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今年に入り、主人の熱が続き、開業医では解らないと言われ、救急車でS病院に入院しました。 |
私の施設(家族)
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今年になり、主人の体調が悪くなり、訳の分からない湿疹や38度位の熱がひかず、
私の係りつけ医で何度かみて抗生剤等飲んでも、熱が引かず、
先生、これは解らないから入院して調べて下さいと言って下さり、
救急車で総合病院に運ばれ入院検査していていました。
入院してもなかなか原因がわからず、先生達がチームを組んでくれて、
徹底的に検査しました。
本当に各科の先生と相談して精査して下さっていたのですが、なかなかわからず、
1ケ月以上経ち、やっと難病のベーチェット病の診断されました。
なかなか、薬もなく症状に対し治療です。
私が一番心配なのは血栓が出来やすい病気で、血栓が飛んで心臓や脳に飛んでしまったら怖い。
今回は肺に飛んでいました。
あとはいろいろありますが、眼に症状が来ることが多く、失明された事もいます。
走ったり、激しい運動はよくないという事で、
仕事するとどうしても残業してしまうので、
思い切って仕事辞める決断をしました。
やっと退院しましたが、通院だらけの日々で、なかなか落ち着かず今に至りました。
私も痛みは軽くなってきたのですが、慢性疲労症候群で、
とにかく体がだるくて、気力がないのが悩みです。
それでも、何とか動ける時間になったら、毎日病院に行き、主人のベットの下の方で横にならしてもらい、帰ってくる日々を
送ってました。
何とか退院しましたが、難病指定やいろいろな事があり、いまだ落ち着かない日々ですが、
普通の生活は出来るので、家事して貰ってます。
私はすごく助かりますが、外出する機会が増え、何とか主人にくっつき動いてます。
夫婦で闘病生活の始まりです。
これからどうなるか解りませんが、マイペースで生活していきます。
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12月になり義母が膀胱癌の末期で、余命がないと告げられました。
入院して義母は腎臓カテーテルを入れ、意識を取り戻しましたが、
もう手術出来る状態ではないと医師から告げられました。
毎日家族が面会にいっても「家に帰りたい。帰りたい」というだけ
私も義母にはいろいろ助けて貰い、何も恩返しができてなくて
それが心残りで点滴しながらついていました。
家に帰りたい気持ちを何とか叶えてあげたい。
私は家族に在宅でも病院といるサービスが出来るから、
おかあさんを何とか家に帰して貰いたいと頼みました。
家族は在宅のサービスに不安を抱えていましたが、
何とか住み慣れた家に帰って来れました。
そしたら苦しそうな顔が、急に穏やかな顔になりました。
それから私も横になりながら義母の手を握っていました。
不思議と手を握っている度に私の気持ちも穏やかになりました。
呼吸が最期のの呼吸になっても穏やかでした。
急に脈が触れなくなり、家族の人を呼びました。
義母は苦しみもなく先週穏やかに息をひきとりました。
当たり前のように病院で亡くなるのが今の世の中・・・
昔はこんなに病院がなかったから家で息をひきとるのが当たり前でした。
家で看取る事が本人にとり、どれだけ幸せな事だろうか・・・
今は在宅のサービスが充実して幸せな時代です。
もし、そんな立場の方がいたら、家での看取りをしてもらいたい。
数日でもいいんです。
どうか本人の希望を叶えてあげて下さい。
最期の時の気持ちを叶えてあげて下さい。
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今日は父の日
こんな日は亡くなった父を思い出す。
私は、働く父の背中しか知らない。
夜中までひらすら私達のために働いていた。
食事もろくにとった姿も思い出せない。
父には、叱られたことも、ほめられたこともない。
ただ働いていた。
私は三姉妹の長女であるせいか・・・
家柄を守るためか・・・
とにかく習字、ピアノ、英語、・・・
その他もろもろ、家庭教師を三人もつけられ社会的に恥のない人間に育てるため、
スケジュールにおわれる毎日を送っていた。
私は友達と遊ぶ時間がなく寂しくて、
自由な時間が欲しいと両親に泣いて、許してもらおうとした。
でも、父は何も口にしなかった。
私が高校3年になり、
婚約者も決まっていると聴いたときはショックで家を飛び出してしまった。
私が結婚を決めた時に、私達家族が父の戸籍に入っていなかった事を
初めて知った。
もう一つの家庭があると母が呟いた。
その時は、父を許すことが出来ず、すごく父を責めた。
その時、初めて父が「すまなかった」と泣いた事だけは思い出す。
でも、もう一つの家庭があっても、父は私達の家にずっといてくれた。
家に帰れば、父の働いている姿があった。
だから、どんな事情があろうと、私たちの所にいてくれた父を今は感謝している。
父が認知症になり、私の顔も解らなくなってしまった時、
私に「どこのお姉さんか知りませんが、
あけみは今、お風呂に入っていますからいないんです」と、
私の名前を口にしてくれた事はすごく嬉しかった。
父には旅行に連れて行くことも、何もしてあげれなかった。
でも、私と共に一緒にいてくれて、育ててくれた事に感謝します。
天国のお父さん、私の声が聞こえますか?
