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マイケル・サンデル著 'これからの「正義」の話をしよう' http://amzn.to/gsPT9N
「サンデルらの主導するコミュニタリアニズムに頼ったドイツでは、
フランクフルト学派の企図した通り、
地域共同体から、
自国の歴史・文化・伝統が失われた」
サンデルの主導するコミュニタリアニズムは、
論理で「正義」と「道徳」を語る。
しかし、そもそも「正義」と「道徳」は生命にねざしたもの、
つまり「論理」では「ない」。
人は正邪を判別できる。
正邪は無原則ではない。
しかし、それは感覚によっており、論理による訳ではない。
「道」が理屈? ありえん事ではないか。
「正義」と「道徳」は、
生命・情緒・感情に基づいている。
物事がおこれば事後的に、
快不快の感情が生じ、
その快不快で
その物事のよしあしは判別できる。
事例がたまってくれば、
「知識」によってよしあしの判別もできるようになる。
でも、知識や論理によって正邪が成り立っている訳ではない。
ここが保守主義のキモだ。
社会主義、共産主義・・・
これらでは、「正義」は「理論」で成り立っている。
そしてそれに合致する人間の行動規範を、
”進歩的”道徳とでもよんでいるのだ。
人権しかり、平等しかり、民主しかり・・・
このような「正義」は、本物の正義ではない
「社会的正義」というニセモノである。
知識によって、論理によってのみ、
「正義」と「道徳」を成り立っていると考えたり、
成り立たせなければならないと考える一派がある。
仏教でいえば法華経、
神を殺したキリスト教の抜け殻たるルソー・マルクス・サヨク主義、
そしてサンデル率いるコミュニタリアニズム。
いずれも論理を神とする邪教。
論理が神である?
それならパソコンの世界、機械の世界だ。
そこには、生命・いのちはない。
そんなものを拝んで何がうれしい。
論理は所詮道具にすぎない。
もっとも、便利な道具ではあるけれど。
考えても見よ。
武士道が理屈で出来てるか?
茶道は?
なぜ「人の道」は例外だと思うのだろうか。
「正義」と「道徳」は、
音楽や料理と同じだ。
味わえばわかる。
理屈はあとづけだ。
ここを間違えてはいけない。
マイケル・サンデルはニセモノ。
まぁ、味の素みたいなもんだ。 日本は日本らしく!
我々は我々らしく!
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