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ソビエト軍の満洲侵攻は残虐非道でした。
シナChina共産党が自国民を戦車で轢き潰す映像を見た方も多いと思いますが、ソビエト兵は轢き潰すだけでなく日本人を戦車のキャタピラーで轢き潰しながら回転するのです。これは私が小さい時から聞いていた話で満洲国に居た身内の者が見たソビエト兵と戦車の行動です。
そして、ハルピンから日本に来ている中国の人からは「私のおばぁちゃんは、私が小さい時から日本人に悪い人は居なかったと言っていたよ。日本人は謝らなくていい。そりゃあどこの国にも良い人も悪い人もいる。日本人が居なくなってからの方が悪い漢族軍が入り日本時代より悪くなっている」と言います。そう言うハルピンの人たちを何人も知っています。
中国共産党と共産党員が居なくなれば良いと言う人は多いですね。そして、韓国人は気違いだ頭が狂っているから大嫌いだと言う中国の人たち。











日本人のルーツはインドか?
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浜中寛祐はその著書「契丹古伝」で、日本人のルーツは大陸渡来の朝鮮や満州人だとしたのに対して、、浜田秀雄も初めは同調していたが、大正時代になると、
インド諸州の難民こそ祖先なりと主張した。その内容は、
「縄文時代初期のまだ土器石器時代の三韓植民地だった日本列島へ進攻してきて、弥生時代に変えたのはインドのモン族とクメール族で、アヴマンテイ朝のインド人が、
今の飛鳥に立てた天の王朝なのだ」とするのが浜田秀雄の提唱する説である。
やがて朝鮮からアソカ王に追われたカリンガ種族がきて、南朝鮮に百済国を作り九州から日本へ渡ってこられた武神天皇の「建御雷神」とし、今は祀られていますのが、
実はインドのピラスプール部族なのであるといい、土佐へ上陸し四国を平定してから、難波に入って物部王国を築いたのも、インドーマウリア王朝滅亡の際の、難民団の軍人たちが姶祖だったというのです。
 「シュガン王朝が亡びた時に逃げてきたのが朝鮮では新羅を建国した。それが日本では熊襲となって、やがて応神王朝をたてるようになり、
アヨーダ、ヤの難民が『阿多隼人』とし九州南西を征服して土着した」と、仏教の釈迦のインドと日本古代史の関わり合いを類似言語をもって例証に次々と証明してます。
 つまり紀元前7世紀のアヴァンティ王朝の滅亡時から流入が始まって、次のマラ王朝の滅亡の際に追われた難民がアヨーダハヤで、彼らが後に日本の隼人族となり肥人となるというのであります。
 マガタ王朝が亡びた際にはインドのカースト制度を、その亡命者らが日本列島へ持ちこみ、ナーガ王朝やその次のナング王朝が攻め滅ぼされた時も、
彼らは新天地を求めて東支那海より日本へ渡来したり、東胡となって越族と共に来日したとする説です。
つまり、日本の弥生時代というのは、インドの難民が次々と入ってきて青銅文化や水田耕作を教えて成立したものであると致します。
 さながらシルクロードでも通ったみたいに、みな陸路からきて朝鮮半島経由で、釜山から九州へといった当時施設された南満州鉄道的な思考ですから、今もこの説の信奉者は多いようであります。
しかし、達磨大師もインド人だったのは有名な事実だから、当時からインド人の日本列島への流入は相当数あったのは事実だろう。
