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アムステルダムは運河の街。 町中にクモの巣のように運河が張り巡らされている。 というより、もともと湿地帯だった水の上に道路と街を築いていったというほうが正しいかもしれない。 この運河がこの街に独特の景観を作り出している。 運河を眺めていてよく目に留まるのが水上ハウス。 多くの人が船をそのまま家に改造して、運河に浮かべて暮らしている。 オランダにはもともと土地らしい土地がなかった。 「神は天と地を創造した、しかしオランダはオランダ人によって造られた」といわれるぐらいで、もともと低地の湿地帯でライン川による洪水がすぐに起こる人が住めない土地を、オランダ人がダムで川をせき止め、たまった水を風車でかきだし、開墾した国である。 だから、この国には元々他の国に売れるような天然資源も地場産業もなにもなかった。 土地がある国は土地を耕し自給自足で生きてきた。しかし土地らしい土地がもてない民族は耕す土地がないから、商いで生きていくしかない。 まさに商という文字自体がもともと中国の商の国に由来する。 戦国時代、秦の国に破れ国を失った商の人々は中国全土に散って、生きていくために物や金の取引を始めた。これが“商”(あきない)の語源であり、このとき「国敗れて山河あり」という言葉も生まれた。 ユダヤ人も一世紀に国を失いパレスチナからローマ帝国中に追い散らされた。 耕す土地を失った彼らもやはり商売を始め、ユダヤ商人となり世界の経済を牛耳るまでになる。 そんなわけで土地らしい土地が持てないオランダ人も貿易で生きる国となった。 物資の大量輸送は今も昔もやはり船である。 運河が張り巡らされたアムステルダムの街は船での輸送に大変適していたことだろう。 外に目をやれば、目の前の北海に出ればイギリス・フランス・スペイン・スカンジナビアに行けるし、ライン川をさかのぼればドイツ・スイスに至る。 ライン川下りはドイツ観光の目玉だが、川を下っていると今でもよくオランダの国旗をはためかせた貨物船とすれ違う。 今、運河にハウスボートに住んでいるほとんどの人はこれらの運搬船の仕事を引退した船員たちである。 ちなみにオランダもヨーロッパ文化圏だけに家も道も石造りだが、これらの石はオランダでは採れない。昔から全てドイツから輸入してきたものである。 路地に敷き詰められているブロックの一つ一つまでもが外国から金で買ったものである。 そのオランダがいち早く東インド会社を設立したり、貿易のために世界の東の果てである日本にまでやってきたことには納得がいく。 ヨーロッパの中でも小さな国、しかしその経済的パワーはスペインやイギリスを嫉妬させ、絶えずライバル視されてきた。 フィリップス、ユニリーバ、ロイヤル・ダッチ・シェル、KLM…、今でもダッチ企業は世界中で活躍している。 |
オランダ
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イギリス、ドイツ、スラブ系、アジア人、アフリカ系…とにかくいろんな国の人でごったがえしている。 引き続き、レッシュたちとアムステルダムを歩いている。 この街でとにかくすごいのが道を歩いている人の数、そのほとんどが観光客だ。 写真を見ても分かるようにアムステルダム中央駅前から延びる大通りなど、他のヨーロッパの街ではあまりみられないほどの人ごみで、しかもいろんな国の人が歩いており、逆にオランダ人を見つけるのが難しいぐらいだ。 冬などは閑散としたもので実に寂しいらしいが、春の訪れと共に周りの国々からどっと観光客が訪れるらしい。 オランダ・ベルギーは地理的にヨーロッパの中心にあるため、気軽に訪れやすいのだろう。 ヨーロッパのヘソと呼ばれ、国際会議などが多く開かれるのも納得である。 それともう一つ、この街には夜の顔がある。 それもまたヨーロッパ中から、特に若者を呼び寄せる要素となっているのだが、売春と麻薬である。 