人5.50ユーロよ」と言ってくれた。私は小銭混じりで2人分を出した。
 次の瞬間、信じられないことが起こった。先ほど微笑んでくれた彼女がいきなり怒鳴って私にお金を叩き返したのである。何を言っているのかフランス語なのでサッパリ分からない。もしかして今日は休みなのか?しかしそれはここまで怒る理由にならない。なにか失礼なことをしてしまったのか?
 どうも私が小銭を出し間違えたようだった。急いで財布の中を確認して違うコインを数枚出した。しかし彼女はまた激昂してお金を私に叩き返した。もう分けがわからなかった。なにせこちらは昨日、産まれて初めてユーロを手にしたばかりである。
 さらにややこしいのは日本の硬貨と違ってユーロには2cや20c硬貨がある。もう私の頭の中は大混乱だった。その間にも彼女は私に罵声を浴びせ続けた。きっとそうとうひどいことを言っていたと思われるが、フランス語なので何を言っているのか分からないのが不幸中の幸いだった。
 払っては叩き返され、払っては叩き返されを4〜5回繰り返した後、ようやく私が正しい硬貨を出したらしく、彼女は急に怒るのをやめて、冷静に「うん、これでいいのよ」と言ってチケットをくれた。この態度の激変にもほとほと閉口した。なんとも日本ではまずお目にかかれないタイプの女性である。
 後で気がついたのだが、どうも私が5cと50cを出し間違えていたようである。それにしてもフランス人女性のカンの強さといったらすごいものである。もっとも彼女を全フランス人女性の代表にするのも、フランスという国に対して失礼なのかも知れないが。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/6c/8b/akaisuiseinonya/folder/903107/img_903107_5825807_2?2007-02-08

 気を取り直して教会に入る。この教会もゴシック建築の傑作であると称えられている。だからこそたくさんのステンドグラスを埋め込むことができたのであろう。入口付近の台座にはこれから見るステンドグラスの予告編とでも言わんばかりに無数の聖書物語が彫刻されたレリーフがはめ込まれていた。ノアの大洪水にカインとアベル・・・、先ほどのノートルダムのステンドグラスよりは分かりやすかった。
 ところが、教会内に入って正直拍子抜けした。ステンドグラスといっても全然たいしたことなかったからである。これならノートルダムのほうがよほど綺麗だった。しかも怒鳴られてまで金を取られて…、ぼったくりか!と心の中でつぶやいた瞬間、そういえばこの教会は2階からの眺めが素晴らしい、と、いつか読んだ本に書いてあったのを思い出した。よく見てみると、確かに人の流れが入口横の階段に向っている。私たちもその流れに混ざって優美な装飾が施されたらせん階段を上がってみた。

 全く驚いた。なんということであろう!そこはまさに光の洪水だった。柱という柱に全てステンドグラスが埋め込まれている。しかも高い!上から下までびっちりとである。誤解とはいえ少し失望した後だけに、この神々しい光に包まれた感動はひとしおだった。


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 いよいよ、この大聖堂のもっとも有名な部分であるバラ窓のステンドグラスがある翼廊に出た。十字のちょうどクロスする部分である。しかし、なんということであろう。この時、この翼廊の北側部分が改装中で周辺に柵が巡らされ、この有名なステンドグラスを真正面から眺めることができなかった。

