真堂彬のブログ

森鷗外「『舞姫』‐いわゆる「舞姫論争」について」アップしています!

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『舞姫』|主人公・太田豊太郎の年齢と年立てについて  
⑫豊太郎、人事不省に陥る。
 豊太郎は明治二十二年の元旦に帰ってきた二、三日後の「或る日の夕暮使して招かれ」ることになる。夕方まで家にいたということは、使いが来なければその日も家にいるつもりであったのだろう。この「或る日の夕暮」は、金曜日の夕方ということを考えれば一月四日であろう。
 この日、新年の祝賀会も兼ねてロシア・ペエテルブルク行きの慰労会が催されていたのであろう。豊太郎に対する大臣の「待遇殊にめでたく、魯西亞行の勞を問ひ慰めて」もらったのである。しかし、事はそれだけに留まらなかった。天方伯は大事なことを豊太郎に告げたのである。「われと共に東にかへる心なきか、君が學問こそわが測り知る所ならね、語學のみにて世の用には足りなむ、滯留の餘りに久しければ、樣々の係累もやあらんと、相澤に問ひしに、さることなしと聞きて落居たり」と言ったのである。この言葉がカギ括弧付きの直接話法になっていないことに留意する必要がある。豊太郎には、天方伯の言わんとすることが理解できたのである。先に、「余は明旦、魯西亞(ロシア)に向ひて出發すべし。隨ひて來べきか、」と問われた時と比較するとよく分かると思う。そこでは、「余はおのれが信じて鬚狄瓦鮴犬犬燭訖佑法卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、その答の範圍を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、その爲し難きに心づきても、強て當時の心虛なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屢々なり」と述懐しているのである。しかし、この時の豊太郎は少なくとも「その答の範圍を善くも量らず」ではなかったはずである。「あなやと思ひしが」は、すでに「余が輕卒にも彼に向ひてエリスとの關係を絶たんといひしを、早く大臣に告げやしけん」と思っていたことが、やはりその通りであったのかということであり、「流石に相澤の言を僞なりともいひ難きに」は、豊太郎が相澤に約束したのは「姑(しばら)く友の言に從ひて」という留保付きの真の約束でなかったことを意味するが、それは豊太郎にだけ通じる話であり、相澤は豊太郎のその約束をそのまま大臣に告げただけなのである。
 そうしてみると、大臣に「われと共に東にかへる心なきか」と問われた時、豊太郎の心に真に残ったのは、「若しこの手にしも縋らずば、本國をも失ひ、名譽を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの廣漠たる歐洲大の人の海に葬られんかと思ふ念*1」だったのだ。「嗚呼、何等の特操なき心ぞ」と、この時記しているが、これは大臣が「われと共に東にかへる心なきか」という問いを豊太郎にいつ尋ねるかだけの問題で、「承はり侍り」と豊太郎が答えるのは、すでに決定されていたことなのである。この時、豊太郎は心の底から「自ら欺き、人をさへ欺きつる」自分を知ったであろう。自らを欺いているのであるから、自分では「真」と思っている。そうであれば、その「真」の姿の豊太郎を、人は「真」と見る。ところが、自らを欺いての「真」は実は「偽」であり、他人は本人が「真」と信じている「偽」を、まさか「偽」とは見破れない。
「特操なき心」の姿は、自ら(「我」)を欺いた「我が心」なのである*2。そして、その我が心は「我」を「罪人」と断罪するのであるから錯乱もしよう。
 豊太郎に残された道は、せめて自分の言葉でこの一連の事情をエリスに伝えることのみであったはずだが、心の錯乱は厳寒の冬の下に「我」を弱らせ、ついに人事不省に陥らせる。
 「「あ」と叫びぬ。「いかにかし玉ひし。おん身の姿は。」」これが正気のうちに豊太郎が聞いたエリスの最後の言葉である。
*1「若しこの手にしも縋らずば」というのは、次に記されることが必ずや生じるということではないが(「に−しも−あら−ず」の用法)、「本國をも失ひ、名譽を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの廣漠たる歐洲大の人の海に葬られん」ということが現実味を強く帯びてくることを示す。
*2「自ら欺き、人をさへ欺きつるにて」の前後に記された文は、「余が幼き頃より長者の海鮗蕕蠅董學の道をたどりしも、仕の道をあゆみしも、皆な勇氣ありて能くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも」であり、「人のたどらせたる道を、唯だ一條にたどりしのみ」である。これらが「皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて」という文で接続されているのである。つまり、幼少の頃より今まで「皆な自ら欺き、人をさへ欺きつる」生き方をしてきたと記している。そして、それを「我本性なりける。此心は生れながらにやありけん、又早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけん」と推量している。

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