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書庫パリ 10-12区

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 せきたてられるようにサクレ・クール寺院を出たが外はまだまだ明るい。もう一度寺院の前の階段からパリの景色を頭に焼きつけて帰路についた。
 再びテルトル広場にやってきた。先ほどはひたすらに丘の頂上を目指していたので軽く通り抜けただけだったが、改めて見てみると広場には絵描きがあふれていた。彼らはそれぞれにちょっとした展示パネルを設けて自分の作品をそこに飾っていた。美しい風景画もあればヨーロッパの観光地にはどこでも必ずいる似顔絵書きもいる。彼らのほとんどはモンマルトルが持つ貧乏若手芸術家の巣窟というイメージをうまく生かして、絵を商売にしているようだ。もちろんこの中からピカソやゴッホのような天才芸術家が現れるとも限らない。
 面白いのでひととおり見てみたが、中には旅の思い出に一枚どうだろう、と思わせる良い作品もいくつかあった。ここで買って、ずっとその絵を持ち歩いて各国を周るのは気が引けたのであきらめたが。似顔絵などはかなり個性的だ。デフォルメが効き過ぎてもはや人間に見えない作品もある。

 さて、まだ明るいがそろそろお腹がすいてきたのでレストランを探す事にした。て、時計を見てビックリした。ようやく夕方になってきたかな、という明るさなのにもう夜の8時だった。昨日に引き続きまたヨーロッパの夏の日の長さにだまされた。
 昨夜はトルコ料理、今日のランチはシャンゼリゼでイタリアンだった。パリに来ているのにいまだフランス料理を食べていない。幸いこの界隈には気軽に入れるビストロが多い。何軒か見てみて、坂の途中の角にある内装が一番いい感じの店にした。夜の8時だというのにどの店にも客はあまりおらず、この店も私達以外まだ誰もいなかった。
 店内は8つほどのテーブル席だけでこじんまりとしているが、壁には近代芸術の絵が幾つか飾られており、いかにもモンマルトルの雰囲気を醸しだしていた。若くて背の高いお兄さんがカルトを持ってきてくれた。白地のTシャツにジーンズ姿である。このカジュアルさがいい。日本のフレンチレストランでは考えられない格好であろう。
 もちろんパリまで来たのだから本当は高級フレンチを楽しみたいところだが、今回は旅の予算と手持ちのワードローブの関係上これぐらいのローカルレストランで食事を楽しんでいくつもりだ。それでも本来のバックパック旅行からすれば贅沢なものなのだが。
 各テーブルの上にはあらかじめボルドーワインが置かれていた。店のおすすめだそうなので是非いただくことにした。カルトの中には幸いイングリッシュメニューもはさまれてあったのでそれを見た。英語でもよく分からないものもあったのでここは定番メニューにする事にした。アントレにシュリンプ・サラダとオニオンスープ。メインに私はラムのロースト、妻はダックと豆のグラタンにした。私達が注文を終えたころから他にもお客さんが入り始めてにぎやかになってきた。
 ワインはただのテーブルワインであるが十分美味しかった。各料理も星付きレストランのシェフの料理とはいかないがとても美味しかった。塩味が日本より濃いのがいい。ここも比較できて面白いところなのだが、料理の味付けにおける適量の塩加減の範囲がある。日本人は素材の味を生かすためにこれ以上薄くしたら塩気が無くなるというギリギリの線を良い塩梅の目安とするが、フレンチは逆で、料理のうまみを強調するためにこれ以上濃くしたら塩辛く感じるギリギリの線を目標とするらしい。気候や食文化、素材、一緒に飲む酒の違いからこの違いは生じているのだろうが、私は塩気がしっかりしている方が好きなので口にあう。ワインともピッタリだ。
 特にメインに頼んだあのラム・ロースト。日本では見た事が無い大きさだった。最初、ラムにしては育ちすぎでは、と思ったが味や香りは紛れも無く子羊のもので、ジューシーで美味しかった。全体的に量が多いので。グラタンの方は2人でも食べ切れなかった。その後デザートとコーヒーを楽しんだ後、店を出た。なんだかんだと2時間近く店にいた。日本と違ってウェイターの注文を取るタイミングや料理が運ばれてくる時間が長いのだ。普段、食事ですらあくせく忙しく食べる私達日本人にはこのゆったり感もいいものだった。
 ほろ酔い気分で石畳の坂道を下ってゆく。夜風が今夜も気持ちよかった。


