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たびたび中国の漢詩や歴史人物などを紹介させていただいております。
ここで、自分自身の復習も兼ねて、中国史の大雑把な流れというか、概略を説明させていただきたいと思います。
実在が確認されている順に、それこそごく大雑把に言うと、
殷→周(西周)→春秋時代→戦国時代→秦→前漢→新→後漢→三国時代
→晋(西晋)→五胡十六国時代→南北朝時代→隋→唐→五代十国時代
→宋→金・南宋→元→明→清→中華民国→中華人民共和国(台湾)
という流れになります。。。。と始めた中国史入門の5回目です。
前回は秦による中国統一まで説明しましたので、今回は秦の滅亡から楚漢戦争までのお話を^^
秦は始皇帝のもと、その強大な武力と精緻な法律と官僚制度により中国を統一しました。
その支配は万世まで続くものとして自ら始皇帝と称したのでした。
しかし、帝国は始皇帝の死(紀元前210年)とともに、早くも崩壊が始まります。
始皇帝は死に際して、自ら辺境に追いやった長子扶蘇を都に戻し、二世皇帝に就くよう遺言しました。扶蘇は温和で聡明な人物で、たびたび父帝の暴虐な手法を諌めたため、追放されたのですが、死に際しては、始皇帝はやはり聡明な扶蘇を後継者にと考えたのでしょう。
しかし、遺言は実行されませんでした。宦官趙高、丞相李斯(りし)、末子胡亥(こがい)によって遺言は握りつぶされました。
扶蘇は偽の詔勅で死を賜り、暗愚な胡亥が二世皇帝となったのです。
二世皇帝元年(紀元前209)7月、即ち始皇帝の死の翌年、早くも事件は起こりました。
辺境の守備に徴用された農民900人が途中で大雨に遭い、期日に間に合わない状況になってしまいました。秦の法ではいかなる理由があろうと、徴用の期日に間に合わなければ斬られることなっていました。
その中にいた陳勝と呉広は相語らって、どうせ死ぬなら一か八かと、
“王侯将相寧ぞ(いずくんぞ)種有らんや”(王侯や将軍、大臣だからといって俺達と違うことがあろうか、俺達だって人間だ)と叫び、反乱を起こしました(陳勝・呉広の乱)。
わずか900人ではじまった反乱は瞬く間に各地に広がっていきました。
陳勝は緒戦で勝利し王を称したものの、反乱後6ヶ月で秦の正規軍に敗れ、敗走の途中で部下に殺されてしまいました。
しかし、各地で連鎖的に起こった反乱は留まることを知りませんでした。
その中から、やがて項羽と劉邦の二人が生き残り、天下の覇権を争うこととなります。
項羽はもと楚の将軍の家柄で、勇猛なことで知られていました。
一方、劉邦は農民(豪農だったいう説もあります)の出身でした。
二人は同じ楚の反乱軍に属していましたが、同時に別ルートから秦の都に攻め入り、先に秦の都を落としたものが秦の地、即ち関中の王となることを約束されました。
項羽は前にいる敵を手当たり次第に撃破しながら進みました。戦争に強いのは圧倒的に項羽でした。
しかし、結果として無駄な合戦を避けて咸陽を目指した劉邦が先に秦の都、咸陽を攻略しました(紀元前206年)。始皇帝の死後、わずか4年でした。
そこで劉邦は秦の宮殿の美女や財宝には一切手を触れず封印し、過酷な法に喘いでいた民衆に対しては“法は三章のみ、人を殺す者は死、人を傷つけ盗みに及ぶものは罪に抵る”と約束しました。
後から関中に到着した項羽は途中、劉邦の軍により関中に入ることを妨げられ、激怒します。
また、自分は途中、秦の大軍を撃破したのに、それを避けて先に関中に入った劉邦に手柄を横取りされたとも思ったかもしれません。
史記の項羽本紀では“行く(ゆくゆく)秦地を略定す。函谷関兵有り関を守り、入るを得ず。又沛公已に咸陽を破り、項羽大いに怒る”とあります。
項羽は劉邦を攻め滅ぼそうとしましたが、劉邦はここで戦っても勝てないのは知っていたので、何とか項羽の機嫌をとり、事なきを得ました。
このとき項羽の軍師は、女好きで欲張りの劉邦が宮殿の美女にも財宝にも手をつけなかったのは天下を狙う心があるからである。ここで何としても殺して、後顧の憂いを除くことを強く勧めました。結果として後に項羽は破れ天下は劉邦のものとなるので軍師の言葉が正しかったことになります。
このとき軍師は“ああ、豎子(じゅし・子ども、年若い項羽のこと)ともに謀るに足らず。項王の天下を奪う者は必ず沛公なり。吾が属は今に之の為に虜とならん。”と言ったといいます。
劉邦は秦の本拠地である関中を退き、代わって項羽が関中に入りました。項羽は秦の最後の王を処刑し、宮殿の美女や財宝を悉く略奪した上で火を放ち、滅ぼされた祖国の恨みを晴らしました。火は三ヶ月間消えることは無かったと史記は伝えています。
始皇帝の過酷な施政ののち、劉邦に法三章を約束され安堵していた秦人の恨みはもちろん深いものがあったでしょう。
そして、秦の支配は万世までその支配は続くとして自ら始皇帝と号して始まったその統一はわずか3代15年で秦の滅亡という形で終わることとなりました。
秦を滅ぼした後、項羽は自ら諸将に論功を行いました。
秦の本拠地関中は四方を要害に囲まれ、また農作物が豊かなところであるので、そこを取ることを勧める人もいましたが、故郷に錦を飾りたいという理由^^;で、自ら祖国楚の地を治め、西楚の覇王と称しました。劉邦は関中のさらに奥地にある辺鄙な漢中と巴蜀の地に封じられました。左遷という言葉は、劉邦がこのとき、関中からさらに左にある漢中に遷された故事によるそうです^^;
つづく。。。。
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為になるな〜。。。
学校では触れていなかったものな〜専攻は中国史ですか?
