SENGOKU BURAI 【戦国無頼】

敷島の大和心のををしさは ことある時ぞあらわれにける

日本の誇り

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東日本大震災による東京電力福島第1原発の放射性物質(放射能)漏れ事故を受け、
政府の指示を超えて自主避難が広がるなか、生活保護を受ける外国人が日本人との間に生まれた子供を置き去りにして帰国するケースが相次いでいることが分かった。(326日 産経新聞)
 
逃げて帰る国がある人間に参政権など必要あるまい。
このような腹の立つニュースがある一方で、国柄を感じる記事を327日の産経新聞にみました。
 
・・・天皇、皇后両陛下が、大震災の後に「自主停電」されているという話にも鼻のあたりがツーンときた。15日から「第1グループ」の計画停電の時間に合わせ皇居・御所の電気を切っておられる。
実際に停電にならない日も、予定通り続けておられるそうだ。
天皇陛下は77歳のご高齢である。以前には前立腺がんの手術も受けられた。
それなのに「寒いのは(服を)着れば大丈夫」と、その間は暖房も使われない。
ろうそくや懐中電灯を使いながら、暗い中で夕食をとられたこともあるという。
それほどまで国民に思いをはせておられる。
そのことを知れば、被災地で苦難の生活を強いられたり原発の修復にあたったりしている人々に
これ以上にない励ましとなるだろう。身勝手な買いだめなど決してできないはずだ。
・・・
 
天皇陛下は国民に「仁」の心を持つ伝統があります。
日本書紀には初代天皇とされる神武天皇が「民」を「おおみたから」と呼んだことが記されています。
神武天皇にとって国民は皇祖・天照大神から託された大切な宝物です。
そして、神武天皇は日本を建国するに当たり「国民を大切にすることを統治の根本」としました。
このことは、その後の天皇陛下にも受け継がれています。
 
最も有名なのは第16仁徳天皇です。
即位されて4年目、国民のかまどから炊事の煙が立たず、
多くの国民が貧しい生活をしていることに気づくと3年間年貢などを免除し、
仁徳天皇自らも着物や履物が破れてもそのままにし、宮殿も荒れ果てたままにしていました。
3年後、高台に立って国民の炊事の煙があちこちに上がっているのを見て、
「自分は、すでに富んだ」と喜んだと伝えられます。
 
平安時代の第60代醍醐天皇。
醍醐天皇は国民に対する同情心が強く、寒い夜に自分から着物を脱いで
貧しい国民たちの寒さとともに過ごしていました。
醍醐天皇は疾病や不順な天候の時は大赦したり税を免じたりしました。
収穫の良くない年は重陽節(ちょうようのせち)を何度もやめています。
これは国民への負担の軽減を願ったものです。
また、旱魃の時には一般民に冷泉院の池の水を汲むことを許し、
そこの水がなくなるとさらに神泉院の水も汲ませ、ここの水もなくなったといいます。
鴨川の洪水などがあれば水害を蒙った民に助けの手を差し伸べ年貢や労役を免除しました。
醍醐天皇は、
「自分は租税によって着物を着ている。自分は年貢によって食べている。
それなのに民の方は足りなくて自分の方が余っている。これはよろしくない」
そして、醍醐天皇はこのような政令を出しました。
「旱魃があったら年貢を免じてやりなさい。水害の時は租税を免除しなさい。
兵士となった家は租税の対象外にしなさい。
疾病が流行した時は租税を取り立てないようにしなさい」
 
昭和天皇は戦時中の昭和19年の暮れから防空施設として作られた御文庫に居住しました。
そこは屋根には砂が盛られ湿っぽく居住性の極めて悪いところでした。
昭和天皇は戦後になってもそこに住み続けました。
何度か新しい御所を作ることを進言申し上げても昭和天皇は、
「国民はまだ住居がゆきわたっていないようだ」とおっしゃって断り続けました。
その後、国民の生活水準が戦前をはるかに上回り、
空前の神武景気も過ぎた昭和36年に昭和天皇は吹上御所に移りました。
新宮殿が創建されたのはそれよりさらに遅れて昭和43年のことでした。
 