 ヨーロッパの寺院は古い。しかも現代では多くの観光客が毎日押し寄せる。石造りとはいっても定期的な修理・修繕は欠かせないのだ。だいたいヨーロッパに行くと10箇所に1〜2は修繕工事中に出くわしてしまう。そのため、建物の周りに組まれた足場やシートで本来の姿が隠されてしまっていたり、最悪の場合は立ち入りができないこともある。今回私たちは、ヨーロッパで最初に訪れた大聖堂で大当たりを引いてしまった。どうも建物の左側全体を修復していたようである。やもえず、少し斜め後方から複雑な色彩を放つこの巨大なバラ窓を撮影した。しかしこの窓こそ、真正面から撮影してこそ価値があるのに。残念な気持ちを抑えつつ、まったく見られなかったわけではなかったことに満足してみた。
 先ほどまで信者の礼拝用長椅子が並べられていた中央部分では、この辺りからきらびやかな祭壇などの器具が並べられ、奥には立派な椅子が観察できた。あれこそが司教座と呼ばれるものであろうか。
 ヨーロッパを旅行するとよくカテドラルという言葉を耳にする。イタリアではドゥオーモ、ドイツ語ではミュンスターもしくはドムであるが、これらは日本語に訳すと大聖堂となる。建物が大きいからではなく司教座がある教会という意味だ。司教は複数の教会を擁するその地区全体、いわゆる教区を管轄する。したがってその地方の一番大きな町にある立派な教会はだいたいカテドラルとなる。
 ちなみにローマ法王も本来はローマ教区の一地方司教にすぎず、立場的には他の地方の司教と同じである。ただバチカンを擁するこの地区はカトリックにとって最も重要な聖地であり、自動的にローマの司教は世界のカトリック教会の頂点、すなわち法王となる。

 そういえばここはジャンヌ・ダルクの名誉回復裁判や、ナポレオンの戴冠式が敢行された場所であったことを思い出した。
 特にナポレオンであるが、1804年、彼はバチカンからわざわざ当時の法王ピウス7世を自分の戴冠式に呼んでおきながら、いざ戴冠の時に法王から冠を奪って自分でかぶってしまった。自分で自分を戴冠したのである。それどころか悪女で後世に名を残す妻ジョセフィーヌにも自らの手で戴冠してしまった。自分のこの栄光ある立場は自分自身で勝ち得たのだ、自分はバチカンといえどもひれ伏さない、と言いたいがための彼の政治的パフォーマンスだったのであろう。ピウス7世こそいい面の皮である。ローマからパリくんだりまで出かけてナポレオンの宣伝に利用されたのである。ローマ法王の権威も何もあったものではない。この時の様子はルーブル美術館にあるダヴィッド作の名画『ナポレオンの戴冠式』に描かれている。確かにこの絵の中でナポレオンの後ろのピウス7世は苦々しい顔をして一部始終を見守っている。
 ところで、この絵の背景に描かれている大聖堂の内装が実際とは少し違うように思える。戴冠式のために特別に飾られていたのか、この絵はプロパガンダ的要素を多分に持つため画家が背景にはあまり気を配らなかったのか、単なる私の思い違いなのか分からない。
 ちなみにこの後、ナポレオンは教皇領を没収、怒ったピウス7世はナポレオンを破門。それに反応したナポレオンはピウス7世を捕らえ幽閉してしまった。なんとも2人は因縁の関係になってしまったのである。それもすべてはここから始まったのである。

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 混雑した入口部分を抜けると中は薄暗く広々としていた。もちろん物が見えにくいほどではなく、程よい落ち着きを演出する程度に薄暗い。なにより感銘を受けたのは天井が高いことだ。そのためなにか開放感がある。天井は幾つかの部分でリブが交差して上へ上へと突き出している。まさに高さと広さを求めたゴシック建築の粋だ。まことにこのような広々とした吹き抜けの構造は,日本の仏教寺院や神社ではお見かけできない。
 振り返ると正面ファザードに取り付けられているバラ窓が高い位置から光を差し込ませていた。直射日光の方向なのか色はつぶれて全体にまぶしく輝いていた。礼拝堂の中央には通路が、その両脇には年季の入った木製の長イスが並べられていた。その今でも礼拝が行われている部分はポールと緋色の綱で囲われており、地元の信者以外は立ち入りお断りのようだった。我々観光客は礼拝堂の脇を歩いてゆく。
 左右上部には、大小様々な大きさのステンドグラスが壁を彩っている。薄暗いため建物の基調をなす色は視覚的には黒色だ、その只中から幾何学的にデザインされた色とりどりの光が差し込む。やはりこればかりは美しい。これもまた壁の大きな面積をガラス窓に転用できたゴシック構造の効果である。
 ステンドグラスが教会に登場するのは9世紀ごろからしいが、やはりこのノートルダム寺院が建てられた12世紀ごろにその技術は円熟期を迎える。当時の人々はまさにこの世の物とは思えない光だと感服したことだろう。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/6c/8b/akaisuiseinonya/folder/903107/img_903107_5425388_1?2006-11-06

