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yahooニュースで、ドイツで93歳の元親衛隊(SS)の隊員が逮捕され、ユダヤ人虐殺の罪で裁判を受けることになったというのを見ました。
たまたま、ハンナ・アーレントの「イェルサレムのアイヒマン−悪の陳腐さについての報告」を読む準備として(以前、準備無くアーレントの別の著書を読もうとして挫折したので^^;)、矢野久美子「ハンナ・アーレント」という本を読んでいたところだったので、僕的にタイムリーな話題だなと思いました。
ナチス政権下のドイツでは周知のように、ユダヤ人の絶滅政策が実行され、一説に600万人とも言われるユダヤ人が虐殺されました(なお、ユダヤ人だけでなく、ロマ人や同性愛者、反体制派の人々も同様に虐殺されています)。同著の主人公であるアドルフ・アイヒマンは、一将校として、ユダヤ人の絶滅政策の一端を担い、忠実かつ有能にそれを実行した人物でした。
ユダヤ人の絶滅政策は、戦争の過程として一部の過激なナチス信奉者が実行したものではなく、「ナチス政権下の」ドイツが国家の「行政」として処理した事案だったのです。
当たり前ですが、このような国家犯罪(時期が戦争と重なるが戦争犯罪ではない、だからこそ一層深刻だと思うのだが)は当然許されることではありません。
ただ、思うのです。
ヨーロッパで長年差別され迫害されてきたユダヤ人がパレスチナでパレスチナ人を差別し迫害している。
ナチスは「悪」として断罪されたが、イスラエルのユダヤ人は決して断罪されることはない。
人間にとって「正義」も「悪」も絶対的な基準が有るわけではなく、時代や場所によって移ろう訳だけれども、それにして、それらは「力」の前に、あまりに軽いものに思えてしまう。
ナチス政権下のドイツは、恐ろしい国家犯罪を断行しました。それは多くの時代と場所に置いても、間違いなく「悪」と呼ばれるでしょうし、そうあるべきと思います。それを相対化しようとは微塵も思いません。
でも、世界には規模の大小はともかく、それと類似のことをしても断罪されることのない、まだ「悪」とされていない「事象」が多くある。つまり、事象はそのように評価されなければ「悪」にも「正義」にもなりえない。そして、その評価には「力」が介入することがある。
今回のニュースを読んでいて、そんなことを考えてしまいました。
参考文献
「ハンナ・アーレント」 矢野久美子 中公新書 2014
「イェルサレムのアイヒマン」 アーレント みすず書房 1969
「カチンの森」 ザスラフスキー みすず書房 2010
「アメリカ・インディアン悲史」 藤永茂 朝日選書 1974
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