昭和天皇はこのようなお言葉を残されています。
「もっとも大切なことは天皇と国民の結びつきであり、
それは社会が変わっていってもいきいきと保っていかなければならない。・・・
昔から国民の信頼によって万世一系を保ってきたのであり、
皇室もまた国民を我が子と考えられてきました。それが皇室の伝統であります」
・・・
 
他の国では国王や皇帝は自分の権力を求め、国を支配し、国民から搾取する。
それゆえ恨みを抱いたものが政権を奪い、新たな王朝を立てるということを繰り返してきました。
 
それに対し我が国では建国の理想のもとに天皇陛下が国民をわが子のようにいつくしみ、
国民に思いやりを持ってまつりごとを行ってきました。
国民はこうした天皇陛下の御心(みこころ)に応え、天皇陛下を我が親のようにしたい、
天皇陛下を中心として国民が家族のように結び合って生活してきました。
だからこそ神話の時代から今日まで一系の皇室が125代も続いているのです。
 
このように我が国では家庭にあっては親は子供を愛情を持って育て、
子どもは親が年を取って弱っても大切にする。
夫婦は男女の特長を認め合い欠点を補い合って和を心がける。
また祖先を大切に祀り、子孫の幸福や繁栄を願う。
このような家庭が寄り集まって一つの国をなしているのです。
社会にあっては人々が助け合い共存共栄を心がける。
海外の文化も積極的に取り入れて固有のものと調和させてしまう。
その要に皇室があり、国民は皇室を中心として団結して生活する。
これが日本のもともとの姿であり、
これこそ日本人が世界に誇ることのできる国柄であり、
その心といえるのではないでしょうか。
 
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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日本は太陽

太平洋戦争(日本では大東亜戦争)で日本軍が玉砕したパラオのアンガウル島に立つ
戦没者慰霊碑が、ホテル建設計画のため立ち退きを迫られていたが
昨年、日本国内の人々の善意により無事移設された。
「戦友の碑を守りたい」
と奔走した玉砕戦経験者でパラオ在住の海洋生物学者、倉田洋二さん(84)は
「きれいになった。皆さんに感謝したい」
と、この冬、帰国して関係者らに移設の報告に回っている。
パラオは昭和20年の終戦まで31年間、日本が統治した。
日米の激戦地となりアンガウル島でも日本軍の守備隊が玉砕した。
戦後、倉田さんは東京都職員としてウミガメの食用研究を進め「カメ博士」と呼ばれた。
平成6年、戦友の墓守をしたいとパラオへ移住した。
アンガウル島の浜辺には
「戦没日本人之碑 日本国政府 内閣総理大臣 吉田茂」
などと刻まれた昭和28年建立の日本国の碑など慰霊碑26基と観音像1体が
太平洋かなたにある日本の方角を向いて建てられていた。
ところが平成20年に地主から移転を求められ、
島内で代替地を確保できたものの移設費に苦慮した。
倉田さんが同年、一時帰国して寄付を募って回ったが、戦友会は解散し、
遺族の多くは亡くなって連絡が取れなくなっていた。
戦友のため奔走する倉田さんの姿を本紙などが紹介したところ、
3つの団体と100人を超える個人から目標の80万円を上回る約350万円が寄せられた。
当時、厚生労働省は国が建てた碑の移設費は国が負担するとしていたが、
同省外事室は
「倉田さん側から費用が十分集まったため負担に及ばないとの連絡があり、
お任せすることにした」という。
約250万円かけ平和公園を整備し、すべての碑と観音像を移した。
熱帯気候で育たないソメイヨシノに代えて、真っ赤なインドザクラも約20本植えた。
残金約100万円は維持管理費に充てる。
倉田さんは
「新聞記事を読んで寄付してくださった方が一番多かった。本当にありがたい。
だが関係者は亡くなっていき、私もこの年齢。日本の国が何とか永代供養を考えてほしい」
と話している。
2011.1.4 産経新聞)
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・・・・・・ 
パラオ諸島。
1543年にスペインが発見して統治し、
1899年にドイツが買収。
1919年、第一次大戦後のベルサイユ条約でドイツから日本の委任統治領となり、
大東亜戦争後の1947年に日本からアメリカの信託統治下となりました。
 