だから、インドの小人族ピグミーが相当に流入してきていて、彼らが八幡国群の部族になっていましたゆえ、親大陸政権の耶馬台国群に討伐され、
五体揃った一メートルあまりの生ける人形の「生口」として、珍奇な生き物として中国へ貢進されていた事は否定しません。
しかし、どうして海路を考えないのでしょうか?
現在〈フロイス日本史〉として邦訳されていますが、イゼズス派の東洋管区の拠点はインドのゴアにあって、そこから島原半島の突端の口之津までは、潮の流れにのれば半月もかからず到達とも出ています。
 なにも天山山脈を越え、異民族や群盗の跋扈する危険な陸路をとって、中国大陸へゆき、そこから南満州鉄道もなかった古代に、遥々と歩いてくることはありません。
筏か小舟でも日本までなら半月で楽にこられます。マカオ政庁の古文書では、
信長時代の堺までの航路を九日としています。九竜半島には「九の国」が昔はあったそうです。
 〈契丹史〉にも「東大古族は、つまり日本人の祖国」とあるくらいでして、彼らが渡来してきてもみな女上位の民族ゆえ、今では女忍者に間違えられている、
「九のいち、と女のことを山が者がいいますのは、国栖とか土蜘蛛とよばれた日本原住民の中で、女がえらくて一の位置をしめていたからである」とありますから、
日本原住民の一種は間違いなく東大古族かも知れませんが、浜田秀雄説では、なおさらに話のきめてとし、高千穂のある南九州にジンムの日向王朝があった頃、
畿内から東海地区に広がってあったのが、「魏史」で書かれている処の「血奴国」で、これはインドのマウリア王朝が滅びた際に海路、筏によって日本へ漂着した一団を祖としているので、
「物部王朝」と当て字するがモウリヤベ王国とします。
 つまり頭の上にチョン髷を結ぶのはインドの一部と昔の日本だったのはこうした関連性によるものである。そして、
〈東日流外三郡誌〉に出てくる処の「陽茂台(ヤンマタオイ=耶馬台国)」が、このマウリア王国にあたり、ビンロウ樹の実で歯を黒く染める「お歯黒」を明治まで日本の風習に残したとします。
 インドのハツシーが群れ、部落を押える為の原始的シャーマニズムで、その女王がヒミコとします。
ボンベイやカルカッタの繁華街には鉄柱に赤ペンキの矢印があり火縄がまいてある。道行く人はこれでタバコの火をつけていて、路上ライターの感があるものだが、これの意味するところは、
太陽教が回教になった7世紀以降には、火を尊ぶ拝火宗徒がインドへ多量流入したということでしょう。
 浜田秀雄の時代は日清日露シベリヤ出兵と、まさに皇国史観の世を迎える時だったので、神武さまをたてていますが、物部王朝のあった頃には、九州には高麗系の薩摩には隼人王朝ができていました。
また、今の岡山辺りには中国の華夏王朝ともよばれ桃原王朝。河内から淡路にかけては百済王朝。
四国の土佐には雲南系のチャンス王朝(後に四国を征服した「長曾我部」はチャンスガメという)。そして東海地方の今の海部郡から琵琶湖にかけての、淡海王朝が栄えていて、やがて大和の飛鳥に進出。
秋田の八郎潟の周辺から北海道にかけては白色人種のダッタンやユダヤの十を掲げるクルス王朝etcと、日本列島では群雄割拠の有様でした。
だから江戸時代になっても、まだ公然と六十余州と称し、大名の支配する各藩は「わが国」と、みな別個にそれぞれが呼んでいた位ですから、もっと人種別に色んな群小王朝が当時は、
白山王朝を始め各地に六十余もひしめきあっていたのがどうも正しいようであります。
