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ブログから日本を変えよう(反日勢力にカツ)

万歳クリフ

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我ら降伏せず NO.2

ほんの表紙に
我ら降伏せず
サイパン玉砕戦の狂気と真実 

玉砕戦とはかくも無惨なものなのか。バンザイ攻撃、
米軍の残虐行為、自決、集団投身自殺、そして斉藤中将の最期
そのすべてを体験し目撃した一士官が散華した戦友への鎮魂の
思いをこめて書き上げた実録サイパン戦記。

と記されている。著者は、500日に及ぶ戦闘の間、片時も離
さずに作戦地図を履行し、敵の動き、戦友の死等を日付をつけ
て書き込んだ。本書はその地図とメモにもとずいて執筆された。

昭和22年出版を試みるがGHQの検閲により発表できず、35年
ぶりに刊行された。

著者 田中徳祐(たなかのりすけ)
大正9年1月1日生まれ
昭和15年3月、大阪府天王寺師範学校二部卒業
16年3月20日、現役兵として満州960舞台入隊
17年3月、豊橋予備士官学校卒業
17年陸軍少尉任官
19年2月20日、訓2551部隊河村部隊甲副官として
サイパン島に転進。原野区大尉に昇進
戦後5年間公職追放
27年4月1日、教職に復帰

はじめに
サイパン島攻撃は昭和19年6月11日からの米軍の空爆、艦砲射撃から始まった。
同15日10万の米軍、日本軍5万、民間人1万が戦闘に巻き込まれた。
7月7日日本軍は総攻撃をかけ玉砕、1ヶ月の間の戦いで日本軍の大半が死傷し屍となった。
島は幅4キロ、長さ16キロの中で峻烈な戦いが展開された。
昭和20年12月1日まで戦い、自分は最後まで残り日本へ帰った。
遺族から「あなたはなぜ生き残れたのか」という遺族の言葉に狼狽し、胸が痛かった、とあり彼の心境はいかばかりであったか。
昭和22年帰国ると彼は、すぐこの実践記を「今日の日本」とゆうゆう雑誌に掲載されたがGHQの検閲によりズタズタに切り裂かれた。「以後の発表まかりならぬ」との検閲結果。その後昭和51年に遺族からの要請で出版しようとしたがショッキングな内容で出版できなかった。

その後、昭和58年7月7日に加筆を加えずに出版の運びとなった。

私はこの本を読んで5万にもなる霊に哀悼の年を捧げるとともに、サイパン島にて散華した英霊に合掌いたします。

今の日本にはほとんどのものが手に入る。衣食住たりて礼節を知るとは言われても、今の日本人には無縁のようである。足りて常識知らずかな。
海外に行く日本人はかなりの数になるだろう。欧米に東南アジア、南太平洋などである。金にまかせての旅行、豊かになったものである。しかし、この陰には幾多の日本人の尊い命を代償に戦った歴史がある。

日本人に人気のあるリゾート地サイパン島がある。海水浴のメッカでもある。そのリゾート地で、60年前日米で壮絶な戦いがあった。日本人観光客に人気のあるマッピ岬もその一つである。今の若者達がその地で何が起こったか知るものは少ないだろう。サイパン島には戦いに敗れて逃げまどう軍人と民間人がいた。彼らは戦禍を逃れながら島中を逃げまどった。しかし、安全なところは無かった。追いつめられて日本に一番近いところマッピ岬へ集まり、そこで婦女子、住民達が投身自殺を始めた。

マッピ岬集団自殺の原因。
今から参考にする本は「我ら降伏せず」元陸軍大尉田中徳祐氏の著書である。昭和22年に発行されようとしたが、GHQの検閲で発行を禁じられ、35年ぶりに刊行となったものである。ほんの一部では有りますが、米国人が自由主義下(軍国主義、大統領の策略、植民地主義)でなにをしたか。

昭和19年6月15日午前8時45分、チランカノアの海岸に、約三個師団と推測される敵兵が上陸してきた。そこからサイパン島の陸上戦が始まった。当時はサイパン島には砂糖工場があり日本人も居住していた、民間人がいたことでかなり悲惨な結果になってしまった。

