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《東京都慰霊堂のある横網公園に咲く水仙》
二夜連続のテレビドラマ【東京大空襲】を観ました。
日本が参加し、日本本土が戦場となった太平洋戦争のことを、
決して忘れてはならないと、改めて感じることができた作品
だったと思います。ドラマの中に登場する人々は、家族を守
り、日々の生活を懸命に生きていた一般市民です。
私がいつも自転車で走っている墨田区の道々に、今から63年
前、多くの人々の尊い命が失われたという事実を、改めて心
に刻みつけました。
《主人公・晴子さんの言葉》
「ぜったいにあきらめるな。必ず道は見えてくる」
胸に突き刺さりました。
私の祖母が、言葉では表すことができない悲惨な光景の数々
について、冷静になり、次世代に伝えていく決意をしたのは、
孫である私(晶子)が生まれた頃だそうです。
以下は、私が物心ついた頃より、祖母(麻生秀子)から聞いた
語りを、孫である私(あそうあきこ)がまとめたものです。
― いまこそ語り継ぐ祖母の心の叫び ―
(語り:麻生秀子 / 取材・編集:あそうあきこ)
〜価値観の崩壊から復興への足跡をたどる〜
玉音放送を聴いた瞬間は、今でもよく覚えています。
自分が信じた価値観がガラッと音をたてて崩れた瞬間
だったから・・・。
商売をやっていた私の父は、仕入れ等で海外とも取引
をしていたので、私も外国の方や製品に触れる機会が
多々ありました。
父は、戦争中もアメリカの裕福さをいち早く知ってい
ました。でも、公にも家族にも口にすることは憚られ、
子どもである私達にも、戦後になってから色々と語っ
てくれました。
その当時、非国民というレッテルを貼られることは、
死に等しいものだったから・・・。
私も動員先で働きながら、ひたすら日本の勝利を信じ
て生きていました。
戦争によって私は、家族を友人を失い、衝撃が強すぎ
て記憶が消失している面もあります。
でも、決して忘れられない惨状の数々を、何にもなく
なってしまった焼け野原の東京を、私は決して忘れる
ことはないでしょう。
東京大空襲後に、青酸カリが配られた時は、さすがに
動揺しました。
一億玉砕覚悟で望めと教育されてきたので、
「独り生き残って生き恥を晒すくらいなら、
みんなで死ぬのもいいかな」
と考えてしまった若き日の自分を思い出すと、
今でも背筋が寒くなります。
戦後の混乱期、日本はとても貧しかった。
でも、共通の目標である復興という目標に向かって、
ひたすらがむしゃらに人々は働いていた時代でした。
死がいつも隣り合わせで暮らしていた日々。
空襲を免れて、生き残れたことに対する喜びは、体験
したものでないとわからないかもしれません。戦地か
ら復員し、生きている事の素晴らしさを感じると共に、
自分だけが生き残ってしまった事に対する悔恨の念
に苛まれた方々も、たくさんいらっしゃいました。
みんなで助け合わなければ、暮らしていけなかった、
生きたいという思いが強かったせいかもしれませんが、
不平不満を言う人、現代に増加している自殺者も、ほ
とんどいなかったような気がします。
何よりも、空襲に怯えることなく、朝までぐっすりと
眠ることができる、お風呂にもゆっくりとドキドキせ
ずに入ることができる。
「素晴らしい!有難い!」という気持ちがこみ上げて
きました。
自由に文学を楽しみ、大好きな裁縫となぎなたに明け暮れ
た女学校時代が一番楽しかったです。
その後の私の青春時代は、暗黒の戦争に彩られ、自由
に学ぶことすらできませんでした。昔を回想する時、
一際あざやかに女学校の日々が懐かしく思い出されます。
国に束縛されることなく、自分の好きな勉強ができる
現代の子どもたちは羨ましいかぎりです。
終戦の次の日の朝の光は素晴らしかった。
あの朝ほど印象的な朝に出会ったことは、未だにありません。
焼け野原に立った時は呆然としたけれど、
「あぁ、もう逃げなくていいんだな」
って心底ホッとしたことを、今でもよく覚えています。
〜次世代へ語り継ぐ身として、今生を受け入れる〜
日本が高度成長に向かって歩き始めたように、
私も新しい家族と共に歩み始めました。
戦後25歳で結婚し、6人の子どもに恵まれました。
子ども達を育てている時は無我夢中でした。
とにかく、子ども達を死なせることなく、大人に
することしか考えていませんでした。
戦争について語ろうと思い出したのは、初孫(晶子)
が生まれた時からです。
それまでは、過去の古傷が少しずつ開きだすのを、
必死になって止めていたから・・・。
正直なところ、私は戦争時代の日々を、出来るならば
心の中に永久に閉まっておきたかった。
戦争の日々を思い出すたびに、自然と涙がこぼれ、
胸が切り裂かれんばかりに痛みだすので・・・。
でも、生き残った者の使命だと思い直したのです。
私ひとりの思いだけではなく、戦争において失われた
尊い命たちに促され、私の身を媒体として、彼らの無
念の思いを伝える役目になったのではないでしょうか。
丈夫な体が取り柄で戦後を駆け抜けた、勝気な私も、
来月で86歳を迎えます。
足腰が弱り、とうとう杖をつく身になってしまいました。
戦中を生き残った私達が生き続ける限り、戦後は終わり
ません。いいえ、終わることなど決してないのです。
私たちの子孫の中に、DNAと共にその思いは受け継がれて
いるからです。
毎年3月が巡ってくるたびに、心が痛みます。
「火の粉が降り真っ赤に染まった空」
「灼熱地獄と化した町から川に飛び込んだ無数の人々」
「人間であるか判別ができない無数の遺体」
「腸が建物で踏み潰されてちぎれてしまった方々」
「お母さんの背中にいた赤ちゃんに火が燃え移り焼死されたこと」
言葉では表すことなど到底不可能な地獄絵図の世界・・・。
私は残りの生涯をかけて、私達が味わった哀しみ、惨めさを
子孫に語り継ぎ、生ある限り戦争放棄を訴え続けてまいります。
二度と戦争を起こさぬようにと・・・。
[編集後記]
ドラマでは、祖母から聞かされていた話を、まざまざと
想像する事ができました。実際の惨状は、もっともっと
凄まじいものだったことでしょう。
今まで、私は色々と戦争について述べてきました。
実際に経験していない私が、戦争について語ることは、
おこがましい面も多々あるかもしれません。
しかし、戦後63年を過ぎ、戦争体験者の方々が、次々に
鬼籍に入られていく中で、次世代を担っていく立場として、
過去の歴史を深く学び、風化させてはならない事実として、
認識していくことこそ大切だと実感しています。
これからも研究し、ご報告してまいりたいと思っています。
あそうあきこ
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