あそうあきこの活動日記

【無所属】元 墨田区議会議員あそうあきこの活動情報「レッツトライ!すみだ」

祖 先/家 族

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
イメージ 1


◎写真:国会議事堂案内「議事堂正面」より
http://www.sangiin.go.jp/japanese/taiken/gijidou/10.htm

〜戦後の繁栄をもたらしたのは逆境からの脱却〜

時に人の歴史は残酷な一面がある。

ある者は、受験に合格し、それとは反対に自分はと言えば、不合格。

そんな誰もが経験する青春の一ページは、決して輝かしいものばかりではない。苦くもあり、からいものだ。

しかし、大切なことは、どんな障害も乗り越えてこそ、人生には逆転がある。

池田勇人、皆様もご存知の日本の高度成長を演出し、我が国を経済大国へと導いた総理大臣である。

たまたま、手にした雑誌で、作家の松田十刻氏が、PHP研究所発行の月刊誌「歴史街道」(2007年12月号)に、この池田勇人の生き様が掲載されていたので、興味深く読ませていただいた。

その中の一節に、私の祖母(麻生秀子)の叔父(江澤省三)のことが、ふれられていたので、より一層興味をそそられた。


そのまま原文を掲載する。

「歴史街道」2007年12月号(PHP研究所発行)
【受験失敗、難病・・・挫折続きだった前半生がもたらしたもの】松田十刻

「吉田学校」の双璧を成す

昭和21年4月10日、戦後第一回の総選挙が行なわれ、鳩山一郎率いる日本自由党が
第一党となった。ところが鳩山は組閣直前に公職追放を受けたことから、5月22日、
東久邇内閣で外相を務めた吉田茂が首班となり、吉田内閣が成立した。
蔵相には経済評論家の石橋湛山が登用された。池田勇人は主税局長として、石橋蔵相と
総司令部との交渉を支えた。石橋は池田の実直な仕事ぶり、豪胆な性格を気に入る。

翌22年1月30日、吉田内閣の改造により、石橋蔵相は経済安定本部総務長官、物価
庁長官を兼任し、池田の役割も増した。
運輸省にいた佐藤栄作は閣僚候補にあがっていたが、実兄の岸信介が戦犯容疑になって
いたころから運輸次官に据えられた。
2月6日、石橋は池田を大蔵次官に抜擢した。石橋は池田の忠実な働きぶりを高く評価
したうえ、政界出馬の意欲を感じとり、次官にとりたてたという。

このときの大蔵省は、官房長が福田赳夫(後の総理大臣)、主計局長が野田卯一(後の建設大臣)、
理財局長が櫛田光男、銀行局長が江澤省三で、いずれも池田よりも後輩になる。
けっして先輩の公職追放の恩恵にあやかって出世したわけではない。
吉田内閣で五高出身者二人が次官となり、池田と佐藤は一躍脚光を浴びた。

昭和21年4月25日の総選挙では、社会党が第一党を占め、5月24日、片山内閣
が発足した。池田は、矢野庄太郎、栗栖赳夫の二人の蔵相のもとで次官を務め、芦田
内閣が成立した昭和23年3月10日に辞表を提出し、退官した。

池田は民主自由党広島支部長として地盤固めに努め、10月15日に第二次吉田内閣
が成立すると、官房長官に就いた佐藤栄作の斡旋により、初めて吉田首相と対面した。
12月23日、衆議院が解散され、昭和24年1月23日の総選挙で民自党は絶対多
数党へと躍進した。広島二区から立候補した池田は最高点で初当選を果たした。

吉田の悩みは蔵相の適任者が見当たらないことだった。
吉田は日清紡績会長の宮嶋清次郎に人選を一任した。宮嶋は社長の椅子を譲った桜田武
から池田のことを聞き、面談したうえ、太鼓判を押して吉田に推薦した。

第三次吉田内閣は2月16日に成立。池田は初当選で蔵相のポストを射止めるという
ドラマティックなかたちで政界にデビューした。
しかも49歳とまだ若い。事務次官には長沼弘毅、秘書官には宮沢喜一を起用した。
池田は佐藤栄作とともに「吉田学校」の双璧を成し、政界の牽引役になってゆく。

昭和26年8月にはサンフランシスコ平和会議全権委員(首席全権は吉田茂)となり、
9月8日の平和条約調印にこぎつけた。

池田勇人は難病という絶望の淵からよみがえり、劇的な逆転劇を演じた。政界で活躍
するのは16年と決して長くはない。
苦難の前半生は疾風のように駆け抜けるための充電期間だったのかもしれない。

◎参考文献『人間池田勇人』土師二三生(著)講談社

人は誰もが幸福を願う。

その「幸福追求」こそが、政治なのだと思う。

どんな反対にもめげず、正しいと思ったらトコトンやりとおす。

決して引かない姿勢が必要なのではないか。

さすれば、人の生き様、人の評価は死して始めて定まると言われる。

人生を切り拓くのに大切なのは「感謝の気持ち」を持ち続けることである。

永遠の今に生きたい!

