SENGOKU BURAI 【戦国無頼】

敷島の大和心のををしさは ことある時ぞあらわれにける

大東亜戦争

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戦場のメリー・・・

1214日、菅首相が硫黄島へ行きました。
歴代首相で遺骨収集したのは菅首相だけだ。
しかし、それがパフォーマンスや政権維持のためならば、
その心は英霊に見透かされるでしょう。・・・
 
 
福岡で高校の教師をされていた占部賢志さんが、
「祖国と青年」(日本協議会)に連載した文があります。
この時期、「戦場のメリークリスマス」を聞きながらお読みください。・・・
 
 
 
硫黄島(いおうとう)。 
 
夕空晴れて秋風吹き
月影落ちて鈴虫泣く
思えば遠し故郷の空
ああ我が父母 いかにおわす ・・・
 
この『故郷の空』を歌う少年兵が硫黄島にいました。
 
昭和十九年八月、
市丸利之助は硫黄島守備隊の司令官として日本を発つ際に伊勢神宮に参拝。
そして、木更津基地から飛び立ちました。
 
昭和十七年、市丸が第二十一航空戦隊司令官として南方戦線に出撃した時、
戦地では激しい空中戦を展開しました。
この時、敵の銃撃を受けましたが、弾丸が軍刀の切っ先に当たったお陰で
奇跡的に負傷を免れました。
市丸はこの軍刀を硫黄島に携えていきました。
 
後に玉砕後、遺体も軍刀も不明でしたが、
昭和四十年、この軍刀が発見され遺族のもとに返還されました。
 
着任した硫黄島には戦闘機は十五機しかなく、
その後、マリアナ諸島からの米軍の来襲によってほとんどが壊滅されました。
ある幕僚が市丸にこう言いました。
「司令官、飛行機もないこの硫黄島で、パイロットの草分けが陸戦の指揮をするのは、
国家のためにもったいないことだと思いますが」
 
これに市丸はこう言いました。
「一機もなくなったからこそ、私の存在の意義があるのです。
飛行機がなくとも市丸は戦う。
死なばもろとも という気持ちを将兵はわかってくれるでしょう」
 
戦闘機で敵を迎撃出来ない以上、
敵が来襲のたびに灼熱の地下壕に身を隠さねばならない。
唯一の飲み水は雨水を溜めるしかすべのない硫黄島ではスコールは最も待ち遠しい。
 
スコオルは 命の水ぞ 雲を待つ 島の心を 余人は知らじ
 
この一首は硫黄島から連絡便で託された最後の歌でした。
硫黄のガスが吹き出す岩盤の島に水源は一滴もありませんでした。
日本の兵士たちは、いかなる艱難辛苦の中で硫黄島を守ったか・・・。
 
この一首から半世紀後、
今上陛下と皇后陛下が硫黄島を御訪問され、
皇后陛下は市丸の思いにこのような歌を捧げられました。
 
慰霊地は 今安らかに 水たたふ 如何ばかり 君ら水を欲りけむ
 
・・・・・・
 
市丸にはこんな一面があったと、硫黄島の生存者の一人松本巌氏が
後世に残した印象深い指揮官としての面影があります。
 
硫黄島の北部に設けられた市丸司令部近くにローソク岩と呼ばれる場所がある。
米軍の来襲がない夕刻時、少年兵たちはここに集まっては談笑していました。
 
たまたま松木上等兵曹が散策していると、少年兵たちの歌う声が聞こえてきました。
 
松本は邪魔しては悪かろうと反対側に迂回しようとしたところ、
岩陰に市丸司令官が腰を下ろして目を閉じていた。
 
驚いて挙手の礼をとり、立ち去ろうとすると、
「シーッ」
と口に手を当てて松本を招きました。
二人で腰をかけていると、「故郷の空」を歌う少年兵の声が流れた。
 
松本はこの光景を、
「司令官の閉じた眼から涙がひとつ頬を伝わって流れる。
鬼神かと思われた司令官の涙。 私もついに涙にむせんだ」
 
退路を断ち、硫黄島死守に立ち向かった少年兵たちに思いを寄せた。
 ・・・・・・・・・・・・・・
 
高校日本史の主題学習で硫黄島と沖縄の決戦を取り扱った折、
この少年兵と同じような歳の生徒が書き残した感想文の一節をあげて結びとします。
当節の高校生も、こんな所懐を綴るものなのです。・・・
 