全裸で連行された婦女子たち
7月9日、このころには日本軍の組織的な抵抗は無くなり掃討戦の様相をあらわしてきた。敵は流ちょうな日本語でジャングル地帯に童謡を流し投降を促す放送を流し始めた。
日本軍は組織的な抵抗は捨て、洞窟に、数人、あるいは数十人ぐらいが生き残り潜んでいた。
米軍は日本人に対し、戦争が終わりサイパン島は米軍の手に落ちたこと、隠れている日本人に投降を勧めました。「投降すれば、立派な衣服や、美味しい食料も十分に与えます。もはや犬死にすることはない、今や死んでも花実は咲きません。みなさんの投降をまっています」

その後に、兎追いしかの山、と続く童謡を流し始めました。これには潜んでいた日本軍も参ってしまつ
た、その後、桃太郎、天然の美、荒城の月などがながされたそうです。
「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」
投降を勧める放送は再三繰り返されたが日本軍は、その放送を頭から否定した。
むしろ敵愾心がわいてきたそうです。

投降呼呼び掛けの放送とはうらはらな、人道上許し難い残虐な行為をしだした。日本軍はバナデル飛行場を見下ろせる洞窟にいて、その距離1キロ位先で展開された。
そこへ、三方から追われた数百の住民が逃げ込み、捕らわれた。
幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ、婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理矢理トラックに積み込まれた。そして無理矢理積み込まれた順にトラックは走り出した。婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫していた。

その声がマッピ山にこだまし、次つぎとトラックは走り出し、彼女たちの声は遠ざかっていた。
なんたることをするのだ、小銃だけではどうすることもできず、此方の位置もしれてしまう。
この悲劇をただ見守るしかなかった。(この婦女子はその後一人として生還しなかつた)

婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供老人の悲鳴があがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供達。その悲鳴。「米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい」の投降勧告の意味は。幼い子供が泣き叫び、絶叫する、

「おい、もう我慢ならん。撃て」
吉田軍曹が一発撃った、何の効果もなく、敵はもはや無関心。

残酷な行為は壮絶をきわめた。火から逃れ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、又火のなかへ付き返す。死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴り飛したり、銃で突きとばしては火の海へ投げ込んでいる。
二人の兵隊が滑走路際にいた、泣いている赤ん坊をみつけ、両足をもって、真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。「ギャッ」という悲鳴。人間が蛙のようにまたさきにされ殺されてゆく。

彼らは、その行為を平然としてやり、大声で笑い得意げになっていた。日本軍は手を出せず、ただ合掌し霊をとむらうほかなかつた。

我々の発砲で敵の攻撃が始まり、なんとか夕暮れまで持ちこたえ、夜にマッピ岬の海岸近くの洞窟へ移動した。
朝になり敵の戦車が洞窟の下近くで止まり、また降伏勧告放送が始まった。その勧告に我慢できずに親子が真っ昼間に投降し出した。日本兵は「パッカヤロー、今になって...。しかも昼間に投降するやつがあるか」銃を持って後ろから親子を撃った、苦しんでいるのを出てとどめをさそうとしたときに米軍からうたれた。これを境に洞窟にめがけて集中こうげきが始まった。

断崖からの集団投身自決
昭和19年7月11日、東の空が白むころ、追いまくられた住民がマッピ岬にむかって死の行進をはじめた。数百、数千人はいただろうか。もう、だれの制止もきかない、魔術にかかったように怒濤岩をかむマッピ岬の断崖にたち「天皇陛下万歳、皇后陛下万歳」
と叫んだかと思うと、海中めがけて飛び込んだ。投身自殺は次々とおこなわれ、子供も、婦人も、押されたように飛び込んでゆく。
その海中には、群れをなした鮫が泳ぎ回り、海はたちまち真っ赤に染まり、飛び込んだ人たちは次々と食いちぎられ沈んでいった。