 実は遙かアラブより渡来した者らがインドやマレーシアを中継ぎ地点にし、そこの難民と共に、ばらばらの筏では危ないから、鉄のくさび止めをした大船団で次々と渡ってきてもいたようです。
 なにしろ暖流と寒流の吹き溜りの日本列島ですから、打ちよせられるみたいに次々と色んな人種が漂着して住み着いた。そこで船団ごとに入植地とし漁業をやり、
粟などをまいて食っていたのでしょう。戦前のハワイや南洋群島には、乗船してきた船別になって各集団を作っていた日本人部落の習性は、どうもこの時の名残りと中しますか、
その伝統的な風習の遺伝みたいなものを、しみじみと感じます。
 つまり太平洋岸の各群小王朝は、アラブ系、マレーシア系、インド系、雲南系と色んなグループ別に、まだ石斧や竹の弓矢の先住民族を攻めたてて銅文化によって支配し、
それぞれ奴隷の奪い合いや、食料や女狩りで時には争っていましたが、まあ一応はそれなりには無難でした。処がです。
 裏日本の佐渡や若狭湾から新潟にかけ、突如として狗よりも大きく人間をのせて走る四つ足の怪物が出現。
つまり鉄のくさびで連結した筏や大船にのり渡海してきた、鉄剣の鉄の矛をもった一団が押し寄せてきました。馬に驚かされた訳でもないが、先住民はとても銅の剣や武器では敵対するあたわずでした。
かって旧ソ連と日本海航路が開かれていたころは、新潟からバイカル号で直通でウラジオストックヘゆくのが寒流です。この寒流に乗れば燃料は半分で済んだと云われるほど、
太古も海流は海上交通は多かったことが考えられる。
しかも縄文人は何も日本列島へ来たくて来だのではなく、漂着して仕方なく暮していたにすぎないのに対し、「豊葦原の国」つまり牧草がふんだんにある土地だと、狙いをつけ渡ってきた騎馬民族には、
烏合の衆の日本縄文人達は、生まれて初めてみる馬に驚いた訳でもなかろうが、銅剣を叩っ切る鉄剣の恐しさに、みな仕方なく降伏してしまったのが、〈旧事本紀〉にでてくる処の、景行さまと八坂姫との婚儀でしょう。
江上波夫説の騎馬民族が韓国経由渡来や、浜田秀雄説のシュードラ王朝の難民が越族と共に韓国経由来日説も間違いありませんが、釜山から九州へではなく裏日本へとベーリング寒流で渡来したのが正解でしょう。
現在でも北朝鮮の貧弱なボロ漁船が次々と日本海沿岸に漂着するのがその証拠です。
世界風俗史上、頭ヘチョンマゲをのせた国民はインドのベンガル人と日本人だけしかいないとの、浜田説の日本人のインドールーツ説を全面的に否定する気はありませんが、
昔は南満州鉄道PRの国策宣伝。現代では平山画伯の若い頃の画を沢山もっている新聞社社長や画廊の宣伝で、文化流入を陸路シルクロードにみなしてしまうのは困りものである。
世界地図か地球儀をよくみてから考えて貰いたいものです。
 北方の越の民が入ってきた地方だから、コシの国といい、今も越前・越中・越後というのですし、若狭の神宮寺は今も「北狄修法」をやっています。日本列島には表側と裏側との反対の二面があります。
 が、せっかく騎馬民族が平定したものの、豊葦原の牧草だけでなく、高梁や米もとれる瑞穂の国と判ると、今度は改めて朝鮮半島から、中国人や朝鮮人が植民地にするため侵入し、古墳時代となるのです。
つまり片っ端から原住民を捕えて奴隷使役で、大掛りな円型古墳を作らせついでに生き埋めでした。
しかし、人口の少なかった時代だから、粘土の人形即ち人間の代用に埴輪で間に合わせる時代となるのです。




















