会場となった北野文芸座には約400人の聴衆が詰めかけて早紀江さんの話に聞き入った。めぐみさんの思い出の写真が飾られた壇上で早紀江さんは椅子に座ったままでの講演となり、めぐみさんが拉致されてからその消息を懸命に探し続けてきた日々を語った。
「一番大事なときにめぐみにお料理を教えてあげることができなかった」「もっとこういうことを教えてあげたかった」。母親の強い思いがにじむ。「34年かかってもまだ取り返せない」「北朝鮮でどんなふうになっているかいまだに分からない」「毎朝、起きるたびに『どうか今日も守ってください』と神様に祈るしかできない」。娘を取り戻すことができず、不安な日々を過ごし続けている胸中を訴える。会場はしわぶき一つ聞こえず、シーンと水を打ったような静けさだ。
なぜ、早紀江さんの言葉がわれわれの胸をこんなにも打つのだろうか。それは「一刻でも早く娘を取り戻したい」「娘をこの胸でギュッと抱きしめてあげたい」という純粋な母親の愛だからだろう。
早紀江さんは拉致被害者の増元るみ子さんの父親、正一さんが亡くなる直前にるみ子さんの弟、照明さんに対して「わしは日本を信じる。だからお前も日本を信じろ」と言い残したことを聴衆を前に紹介。
そのうえで、「『日本を信じる』ということはどういうことなんでしょうか。お父さんがおっしゃりたかったことは父親の、母親の思いだと思う。自分の子供が危ないときに海に飛び込んで助けに行くんじゃないでしょうか。そのようなことを大事にしなさいということをおっしゃったと思う」と語った。
早紀江さんが言いたかったのは「親が子を思う気持ち、子が親を慕う気持ち。日本はそんな当たり前のことがないがしろされるような国ではないはずだ」ということではないだろうか。
「私たちはめぐみが生きていることを信じています」。こう語った75歳の早紀江さんは約40分間の講演でピンと背筋を伸ばしたまま。講演会終了後のパネルディスカッションでは、早紀江さんがめぐみさんと再び会うことができるまで、いつまでも健康でいてほしいという声が相次いだ。
民主党の中井洽元拉致問題担当相による北朝鮮高官との接触、ニューヨークにおける米朝協議…。北朝鮮をめぐる情勢が再び焦点となりつつある。今回の北朝鮮の動きをみていると、東日本大震災に伴い、政界の混迷が続いている日本や大統領選を来年に控えている米国の事情を読んでいるのは間違いないだろう。早い話が日本や米国の足下を見ているわけだ。
北朝鮮の核開発を話し合う6カ国協議の再開だけではなく、米国政府高官による訪朝などがテーマとなるだろうが、飢餓で国民が何人も飢え死にしようが遮二無二核兵器保有を目指した北朝鮮が核放棄をするわけがない。
あらゆるものを犠牲にして核兵器を保有した北朝鮮の本音は「核兵器を保有しているからこそ、米国はわれわれとの直接対話にも応じるし、中国は大規模な援助もしてくれる」というところだろう。核兵器を保有しない北朝鮮などは単なる世界の最貧国にしか過ぎず、誰も相手にはしない。
とかく米朝協議や6カ国協議再開に向けた関係各国の対話が進み始めると「拉致問題解決にこだわり続けると日本は孤立する」「北朝鮮は拉致問題解決を主張する日本との対話には応じないだろう」といった類の論調が出てくるが、それは全くの誤りだ。
むしろ、拉致問題解決に向けた日本の真摯(しんし)な取り組みこそが北朝鮮を追いつめて、引いては北東アジア情勢の安定化にもつながっていくのだということを肝に銘じるべきだ。(長野支局長 笠原健)
産経ニュース