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12年前に亡くなった親父は酔うと、子供だった僕によく昔の話をしていました。
子供の頃の僕は、酒にいささか(ではないか^^;)だらしない、そんな親父の酔態が嫌いでしたが、今、振り返ると貧しさの中で思い通りに行かなかった人生、それでもそれは、親父なりに一所懸命に生きてきた昭和史の一断面なのかもしれないと思い、記憶を手繰りつつ、ここに書き記したいと思います。
名も無き庶民であった親父の送った人生の記憶、僕がここで書き記さなければ、その記憶は永遠に失われてしまうものなのでしょうから、それを書き残しておくことは、それなりの意味のあることかもしれないとも思いますので。。。
の7回目。
親父は中学を卒業後、集団就職で新潟県の村松から東京に出てきました。Yさんは親父の同級生で、やはり集団就職で東京に出てきていたのでしょう、よく連んでいたそうです。あるときなどは、仕事で国技館に一緒に行き、こっそりと土俵で相撲を取ったこともあったそうです(オイオイ(^_^;))。
そんなYさんが、あるとき、故郷の新潟に帰ると、親父に話をしました。親父は、強く反対し、東京に残るよう言ったそうですが、結局Yさんは新潟に帰ってしまいます。そして、その後すぐに自殺をしてしまった。。。
どうも恋愛関係のもつれがあって、そのために新潟に帰ったらしいのですが、結局上手くいかなかったとのこと。親父は「帰っても、上手くいかないから、あんな女のことは忘れて、こっちに残れ。」と言ったそうです。
恋愛問題での自殺、正直なところ、僕たちとは時代の違いを感じますが、酒と感情で目を赤くしながら、「あれほど帰るなと言ったのに」後々までそう話をしていた親父は、よほど引き留められなかったことを後悔していたのでしょう。
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親父の昭和史
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9年前に亡くなった親父は酔うと、子供だった僕によく昔の話をしていました。
子供の頃の僕は、酒にいささか(ではないか^^;)だらしない、そんな親父の酔態が嫌いでしたが、今、振り返ると貧しさの中で思い通りに行かない人生、それでも親父なりに一所懸命に生きてきた昭和史の一断面なのかもしれないと思い、記憶を手繰りつつ、ここに書き記したいと思います。
名も無き庶民であった親父の送った人生の記憶、僕がここで書き記さなければ、その記憶は永遠に失われてしまうものなのでしょうから、それを書き残しておくことは、それなりの意味のあることかもしれないとも思いますので。。。
の6回目。
昔の日本を舞台にした映画とかを見ていると、よく小さな女の子が赤ん坊をおんぶしながら学校に行っている風景があったりします。
うちの親父もあんな風におんぶされていた赤ん坊だったそうです(爆)
親父は6男1女、7人兄弟の末っ子。
親父の母親、僕のおばあさんは心臓の弱い人で、お姉さんが弟たちの世話をよく見ていたそうです。実際におばあさんは、親父が18歳の時、50代で亡くなったそうですが。
で、お姉さん(僕にとっては伯母さん)が小学生のころ、まだ赤ん坊だった親父をおんぶして学校に連れて行っていたとか。。。
親父は生前、兄貴たちはともかく姉貴にだけは頭が上がらない、とよく言っていました。
このエピソードは終戦前後のお話です(親父は昭和17年生まれ)。
日本がまだまだ貧しかったころのことですが、それはまだ自分たちの親の世代のことなんですよね。
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9年前に亡くなった親父は酔うと、子供だった僕によく昔の話をしていました。
子供の頃の僕は、酒にいささか(ではないか^^;)だらしない、そんな親父の酔態が嫌いでしたが、今、振り返ると貧しさの中で思い通りに行かない人生、それでも親父なりに一所懸命に生きてきた昭和史の一断面なのかもしれないと思い、記憶を手繰りつつ、ここに書き記したいと思います。
名も無き庶民であった親父の送った人生の記憶、僕がここで書き記さなければ、その記憶は永遠に失われてしまうものなのでしょうから、それを書き残しておくことは、それなりの意味のあることかもしれないとも思いますので。。。
の5回目。
昨年の秋、単身帰省し親父の墓参りをしてきました。
そのついでに、弟に車を出してもらって、小学2年まで住んでいた三河島(東京都荒川区)に立ち寄りました。当時住んでいた家の近くの、駅まで続く路地は、炉端焼き、イナゴの佃煮などを売る店が多く並ぶ賑やかな、もう少し広い道だったように記憶していましたが、それもすべて記憶の彼方のものであったようです。
子どものころ、親父から聴いたのですが、この三河島駅の近くで、未曾有の鉄道事故があったそうです。