現在の積み重ねが未来を創る!

今日この頃の私の中で湧きあがる素直な心情である。


◎財務省HP
http://www.mof.go.jp/

あそう あきこ
イメージ 1

未曾有の経済危機が叫ばれている今日、

歴史の教訓から学んでいくことが大切です。

先人の知恵を生かしていくべきです。

戦後の混乱期を救った男がいました・・・

その名は江澤省三。

私の祖母(麻生秀子)の叔父です。

すでに鬼籍に入られている方です。

後年、「日本経済新聞」(全国版)に、以下のような文が載りました。

「日本経済新聞」(平成5年11月25日)

【交遊抄】(《我らが「おやじ」》(文:広瀬信男)より

その人を今は「親父(おやじ)」と呼び三ヵ月に一回、東京で囲む会を開いている。
メンバーは親父が東京中小企業投資育成会社の初代会長を務めていた時、最初に出資を
受けた経営者の面々。中峰弘トーイン会長が主幹事、私と酒井喜八トーイン監査役がい
わばサブ幹事で常連六人がざっくばらんに話を交わす。

親父は大蔵省の金融局長銀行局長、日本銀行理事などを歴任し、東京中小企業投資
育成会社を創設した。出資を得るため六三年に面談したのが出会いである。
親父は社長の能力を見極め会社を評価したので審査は厳しい。
国家試験に、合格したという心境で、六五年なってようやく転換社債を発行できた。

親父は厳しい審査を通り抜けた投資先同士が連携し助け合う場として「そだとう会」
を六四年に設けた。今の囲む会はその会の中の有志の集まりである。発言は常に慎重。
大蔵省時代に新円切り替えを巡ってGHQとやりあっただけにファイトがあり、知識、
経験も豊かだ。

「正直に働け、働け、よそ見をするな」というのが親父の口癖。

高度成長期にもバブル期にも土地や不動産に目を向けずに本業を貫くよう我々に諭した。
土地は希少だから値段は上るけれども、それで事業が大きく伸びはしないというのだ。
土地を買った人には「君は何を考えているんだ」と声を荒らげて怒った。
口癖を色紙に書いて主幹事の中峰氏に皆、手渡していた。
私にも下さいと言ったら「おまえはよそ見しないからいい」との返事。
静岡県内にある玩具(がんぐ)会社の救済を親父から頼まれた時、採算に合わないと
断ったことがあるからだろう。

親父は代わりに西郷隆盛の言である「敬天愛人」の色紙をくれた。

イメージ 2

西郷隆盛像(上野公園)

私は、今の自動車部品に魚群探知機と玩具を加えた三つの事業を経営の柱としたかった。
四八年の創業から自動車部品しか手掛けないままこの六月、会長を退いたが、よそ見を
せずによかった。
親父の名前は江澤省三、九十一歳である。(ひろせ・のぶお=日本プラスト会長)

「正直に働け、働け、よそ見をするな」 江澤省三

時代が人を創る。歴史が人を創り出す。

世の中が危機であるからこそ、その危機を救うべく

英知を結集して乗り切ることが肝要です。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」。

皆で原点に立ち帰り、相互扶助の精神で共に手を携えて

難局を乗り切ることが大切です。

それが国民の願いであると思います。


◎日本銀行

http://www.boj.or.jp/

◎日本銀行(バーチャル見学ツアー)

http://www.boj.or.jp/tour/

◎日本プラスト株式会社

http://www.n-plast.co.jp/index.html

◎鹿児島県歴史資料センター 黎明館

http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/

あそう あきこ

ものを成すには、よきパートナーに恵まれることが一番です。

とりわけ、企業経営においても同じことがいえます。

昨日に引き続き、歴史の表舞台を支えた裏方を紹介します。

その名は江澤富吉。

昨日紹介した佐久が妻にあたります。

つまり私(あそうあきこ)は「やしゃご」にあたります。


イメージ 1


昭和4年頃の天賞堂本店

江澤富吉は生前、「ヨーロッパの騎士に騎士道、日本の武士に武士道があるように、商人には商道があり、道徳にのっとった商売を行うことこそ、商人の責務である」と申しておりました。