日本人のルーツはインドか?
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浜中寛祐はその著書「契丹古伝」で、日本人のルーツは大陸渡来の朝鮮や満州人だとしたのに対して、、浜田秀雄も初めは同調していたが、大正時代になると、
インド諸州の難民こそ祖先なりと主張した。その内容は、
「縄文時代初期のまだ土器石器時代の三韓植民地だった日本列島へ進攻してきて、弥生時代に変えたのはインドのモン族とクメール族で、アヴマンテイ朝のインド人が、
今の飛鳥に立てた天の王朝なのだ」とするのが浜田秀雄の提唱する説である。
やがて朝鮮からアソカ王に追われたカリンガ種族がきて、南朝鮮に百済国を作り九州から日本へ渡ってこられた武神天皇の「建御雷神」とし、今は祀られていますのが、
実はインドのピラスプール部族なのであるといい、土佐へ上陸し四国を平定してから、難波に入って物部王国を築いたのも、インドーマウリア王朝滅亡の際の、難民団の軍人たちが姶祖だったというのです。
 「シュガン王朝が亡びた時に逃げてきたのが朝鮮では新羅を建国した。それが日本では熊襲となって、やがて応神王朝をたてるようになり、
アヨーダ、ヤの難民が『阿多隼人』とし九州南西を征服して土着した」と、仏教の釈迦のインドと日本古代史の関わり合いを類似言語をもって例証に次々と証明してます。
 つまり紀元前7世紀のアヴァンティ王朝の滅亡時から流入が始まって、次のマラ王朝の滅亡の際に追われた難民がアヨーダハヤで、彼らが後に日本の隼人族となり肥人となるというのであります。
 マガタ王朝が亡びた際にはインドのカースト制度を、その亡命者らが日本列島へ持ちこみ、ナーガ王朝やその次のナング王朝が攻め滅ぼされた時も、
彼らは新天地を求めて東支那海より日本へ渡来したり、東胡となって越族と共に来日したとする説です。
つまり、日本の弥生時代というのは、インドの難民が次々と入ってきて青銅文化や水田耕作を教えて成立したものであると致します。
 さながらシルクロードでも通ったみたいに、みな陸路からきて朝鮮半島経由で、釜山から九州へといった当時施設された南満州鉄道的な思考ですから、今もこの説の信奉者は多いようであります。
しかし、達磨大師もインド人だったのは有名な事実だから、当時からインド人の日本列島への流入は相当数あったのは事実だろう。
だから、インドの小人族ピグミーが相当に流入してきていて、彼らが八幡国群の部族になっていましたゆえ、親大陸政権の耶馬台国群に討伐され、
五体揃った一メートルあまりの生ける人形の「生口」として、珍奇な生き物として中国へ貢進されていた事は否定しません。
しかし、どうして海路を考えないのでしょうか?
現在〈フロイス日本史〉として邦訳されていますが、イゼズス派の東洋管区の拠点はインドのゴアにあって、そこから島原半島の突端の口之津までは、潮の流れにのれば半月もかからず到達とも出ています。
 なにも天山山脈を越え、異民族や群盗の跋扈する危険な陸路をとって、中国大陸へゆき、そこから南満州鉄道もなかった古代に、遥々と歩いてくることはありません。
筏か小舟でも日本までなら半月で楽にこられます。マカオ政庁の古文書では、
信長時代の堺までの航路を九日としています。九竜半島には「九の国」が昔はあったそうです。
 〈契丹史〉にも「東大古族は、つまり日本人の祖国」とあるくらいでして、彼らが渡来してきてもみな女上位の民族ゆえ、今では女忍者に間違えられている、
「九のいち、と女のことを山が者がいいますのは、国栖とか土蜘蛛とよばれた日本原住民の中で、女がえらくて一の位置をしめていたからである」とありますから、
日本原住民の一種は間違いなく東大古族かも知れませんが、浜田秀雄説では、なおさらに話のきめてとし、高千穂のある南九州にジンムの日向王朝があった頃、
畿内から東海地区に広がってあったのが、「魏史」で書かれている処の「血奴国」で、これはインドのマウリア王朝が滅びた際に海路、筏によって日本へ漂着した一団を祖としているので、
「物部王朝」と当て字するがモウリヤベ王国とします。
 つまり頭の上にチョン髷を結ぶのはインドの一部と昔の日本だったのはこうした関連性によるものである。そして、
〈東日流外三郡誌〉に出てくる処の「陽茂台(ヤンマタオイ=耶馬台国)」が、このマウリア王国にあたり、ビンロウ樹の実で歯を黒く染める「お歯黒」を明治まで日本の風習に残したとします。
 インドのハツシーが群れ、部落を押える為の原始的シャーマニズムで、その女王がヒミコとします。