この国で売春とマリファナなどのライトドラッグは合法である。 これ目当てにアメリカ、ヨーロッパからこの国に人が集まってくる、ということは否定できない事実。 有名なのは『飾り窓』呼ばれる地区で、売春宿が軒を連ねている。 もっとも昼間行ってもただの運河沿いの美しい町並みなのだが、夕暮れともなるとその一軒一軒に怪しい紫色のライトが灯る。 玄関扉の横には大きなショーウインドウがあり、その中で下着姿のお姉さんがセクシーなポーズで客引きをしている。 オランダ政府も数十年前にこの売春を法的に禁止しようとしたらしいが、売春婦たちから『私たちには売春する権利がある』と強く主張され合法化したらしい。 オランダはアメリカよりもはるかに自由主義が徹底しているのだ。 これは副産物なのかもしれないが。 レッシュによると、売春宿はこの町の観光の(裏の)目玉になっているので、これを閉鎖すると観光客が激減する恐れがあるので政府は手を出せなかった、というのも地元のみぞ知る理由だったらしい。 だからだろうか、日本の風俗街のように派手なネオンがきらめいてるわけではなくひっそりとはしているが、悲壮感はあまり感じられない。 この界隈はドイツから遊びに来たスキンヘッドのネオナチの男どもが闊歩していることもあるから、観光で通り抜けするだけにしても、アジア系の我々は特に注意したほうがよいだろう。 また、この街でコーヒーが飲みたくなったからといってCoffee Shopには決して入ってはいけない。 これらの店はドラッグ(麻薬)をやるためのものである。 面白いのが、人がごった返している大通りから路地に入ると、たいていすぐにこのようなカフェショップかポルノショップがある。 ショーウインドウには麻薬のシンボルであるマッシュルームやシャレコウベの置物が多数飾られている。 煙草とは違う、独特の匂いがそれら路地に漂っているのだが、そこを乳母車を引いた普通の若いお母さんや、家族連れが気に留めることもなく歩いている。 全くもって、興味深い街である。 写真を撮ろうと思ったが、妻に怒られたのでやめておいた。 まあ、そんなあっけらかんとした雰囲気なのである。 ただ、落ちている注射針には十分注意のこと。 日本人を含む外国人留学生の中には、興味本位で薬に手を出して中毒になってしまう人も多いと聞く。
麻薬や売春ですら自由な国だが、自己責任の意識もそうとう強い。 自由には責任が伴うのだ。手を出して困っても誰も助けてくれない。 薬をやるのも自由だが、絶対に手を出さないことも自由であり権利なのだ。 |
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アムステルダムは運河の街である。 アムステルダム駅を中心にクモの巣のように放射状に運河が流れている。 その数は160本以上。その運河に架かる橋は1200本ともいわれる。 もともとが、ぐだぐだの湿地帯であったのをダムで水をせき止め、干拓事業の繰り返しで街が形造られていった。 街の名前自体が「アムステル川を堰き止めた」という意味のアムステルダムである。 この低地環境を逆手に取り、運河を町中に張り巡らしたおかげで、ハンザ同盟に伴い商貿易が盛んになる。 一昔前までは物資輸送といえばとにかく船だったのである。 17世紀にはアントワープで発展していたダイヤモンド商人たちが、当時ベルギーを支配していたスペインの圧制から逃れるためアムステルダムへ大挙して押し寄せる。 スペインはカトリックだが、オランダではプロテスタントだろうが、ユダヤ教であろうが、信教の自由が当時から認められていた。 結果、この街はさらに発展する。 やはりこの街の真価を確かめるにはボートに乗らなきゃ、というレッシュの勧めで乗ってみた。 なるほど、通りを歩いているのとは全く別のアムステルダムの顔がうかがえる。 面白いのは、運河が規則ただしく張り巡らされているため、場所によっては運河の果てまで橋が連続して見えることがある。 ロンドンやニューヨークでは屋根のない2階建てのSightseeing busがよく走っているが、その何倍も価値がありそうだ。 ちなみにボートを降りた後、街角で面白いベビーカーに出くわした。
