私の尊敬する叔父 麻生剛が中学生のときに、 私のふるさとでもある千葉県大多喜町を襲った集中豪雨!!
そのときの体験をもとにして書かれた作文を連載します。
作文は読売新聞社、県教育委員会主催『第20回全国小中学校つづり方コンクール』で知事賞を受賞して表彰されました。(出展『わがふるさと城下町』角川書店より)
叔父はこの時の体験から、後に政治家を目指しました。
地方議員として、地域の発展に尽力しました。
新潟中越地震では、衆議院公設第一秘書として、現地に赴き、復興支援を行いました。その経験を活かして、現在は、国家安全のために、明日の日本を切り拓くために活動しています。
叔父は、東日本大震災の被災地支援においても、様々なネットワークを活かし、多くの支援活動を展開しております。現場主義であり、いつも自らが先頭に立ち、ボランティア、NPO活動への支援を続け、全国を駆け巡っております。
私も経験豊かな叔父に指導をいただきながら、墨田区議としての職責を果たしながら、日本復興の礎となるべく日夜走っております。
「集中豪雨」大多喜中学校3年 麻生剛
わすれもしない7月1日、わがふるさと大多喜を中心として、房総南部一帯にわたって降った雨は、一時間の雨量が驚くなかれ、116ミリ、総雨量が343ミリという、気象庁はじまって以来、9番目という、まさにすさまじい豪雨だった。
「どのような降り方だった。」
私は人からよく尋ねられたが、そのたびにバケツの水をまいたような、いや滝のような雨だったとはいうものの、これもあてはまらない。筆舌では、とうてい形容しがたい強い雨だったのだ。それも、この大多喜を中心にごく限られた範囲で、そこに住む者、その場に居合わせた者でなければ説明することのできないもの、つまり集中豪雨とは、そんな性質の雨であり、降雨量とその惨事から、その時の恐ろしさと降り方を想像するより仕方がないであろう。
この日の朝は暗く、なにか不吉なものを感じさせる一日の出発だった。学校へ着いて授業がはじまっても、電燈の設備のない教室は、夕ぐれどきと変わらず、先生の姿も友の顔も、声をたよりにしなくては、わからないほどだった。ほのかにさしこむ窓からの明かりで、かろうじて勉強をすすめているとき、大粒の雨が降り出し、降りはじめたかと思うと、俗にいう天の底が抜けたような降り方に変わった。みんなびっくりして、外の方へ眼を向けたが、今にやむだろうと簡単に思ってか、再びみんなの視線は教科書に注がれた。雨のことより、もっと明るくならないかなという気持ちと期待の方が強かった。
どころが、明るくなる気配は一向に見られず、やむだろうと思っていた大雨は、一時間たっても二時間たっても降り続いた。それどころか、雨どいの水ははけきれず、屋根からは雨水が滝のように落ちつづけ、しぶきが、割れた窓ガラスから室内の中ごろまで、たたきつけた。みんな「わいわい」しながら、廊下側の隅の方へと移動した。そのころは、庭の水は一面、湖を思わせ、昇降口などは、水がひざまでおおうほどになっていた。友だちは、わが家のことを心配しだして、もう授業どころの騒ぎではなくなった。こうして教室内は、不安と焦そうでやかましかったが、雨の激しい音に、それは消されていた。
降りはじめてから数時間たったろうか。ようやく小降りとなった昼近く、「近所の人は至急帰れ」との先生の指示で、一目散、わが家へ向かって走った。そのとき、グランドの隅が濁流のために大きくえぐりとられ、夷隅川の水が渦をまきながら、狂ったようにその決壊箇所のすそを洗っているのに気づいた。向こう岸の堤防はあと50センチを残すだけとなって、あちこちの土手が崩れかかっていた。決壊したらどうなるだろう。その下の久保の町、猿稲の町は全滅となってしまうに違いない。そう思うと、脚も立ちすくみ、とうてい駆けている状態ではなかった。
校門を少し出たところの県道にかかる外廻橋という全長40メートル、ふだんなら20メートル近くも水面まである近代的な鉄橋も、橋げたまで濁流が襲い、今にもつきそうな有様、それに「ごう、ごう」という不気味な水のうなり声が耳をついて、橋が揺れ動いている感じだった。渡るまいか、迷ったが、意を決して渡ったものの、もし流されたらどうなるだろう。震える足を夢中に動かして、ともかく渡り終えたとき、ああ、これで命が助かったと、ほっと胸をなでおろしたのは、私ひとりではなかったと思う。
夷隅川の堤防の上は、あちこちに戦争中の爆撃を思わせるような穴がぽっかりとあき、そこから濁流がしぶきをあげながら、流れこんでいる。
高台から低地の猿稲、久保といった町の中心部を見ると、もう水が軒先まで及んで道路は避難する人々でごったがえしていた。五つか六つぐらいだろうか。女の子が、「おかあちゃんとはぐれてしまった」といって泣きわめいているすがたもあり、そこはまさに生き地獄といっても過言ではなかった。
こんなにもひどくやられたのか、目頭がジーンとあつくなってくる。警察官も出動して、その整理に忙しく、その先を行く人と車の列は葬列を思わせるような、足どりへと変わっていた。
我が家は高台にあって、水害の心配のないことを知ってか、親戚の人が避難してきていた。聞けば、家具を運んでいる少しの間に、排水路の水が、軒先まできてしまって、命からがら逃げてきたのだという。
後編に続く・・・
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