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 モンマルトルの丘。ここはパリの街を一望に出来る唯一の丘である。山頂にあるサクレ・クール寺院の前には一大パノラマが広がっていた。ちょうど木々が開けた展望台らしい巾の広い階段には、たくさんの観光客が高台から臨むパリの街に見入っていた。今日訪れたノートルダム寺院や、向こう側にはモンパルナスビルや郊外のオフィスビル街も見える。

 ところでモンマルトルの丘と言えば、日本人なら是非覚えておかなければならない歴史的な場所でもある。それはこここそがフランシスコ・ザビエルが友ロヨラを含む6人の同志と共にイエズス会を結成した場所であるからだ。1534年のことである。
 イエズス会とはカトリックの一男子修道会、騎士団のひとつと言っても間違いではない。もちろん中世のように武器甲冑を身にまとうわけではないが、その精鋭性、精神性、攻撃的な積極性がそうと言える。
 当時ヨーロッパではプロテスタント運動が巻き起こり、多くの議論や宗教戦争と共にカトリックの勢力地図が塗り替えられていった。もちろんこれは長年にわたるカトリックの、伝統や権力にあぐらをかいて本来の聖書に基づく原始キリスト教の精神から逸脱し、世俗的になってしまった事に大きな原因がある。
それを真摯に反省し、精神修行に励み、大航海時代と共に広がった世界に宣教活動を行い、他国の異教徒から信者を獲得してカトリックを立て直すのが彼らの目的であった。
 フランシスコ・ザビエルはフランスとスペイン国境のピレネー山麓に住むバスク人で、当事カルチェラタンにあるセント・バルブ大学に籍を置く留学生であった。元々は哲学専攻で、神学には興味が無かったようであるが、同室の寮生ロヨラに感化され宣教師の道を歩んだ。その彼らがイエズス会の結成のミサを行ったのがここである。
 その日、彼らはカルチェラタンからここまで歩いて丘に登った。当時モンマルトルの丘は女子修道院と彼女達が運営するブドウ畑と風車が回っているだけのさびしい丘であったという。現在はその修道院も彼らがミサを行った聖堂も町に呑み込まれてしまっている。
 ザビエルやフロイスは他のポルトガル商人と共に多くの欧州文化を日本にもたらした。キリスト教を伝えたのは勿論だが、絵画、茶道、天文学、医学、また当時日本は戦国時代であったが軍事面で、鉄砲、大砲、陣羽織、甲冑、天守閣付きの城砦など、日本とその歴史、文化に与えた影響は計り知れない。今でも当時伝えられた幾つかのポルトガル語が日本語として生きている。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/6c/8b/akaisuiseinonya/folder/903189/img_903189_7416406_4?20061129010554

 さて後にそびえているサクレ・クール寺院であるが、1876年に普仏戦争でプロシアに負けた国民を励まし、第三共和制の成立を祝うために建設が始まった。建物としてはロマネスク・ビザンチン様式でありオリエントの香りが漂う。フランスをはじめとするオチデントでは、やはり教会はゴシック様式であり、それに見慣れていた人々はこの丸いドームはイスラムのモスクを連想してしまい、エッフェル塔と共に当時大変不評だったという。もちろん今ではパリの街に欠かせない建築物の一つである。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/6c/8b/akaisuiseinonya/folder/903189/img_903189_7416406_1?1164729954-11-27

 中に入ってみた。もうすぐ礼拝の時間らしく多くの観光客以外に地元の信者の皆さんが席に座っていた。内部もやはり先ほどのノートルダムとは大きく異なっていた。丸いアーチを駆使して建物が支えられ、古代ローマのバジリカを連想させるような造りだった。聖壇の上にはステンドグラスではなく、球形の壁の内側いっぱいにフレスコ画が描かれている。これもまたオーソドックス(東方正教会)をイメージさせる。
 さて感心しながら見ていたのだが、突然いかにもガードマン風のいでたちの黒スーツの黒人のお兄さんが私に近づいて、
「サー、これから礼拝なので教会から出てくれ」と言ってきた。
私はただの一観光客に過ぎないので、地元の皆さんの大切な習慣を妨げる事はできない。妻と共にそそくさと出口に向った。途中、堂内の横上のステンドグラスから夕日がまぶしく差し込んでいたのが得も言わず美しかった。
 ちょうど私達が出入り口の巨大で重厚な門をくぐる辺りで、中では礼拝が始まった。



