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「野人」と「韋駄天」世紀のカップルなどと称されている
白洲次郎(1902年2月17日 - 1985年11月28日 実業家)正子邸に行ってきた。
白洲の車好きは有名であった。イギリス留学中にベントレーやブガッティを乗り回し、「オイリー・ボーイ」(オイルにまみれるほどの車好き)と呼ばれていた。ロンドンから一時間ほどのレーシングコース「ブルックランド」においてベントレーで快走していた。
80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回し、ゴルフに興じていたが、1985年(昭和60年)11月に正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し、胃潰瘍と内臓疾患で入院。同年11月28日死去。享年83。
正子夫人と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった
身長185センチ、スポーツ万能で晩年には三宅一生のモデルを務めたこともある。
日本人で初めてジーンズを穿いた人と伝えられている。また、ラッパズボンも愛用していた。
白洲は、日本ゴルフ界を語るには欠かせない人物でもある。
このようなエピソードも。軽井沢ゴルフ倶楽部理事に就任の後に
中曽根康弘が立ち寄った際、コースから閉め出されたSPと新聞記者が双眼鏡を用いて中曽根の様子をうかがっていたところ、「なんだ?バードウオッチングか?」と強烈に皮肉った(当時、中曽根は政治的立場をよく変えるため「風見鶏」と揶揄されていた)。
映画『夜の蝶』(1957年、大映)の主人公、白沢一郎(コロンビア大卒の前国務大臣。イラン石油輸入権を持ち政界に多大な力を持つ富豪)のモデルは彼である。
ヨハンセン・グループ
1940年(昭和15年)来るべき日英・米戦争、それに伴う食料不足を予期し、事業から手を引き、鶴川村・武相荘に隠棲。カントリー・ジェントルマンを自称する。農業に励む日々を送る一方で、吉田茂を中心とする「ヨハンセン・グループ」(宮中反戦グループ)に加わり、終戦工作に奔走し、ここから白洲の「昭和の鞍馬天狗」としての活動が始まる。同年に、長女桂子がうまれる。1942年東京都南多摩郡鶴川村(現、東京都町田市鶴川)へ転居し、農業に従事した。
武相荘の名は白洲次郎本人の命名である。
武蔵と相模の境にある という事と「無愛想」をかけた、次郎らしいダブルミーニング。
* 以上、Wikipedia から印象的なエピソードを抜粋しました^^*
白州次郎名言集
*「ツイードなんて、買って直ぐ着るものじゃないよ。3年くらい軒下に干したり雨ざらしにして、くたびれた頃着るんだよ。」三宅一生にアドバイスとして。
*「わからん!」(白洲正子の『西行』を読んで。)
*「一緒にいないことだよ」(晩年、夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて。)
*「Hope She will be MORE TIDY! 1979」 (武相荘にあるブラシ入れの底裏のメッセージ。おそらく正子へのうっぷん。)
*「相撲も千秋楽、パパも千秋楽。」(晩年、東京赤坂・前田医科病院に入院する前にテレビで相撲を見ていながら、長女((第三子))の((現姓・牧山))桂子さんに向かって。)
*「右利きです。でも夜は左。」(入院した病院で看護師さんに「右利きですか?左利きですか?」と尋ねられて。※ちなみに"左利き"とは"酒飲み"という意味を持つ。)
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