ボンベイやカルカッタの繁華街には鉄柱に赤ペンキの矢印があり火縄がまいてある。道行く人はこれでタバコの火をつけていて、路上ライターの感があるものだが、これの意味するところは、
太陽教が回教になった7世紀以降には、火を尊ぶ拝火宗徒がインドへ多量流入したということでしょう。
 浜田秀雄の時代は日清日露シベリヤ出兵と、まさに皇国史観の世を迎える時だったので、神武さまをたてていますが、物部王朝のあった頃には、九州には高麗系の薩摩には隼人王朝ができていました。
また、今の岡山辺りには中国の華夏王朝ともよばれ桃原王朝。河内から淡路にかけては百済王朝。
四国の土佐には雲南系のチャンス王朝(後に四国を征服した「長曾我部」はチャンスガメという)。そして東海地方の今の海部郡から琵琶湖にかけての、淡海王朝が栄えていて、やがて大和の飛鳥に進出。
秋田の八郎潟の周辺から北海道にかけては白色人種のダッタンやユダヤの十を掲げるクルス王朝etcと、日本列島では群雄割拠の有様でした。
だから江戸時代になっても、まだ公然と六十余州と称し、大名の支配する各藩は「わが国」と、みな別個にそれぞれが呼んでいた位ですから、もっと人種別に色んな群小王朝が当時は、
白山王朝を始め各地に六十余もひしめきあっていたのがどうも正しいようであります。
 実は遙かアラブより渡来した者らがインドやマレーシアを中継ぎ地点にし、そこの難民と共に、ばらばらの筏では危ないから、鉄のくさび止めをした大船団で次々と渡ってきてもいたようです。
 なにしろ暖流と寒流の吹き溜りの日本列島ですから、打ちよせられるみたいに次々と色んな人種が漂着して住み着いた。そこで船団ごとに入植地とし漁業をやり、
粟などをまいて食っていたのでしょう。戦前のハワイや南洋群島には、乗船してきた船別になって各集団を作っていた日本人部落の習性は、どうもこの時の名残りと中しますか、
その伝統的な風習の遺伝みたいなものを、しみじみと感じます。
 つまり太平洋岸の各群小王朝は、アラブ系、マレーシア系、インド系、雲南系と色んなグループ別に、まだ石斧や竹の弓矢の先住民族を攻めたてて銅文化によって支配し、
それぞれ奴隷の奪い合いや、食料や女狩りで時には争っていましたが、まあ一応はそれなりには無難でした。処がです。
 裏日本の佐渡や若狭湾から新潟にかけ、突如として狗よりも大きく人間をのせて走る四つ足の怪物が出現。
つまり鉄のくさびで連結した筏や大船にのり渡海してきた、鉄剣の鉄の矛をもった一団が押し寄せてきました。馬に驚かされた訳でもないが、先住民はとても銅の剣や武器では敵対するあたわずでした。
かって旧ソ連と日本海航路が開かれていたころは、新潟からバイカル号で直通でウラジオストックヘゆくのが寒流です。この寒流に乗れば燃料は半分で済んだと云われるほど、
太古も海流は海上交通は多かったことが考えられる。
しかも縄文人は何も日本列島へ来たくて来だのではなく、漂着して仕方なく暮していたにすぎないのに対し、「豊葦原の国」つまり牧草がふんだんにある土地だと、狙いをつけ渡ってきた騎馬民族には、
烏合の衆の日本縄文人達は、生まれて初めてみる馬に驚いた訳でもなかろうが、銅剣を叩っ切る鉄剣の恐しさに、みな仕方なく降伏してしまったのが、〈旧事本紀〉にでてくる処の、景行さまと八坂姫との婚儀でしょう。
江上波夫説の騎馬民族が韓国経由渡来や、浜田秀雄説のシュードラ王朝の難民が越族と共に韓国経由来日説も間違いありませんが、釜山から九州へではなく裏日本へと寒流で渡来したのが正解でしょう。
現在でも北朝鮮の貧弱なボロ漁船が次々と日本海沿岸に漂着するのがその証拠です。
世界風俗史上、頭ヘチョンマゲをのせた国民はインドのベンガル人と日本人だけしかいないとの、浜田説の日本人のインドールーツ説を全面的に否定する気はありませんが、
昔は南満州鉄道PRの国策宣伝。現代では平山画伯の若い頃の画を沢山もっている新聞社社長や画廊の宣伝で、文化流入を陸路シルクロードにみなしてしまうのは困りものである。
世界地図か地球儀をよくみてから考えて貰いたいものです。
 北方の越の民が入ってきた地方だから、コシの国といい、今も越前・越中・越後というのですし、若狭の神宮寺は今も「北狄修法」をやっています。日本列島には表側と裏側との反対の二面があります。
 が、せっかく騎馬民族が平定したものの、豊葦原の牧草だけでなく、高梁や米もとれる瑞穂の国と判ると、今度は改めて朝鮮半島から、中国人や朝鮮人が植民地にするため侵入し、古墳時代となるのです。
つまり片っ端から原住民を捕えて奴隷使役で、大掛りな円型古墳を作らせついでに生き埋めでした。
しかし、人口の少なかった時代だから、粘土の人形即ち人間の代用に埴輪で間に合わせる時代となるのです。