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23.バスティーユ界隈

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 で、バスティーユといえば監獄があった場所であり、ここから世界中の国々に影響を与え世界史を変えたフランス革命が始まったのである。
 そもそもバスティーユという言葉自体フランス語で『要塞』を意味する。元々は14世紀にパリの東側を防衛する目的で造られた城で、堀に囲まれた城壁の高さは30m、8つの塔があったといわれている。ということは中世パリの街の東限はこのあたりになるということであろうか。
 後にこの要塞は、17世紀に『三銃士』で悪役としても登場する当時の大政治家リシュリュー枢機卿によって、主に政治犯専用の牢獄になる。当時ブルボン朝の権力は全盛期にあり、王の命令一つで反乱分子を逮捕し牢屋に収監できた。囚人は名前を公表されることもなく、送監する馬車には顔が見えないよう窓に覆いがされ秘密主義が徹底された。そのためこの建物は民衆の目にはルイ王朝の強権政治の象徴に映ったに違いない。中で何が行われているのか、そこに入れられたが最後、二度と出られないようなおどろおどろしい雰囲気から悪いイメージが膨らんだことだろう。同じくアレクサンドル・デュマの『鉄化面』(もしくは仮面の男)のモデルとなった囚人が収容されていたのもここである。
 ただ何も知らされなかった民衆の勝手な想像とはうらはらに、獄中での囚人生活はそう悪いものではなかったらしい。元々が要塞として造られているので各々の部屋は広い。5m四方ぐらいあったそうなので日本の8畳間より広い。天井の高さは7〜8mはあったようだ。日本の戦国時代の牢などは、立つどころか寝返りすら満足にうてない狭さで、数ヶ月そこに入れられると不衛生も手伝って必ず体をこわし、廃人同然、もしくは死に至ったという。当時のフランスの民衆が抱いたのは恐らくこちらのイメージのほうに近かったのではないか。ところが実情は、囚人は好きな家具を入れたり、お抱えのコックを呼んで食事を作らせたり、執事を使ったり出来たらしいので、そこはやはり古の政治犯の牢獄で、彼らも囚人とはいえ貴族として扱われたのである。
 では革命の際、民衆はなぜここを襲ったのか。それはここがルイ王朝の悪政の象徴のひとつに映ったことと、ここは軍の武器・火薬庫を兼ねていたため、武器弾薬を得るためだともいわれている。その時、この牢に収監されていた囚人は10人にも満たない精神異常者と不良貴族だけだったという。
 いずれにしても今まで絶対に逆らえなかったと思っていた権威の一画が自分達の手によってもろくも崩れた。こうなれば後は雪崩のごとくである。いったん政治的イデオロギーに火が付いた民衆のパワーは留まることを知らない。結果的に革命は成功する。その後この異様な雰囲気を放っていたバスティーユ監獄は取り壊されてしまい、今やなんの面影もない。

 現在、かつての監獄の跡には、車が行きかう広場と、近代的な概観のオペラ座が建っている。またこの界隈は、おしゃれな雑貨屋やカフェやバー、ディスコが数多く集まる流行に敏感な若者の町になっている。フランス内外を問わず今、若者たちにパリのバスティーユと聞けば「若者の集まる前衛的なおしゃれな町」という答えが返ってくるほうが多いかもしれない。実際、広場から少し裏の道に入ってみたが小さなお店やネオンが怪しく燈るバーやカフェが建ち並んでおり、その狭い道は若者たちであふれていた。確かに昔の陰惨なイメージなどはどこにも見あたらない。
 なんでもメトロ5号線の駅のホームと近くの小さな公園に、かつての監獄の基礎の一部が残されているらしいのだが、残念ながらそれを知ったのは帰国後だった。まことにもって、あとのまつりである。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/6c/8b/akaisuiseinonya/folder/903189/img_903189_4533743_3?2007-02-07
後日訪れた時のM1・バスティーユ駅 まさかこの下のM5のホームに監獄の一部が残されていたとは…