こうして見るとパラオは約400年間も外国の統治下に置かれてきましたが、
この400年のうち約30年にしか過ぎない日本の統治時代が「一番よかった」と
現地の人達は言っていました。
 
その理由は、現地人へ日本と同じ教育を施したことと、
現地に来た日本人たちが現地人たちを大切にしたことですが、
それ以上に彼らが日本を慕うのは何でしょう?
 
それは、かつて日本兵たちがペリリュー島やアンガウル島を守るために、
攻め来る米軍を相手に玉砕するまで戦った勇猛果敢な戦闘ぶりがあるからです。
 
この激戦は両島とも焦土と化し、建物も緑も全て破壊され尽くされましたが、
現地の人達は死を賭した日本兵たちへの尊敬の気持ちは戦後も消え去らなかったのです。
そのよい例がパラオの国旗に現れています。
 
パラオは国として自立するために国旗を定めなければなりませんでしたが、
その案を全島から募集したところ70ほど集まったといいます。
その中から選ばれたのが日本と同じ日の丸のデザインでした。
ただ日の丸の部分が黄色で、白地の部分が青としました。
パラオの国旗は知っていても、その理由を知る日本人は少ない。
 
パラオの現地の人は語る。
「国旗の選択はパラオの歴史と伝統がこめられていました。
だから選考委員は真剣で、選考に日数をかけたのです。
でも最終的にこの旗に決まったのは、
日本の旗に一番似ているので、最大の人気が集まったからです。
日の丸の部分を黄色にしたのは、月を現わします。
周囲の青地は海を意味します。
月は太陽が出ないと輝くことが出来ません。
つまり、月は太陽によって支えられ、月としての生命を持つのです。
太陽とは日本のことです。
海に囲まれたパラオという国は、
日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのです。
我々は戦争中に日の丸を掲げて強力な米軍と交戦した日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、
大きな魅力と尊敬を捧げています。
一万に及ぶ英霊たちは私達に、
勇気と国を想う心があればアメリカより強くなれること、を教えて死んだのです・・・」
・・・・・・
 
 
戦後、パラオの人達に心からこのように言わせた我々の祖先たちは誠に立派でした。
祖先たちが命がけで守ったものを、その後の人達が理解して、
語り継いで残してくれるのは何よりも供養になる。
・・・
 
さて、私は、私の住む自治体の主催する「新年 賀詞交歓会」に毎年出席させて頂いています。
今年も出席しました。
ここでは必ず最初に「国歌斉唱」からはじまります。
 
声高らかに、1000人以上の人達が、ひとつになって大きな日の丸に向かって歌うのです。
私も周りの声に負けじと直立不動で大きな声で歌う。
 
日本では「国」を「国家」と書く。国に家をつける。
天皇陛下を中心に日本人は皆、家族同然。
君が代を歌っていると、素直にそういう気持ちになります。
「日本はいい国だ。 守ろう、この国を!」
 
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

謹賀新年
 
 
 
新年明けましておめでとうございます。
 
 
 
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 
 
 
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なかなか更新できず申し訳ございません。
 
 
最近、「my日本」に出入りされていらっしゃる方は
 
ご存じと思いますが、
 
「my日本」で私を「左翼」と言っている輩がいます。
 
その似非保守たちと戦うためにmy日本に入り浸っておりました。
 
 
 
 
「my日本」の事を悪く言うつもりはございませんが、
 
かなり「保守の皮を被った左翼」たちが活動していると思います。
 
 
 
なぜなら一度も私と口論していないのに、
 
なぜか複数の方からアクセス禁止にされています。
 
 
 
その人は「青少年健全育成条例」の反対派で有名な方です。
 
 
 
 
なので
 
ますます、闘志が湧いてきます。
 
 
今年も一発!!
 
