|
この瞬間へのコンタクト(接触・触)−縁−において
自他という境界のすべてが幻想であり、無常であると知り、
身体が感じる五官(眼耳鼻舌身・ゲンニビゼツシン)と意のすべては、
流れ去り、いつも消え去っていくがゆえに苦性があると知り、
心に触れ、感じるすべてを、
私に起こったことだと信じることなく、
平等かつ、とらわれずに接するとき、
対象にふりまわされない自由な境地が得られるという・・・
外界と内界という分離の様相のなかで生まれるコンタクト、
苦楽、不苦不楽の接触感を静かに見つめ、
自らがそのなかにいると信じれば苦しみ、
自らがそのなかにいないと信じれば安らぎ、
そこから離れた自由があるという
遠離(オンリ)の喜びと平安な境地、
私たちの身体が信じている幸せを超えた涅槃があるという・・・
さて、ここが現実だと思うなら、次の輪廻へ、
それぞれの業により、
そこが地獄か、餓鬼か、畜生か、人か、阿修羅か、天界へと進むという・・・
ここや別の時空すらも望まないなら、
生命と呼ばれる束縛を完全に離れ、
分離の概念のない涅槃へと進めるかもしれない・・・
だが、なかなか現世への愛欲は、
いと離れ難し・・・
*******************************
お釈迦さまは、『ブッダのことば(スッタニパータ)*中村元訳*岩波文庫』のなかで、最近のスピリチュアルだと信じられていることと、現実世界あるいはあの世からさえも解脱(ゲダツ)する真の覚(サト)りの道とは、一線を画することを話されています。
それは・・・
33.悪魔パーピマンがいった、
「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜び。
人間の執著(シュウジャク)するもとのものは喜びである。
執著するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない。」
34.師は答えた、
「子のある者は子について憂(ウレ)い、また牛のある者は牛について憂う。
実に人間の憂いは執著するもとのものである。
執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」と。
片方は、この宇宙遊園地にいつまでも愛着・執着し、享楽に耽り続ける生き方であり、
ブッダの説く道は、それらの執着から一切離れたところにある至福への道を説かれています。
残念ながら、両方を同時に得ることは、その構造上、不可能なようです。
|
はじめまして。
Zeroと申します。
コンタクトと題する記事を興味深く
読ませて頂きました。
十二因縁を元にした説だと思いますが、
表現が詩的であり、分かりやすいですね。
非常に勉強になりました。
ありがとうございます。
お気に入りの人に登録させて頂きました。
今後も勉強させて下さい。
2011/8/10(水) 午後 10:21 [ Zero ]
Zeroさん、はじめまして♪ ちょうど私もZeroさんのブログを拝見して、お気に入り登録させて頂きたいと思っていたところです。 お釈迦さまの教えは、本当に深く、厳しいですね。 私自身、我のかたまりのような人間ですが、少しずつでもお釈迦さまの教えを吸収していきたいと思います。 今後とも、よろしくお願いします♪
2011/8/10(水) 午後 11:55 [ あきやん♪ ]