1月25日は私の誕生日です。
私の名前の「晶子(あきこ)」は、祖母が名づけてくれました。
〜祖母が名前に込めた切なる願い〜
名前の由来としては、文学が好きだった祖母は、私にも文学が好きになって
欲しいと願い、情熱あふれる歌人・与謝野晶子の力強い生き方に感銘を受け、
彼女から名前をとったそうです。
私の母の名前は「朋子」です。
祖母が、母と私が離れ離れになって、どの場所にいても親子とわかるように
と、名前の漢字に込めた思いがあります。
母の名前の朋子「朋」は「月」。
私の名前の晶子の「晶」は「日」。
穏やかで心に沁み込む月光のように他者への思いやりを大切にしてほしい。
光輝く日輪のように情熱的に明るく生きてほしい。
月と日が互いに役割を担って空を守っているように、世の中でたった二人
だけの親子の私たちが、仲良く暮らして行けるようにと。
祖母が私の名前に託した思いを知った時、涙が出ました。
〜尊敬する祖父母〜
未熟児で生まれて、体が本当に弱かった私。
祖母は死にそうになった赤ん坊の私を温め続けて蘇生させてくれたそうです。
もし祖母が死んだら私も死ぬと、真剣に思い込み悩み続けた子供の頃の私を、
いま私は包みこんで癒やしてあげたいです。
私は祖父母が大好きです。
大きな愛で包み込んでくれた偉大なる祖父。
私のことを一番に考え無償の愛を与え続けた祖母。
ふたりはいつも私を必死に世間の荒波から守ってくれました。
でも時に、その無償の愛が重くて、期待に応えられない自分が悲しく辛かった
時もありました。
思い返すと、祖父が亡くなってから大好きだった祖母に色々と反抗し、色々と
ひどいことを言ったこともあり、いま深く反省しています。
〜両親の離婚から受けた心の傷〜
私が一歳の時に父母は離婚しました。
だから、私は父の顔を知りません。
私は32年間生きてきて、一度も父に会ったことはありません。
子供の頃は、父の話は家族間でタブー視されていたので、私は誰にも
詳しく聞いたことはありませんでした。
大変な労力を費やし、心身ともに疲れきった血みどろの離婚劇だった
ので、そのことを思い出すだけで不快な気分になったからでしょう。
実家にいた頃は、私が存在することにより、未来永劫続くかと思っていた、
断ち切れない血族という名の怖さと悲しみに押し潰されていました。
私の心のキャパシティは耐えられず、とても苦しくて、早く家を飛び
出して、家族から自由になることしか考えていませんでした。
この離婚がきっかけで、私は育つ過程の中で、ことあるごとに、周囲から
色々と中傷され続け、深く傷つきました。
「なんで、私がこんな扱いを受けるのか!?」
「なぜ、私はこの世に生まれたのか!?」
「なぜ、私自身を評価してくれないのか!?」
その現象がひどくなったのは、祖父が病に倒れてからでした。
一大求心力の祖父が弱くなったことにより、弱者となった私達に、
この時が機と思ったのか、暗黒の使者達は、刃を見せながら襲い
かかってきました。
権力を振りかざす嫌がらせやひどい仕打ちの数々は、思い出すだけで
吐き気がしてきます。
子供の私の頭では、とても複雑で理解することが困難な心がよじれる
ような苦しい事件が、立て続けにおきました。
私の胸は、はち切れんばかりに辛くて辛くて吹雪の時代でした。
どうしたら良い方向に考えられるのかわからず、パニックの毎日でした。
私は「群集心理の恐ろしさ」を身を持って体験することができました。
本当に学校にも行きたくなくて、不登校気味でした。
お節介な近所の人達や敵対する一族達、それに同乗して利益を得ようとする
輩によって、第三者的に伝わってくる、耳を疑いたくなるような非難中傷の
言葉が飛び交う日々。
いつしか私は人間不信になりました・・・。
特に祖父に世話になった人々の手のひらを返したかのような冷たい豹変振り
には、大変ショックを受けました。
私は家では必要以外は口をきかなくなりました。家族には色々とうまく過ごせ
ているかのように振舞いながら、心では泣いていました。
そんな思いを気づいてほしかったけど、気づいてもほしくない。
相反する気持ちが交差し続けた日々でした。
外でも、人の顔色に怯え、自己主張をすることを極端に恐れるようになりました。
子どもの頃は家族に気を遣い、周囲の人々と調和をとることを、重点課題として
心がけ続けて生きていました。
だから、一度も母を責めたこともなければ、相談したことも問い詰めたことも
ありません。
〜過去からの解放と昇華〜
今まで私達が味わってきた苦痛を言葉にすることは不可能かもしれません。
大人になってから、子供時代に受けた数々のトラウマは大きく作用しました。
「自分が愛せない。大嫌い!」
「自分の存在を消したい・・・。生まれてこなければよかった」
真剣に思い悩み、苦しみ続け、大人になってから初めて母を責めました。