そんな江澤富吉のことを、明治期に田中智学が綴った文があります。以下に紹介します。


『夢を売った男』市原允著 (崙書房)より

「友人江澤金五郎という人は、上総から出て来て、独立独行して、篆刻の店から時計屋に移り、遂に美術品の大商店となって一代の 盛名を博した男であるが、その人物に至っては沈着で、なるほど美術品商に相応しい閑雅な男な風采のあった人だ。

寛容で度量のあった人で、実務の切り盛りは実弟 江澤富吉という人が参謀格で、なかなか細心な人物であったから、本人も大いにこれに信頼して、店舗の重要実務を司らせ、外に忠実謹格な支配人筆頭たる亀田福松という人がいて、多くの店員を監督し、兼て外交にも当って業務追々進展し、すこぶる内外の重望を荷って、時計美術品商としての名家となった」

イメージ 2


明治44年(1911)初版の「天賞堂営業案内・貴金属装身具之部」
大正6年(1917)まで12版を数えた。

江澤金五郎と江澤富吉は、実の兄弟であり、なお銀座天賞堂経営の車の両輪でした。

この表裏一体となった力は、何倍にも重みを増して、明治期の豪商の名を欲しいままにしたのです。

私の祖母(麻生秀子)は、眼のあたりに江澤富吉の生き様をみて参りました。

商人として商道を貫き、常に兄を助けながら、家族には愛を注ぎ込んだ富吉。

祖母はそんな富吉の生き様から、明治男の気骨さを感じ、自らの生きる指針としてきたようでした。


今は平成の世です。世界的な経済危機が忍び寄って来ています。

だからこそ、明治から昭和の激動の時代を生き抜いて来た先人たちの知恵を学ぶことが大切です。

とりわけ、江澤富吉の掲げた「商道先駆」は、時代を超えたバイブルです。

明治を駆け抜けた商人たちの息吹を感じる時、私の中で新しいアイディアがみなぎってくることを感じます。

チャレンジあるのみですね!


◎参考文献
・『商道先駆』江澤富翁著〔四海書房〕
・『夢を売った男』市原允(著)〔崙書房〕
・『広告で語る天賞堂と銀座の百年』〔天賞堂〕
・『明治商売往来』仲田定之介(著)〔青蛙房〕
・『続・明治商売往来』仲田定之介(著)〔青蛙房〕
・『明治の銀座職人話』野口孝一(著)〔青蛙房〕
・『銀座』松崎天民(著)〔新泉社〕
・『日本商業史』菅野和太郎(著)〔日本評論社〕
・『日本商人史』〔日本歴史地理学会〕
・『大日本商業史』菅沼貞風(著)〔五月書房〕
・『明治百年』毎日新聞社会部〔筑摩書房〕
・『銀座百話』小西四郎(著)〔角川書店〕
・『明治の異才 福地桜痴』小山文雄(著)〔中央公論社〕
・『ある明治人の生活史』小木新造(著)〔中央公論社〕
・『時計の社会史』角山 栄(著)〔中央公論社〕
・『広告の日本史』松本 剛(著)〔新人物往来社〕
・『明治大正風俗辞典』〔角川書店〕
・『事物起源辞典』〔東京堂〕
・『明治大正史 世相篇上・下』柳田国男(著)〔講談社〕
・『三越三百年の経営戦略』高橋潤二郎(著)〔サンケイ新聞社〕
・『昭和恐慌と経済政策』中村隆英(著)〔日本経済新聞社〕
・「明治時代 各新聞」ほか。

あそう あきこ
イメージ 1

昔は、歴史の表舞台に登場するのは、男性が主流でした。

しかし、その舞台裏を支えたのは常に女性だったことを忘れてはいけません。

私が「やしゃご」にあたりますが、【江澤佐久(えざわ さく)】という方のことを、掲載している本に出会いました。

その中の一節をそのまま紹介させていただきます。


『銀座GINZAの物語』松本幸輝久著(三信図書)より記事引用

水商売ばかりに銀座の美人、名夫人がいるわけではない。
名店の女将は、いずれも素人として格のちがう夫人だったが、当時の世相では表に出ないので
目立たなかっただけである。