 
一九四五年、二月、三日間で終わらせる予定だったアメリカ軍による硫黄島攻撃を、
日本兵は一カ月以上も抵抗し続けたという事実を知り、大変驚きました。
硫黄島を守るため地下壕を作り、
その中に身を隠して硫黄のガスと熱さとも戦ったということでした。
司令官は自分の娘のことを思い続け、
またある兵士は市丸利之助司令官がルーズベルトに宛てて書いた手紙を腹に巻きつけ、
それを読んでもらうためにアメリカ兵に立ち向かっていった歴史は、本当に胸が痛いです。
そんな中、アメリカ軍は硫黄島を占領、四月には沖縄に上陸。
沖縄では私たちと同い年、あるいはもっと小さな子供達が、一生懸命、
それこそ一生懸命に沖縄を守ろうとしたことを、初めて教えていただきました。
 
見えるものだけを信じるのではなく、見えないものを見る、
聞こえないものに耳を傾けること、
この大切さを教えて下さった先生に感謝いたします。
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 
 
私がまだ10代半ばの頃、
祖母は毎年12月8日が来ると、巻寿司を作ってくれていた。
当時の私は、その意味が分からず、「どうして」と聞くと、
「大東亜戦争の開戦記念日や…」
と細い声で語っていた。
 
当時の私は学校で教わっていた事が頭にあったので、
「何で侵略戦争しているのに、祝わなあかんの」
などと思い、祖母に食ってかかった事があった。
 
学校では「日本が侵略戦争」をした、「日本が先に手を出した」などと、
教師に何度も聞かされていました。
それが、今から思うと日教組の教育だったに違いありません。
 
また日本軍がアジアでどんな悪い事をしていたのかを、
マスコミなどで新しく伝えられ、少しずつ分かっていく事が、
一つの楽しみだった事を覚えています。
 
そして数年後、私は働き始め某大学の教員になった。
 
まだ私は今言われている自虐史観などと言う言葉が分からず、
普通に日本の罪悪感に満ちた歴史を、当然の如く、
学生にも留学生たちにも話していた。
 
ある日、中国人留学生とちょっとした事で口論になったとき、こう言われました、
 
「日本は昔、中国を侵略して酷い事をした、私の言う事を聞きなさい」
 
と言われ、今だに過去の歴史を持ち出して、
戦争犯罪国日本、敗戦国日本として言い込めようとしました。
 
同様に日本人学生に対しても、同じ口調で攻め立てていたのです。
 
私はその光景を見て、何か一つでも言い返してやろうと思い
WEBで本を探したり、本屋に入り浸りして、
色んな本を買い込み自分で勉強していきました。
 
その結果、今まで戦前、戦中の日本の歴史が、
全否定された教育を受けていましたが、
それが崩れ去った「感動」を今でも覚えています。
 
戦争犯罪を行った日本人という印象から鎖が解け、
心が解放されたような感じでした。
そして日本の歴史が分かるようになりました。
 
そして、中国人に少しずつ反論していくと、
真実を突かれたのか言わなくなってきて、
こう言ってきました、
「日本人はヘ理屈が多い」と…。

中国人はまだ言い足りないような感じでしたが、
あまり無理な事を言わないようになっていきました。
 
それ以来、私は学生に、
我が国の歴史を恥じる事は無い事と、
また中国、北朝鮮、韓国などに、
侵略国日本などと言われる筋合いがないと言い続けています。
  
そして私はフィリピンで戦死した祖父、既に無くなった祖母に対して、
幾度となく反省し、自戒の念を抱いてきました・・・。

いつもこの日が来ると、思い出します。
あの時、祖母に対して言ってた言葉を思い出します。

そして、悲しいです… 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
お父さん、お母さんたち、
この日本を七難八苦して
築いてきた先人たちを見習って、
この日本を立ち直らせよう!
 
 
出来ない筈はありません、
先人たちも私たちと同じ、日本人です。
 
 
 
そして、
誇りある日本の歴史を伝えよう!
 