転載元転載元: 令和を拝し、忠烈萬世に燦たり皇恩に謝せり

桜の花が咲き散るころ



「桜の花にたとえられ戦場に行かされた若者がいたから、桜は好きじゃない」という人がいる!しかし自ら志願し戦った益荒男がいたことを忘れないでほしい!

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 ある施設での会話です。あるオバサンが「あら綺麗な桜、このカレンダーの桜は何処のなの」との質問に対し、施設のオヤジさん曰く「俺は桜の花なんか綺麗とは思わない。だって昔、桜の花にたとえて若者が戦場に行かされたじゃない、そんなんだから好きじゃない」と答えていました。
 その後、隣の私に「そう思いませんか」とその話をふってきたのですが、私は即座に「そうは思わない。あの時に戦わなかったら日本は植民地になっていた。だから戦わざるを得なかったんですよ」と答えました。
 施設のオヤジさんいわく「物資も充分じゃなく、相手にならないのに戦争に行かされたんだから、たまったもんじゃない」というので私は答えました「日本から戦争を仕掛けなくても、ルーズベルト(米国大統領)は昭和17年には日本を爆撃する計画書に許可のサインをしているんですよ」と。
 施設のオヤジさん曰く「悪い奴がいたんだな」。
 ※日米開戦前に、米国は建前上は退役させたパイロットを支那(いまの中国)に派遣し、義勇軍フライング・タイガースを結成させ、国民党軍に無償支援した戦闘機や爆撃機で日本軍と交戦していた。その部隊に昭和17年には日本本土を空爆させる計画が、日米開戦前に策定されていた。
 
 その後、その話を続けると、その施設での営業を邪魔する事になりそうなので、それ以上そのことを話すのを止めました。その施設のオヤジさんの事を人間的に信頼しているので、正直、その親父さんの「戦争観」の一片を垣間見て複雑な感情に襲われました。
 「無茶な指導者が無意味に戦争を起こし、若者がその犠牲になったとか、そんな話じゃなく。白人による植民地経営が当たり前の人種差別の時代に、日本国が日本として生き残るために最善を尽くした戦いが、先の大戦だったんです」と言いたいところですが、それを理解してもらうためには最短でも20分位は説明しないとダメでしょう、私の説明力では。だから、それ以上は言えなくなってしまいました。いやそれ以上に、人間関係がおかしくなるのが怖かったのかもしれませんね。

 ところで、日本が米英と大東亜戦争(太平洋戦争というのは米国側の表現)で戦わなかったならば、いったい日本はどうなっていたでしょうか。
 「馬鹿な戦争をしたもんだ」といった論調で語る人が多いですが、その人たちは日本が戦わなければ、今の日本国はもっと良い国になっていたとでも思っているのでしょうか。

 では日本が大東亜戦争、それ以前の支那事変(今は日中戦争と呼ばれている)、第1次世界大戦、日露戦争、日清戦争の明治から大正、昭和初期の時代は、どんな世界だったのでしょうか。
 いろんな見方があるでしょうが、一口で言えば白人至上主義、帝国主義に基づき、白人列強国が有色人種を支配し、労働を命じ、資産を収奪する、「白人の為の世界」であったのではないでしょうか。
 その当時、有色人種国家で植民地になっていなかったのはエチオピア王国(今は滅亡)、タイ王国、そして大日本帝国だけでした。それ以外の有色人種国家は、植民地として白人に支配され、人権を剥奪されていました。