 このステンドグラス、そのほとんどには紙芝居のように人々の絵が描かれている。聖書物語である。当時の一般庶民は聖書を読めなかった。識字率が低かったこともあるが、それよりもまず入手できなかったのである。14世紀にグーテンブルクが活版印刷術を発明するまで聖書をはじめとする全ての本は手書きで写されてきた。その作業はユダヤ教の写字生かキリスト教の修道士によって行われた。しかもロウソクの明かりの元での作業であるため文字も大きく、ゴシック体と呼ばれるカクカクはっきりした装飾された字が用いられた。欄外や表紙はデコレーションされ、そのため当時の聖書は気軽に屋外に持ち出せないほど大きく、それはあたかもひとつの美術品のようであった。そんなものを一般庶民がもてるはずがないのである。
 しかもカトリック教会は長い間、一般信者が聖書を読むのを禁じた。もし読めば火あぶりの刑である。理由は伝統によるものだが、実際は信者たちが聖書の教義とカトリックの教義との間の矛盾に気付くのを指導者たちが恐れたためであろう。とはいえ聖書の基本的な物語ぐらいは教える義務がある。そのためこのような視覚に訴えるものが作られたのであろう。
 よく見てみると、確かにモーセの十戒やノアの大洪水など特徴がある逸話はすぐにわかる。しかし失礼だが分かりにくいものも多い。王がいてもこれは果たしてサウルなのかダビデなのかソロモンなのか、預言者らしきこの人物はエリヤなのかエリシャなのか、それともエレミヤなのか…。また絵の中の風俗、つまり服や髪型や建物が聖書の舞台である古代イスラエルの時代の物と中世ヨーロッパのものが混在している。これも分かりにくい理由の一つかもしれない。
 ちなみにヨーロッパのほとんどの絵画でも、現代人の頭の中でも、イエス・キリストと言えば長髪を連想するが、これも大きな誤解である。長髪はガリア人とゲルマン人の風俗であり中世ヨーロッパの男性の一般的な髪型である。イエスが生きた一世紀当時のユダヤ人はあごひげに短髪である。当時のユダヤ人社会では男性の長髪は恥とされていた。同時代のローマ人もギリシャ人も短髪で、長髪は北方の野蛮人の髪型として敬遠されていた。当然イエスも、彼の12使徒も、他の初期キリスト教への改宗者も、ほとんどが短髪であったのである。
 さらに先に進むと、中ほどの右側に宝物室があった。歴史ある教会だけに十字軍の戦利品や歴代の王たちの寄進物など、さぞ多くの宝物が納められていることだろう。でもここもやはりパスした。なぜならここも入場料がいる。今私は少しケチケチモードに入っている。