若かった親父が、夜、パチンコから帰ると線路の下が大騒ぎになっていたそうです。あたりには多くの人の死体や怪我人が所狭しと満ち溢れ、さながら地獄絵図のようだったそうです。そして訳も分からないまま、怪我人だか死体だかを運ぶ手伝いをさせられたとか。
この記事を書くために、ウィキペディアで調べたら、昭和37年(1962)に発生した160名の死者を出した、日本鉄道史上有数の大規模事故だったそうです。
今日、新幹線を代表に日本の鉄道の安全性は世界最高峰と聞いています。しかし、日本もほんの数十年前には、このような大事故を起こして、尊い人命を何百人も犠牲に出してしまう、言ってみれば発展途上国状態だったんですね。
三河島駅付近の常磐線
昔の家から駅に続く路地。お店と人でいっぱいの想いでは。。。
駅前の薬局さんは昔のままです
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8年前に亡くなった親父は酔うと、子供だった僕によく昔の話をしていました。
子供の頃の僕は、酒にいささか(ではないか^^;)だらしない、そんな親父の酔態が嫌いでしたが、今、振り返ると貧しさの中で思い通りに行かない人生、それでも親父なりに一所懸命に生きてきた昭和史の一断面なのかもしれないと思い、記憶を手繰りつつ、ここに書き記したいと思います。
名も無き庶民であった親父の送った人生の記憶、僕がここで書き記さなければ、その記憶は永遠に失われてしまうものなのでしょうから、それを書き残しておくことは、それなりの意味のあることかもしれないとも思いますので。。。
の4回目(ついでに言うと3年ぶり)。
〇親父は中学を卒業して、新潟から集団就職で上京してきました。
確か、最初は煎餅屋か何かに住み込みで働いていたと聴いた気がします。
昭和17年生まれで中学卒業後すぐということは昭和32年ということになるのでしょうか。
労働基準法的には完全な違反ですが、上京当時の親父には休日は月に2日しかなく、たまの休みは、たいてい3本立ての映画を観に行っていたとのこと。当然、テレビなど持っているはずも無く、映画がほとんど唯一の娯楽だったそうです。
〇僕が小さい子どもだったころ、テレビはまだ白黒でした。我が家のテレビがカラーになったのは、僕が5歳のころ。
当時「秘密戦隊ゴレンジャー」(だったよな)というヒーローものが放送されており、それをカラーで観たいという僕の我が儘から、カラーテレビを買ったのだとか。。。
東京の下町で4畳半一間に家族5人、電話も無い貧しい生活でしたので、親としてはかなり無理して買ってくれたんだろうなぁ。
そういえば、高校2年までは大学は無理、高校出たら就職してくれと言われていたけど、結局、借金してまで大学に行かせてくれたし。。。。
僕はそこまで自分の子どもにしてやれてないな。。。
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4年前に亡くなった親父は酔うと、子供だった僕によく昔の話をしていました。
子供の頃の僕は、酒にいささか(ではないか^^;)だらしない、そんな親父の酔態が嫌いでしたが、今、振り返ると貧しさの中で思い通りに行かない人生、それでも親父なりに一所懸命に生きてきた昭和史の一断面なのかもしれないと思い、記憶を手繰りつつ、ここに書き記したいと思います。
名も無き庶民であった親父の送った人生の記憶、僕がここで書き記さなければ、その記憶は永遠に失われてしまうものなのでしょうから、それを書き残しておくことは、それなりの意味のあることかもしれないとも思いますので。。。
の3回目。
○今回は、子供の頃に、親父から聴いた親父の長兄、つまり僕の伯父さんのお話です。
親父の長兄は、親父よりも18歳年長でした。
先の大戦中は、海軍に志願し水兵になったそうです。
ただ、この伯父さん、水兵のくせに泳ぎが苦手だったとか。。。
(いったい何で海軍に志願したんでしょうね^^;)
ある日、伯父さんの乗った軍艦が米軍機の攻撃を受け、敢えなく撃沈されてしまいました。
他の水兵はみな泳いで艦から逃げました。
そして、米軍機の機銃攻撃で、ひとり、またひとりと、次々と撃ち殺され海の藻屑となってしまった。。。。
泳げない伯父は最後まで艦にしがみついて、機銃攻撃を免れ、そのうちに流れてきたもの(それは何か忘れてしまいました)に摑まって、海を漂流したそうです。
しばらく漂流して味方の軍艦に救われて命を拾ったとのこと。
伯父さんの乗っていた軍艦で生き残った者は、伯父さん以外ほとんどいなかったそうです。
でも、伯父さんは後に癌によって58歳で亡くなりました。
親父の兄弟(7人兄弟)では誰よりも早死にです。
何が強運で、何がそうでないのか。。。。
人の一生というものの判断は、禍福が入り混じっていてとても難しいですね。
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