この中で、今でも古い銀座マンの口に上るのは、天賞堂時計店の江澤富吉夫人の佐久さん
である。

勝海舟の血をひいているだけあって、人柄は温かく、面倒見の良い典型的な江戸っ子であっ
たが、反面気丈な人で、女傑だったという人もあるくらいである。

店の者も、家人も、親類縁者も佐久にいわれると、「あの人のいうことなら・・・・・・」
と多少無理なことでも二つ返事でそれに従ったという。

農林中金の総裁だった三男の省三さんもよく叱られたという。
それでも一高時代、佐久さんが熱海で病気療養をしていたとき、鰻が好きというので、京橋の
竹葉亭で鰻を買って月に二、三回は見舞いに出かけていた。

それも時どき途絶えると、佐久から、
「あなた方が最高学府に入り、安心して勉強していられるのは誰のおかげと思っているのか、
離れた親に手紙一本出せないというのはどういうわけですか。よくよく考えて下さい」
という手紙で叱られたという。

秀才揃いの子供を持って他人からは羨ましがられていたが、その子女の教育は挙げて佐久がやっ
ていた。
叱るときは叱り、怒るときは怒るが、反面、ずいぶん思い切ったこともやってのける人柄だった。

主人の富吉が出張中のおり、子供たちが勉強部屋がなくては困るといいだすと、
「ハイ、わかりました」とすぐに大工を呼んで、六室もある洋館一棟を建設させてしまったと
いう話も残っている。

いかにも銀座の大女将の器らしい話であろう。

五男の譲爾氏が書いたものの中に、

「男のやった事業は時非なれば夢のごとく消えてしまうが、女のやった事業は、
子供の血となり肉となり永久に生きていく」

とあるが、これこそ銀座の名門の主婦の底力というものであろう。

佐久さんは晩年、夫の富吉と四男の一三の看病にくたくたになり、身も心もすりへらして、
63歳で病没した。

今でも「スリムなキリリとした、本当に江戸っ子らしい美人だった」という人がある。

女性の目線で見えてくる大切なものは多々あります。

現代にも通ずる永遠のテーマである「女性ゆえに後世に残せること。永久に生き続けるもの」。

『銀座GINZA物語』の中で、私の祖母(麻生秀子)の叔父にあたる江澤譲爾氏の言葉「男のやった事業は時非なれば夢のごとく消えてしまうが、女のやった事業は、子供の血となり肉となり永久に生きていく」ということにつきるのではないでしょうか。

21世紀を生きる私たちが後世に残せるものとは何か!?

先祖の女性史を学ぶ中で、多くの課題が私に与えられました。これからの私の人生において、考え続けていきたいと思います。

祖母の麻生秀子曰く「江澤佐久は凛として咲き誇る白バラのような人だった」。


あそう あきこ

白粉花の思い出

イメージ 1


旧暦8月の異名に「壮月」があります。
意味は「草花が盛んで活力に満ちている月」です。
暑くても元気よく活動していきたいという願いがこめられています。
残暑が続いていますので、お体に気をつけてください。

夏に勢いよく咲き誇る花について考えていたら、
白粉花(おしろいばな)のことを思い出しました。
この白粉花は
別名「夕化粧」とも呼ばれています。
かすかなよい香りがします。


「白粉花の種を割ると白い粉が出てくるんだよ。
花の名前の由来はここから来ているんだよ。
昔の子どもは、この白い粉を顔に塗って遊んだものさ」

夏休みの自由課題作品のために、庭の「植物採集」を祖母と
一緒に行っていた時に、祖母がそう教えてくれたことを今ふ
と懐かしく思い出しました。

白粉花は夏の夕方頃から咲き出して朝にはしぼんでしまいます。
「夕化粧」という名前のイメージはとても儚げな印象ですが、庭
の中で白粉花は向日葵と同じように暑さに負けずに、元気良く
咲いていました。
花色も濃いピンクや黄色、白でハッキリしていますね。
白粉花を見ると「夏なんだなぁ」と実感したものです。

家中で一番元気だった祖母も足が悪くなり、杖をつきながら、
母が丹精をこめている庭を散歩するのが楽しみであり、日課
となっています。
私にとって祖母と一緒に行った植物採集は、大切な夏休みの
思い出の一つです。

もうすぐ夏を彩る花たちともお別れですが、それぞれの花たち
の種を見つけるたびに、着実に命のバトンが渡されていること
を感じ嬉しくなります。

あそう あきこ


.
あそう あきこ
あそう あきこ
女性 / AB型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
検索 検索

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事