 「自由で平等の国、アメリカ」と思っている日本人が多い事と思いますが、特に戦前の黒人は、アメリカでどんな扱いだったか知っているのでしょうか。
 黒人女性が、後から乗り込んだ白人にバスの席を譲らなかったために逮捕された事件(ローザ・パークス事件など)は戦後のことです。マルコムX、キング牧師、が黒人の公民権を訴えたために暗殺され、黒人の人権を求めたブラック・パンサーがライフルで武装し、警官隊と銃撃戦を繰り広げたのは、それほど昔の事ではないでしょう。白人至上主義のKKKはいまだに活動していますね。
 1919年国際連盟の常任理事国だった日本は「全人種の平等」を国連で宣言すべきと提唱し、米国の黒人は日本代表を激励し「全人種の平等」を願ったが、米代表ウイルソンが妨害し、多数決で宣言に賛成が多かったにもかかわらず否決され、有色人種の悲願は成就できませんでした。

 民主主義を戦後、米国から教えてもらったと勘違いしている日本人が多いですが、それも困ったものです。「天皇人間宣言」と呼ばれるモノが有りますが、そう呼ぶのは大きな間違いであり、「新日本建設に関する詔書」と呼んだほうが正しいです 。
 これは戦争の惨禍で焦土と化した日本を立て直すのは、大変な苦労があり、耐え難い事だろうが、それでもヤケを起こさずに、皆が心を一つにして、明治天皇が誓った「五箇条の御誓文」を基本として、新しい日本を建設し、世界に後れを取らず、そして世界平和に貢献してほしい、といった事を国民にお願いした昭和21年元日の昭和天皇陛下の御言葉です。
 陛下はだいぶ経ってから、「この新年の言葉を話した理由の一つには日本の民主主義が、米国から輸入されたモノではない事を示す必要があった」と記者会見での質問で答えられています。

 そもそも日本は建国された紀元前660年以前より、天皇が国をシラス事により、民衆が団結して暮らし、等しく天皇の宝(大御宝)として大切にされていたのです。天皇の権力ではなく仁徳で国を「シラス=知らす=統らす」我が国は、民主主義以上に国民が平和に暮らせる伝統が、連綿と続いている事実を見逃してはなりません。
 それは古事記に記載されている、出雲での「国譲り」にも表れています。出雲大社に祀られている大国主が「ウシハク」国、つまり専制君主国家では良くないので、我が子が「シラス」国にするべきだとアマテラスオオミカミが使者をだし、話し合いで国が大国主からニニギノミコトに譲られたのです。
 日本は世界に類例を見ない程の、ほぼ差別のない(社会的な地位、身分をこえて人権が公正な)社会を継続しており、それが敗戦により教えられたと思い込んでいる民主主義のお蔭ではない事を勘違いしてはならないでしょう。
 日本国内には多くのスパイが存在したために、戦中の日本は手紙や新聞の検閲を行っていましたが、それは戦後にGHQが行った「プレスコード」より遥かに緩やかなものです。というよりも、米国は日本人の精神と歴史観を改造するために、検閲をはじめ、あらゆる手段を講じて、手間と時間をかけ、莫大な予算を占領下の日本政府に出させ、そして「日本弱体化政策」を完成させたのでした。

 戦前の世界は欧米列強が支配する「白人の為の世界」でしたが、軍事大国に登りつめることが出来た日本は「下手に手を出したら痛い目に合う」と思われていたからこそ、辛うじて独立国として保てたのでした。
 隙あらば、侵略され植民地にされても、その当時の世界常識としては当たり前の事でしかなかったのです、有色人種国家は。

 日本が昭和16年12月8日に英米に宣戦布告し、大東亜戦争を始めたキッカケは米英が画策した「ABCD包囲網」による兵糧攻めに始まり、日本の支那大陸での特殊権益(正当に得たもの)を放棄せよと詰め寄る「ハルノート」を米政府が最後通牒として日本に突き付けたことによります。
 ちなみに、ハルノートの原案を書いたのはハリー・デクスター・ホワイト(ベノナファイルによればソ連のスパイであった)であり米国務長官コーデル・ハルはそれを見て「これでは日本に、戦争を決意させることになるじゃないか」と話しています。
 日本から戦争を始めなくても、すでに日本は経済的に攻撃されており、国力が弱れば、様々な手段で、どのみち欧米諸国のいずれかに侵略される事は時間の問題であったのでした。
 永野修身海軍大将の、開戦数か月前の会議での言葉が象徴的です、それは「戦わざるも亡国、戦うも亡国。しかし戦わざるの亡国は精神の亡国である。最後まで戦う精神を見せての亡国なれば、いずれ子子孫孫が再起三起するであろう」といった言葉です。