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 サークル!バスティーユ広場はまさに円だった。車道が巨大なロータリーになっており、そびえ立つ革命記念碑を中心に無数の車が排気ガスを撒き散らしながら、時計の針の逆方向にグルグル回っている。けっこうな交通量だ。
  欧米ではロータリー式の交差点は多い。日本の古い町の多くは京都を模し、京都は古の中国王朝が築いた碁盤の目状に道を整え区割りした長安の都を手本として造られている。そのため縦と横の道が交差するのが基本だ。
 しかしヨーロッパでは古代ローマ時代から、いやオリエントではギリシャ時代かそれ以前から、街の中心に公共の広場を置き、そこを中心に放射状に道を延ばし、街を築いてきた。キリスト教が地元の国教になった後はその広場の横に大聖堂などが建てられた。人々はそこで布告を出したり、それを知ったり、演説したり、論議したり、情報交換をしたり、市をたてたり、公開裁判を開いたり、公開処刑を行ったりした。
 実際、中世のころは魔女裁判や火あぶりがこれら広場で行われたし、後で行くことになるが、セーヌ川沿いのコンコルド広場ではフランス革命の際、ルイ16世と妻マリー・アントワネットがギロチンに処されている。つい最近の第二次世界大戦中でさえ、イタリアのミラノでファシストのムッソリーニとその家族が有名なミラノの大聖堂の前の大広場で絞首刑に処され、縄に吊られたその死体は1週間ほどその場にさらされたという。広場は、ヨーロッパではまったく欠かすことのできない公共の設備、歴史そのものなのである。
 さらに衛星状に小さな広場も街中にたくさんある。大抵そこには水道が引かれたり、井戸が掘られ、水汲み場が設置される。人々は一日の生活用水を汲むために、また洗濯をしにそこに集まった。広場と噴水が今でもセットになっていることが多い理由の一つだろう。やはり小規模であっても路地が放射状に延びてゆく。もっともこれは街の水脈事情によって多少の違いはある。スイスのように山の湧き水が豊富なところやローマ帝国が水道橋などを作って遠くの水源地から水を引いてくれていた街は水が豊富だが、反面パリはあまり水に恵まれずセーヌ河の水が生活用水の基本だったようだが、それでもヨーロッパの全体の街の基本設計は変わらないようだ。
 確かにパリなどの地図を見ると碁盤の目状ではなく大小さまざまなクモの巣の集まりのようだ。もっともパリはブルボン朝時代に宮殿や豪華な噴水が作られたり改装されたり、特にナポレオン3世の治世中1860年前後には街の大改造がなされ、貧民街が除かれたり道や広場が拡張されてきたため以前の限りではないが、それでもだいたいの原型はとどめている。いずれにしても馬車の時代を経て、車社会の現在でも街の区割りがあまり変わらないヨーロッパの街では、ロータリー式の交差点は実情にかなった交通交差方式なのである。
 
 ここバスティーユ広場には各道路のロータリーの入口部分に信号があったが、基本的には歩行者の横断用である。車で他の道からロータリーに侵入する場合、左側を確認して右折してロータリーに侵入する。そして円を描いて自分が出たい道でそのまま右折して出てゆくのである。曲がらなければ永遠にここでグルグル回ることになる。外国映画でヨーロッパの街中でのカーチェイスの場面でこのロータリーが時々出てくる。面白い画が撮れるからだろう。
 それにしても中央にそびえるこの記念碑の大きさと言ったらどうだろう。高さは50mはあろうか。鉄の柵の中に丸いケーキのような基礎があり、その上に立方体の台座が幾つか重ねられている。その上に青銅製の円柱が立っている。円柱にはびっしりと人々の名前が刻み込まれている。革命の犠牲者たちの名前だろう。さらにその上には自由の守護神の像が黄金の光を放って立っている。ここまでくればもう堂々としたビルディングである。
 『7月の円柱』がここの正式な名称だ。この柱はかつてのバスティーユ監獄の跡地には立ってはいるが、ブルボン朝を倒した1789年の大革命のほうではなく、1830年の『7月革命』の記念碑のようである。もっとも現在の共和制が出来るまでを大きな意味で『フランス革命』と呼ぶなら話は別であるが。実際この下には1848年の『2月革命』の犠牲者も埋葬されている。