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 さて、ノートルダム寺院の全景も撮影したことだし、いよいよ中に入ることにした。と、その前に入口の真下で足が止まってしまった。見上げてみると、そこには徹底的とも言える彫刻が施された巨大なファサードがそびえていた。ファサードとは英語のfaceと同じ語源を持つ。建物の装飾された正面部分を指す、いわばその建造物の“顔”だ。
 ヨーロッパの街の地図を広げれば分かるが、多くのカテドラルは上から見ると十字架の形をしている。それらの多くが建設された中世には、その街でカテドラルよりも高い建物の存在などは通常考えられないし、当然、飛行機も人工衛星もない時代だ。上から見られることなどありえないのに、それでも十字架の形にはこだわり抜いている。上から眺められる時代が来ることを予測していたのか、それとも天から見ている神に対する敬意の表れなのだろうか?
 それにしても、この形だと正面玄関部分の面積が狭くなり少し寂しい建物になってしまう。十字架の一番底辺の部分が、人々が集まる広場に面する玄関部になるからだ。かつてのローマ帝国の建物なら円形や長方形なので、玄関を装飾する面積を十分に取れたのだが。そのような理由で、大聖堂と呼ばれる建物には、必ず立派なファザードと塔が付けられたのではないだろうか。調べてみたが、どこにも書いてなかったので勝手にそう考えてみる。結果、上から見ると、『十』ではなく、『士』のような形になるが、それも台座の上に立っている十字架と見たてれば別におかしくはない。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/6c/8b/akaisuiseinonya/folder/903107/img_903107_5313741_1?2006-11-05

 尖頭アーチには無数の天使と聖人の像が掘り込まれていた。いつも彼らが人々を天から見守っている、ということを教えているのだろうか。その下の中央に据えられているタンバンは『最後の審判』を表現しているという。入口だけでこれだけの装飾を施すのは、やはり、ここから中は神聖な場所であることを強調しているのであろう。日々の生活で世俗にまみれた人々が聖堂に入るに当たって、世間の立場や煩いごとは忘れ謙虚な一匹の神の羊になるよう、心の切り替えを促しているにちがいない。
 それにしても、この像のおびただしい数はどうだろう。イスラム教徒やギリシャ正教徒が見たら卒倒しそうな数である。彼らは崇拝に像を用いない。確かに聖書は、ヘブライ語聖書もクリスチャンギリシャ語聖書も一貫して偶像崇拝を否定している。カトリックもそれは知っている。だからこれらは聖像であるが、偶像ではない、問題はない、と主張する。彼らには彼らの複雑な理屈があるらしい。

 聖堂の入口付近は相当な人でごった返していた。日本人のツアー客も大勢いる。カテドラルは今でも礼拝に使われている生きた現役の建物である。遺跡などではない。したがって一般の教会と同じく、ただ礼拝堂に入るだけなら入場料は必要ない。塔や宝物室は入場料をとられるが。
 無数の観光客に紛れて中に入ると、左側に行列ができていた。69Mの塔に登る人たちだ。ここで入場料の5.5ユーロを払って石の階段を登るとパリの街を一望出来るパノラマと、よくポストカードなどで見かける魔物たちの像に出会えるのである。この大聖堂の目玉の一つだ。塔は修復工事中で人数は制限されているものの見学可能だ。だが一体、あの時の私は何を考えていたのだろう。この行列を見て不意にここに登る意欲を失ってしまったのである。入場料の5.5ユーロが惜しかったのか、自分でもよく分からない。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/6c/8b/akaisuiseinonya/folder/903107/img_903107_5313741_2?2006-11-05

 私は時々こういうことをする。完璧主義ではなく95%主義なのだ。物事が完成に近づくと、とたんに興味を失って手を抜きたくなる衝動に駆られる。悪い癖である。旅行の場合も、下調べもバッチリして、最低限こことここへは行こう!とプランを練るものの、いざ現地でそれを目の当たりにすると、不思議な妥協をして見学をあきらめてしまうのである。理由はお金や時間がもったいない、疲れた等、後で考えてみると自分で自分をひっぱたたきたくなるような理由である。
 今でもここに登らなかったことを大後悔しているが、この時は行きたくなかったのだから仕方がない。これは次回のパリ訪問の楽しみとすることにしよう。また次に再び訪れなければならない理由がひとつできたわけだ。
 私たちは人ごみにまみれて暗い大聖堂の中の先へ進んだ。