 
 
 
 

靖国神社 花嫁人形

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戦死された23歳の息子さんに贈った花嫁人形(遊就館)
 
 
靖 国 神 社  花嫁人形
靖国神社・遊就館に祀られている独身の御霊に家族や肉親が捧げた花嫁人形が展示されていることを御存じの方は多いと思います。
上の画像は84歳になったご英霊のお母様が、沖縄で戦死された、当時23歳の息子さんにあてた手紙とともに奉納されたものです。
 23才の若さで家を出て征く時「今度逢う時は靖国神社へ来てください」と雄々しく笑って征った貴男だった。

どんなにきびしい苦しい戦いであっただろうか。
沖縄の激戦で逝ってしまった貴男。

年老いたこの母には今も23才のままの貴男の面影しかありません。

日本男子と産まれ、妻も娶らずに逝ってしまった貴男を想うと涙新たに胸がつまります。

今日ここに日本一美しい花嫁の桜子さんを貴男に捧げます。

私も84才になりましたので、元気で居りましたら又逢いに来ますよ。

どうか、安らかに眠ってください。

有りがとう。

小野田寛郎氏は、(祖國と青年2005年7月号) で次のように述べている。
 
「靖國神社に異論があってお参りしたくない人は、来ていただかなくて結構だと私は思います」
 
 「とにかく、私たちが『死んだら神さまになって会おう』と約束した場所が靖國神社であり、その靖國神社を国家が護持しないということは、借金をしておいてそれを支払わないようなものです。
 
 それはまだ我慢するとしても、靖國神社とは別の追悼施設をつくるなどというのは、死んだ人間に対する反逆、裏切りであります」


 「残された奥さんや子どもさんは大変お気の毒だったとおもいます  が、亡くなった本人はお詣りしてくれる人がいるのだなあとつくづく思 います。
 
 お子さん、お孫さんと代々家でお祀りしてくれる人がいる。
 しかし、独身で亡くなった私たちの仲間は、親兄弟が亡くなった後は 誰がお祀りしてくれるのだろう。
 
 最近はついついそういう事を考えてしまいます。

 そうしますと、簡単に『死んだら神様だ』と言いながら散華していった 人たち祀ってあげるのはやはり靖國神社しかないのです」
 ***

 遊就館の花嫁人形は彼らに親族が捧げたものだ。
 国が祀らなくてどうする。
***

 「靖國の英霊に対して『心ならずも戦死された』などという人がいます が、これほど英霊を侮辱した言葉はありません。」
 
 (祖國と青年2005年7月号)
 
 
 
下の動画の後半は「たかじんのそこまで言って委員会」で評論家の三宅久之氏が遊就館を訪れた時のものです。胸が熱くなりました。
 
現世の我國は祖国の為、愛する家族、愛する人の為、後世の我々の為に、尊い命を散華されたご英霊にあまりにも非情ではありませんか。
今年の8月15日は靖国神社に参拝した閣僚ゼロという悲惨な有様です。これはいったいどういうことでしょうか。
民主党政権にとっては、靖国に祀られる英霊は、国家の敵なのでしょうか。
彼らはいったいどこの国の総理・内閣なのでしょうか。
そもそも
「民主党政権は『村山談話』の精神を尊重する。
 私が首相になったら靖国神社には参拝しない。
 閣僚にも自粛を求める」
 
と言っていた政党を支持し、多数を与えたのは日本国民です。
尖閣諸島、北方領土問題、閣僚の不適切な発言に右往左往する情けない政権。
民主党に限らず、保守という名を語る野党もそうです。
靖国神社を国家護持もせず、腰ぬけ外交を繰り返した結果が情けない今日の我國です。ご英霊がお嘆きでありましょう。
「こんな國にする為に、命を捧げたのではないと」
 
靖国に祀られる英霊
246万6,532柱

ひとりひとりの御霊に人生があった、物語があったはずです。
我國は、靖国をもっと大切にしなければならない。
中国、韓国、北朝鮮、この三国の恫喝を恐れることなど何もないのです。
堂々と我國の主張を述べればよいのです。
そして堂々と靖国神社に参拝するのです。
そして、政治にご配慮されている、天皇陛下にもご親拝していただけるようにするべきです。
ご英霊は陛下のご親拝を一番喜ばれるでありましょう。
 
私は國民すべてが靖国に参拝することを義務づけるべきだと思います。
それができないのなら、日本の國から去るべきです。
ご英霊の尊い犠牲の上に今日の繁栄を享受しているのです。
憲法で保証された信教の自由を述べる人がいるかもしれない。靖国は宗旨が違うからという方です。
しかし「靖国で会おう」というのは、日本国と亡くなられた英霊たちとのお約束です。

日本は、道義国家です。

お国柄を忘れた国家のいく末は、悲惨なものでしかありません。
花嫁人形はそれを語っています。
 
 
 靖国神社国家護持


 

転載元転載元: 美しい国

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