 今、まさに私は、近代自由主義が、数々の流血事件の中で産声を上げた、その記念すべき場所の一つの上に立っている。 

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 この先バスティーユ広場まで歩こうかとも思ったが、地図によるとこの先1.5kmはある。昨日の疲れも残っていることだし短い距離ではあるがメトロに乗ることにした。
 サン・マルタン運河が地下に潜る道のすぐ横にレビュ・ブリック広場がある。その下にメトロのターミナルがある。この駅には5つの路線が集まっているため、なかなかに大きい。階段を下りると,やはりたいへんな人ごみだった。
 昨日は普通切符を買ったが、今日は一日パリをウロウロするつもりなのでモビリス(Mobilis)と呼ばれる1日券を買うことにした。普通乗車券が1.3ユーロに比べてこちらは1日乗り放題で5ユーロとかなりお得である。大きな駅なので窓口もあったが、これも自動券売機で買えるので例のローラーをクルクル回して、慎重にスペールを確認して2枚買った。ご丁寧にプラスティクの切符収納ケースまで付いてきた。丁度クレジットカードぐらいの大きさで切り口から切符を差し込める。低価格でその上こんなケースまで付いていて採算は合うのだろうか、と余計な心配をしながら改札口を通った。


https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/6c/8b/akaisuiseinonya/folder/903189/img_903189_4317412_3?2007-02-07

パリのメトロの一日券モビリスのケース 表と裏 切符を差し込める



 バスティーユ方面に行くのはオレンジ色のメトロ5号線である。メトロだけに列車はすぐにやってきた。3つ先の、そしてバスティーユ広場の一つ手前のブレゲ・サバン駅で降りた。なぜ一つ手前で降りたかと言うと、この駅とバスティーユ広場の間には有名なパリのマルシェの一つが開かれる場所だからだ。

 パリでは市内だけで60〜70のマルシェが開かれるという。マルシェ(Marche)は英語で言うところのマーケット、つまり市場である。通常、朝に開かれ、肉・魚・野菜・ワイン・チーズなどの生鮮食料品から日用品まで、様々な物を売る屋台が集まって軒を並べる。
 日本ではスタイルが変わってしまい市場といえば小売店を対象にした卸売市場を指すが、元は同じである。滋賀の八日市や広島の五日市などの○日市という地名が全国にあるが、あれらはその昔、毎月何日に、かの地で定期的に市場が開かれた当時の習慣の名残である。現代の日本ではそれらは商店街、スーパーなどにとって変わられ、輪島など一部の地方に、しかも大方は観光用に残るのみである。
 しかしパリのマルシェは違う。いまだにパリ市民の大切な日常のショッピングシステムとして確立している。郊外に行けばカルフールなどの大型店やスーパーもあるが、そういえば市内で日本のようなスーパーや商店街、個人経営の魚屋さんなどはあまり見かけない。ないことはないのだろうがやはり少ないように思える。
 市場はその国や街を知るのに都合がいい。食べ物などはその地方の文化を象徴する第一のものだと私は考えている。なにより地元で育つ野菜や穀物、動物はその地方の自然環境を反映している。そのワラや皮等の副産物によって日用雑貨や工芸品が作られてゆく。そしてソーセージや干物などの加工食品もその土地の風土や気候があってのものだ。主食の穀物の発育具合や収穫時期によって一年のスケジュールが−戦争のタイミングすら−決められ、異民族に支配されれば彼らは異国の食べ物をその地に残してゆく。人は生きていくために食べなければならない。人は食べるために働き、移住し、時には殺し合い、時には協力し合って、結果歴史が築かれてきた。地元の食べ物というのはその地方の歴史と文化の集大成なのである。    
 メトロの階段を上がる。この上はちょうどリシャール・ルノワール大通りである。通りと言っても運河の上にある緑の公園であるが、そこにマルシェが開かれているはずである。パリのマルシェとはどんなものだろう?なにか買い食いでもしようか?
 期待に胸を膨らませ地上に出ると、…愕然とした。人が賑わう屋台群なぞどこにもない。あるのはまばらに人がいる広々とした公園だけであった。
 実はマルシェは毎日開かれているわけではない。市場ごとに違うがバスティーユのマルシェは木曜と日曜のみに開かれるのだ。今日は火曜日だった。がっかりしながら所々に転がっている屋台の骨組みらしきワゴンを横目にバスティーユ広場に向った。
 遠くに巨大な円柱が立っているのが見える。あれこそがフランス革命で有名なバスティーユ広場か?!テンションが急に上がった私はマルシェのことなど忘れて足早に歩き出した。


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