 
 
 
 
打倒左翼!!!
 
打倒民主党!!!
 
 
 
皆様、頑張りましょう!!! 
 
 
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天皇陛下、皇后陛下 御尊影 御寫眞(平成22年10月23日)
 
 
 

【天皇陛下、皇后陛下ご動静】(28日・火)

 
(宮内庁発表分)
 
 【午前】
 
 天皇陛下、皇后陛下 侍従長、侍従次長、女官長からごあいさつ《歳
 
末につき》(宮城・御所)
 
 【午後】
 
 天皇陛下 ご執務(宮城・宮殿)
 
 【夜】
 
 天皇陛下、皇后陛下 宮内庁長官、参与などとのご夕餐《歳末につ
 
 き》(御所)
 
 
 
 
 
 
 
 
 

『大東亜戦争終結ノ詔書』

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昭和天皇、香淳皇后 御尊影 御寫眞
 
 
 
 
 
 
※現代語訳
 

 『余は、深く世界の大勢と、帝国の現状をかえりみて、非常措置をもって事態を収拾しようと欲し、ここに忠実にして善良なる汝ら臣民に告げる。

 余は帝国政府に、米英中ソの四国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通告させた。

 そもそも、帝国臣民の安寧をはかり、万国が共存共栄して楽しみをともにすることは、天照大御神からはじまる歴代天皇・皇室が遺訓として代々伝えてきたもので、余はそれをつねづね心がけてきた。先に米英の二国に宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときは、もとより余の志すところではない。しかるに、交戦状態はすでに四年を過ぎ、余の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、余のすべての官僚役人の精勤と励行、余の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善をつくしたのにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の大勢もまたわが国にとって有利とはいえない。

 そればかりか、敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。この上、なお交戦を続けるであろうか。ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。そのようになったならば、余は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。以上が、余が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由である。

 余は、帝国とともに終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、およびその遺族に思いを致すとき、余の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりである。かつ、戦傷を負い、戦争の災禍をこうむり、家も土地も職場も失った者たちの健康と生活の保証にいたっては、余の心より深く憂うるところである。思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、もとより尋常なものではない。汝ら臣民の真情も、余はそれをよく知っている。しかし、ここは時勢のおもむくところに従い、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、太平の世への一歩を踏み出したいと思う。

 余はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、余のもっとも戒めるところである。
そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。汝ら臣民、以上のことを余が意志として体せよ。』
 
 
この詔勅にこめられた陛下の日本国民への期待と激励と痛恨の想いを、いったいどれだけの臣民が、戦後、おぼえているでありましょうか。
 親のこころ子知らずと申しますが、まさに、戦後日本の臣民は親不孝者であります。
「挙国一家、子孫、相伝え、よく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤(あつ)くし、志操を固くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運におくれざらんことを期すべし。汝臣民、それよく朕が意を体せよ』とあるが、この大御心は戦後、今日まで臣民は無視されてきたことがわかります。
確かに『総力を将来の建設に傾け』『世界の進運におくれざらんことを期す』という所だけは経済大國となった今日をみれば必死になってやってきた。
ところが、だれも『神州の不滅』など忘れ、『道義』も軽んじられ続けた。『志操』も捨て、『國体の精華』という言葉すら、国民体育大会の聖火としか思われないほど、精神性を捨て去ってきました。
『挙国、一家』などという言葉すら、戦前の軍國主義への偏見やヤクザ一家という、ものすごく歪曲されたイメージでしかみられないという始末です。
物質的な建設と、世界の流行に遅れるまいとする姿だけ肥大し、精神にかわることを、捨ててしまいました。
『神州日本の不滅』『道義』『志操』『國体』という意識を、とりもどさないと、この先、國は亡国するかもしれません。
まっとうな民族意識と国家意識を、復活させることは可能なはずです。それが『国体の精華を発揚』するということです。
民族意識こそ、國家にとって民族にとって、最大最強の武器です。だから、戦後、マッカーサーは、まず最初に日本の「民族意識」を、占領憲法によって無力化したのです。
 