なつかしの大八車を小型化したような形で幼い兄弟が乗っていた。 お父さんは中のマジックショップで定員と話をしていた。 なんかいい感じだったので、カードサイズにトリミングしてセピア色にしてみた。 よければポストカードにでもどうぞ。 |
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アンネの日記で有名なアンネ・フランクの隠れ家にやってきた。 ここもアムステルダムに来たら是非訪れたい場所のひとつだった。 私が「アンネの日記」を最初に読んだのは小学校6年生の頃だった。 当時、子供ながら太平洋戦争に興味を持ち、昼休みともなれば図書室に行って関連の本を読み漁っていたのだが、太平洋だけでなくヨーロッパでも戦争による数々の悲劇が起きていたことを知った。 フランク家はもともとドイツで代をかさね、アンネもそこで生まれたが、ナチのユダヤ人迫害から逃れるためアムステルダムにやってきた。 しかし、当時の人々の期待を裏切るように1940年、ナチはオランダを占領する。 今も昔も民族差別が皆無ともいえるぐらいこの問題を克服していいるオランダで、ナチ主導によるユダヤ人の迫害が始まる。 オランダ人のほとんどは何パーセントかでもユダヤの血が入っているし、他の国に売れるような何の特産品もないオランダが、世界有数の経済国家でありえたのはダイヤモンドなどを扱うユダヤ人商人によるところが大きい。 そのため、当時のアムステルダム市民もユダヤ人には同情的だった。 そのような背景の下、フランク家もここで2年にわたる潜伏生活を送ることになる。 家は西教会の近くにごく普通に建っていた。アンネは日記の中でしばしばこの教会について触れている。当然だが記述どおりだ。 家の前にはささやかながらアンネの銅像があり、多くの花が供えられていた。 家の中は完全に博物館になっているが、建物の躯体は伝統的なアムステルダムのそれである。 途中、アンネの家族の身分証明書や持ち物などが展示されていた。 結局、これら8人家族で、強制収容所から生きて出られたのは父親のオットーだけだったことを考えると一抹の悲しみを覚える。 一番の見所は、母屋と隠れ家を隔てる本棚だ。 移動式で、カモフラージュに使われた。アンネたちはどんな気持ちでここを出入りしたのだろう。 隠れ家側の幾つかの部屋は思っていたよりは広かった。日記によれば、当時この下は印刷工場かなにかで使われており、昼間はそれら労働者にばれないように足音を消して床を歩いたという。 実際に私もやってみた。彼女たちの恐怖と隣り合わせの潜伏生活を少しでも理解できただろうか。 窓の外には石畳の通りとマロニエの木が見える。これも日記の記述通りで、アンネたちはここから親衛隊の車や、摘発されたユダヤ人たちを、明日はわが身の思いで見ていた。 廃墟でなければ弾痕が刻まれているわけでもない。ただの家だ。
しかし、ここも当時の凄惨な歴史を語る生き証人であり、戦争の愚かさ、悲しさを訪れる人の心に深く刻み込む。 この後、ユダヤ人街に行ってみた。 ユダヤ人の象徴であるダビデの星のモニュメントが建っている以外、なんでもないただの町並みだった。 平和なものである。 この当たり前の平和が世界中の国や民族、街に訪れてほしいと願うばかりである。 |