日本にも、そう、反乱軍の中から国造りがされたように出てこいや、と行きませんかな。。。
2011/1/6(木) 午後 10:03 [ makii ]
鴻門の会の緊迫した情景が目に浮かびました。
故郷に錦を飾りたい!項羽の故国楚は南にあり、米作がさかんなんですよね。小麦の団子じゃなくて、おコメ食べたかったのかな?
なんて思いつつ、続きとっても楽しみにしています。
村凸♪
2011/1/7(金) 午後 9:04
makiiさん、こんばんは^^
歴史はエピソードが面白いんですよね。
年号を覚えるのは拷問みたいなもんですよね^^;
日本では中国と違って国をひっくり返すような反乱は難しいですですよね、せいぜい一揆。。。。
それは戦乱の度に、人口の数分の一が虐殺されたり餓死したり、あるいは去勢などの過酷な刑罰を課されたりという、過酷な歴史の中で培われた民族性なのかもしれませんね。。。
2011/1/7(金) 午後 10:43 [ akatomo ]
あとりさん、こんばんは^^
鴻門の会、ほんとはもっとエピソードを紹介したかったのですが、キリがないので泣く泣く省略したました。でも、范増のあのセリフは名言なので、やっぱり外せませんでした^^
でも、このシリーズは、本当はもっと簡潔に、流れだけを参考として紹介するものとする予定だったのですが、史記の時代は史記そのものが面白いので、ついついエピソードが多くなってしまいました。
この先も何とか清まで(もっと簡潔な形になるでしょうが)、歴史のアウトラインの紹介を続けてみたいと思います。
2011/1/7(金) 午後 10:49 [ akatomo ]
おばんです♪
分かり易く悪いアタマにスイスイ入りました、この後も楽しみです♪
2011/1/7(金) 午後 11:08
はじめまして
よく
清→中華民国→中華人民共和国(台湾)
という説明がされますが、これは中共が台湾・満州・内モンゴル・東トルキスタン・チベットを領有する政治宣伝に利用されていますよね。
孫文の辛亥革命で中華民国が成立し、蒋介石と毛沢東が孫文の後継者を争って、まあとりあえず毛沢東が勝った。だから、清朝の版図を中共が領有するのは当然だと言ったような。
支那大陸はヨーロッパ州のようなもので、国家はなかった。
私は、実態は
辛亥革命で支那大陸は「第二次戦国時代」になった、と理解する方がわかりやすいと思いますよ。
大躍進や文革まで内乱が続いたのですから。
孫文はやたらと日本では評判がいいけど、クワセモノですよ。というTBします。
2011/1/8(土) 午後 4:20
mamazoさん、こんばんは^^
親父の墓参りで埼玉に帰省してました。返事が遅くなり申し訳ありませんでしたm m
拙いブログに過分のお褒め、ありがとうございます^^
そのお言葉に調子に乗らせていただいて、また続きを書きます(笑)
2011/1/11(火) 午後 9:03 [ akatomo ]
たつやさん、はじめまして。
ご訪問、Т.B.ありがとうございます。
また、土曜日から今まで、帰省していたため、お返事が遅くなり失礼しました。
確かに今日の中華人民共和国の領域は、異民族王朝たる清帝国が同じく諸異民族を征服して形成されたもので、中国固有の領土と云えるものかは、個人的には甚だ疑問であると考えています。
そもそも中華思想とは膨張思想ですから、漢族は歴史的に周辺の夷狄を或いは殺し、或いは同化させながら中華世界を拡大してきました。
後年、中国が逆に北方の胡に征服された時も、胡自らが漢化し、中華世界に飲み込まれてしまったという事例もあります。
近代史については、現代に直結するだけに、単に”歴史”では納まりつかない部分があります。
僕は学校では近代史を専攻したので(はるか以前になってしまいましたが^^;)、自分なりに思うところはありますが、
今は専門的な勉強をしていないので、
またブログでは、匿名性というところもあるので、ただ歴史を楽しむ、というスタンスでやっていきたいと思っています^^;
2011/1/11(火) 午後 9:33 [ akatomo ]