― 24万人の平和のメッセージ ―今年で墨田区が「平和福祉都市づくり宣言」をしてから20年を迎えました。世界平和を願うイベントが行なわれました。
区では、毎年、東京大空襲のあった3月に平和祈念行事を開催しています。 今年も、区民の方々などに折っていただいた折鶴で製作した「平和のオブジェ」を背景 にして、新日本フィル団員による【2008平和祈念コンサート】が行なわれました。 【2008平和祈念コンサート】☆演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団による弦楽四重奏曲
ヴァイオリン:砂畑 佳江・小池 めぐみ ヴィオラ:高橋 正人 チェロ:貝原 正三 ☆曲目 ・モーツァルト作曲 「アヴェ・ヴェルム・コルプス」 ・ドヴォルザーク作曲 弦楽四重奏曲 第12番ヘ長調「アメリカ」 ・滝廉太郎作曲「花」 ☆司会:桐原美砂(新日本フィルハーモニー交響楽団) 辻崎千春(すみだ親善大使) ☆主催:墨田区/墨田文化振興財団 平和メッセージ展◎平和メッセージ展は、3月10日から23日まで午前9時から午後7時まで(23日は午後3時まで)
開催されています。 ★ところ:区役所1階アトリウム ★入場料:無料 ★問合せ:文化振興課文化振興担当 電話:03-5608-6116 願い続けること〜戦争放棄への決意〜鶴で作られた地球の日本から発信された、平和を願う人々の願いを乗せて、 宇宙へ飛び立つ、無数の鶴たちの姿を拝見しながら、弦楽四重奏の奏でる音色 に耳を傾けていると、色々な思いが脳裏をめぐりました。 偶然にも、心温まる素晴らしい出会いがありました。 演奏前に私の後ろの席で、子どもを連れたお母さんが、63年前の東京大空襲の ことを、「平和のオブジェ」を見ながら、子どもにわかりやすく説明している のを耳にしました。 大人の側が積極的に次世代を担っていく子どもたちへ、歴史を伝えていくとい う姿勢に、大変感動いたしました。 少しずつ歯車が狂いだしていけば、現在の日本の平和は脆く崩れていってしま います。そんな儚い土台のもとに、出来上がっているのではないでしょうか。 そうならないためにも、 「国民一人一人が過去の痛ましい戦争から学ぶ姿勢を持ち、平和とは何なのか」 という問いを持ちながら、自分達が国を作っているという意識を持って、自国 文化を学び、戦争放棄を世界へ発信し続けていくことが、求められているので はないでしょうか。 ※ブログ「決算特別委員会(平和教育)」(2007/12/25)ご参照ください。↓http://blogs.yahoo.co.jp/akiko_miyu/19761917.html |
墨田の歴史と文化/戦争と平和
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本日【春季慰霊大法要】に参拝いたしました。今から63年前、昭和20年3月9日夜から10日早朝にかけて東京はアメリカ軍による空爆を受けました。東京大空襲です!昨年度の秋季慰霊大法要の際に、 「戦後、戦後っていうけど、一体いつの戦争の後のことを指すの?」 という、素朴な問いをある子どもからされました。 平成元年生まれの子どもが、今年でちょうど20歳です。 平成になってから、もう20年経つんですね。 私は昭和52年生まれですので、もちろん戦後生まれですし、 太平洋戦争を知りません。 私にとっても、平成生まれの子どもたちにとっても、戦争は はるか昔の出来事です。 歴史の授業でも詳しくは教えてはくれません。 平成生まれの子どもにとって、戦後というと、つい近年の 湾岸戦争、イラク戦争あたりが記憶に新しいところです。 それも、戦地は海を越えてはるか彼方で起こっていることで、 自分達の生活には支障をきたさないので、切実な自分の問題 として、考える機会を持てなかったという意見が多かったです。 私は祖母から幼い頃より戦争について聞かされてきました。 祖母の語りから私は、実際に自分が体験していなくても、色々と 大変な出来事がこの日本で起こっていたことを、幼心にも理解しました。 平常生活から非常生活にガラッと人生が変化し、極限状態における 群集心理の恐ろしさについても考えさせられました。 祖母との対話が、現在の私を作り上げ、 「平和を維持するには何が必要なんだろうか」 という問いを、私の心に芽生えさせたきっかけでもあります。 普通に起きて学校に行くという生活が、毎日できて当前と 思っている子どもたち。 戦争の惨劇を二度と起こさないために、63年前に平成の私たちと 同じように、生きて生活していた人々の生の軌跡。 それらを伝え継いでいくことこそ大切なことだと実感しています。 決して風化させてはならない歴史的事実です。 失われた生命に哀悼を感じる中で、区議として、国民の一人としても 全力で生きていく決意を、東京都慰霊堂にて心に誓いました。 〜震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記〜顧れば1923(大正12)年9月1日突如として関東に起こった震災は東京市の大半を焦土と化し、5万8千の市民が業火のぎせいとなった。
このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった。与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに、1930(昭和5)年9月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は135尺基部は納骨堂として5万8千の霊を奉祀し約200坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。 爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも1944(昭和19)、45(昭和20)年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った。戦禍の最も激じんをきわめたのは45(昭和20)年3月10日であった。 江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約7万7千人を失った。 当時殉難者は公園その他130ヶ所に仮埋葬されたが48(昭和23)年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、51(昭和26)年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。 横網公園敷地は約6000坪、慰霊堂の建坪は377坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。 1951(昭和26)年9月 東京都 ※ブログ「平和への祈り- ラストメッセージ -」(2007/9/3)には[秋季慰霊大法要]について書きましたので、ご参照ください。↓http://blogs.yahoo.co.jp/akiko_miyu/16349834.html あそう あきこ
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