 彼らがもっとも恐れたのは、この国の軍事力ではなく、それを支えつづけた日本人の民族意識・精神力だったことが、お解りいただけるでしょう。
日本人の精神力を骨なしにし、アメリカに魂を売らせることが、最大の武装解除を意味しました。
今度は中国にも魂を売ろうとしています。
だからこそ、売ってしまった日本魂を取り戻さなければならない。
それこそ昭和天皇の大御心に報いることではないでしょうか?
私はこの記事を書きながら昭和天皇ががどんな想いで起草あそばされ、読まれたか、想像するだけで目頭が熱くなり、涙がとまりませんでした。
今一度、日本國臣民は、なぜこの終戦の詔(みことのり)が「昭和の御聖断」と呼ばれたか、噛みしめて欲しい。
 
 


 
ご公務ご多忙の天皇陛下、皇后陛下、皇族方々のご健康と、皇后陛下、寛仁親王殿下のご回復を祈願します。
 
皇室の彌榮を臣民のひとりとして祈念します。
 
 
 
 
天皇陛下、皇后陛下 万歳! 万歳! 万歳!
 
天皇陛下、皇后陛下のおおきなご慈愛に感謝します。
 
 
 
 
 

転載元転載元: 美しい国

歴史に学ぶとは・・・

「坂の上の雲」が昨年に続き放送されたようです。
この主題歌を聞きながらでも、下記記事をお読みください。・・・・・・
 
 
 
故・名越二荒之助さんは著書でこう書いています。
「我々は過去の歴史を書くに当たって、栄光の記録ばかりを見るのではなく、
屈辱の姿も描かなければ、生きた歴史とは言えません。
栄光の史実には『喜び』を、失敗の事実には『涙』を、
屈辱の経験には『憤慨』をもって接することによって、生きた歴史となるのであります」
・・・・・・
 
横須賀には世界に誇るべき記念艦三笠があります。
日露風雲急を告げる頃、英国西海岸にあるバーロー港のビッカース社で建造したものです。
 
三笠は日露開戦と共に、連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将の旗艦として、
旅順要塞戦や黄海海戦、そして日本海海戦では三十八隻のバルチック艦隊のほとんどを爆破し、
空前の大勝利を収めました。
 
その後、大正15年以来、横須賀の白浜海岸に記念艦として永久保存されていました。
記念艦三笠はイギリスの「ビクトリー号」(トラファルガー海戦勝利)や
アメリカの「コンステチューション号」(フランス革命やナポレオン戦争、独立戦争で活躍)と共に、
世界三大記念艦の中でも随一と言われています。
 
その後、大東亜戦争敗戦で我が国は連合国の占領下に置かれました。
米国・英国・ソ連・支那等で結成された極東委員会では三笠の保存をめぐって
いろんな議論が交わされました。
 
ソ連代表のテレビヤンコ中将は、
「ロシアを負かした三笠を保存するとは何事か! スクラップにして直ちに海中に投棄せよ。」
と主張しました。
 
それに対して米参謀部長のウイロビー少将は、
「ソ連にはロシア革命の時に冬宮を砲撃したオーロラ号が保存されているではないか。
イギリスにはビクトリア号、我が国にはコンステチューション号が記念艦としてある。
日本国民の記念物を破壊して反感を買うことは避けるべきだ」
と言いました。
 
これを聞いたソ連側は不服でしたが、
横須賀占領の実権は米海軍にあり、三笠は何とか廃棄を免れました。
 
その後、三笠は米軍監視下に置かれ、心ない米兵によって
艦内のめぼしい記念品が持ち去られてしまいました。
昭和2319日、米海軍基地司令官は三笠の艦橋、マスト、砲塔、煙突を41日まで撤去の上、
横須賀市の教育事業に転用することを許可しました。
そして、横須賀市は民間の湘南振興会社に払い下げました。
 