陽が沈み、警戒しながら洞窟から外へでて見ると、至る所に死体が散乱し、木に引っかかった者、岩に張り付いた人、首のない子供の体などこの世のものとは思えない惨状。

この後、まだ米軍の残虐な行為は続きます。私がこの本を選んで書き込みをしたのは、今時戦争ではよく日本人の集団自殺と万歳攻撃が引き合いに出されます。その結果日本人の特殊性などと言われ、かなり誤解されているようです。

今時戦争において、リンドバーグは欧州からアジアの戦線へ慰問の旅をした。しかし、彼はアジアを回ったところで慰問の旅を止めてしまった。理由は米軍の日本兵に対する扱いであった。開戦当初劣勢に置かれていたこともあっただろうが、彼らは捕虜をとらなかった。投降してきた日本兵を皆殺しにした。この傾向は戦争全期間において続き、日本兵の捕虜の価値が理解してきて捕虜として扱ったようである。「硫黄島からの手紙」で捕虜にした日本兵を射殺した映像があったが、あれが事実である。それに比べ日本はバターン死の行進のように日本兵より多い捕虜を長時間かけ移動させた結果、あの悲劇が起きたのである。日本人は戦時国際法を守る確率の高い国である。

万歳突撃などの攻撃方法は生きて虜囚の辱めを受けずとの戦陣訓が根本に有るのではないのか、この戦陣訓のなかの「生きて虜囚の辱めを受けず」とは、日清戦争にまで遡る。当時日清は借り物の兵器を使い戦った。当時日本は清国の捕虜にたいし、ハーグ陸戦条約を守り捕虜を条約により扱った。しかし、清国はこの条約を守らず日本兵に対し懸賞金をかけた。捕らえられた捕虜は、かなり残酷な方法で扱われ生きて帰れるものはいなかった。そこで日本軍は兵に対し捕虜になることの危険性を伝え、捕虜になる前に死を選ぶように伝えた。

日清戦争時の「生きて虜囚の辱めを受けず」これが日本軍の戦陣訓として一人歩きをして、生きて帰ることが恥じと解されてしまった。それにより、日本兵は捕虜になった時の敵に対する対応を教えていなかったために、その後の悲劇となり、また「日本兵捕虜は何をしゃべったか」などの著書が出版されるに至った。そのことが民間、従軍看護婦などにも伝わり集団自決、万歳攻撃へとなった。

しかし、サイパンの悲劇は其ればかりでなく、米軍の日本兵に対する扱いがかなりの比重を占めるのではないか、日本軍が壊滅しゲリラ戦になり、通信網は寸断されたが、島内を逃げまどう兵隊などから、1.2日で島中の状況が聞けたとのこと、米軍による婦女子の(素っ裸にされトラックで運ばれた)扱いはかなり早く全島へ伝わったのではないか、筆者自身が推測されている。このことから、日本人ばかりが例外でなく、戦陣訓などの教育の成果、米軍の扱いなどによりサイパン島(他の戦地でも同じような)の悲劇がおきた。

開戦当時米軍が劣勢に置かれた時点で、米側航空機パイロットのなかには日本軍に太刀打ちできないのを悔しがり、戦争後半の神風攻撃隊と同じことを考えた、との言葉を残していた米軍パイロットの感想が記載された記事を読んだことがある。国を守る事において兵隊の考えには大差が無いとゆうことである。欧米は古くから戦いに明け暮れていたため、捕虜になること、捕虜を捕らえることにたいし羞恥心はなく全力を尽くせば問題ない。日本では戦陣訓による教育が一人歩きをしてしまった。

ただし、欧米の間では人種間差別はあまり問題にならないが、アジア人にたいしてはあったと確信できる戦争であった。日本が多大の犠牲を払ったおかげで、今支那の一部の植民地をのぞき、世界中の国々の中に植民地は無くなった。

坂井三郎氏の米国の講演で、「この戦争で日本が戦ったおかげで20世紀には植民地がなくなった」と語った。白人は黙りこくり、反響はよくなかったようである。日本人よ、もっと自分の歴史、先達を誇りに想うではないか。其れが日本の礎になった人たちへの、今生きている我々のできる尊崇の念である。

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