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オンボロホテルのオンボロベッドでも、よく疲れていたのでぐっすり眠れた。 ここは朝食などは出ないので、外に出る。 アムステルダムにはフランスやイタリアのようなカフェやバールが少ないので、駅の売店でパンとコーヒーを買った。 アムステルダム中央駅の外壁の一部は改装工事中だったのだが、その横を、どこで朝食を食べようかと歩いていると突然、隣の足場で「ガタン」と大きな音がした。 なにかと思えば、二十歳ぐらいのフランス人らしき女の子が眠気眼でむくっと起きてきた。 彼女はどうも昨晩、宿がとれずにここで一夜を明かしたらしい。 オンボロでも宿が取れた我々はラッキーだったと思いつつ、この旅でいつか我々も野宿することもあるのかな、とも思った。 さて、今日は人と会う約束がある。 待ち合わせ場所はダム広場で、約束の9時ごろしばらく待っていると、向こうから「Mark & Christine」(私たちのEnglish Call name)と書かれたサインをもっている女性が近づいてきた。 彼女はアムステルダム在住のオランダ人でレッシュという。 彼女とはトロントにいた友達の紹介でネット上で知り合い、今回、私たちがヨーロッパに行くということで半年前から頻繁にメールのやり取りをしていたのだ。 お互いの写真も送っていたので顔は知っていたが、実際に会うのは初めてだった。 握手と抱擁をして、無事に、そしてやっと出会えたことを喜びあった。 レッシュはマリアという地元の友達と来てくれて、今日一日アムステルダム市内を案内してくれる。 彼女たちはスリナム系なので、オランダ人だが肌が黒い。 スリナムは南米の大西洋岸にある小さな国で、かつてはオランダの植民地だった。 その昔、オランダが黒人貿易をしていたころ、アフリカで集めた奴隷をいったんこのスリナムに送り、ここから南北アメリカに売り渡していた奴隷貿易の中継地点だった。 そのため、この国は南米に位置するにもかかわらずインド系とインドネシア系と黒人系の国で、公用語はオランダ語という特殊性を持つ。 何代前に彼女たちの家族が宗主国であるここオランダに移住したかは知らないが、そんなわけで私たちはここで生まれ育ったのよ、といったことを歩きながら教えてくれた。 このヨーロッパの黒人事情だが、特に西欧ではどこの国でも多くのアフリカ系住民がいるのだが、興味深いのは国によってそれらの人々の顔つきや肌の色が違うことである。 我々黄色人種でも日本人、朝鮮人、ベトナム人、中国の各民族によって顔立ちが違うように、一口にアフリカ人と言っても、民族や地域によってけっこう違う。 例えば、ベルギーはコンゴ系、フランスは西・中央アフリカ系が多い。彼らは黒人の中でも特に肌の色が濃い。 イギリスは目や口が大きめのギニアやナイジエリア、肌の色が薄くてあっさりした顔の民族が多いエチオピアやケニア系をよく見かける。 大航海時代に奴隷として連れてこられた人の子孫、第一次、第二次世界大戦の時に兵士として戦いそのまま移住した人、経済、政治難民、不法移民など、やってきた理由は様々だ。 これらかつてのヨーロッパの植民地だったほとんどの国は今は独立しているが、それぞれの宗主国とは今でも太いパイプを持っている。 コーヒー、カカオ、砂糖、鉱物資源の輸出入の経済的な関係は続いているし、政治や医療、経済などの問題で宗主国に助けや助言を求めることも多い。 宗主国側も労働者や知識層を充実させるためにそれら元植民地の国から人材を求めることも多い。 そんなわけで、現代ヨーロッパでは移民が当たり前になっているので、現地で知り合ったアフリカ系やアジア系の人に彼らのルーツを尋ねると、けっこう面白い話が聞けることもある。 さて、私たちはトラムと徒歩でアムステルダムを観光することにした。
アムスのトラムは切符のシステムが少しややこしいのでレッシュに助けてもらった。 トラムやメトロは街によって切符の買い方や使い方が微妙に異なるため、たいてい理解して慣れるのに時間がかかるのだが、さすが、持つべきものは現地の友である。 花の国、オランダだけにまずは花市場に行った。 店の数や品揃えも多く多種多様な花が売られていた。ディスプレイもすばらしく、いかにこの国の人々が花を愛しているかがうかがい知れる。 さらに、このアムスで一番おいしいと評判のアイスクリーム屋さんに連れて行ってもらった。 甘くておいしい!香りもコクも違う。特にチョコレートは絶品だった。 ああ、つくづくレッシュ様様である。 |