 人口で見れば日本の二倍の米国ですが、工業力、鉄鋼生産量、原油産出量、などの潜在的な国力は日本の数十倍です。その米国をはじめとする、大英帝国、オランダ、オーストラリア、支那(国民党軍)と日本一国での戦いです。
 普通に考えて「無謀な戦い」といえますが、戦わなくても日本が潰され植民地にされる事が容易に想像できる帝国主義時代(植民地主義時代)です。
 貴方なら「戦争反対」と叫び、欧米諸国の言いなりになることを良しとすると考えますか、それが植民地への道になると解っていても。それとも武器を取り人種差別的な欧米列強と戦う事を選びますか。

 今どきの戦中ドラマの様に「赤紙=召集令状」を受け取り、いやいや戦場に行かされた人もいたことでしょう。しかし赤紙を受け取り「よし、ついに来たか、お国のために戦うぞ」と兵隊になった国民も沢山いたのではないでしょうか。
 職業軍人の奥山道郎義烈空挺隊隊長は、敵に占領された沖縄航空基地に強行着陸し、特殊部隊による破壊工作を行う空挺作戦を前に「絶好の死に場所を得た私は、日本一の幸せ者です。しかし親孝行できずに死ぬことをお許しください」といった事などを遺書にしたためています。ユーチューブで出撃前の隊長の勇士が見れますが、爆撃機のコックピットで笑顔で手を振っているのが目に焼き付いてしまいます。人間魚雷回天で出撃する人たちが、港を離れるときに日本刀を大きく振りかざし、笑顔で別れを告げる映像も観れます。

 「花もつぼみも若桜、5尺の命引っさげて、国の大事に殉ずるは、われら学徒の面目ぞ、あーあー紅の血は燃ゆる」という唄『ああ紅の血は燃ゆる』は赤紙で戦地に向かった文化系大学生を歌にしたものです。大学生は徴兵免除されていたが、戦局悪化に伴い、パイロット不足に至り、優秀な大学生ならば早く操縦技術が習得できるという事で文化系学生だけ学徒出陣したのです。
 『同期の桜』も有名な歌ですね、この頃はあまり聞く機会がありませんが、少し残念です。
 靖国神社に行くと多くの桜が植えられていますが、よく見ると括り付けられているプレートに「第00連隊寄贈」などと書かれております。生き残って復員した兵隊さんたちが、戦地で桜の様に散った戦友を偲んで靖国の社に桜の木を植えているのです。
 桜の花を観て、戦地で散華した将兵を思い浮かべるのならば、「天晴に散った若桜達」のお蔭で、今の我々の平和な生活がある事に思いを巡らせてもらいたいものです。
 桜の花の様に戦地で散った英霊たちは「靖国で会おう」と言い合ったり、遺書に「悲しまないで、お父さんは靖国にいるから、いつでも会いに来てください」などと子供たちつたえています。
 桜のように散った英霊たちがどんな思いで戦地に赴き、何のために戦ったのかを知り、「可哀そうな戦争の犠牲者」などと考えるよりも「未来の子孫の為、我々の為、東洋平和の為に立派に戦い散華したモノノフ」と考えてもらいたいものです。「可哀そうな犠牲者」などと言われたならば、クサバノ陰の英霊たちは、それこそ悲しく悔しい思いになるのではないでしょうか。
 「桜の花のように美しく散った将兵達」の偉業を忘れずに、讃え続けることが、その恩恵を受けている我々現代人がなすべき義務であり責任です。そんなややっこしい事ではなく「ありがとうございます」と思う事が当たり前の事であると、誰もが思ってもらいたいものです。

 現代の世界的基準は「全人類は平等である」となっています、建前上は。それを実現するために最大の貢献をしたのは誰か。
 日本人は世界に貢献した先人の偉業を忘れてはなりません。単なる戦争の犠牲者などではありません。私はそう思っています。









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