この会社は三笠の艦内で米軍相手のキャバレー営業を始めました。
かつての東郷長官室は「キャバレー・トーゴー」となり、
加藤友三郎や秋山真之の参謀室はカフェとなりました。
 
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やがて朝鮮戦争がはじまると、艦内の鉄や銅、真鍮のめぼしいものは、
ほとんど売却されて、暴利をむさぼったといいます。
当時は敗戦による虚脱状況から抜けきれず、
横須賀市も日本政府も三笠の荒廃に目を向けようとはしませんでした。
 
このひどい状態をみて、復元のために元海軍大佐の中村虎猪さんが立ち上がりました。
中村虎猪さんは昭和30年に「三笠の復元」を公約にして市議会議員に立候補、
市民から支持され見事当選しました。
さっそく湘南振興会や日本政府にまで掛け合い、地元新聞をも使って三笠復元を訴えました。
 
同じく昭和30年、75歳のイギリス人・ジョン・ルービンさんが商用で来日した。
ルービンさんは三笠がイギリスの造船所で建造された当時、現地で貿易商を営んでおり、
三笠の乗組員がルービンさんのお店に来ていたことと、
三笠が自分の住む町で造られたことに愛着と誇りを持っていて、
その後の日露戦での活躍も知っており、日本も当然大切に保存してくれていると思っていました。
その三笠を見るため、真っ先に横須賀市に駆けつけました。
 
しかし、そこで見たものは、無残な三笠の姿でした。
ルービンさんは愕然とした・・・。
激怒したルービンさんは、この日本の忘恩ぶりを「ジャパン・タイムス」に寄稿しました。
 
「何という日本人は忘恩の国民なのだ。
戦い敗れると、対馬の英雄トーゴーとミカサのことも忘れてしまったのか。
神聖なるミカサが丸裸になり、ダンス・ホールやアメリカ兵相手の映画館になったのを
黙って見ているのか。
何たる日本人は無自覚であることか」
(昭和30920日)
 
この寄稿はアメリカやオーストラリアからも反響があり、
「三笠の復活こそ、日本国民の精神復興の試金石であるべきだ」と言った。
 
さらに昭和33年。
「文藝春秋」の2月号に「三笠と私」という文章が掲載されました。
これを書いたのは大東亜戦争で日本海軍と戦ったニミッツ元帥でした。
 
ニミッツ元帥は日露戦争直後に東郷提督と会い、以来東郷元帥を尊敬し、
東郷戦法によって日本帝国海軍を全滅させたアメリカ・太平洋艦隊司令長官です。
そして、194592日にはミズーリー艦上で日本降伏受託書に署名した人物でもあります。
 
「この有名な軍艦がダンスホールに使用されたとは嘆かわしい。・・・・
日本国民と政府が全世界の海軍軍人に賞賛されている東郷提督の思い出をながらえるため、
適切な方法を講ずることを希望する。・・・
この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に
私の名で寄付させてほしい・・・」(文藝春秋 昭和332月号)
 
この文章に刺激された日本人たちが三笠保存の動きとなり、
ニミッツも米海軍を督励し、横須賀の廃艦一隻を日本に譲渡し、
スクラップにして得たお金約三千万円を三笠復元にあてさせました。
そして、昭和365月に三笠は復元されました。 ・・・・・・
 
 
「我々は重大なことを学ばなければなりません。
戦後、三笠復元について努力したのは日本人でありました。
しかし、恥ずかしながら、外国人から指摘されなかったら、こんなに早く、
見事に復元することはなかったかも知れません。
・・・・・・
我が国はこれから再び戦争に巻き込まれるようなことがあるかも知れない。
そして、残念にも戦争に敗れることが起きるかも判らない。
しかし、戦争に負けることは決して恥ではない。
むしろ恥とすべきは、日本人としての魂を失い、それを敵に売り渡したり、迎合することである。
かつて昭和敗戦後の日本人は、それを恥とも思わなかった時期があったが、
私たちはこのような過ちを再び繰り返してはならない」(名越二荒之助)
 
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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