「お父さん、本当にありがとう。いつか又、あってお父さんと話をしたい。
今はまだ会えないけど、大好きなお酒を一緒に飲みながら、思い出話をしたいよ」
たった一枚父に抱いている写真がみつかった。
父のスクーターで遊ぶのが大好きだった。
懐かしい・・・
セピア色の写真です。
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4回目の人工髄液受けてから、まだ1か月もたっていませんが、
今までなかった症状や、ややきつい痛みが出たり、だるさが半端でなく、
寝たきりの生活をしていました。
でも、回復しているな・・・と思える日も出てきました。
という訳で、昨日は自分の施設にやっといけました。
山奥にあるのと、標高300mあり、途中気圧が1000hpa以下に下がる所があり、
私の地獄谷を越えていかなければなりません。
元論、送迎はお願いしていますが、一揆に下がるので、
行くだけで覚悟が必要です。
昨日は無事施設に行けて、利用者さん(私の家族)に会うことが出来ました。
「あけみさん、やっときてくれたね〜待ってたよ〜」
と、満面の笑みで迎えてくれました。
いけば、、「あけみさんは座っていてくれるだけでいいの」と、
皆さん、手取り足取り、皆さんがよく動いて下さいます。
私の施設は、もう一つの家族だと思っているので、
(宅老所みたいな所)皆が、出来る事をして一日を過ごしています。
だから、利用者さんが調理したり、洗い上げ、洗濯・・・一緒に動いています。
でも、人間って不思議なもので、昔できた事は忘れていなくて、
出来た事をして頂くと、本当に認知だと言われていた方も、
症状がかるくなってきます。
孤独化していた方にも笑みがもどってきます。
そんな方の微笑みをみると、私も、ここに施設があって良かったと思えます。
私が、なぜ、あんなにも山奥に施設を建てたかといいますと・・・
(いや皆さんに建てて頂きました)
病気をしてから、自分の入りたい施設がなかった事と、
一番高齢化率が高く、孤独化しているご老人がいたからです。
山ですので、隣の家が見えない方もいますよ・・・
そこで、ひとり動けなかったら、どんな寂しい思いでいるでしょうか・・・
そんな方が、一人の時間をなくし、少しでも楽しみを持ち、
皆と笑って過ごせる時間があれば幸せだと思い、
静岡県の山間地、春野に施設を建たせて頂く事ができました。
施設に来れない方には、おにぎり持っていく事もあります。
職員も最低限の賃金でも、愚痴もなく一緒にいてくれます。
私は、本当に施設にかかわってくださった方に心から感謝したいです。
そして、きてくれる私の大好きな家族・・・本当にありがとう。
第4日曜日には元気クラブもひらいていて、地域のみなさんが集まり、歌うたたり、たまには旅行に行ったり・・・
楽しい時間をすごしています。
いつまで続くか不安もありますが、皆に少しでも笑顔を取り戻せたら・・・
ただそれだけです。
少しでも多く仕事?(ではないですね)に行ける日がふえたら幸せです。
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