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 いよいよノートルダム広場に出た。おおきい!もう、その一言に尽きた。このパリのノートルダム寺院を正面から見据えた、ファサード(正面入口)と双塔のバランスの取れた姿は、誰もが写真やテレビで一度は見たことがある画である。しかし、やはり、写真で見るのと実物を下から見上げるのでは全くわけが違う。塔の高さは69m。現代の16階建てのビルに相当する。しかも観光客でいっぱいである。
 早速、妻に大聖堂の少し前に立ってもらって写真を撮ることにした。しかし困ったことにカメラを縦にしても塔の上までフレームに収まりきらない。しゃがんでみたり、少し後に退ってみたが、やはりダメだった。結局どれくらい後方に退いたか正確な距離は忘れてしまったが、かなり歩いてやっとフレームに収まった。ファサード前にいる観光客達と比較してみればその大きさをある程度理解していただけるだろう。
 
 ふと、広場の横に銅像が立っているのを見つけた。近づいてみると、これも日本で見る彫刻像より大きい。台座だけで私の身長の3倍はありそうだった。そこに刻んである文字と像の特徴からシャルルマーニュ(カール大帝)であることが分かった。
 従者をつれた騎馬姿で、ヒゲを蓄えゲルマン族の軍装をしたなかなか立派な像だった。日本では世界史で軽く流す程度に学ぶ人物だが、欧米人、とりわけフランス人にとっては子供でも知っている英雄の一人である。
 欧米人に歴史上の英雄の名をあげさせると大抵、アレキサンドロス大王、スキピオ・アフリカヌスとハンニバル、ユリウス・カエサル、カール大帝、ナポレオン…と、必ず彼の名前が出てくる。それもそのはず、彼こそが西ヨーロッパ、“西欧”なるものを最初に作り上げた人物なのである。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/6c/8b/akaisuiseinonya/folder/903107/img_903107_5109935_1?2006-11-03

 8〜9世紀の人でフランク王国カロロング朝の王。ヨーロッパ各地に遠征して民族大移動と西ローマ帝国滅亡後の大混乱の西ヨーロッパをひとつにまとめ上げた。その生涯中の遠征は60回以上にも及び、その中にはかつてのカルタゴの将軍ハンニバルが行ったと同じく、軍隊を引き連れてのアルプス越えが含まれる。ナポレオンはこの2人とユリウス・カエサルをかなり意識して冬のアルプス越えを決行したという。
 西暦800年にはローマ法王レオ3世から西ローマ帝国の正統なる後継者として帝冠を与えられる。「カールの戴冠」である。これにより西ヨーロッパは東ローマ帝国から独立した一大勢力と認められ、彼の文化保護政策も手伝って、古代ローマ帝国、キリスト教、ガリアとゲルマン文化が融合した独特の西欧文化圏が誕生した。
 
 シテ島はパリの発祥の地である。この広場にぜロポイントと呼ばれる点がある。フランスの各都市までの距離がここから測られている。つまりこのノートルダム寺院の前のこの広場こそパリの、そしてフランスの、ひいては(誇り高いフランス人の意識の中では)ヨーロッパの中心であり世界の基点なのである。そこに彼の勇姿をたたえた像が据えられたのは至極当然のことだろう。
 もしフランス人や他の欧米系のちょっと教養がありそうな男性と接する機会があれば、この大王の話題を出してみたらどうだろう。読み方は、仏:シャルルマーニュ、独:カール、英:チャールズである。きっとそれなりに話が弾むと思われるが・・・。
 
 余談であるが、そのゼロポイントとは広場の石畳の中にある、中央が金属の、マンホールのような部分がそれなのである。が、この旅行時、私はゼロポイントのことなど全く知らなかった。たまたまそれらしきものを発見したのだが、「何かの目印かな?」と思った程度ですぐにその場を去ってしまった。そうと知っていれば写真の一枚ぐらい撮っておいたのに・・・。今は少し後悔している。


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