一時絶縁状態だった私達ですが、色々と経緯を重ねる中で母が私に、
「気づいてあげられなくてごめんね」という一言を言ってくれたことから、
和解をして現在に至っています。
現在は何でも言いたいことを言いあえる親子関係になりました。
親孝行の意味もある「愛日(あいじつ)」の光を身に沁みて感じる今日この頃、
私達親子は大変時間がかかりましたが、この世にたった二人だけの
親子として、残りの人生を生きていくことができるようになったことは、
本当に有難いことだと思います。
私が父のことを詳しく知ったのは、つい最近のことです。
客観的に自分のことを見つめることができるようになり、自分の足で立って
生きていることが実感できるようになり、心に余裕が持てたからかもしれま
せん。真実を知るにつれて、とても心が楽になってきたことを感じます。
〜愛すべきもの守るべきもの〜
世間の風雪に耐え、どんなひどいことをされても言われても、家族に
心配をかけたくなくて、必死に平常心を保ち続けた子供の頃を思い出
すと、今でも辛くなる時もあります。
でも、過去の私がいたからこそ、現在の私が存在しています。
それは消せない事実であり大切な歴史です。
友達にも暗くて重い話なので引かれてしまうと思い、詳しくは話すこと
ができませんでした。
悲しい思いを抱えていた小学生時代に、私の心を癒してくれたのは
「愛する動物達」でした。
彼らには、素直な自分の気持ちを話すことができました。
生きる希望をもらい癒され続けました。
私にとってかけがえのない大切な家族でした。
彼らには心から感謝しています。
少しでも恩返しができればと思います。
「彼らの仲間のためにできることは何か」
これからも考えて活動を続けていこうと思います。
〜母の後ろ姿〜
無我夢中で教育の仕事に取り組み、突っ走って倒れてもすぐに立ち上がり、
力強く生きている母の後ろ姿を見て育ってまいりました。
反抗することなく寂しく過ごした子供の頃、私は母にもっと自分の方を向いて
生きてほしかったのかもしれません。
でも、ここで甘えたら自分自身の心が平静でいられなくなると思い、必死に
ものわかりの良い娘のふりをし続けていました。
私は娘であるからこそ、母の辛い思いや大変さがよくわかっていました。
母も必死に頑張っているのだからこそ、私が我慢しよう、頑張らなきゃと
いつも思いながら、歯を食いしばりながら生きてきました。
私は祖父の介護を手伝い、家計を支えながら、家族のために自分に出来る限り
協力して生きてまいりました。
私は人生で空回りをした時もあり、色々と心配をかけながら、他者と衝突しながら、
この年齢まで生き続けることができました。
本当に有難いことだと思います。
〜家族の形〜
家族の形は家族の数だけ、無数に存在しますね。
普通の家族って一体何か?
常に私が考え続けてきたことです。
祖父が倒れてから、祖母は母親の役割を、母は父親の役割を果たしてくれました。
私は祖父を「大パパ」、祖母のことを「大ママ」、母のことを「ともちゃん」と
呼んで育ってきました。
両親が揃っている家庭から見たら、変に思うことも多々あったと思います。
でも、祖父も祖母も母も私を一生懸命に育ててくれました。
家族は必死に働き、私に教育を与え、愛を与え続けてくれました。
それこそ、確かな事実であり、かけがえのないものでした。
育ててくれたことを感謝しても、恨むことは間違っていたことに、大人になった
今になって気づかされました。
もし、私に将来、子供ができたとしたら、家族が私に与えてくれたように、
今度は私が無償の愛を与えていきたいなと思います。
私が味わった思いは絶対にさせないように、私がして欲しかった全てを
我が子に注ぎこんで生きていきたいと思います。
そして、我が子にどんな境遇であったとしても、どんな辛い時でも、
笑顔を忘れずに、明るく朗らかに生き抜いていってほしいと願うと思います。
家族が込めた私への思いを胸に、今後どんなことが私の身に起きるか
わかりませんが、私に与えられた残りの人生を力強く生きていきたいです。
〜社会貢献への決意〜
昔は捨ててしまいたかった家族の歴史の数々ですが、祖先たちがいてくれた
からこそ、現在の私が存在します。
昨今、その歴史の重みを改めて知るにつけ、社会貢献の重要性を認識し、
後世に伝えていこうと、心底思うようになりました。
いつの間にか、誕生日が憎むべき日から
最高の日に変わるようになりました。
私を育ててくれてありがとう。
私を産んでくれてありがとう。
本日32歳になることができました。
愛日の心ふるえる庭先で清らにひらく水仙の花 晶 子
あそう あきこ
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