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沖縄の南部を旅した最後は、海へ出て「グラスボート」に乗りました。 行った先は、「平和祈念公園」から東へ、車で20分ほど行ったところにある、「新原ビーチ(ミーバルビーチ)」。 2kmに渡って遠浅の海が続く白い砂浜で、水中ウオッチングを楽しみました。
船の底が、ガラス張りになった「グラスボート」に乗って、透明度の高い海中の、浅瀬の熱帯魚や、沖の緑のサンゴ礁など、見所いっぱいで、時のたつのも忘れて、楽しんでしまいました。
2泊3日で訪ねた、「久米島&沖縄の旅」も、これでお終いです。 この日の沖縄の気温は、18℃。 沖縄・那覇空港から、気温8℃の大阪・伊丹空港へ無事に帰って来ました。 長い間、お付き合い有難うございました。 ( 1月16日〜18日 撮影 )
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沖縄&久米島
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「沖縄の旅」の3日目、沖縄本島南部を訪ねました。 太平洋戦争において国内で唯一、地上戦が行われた沖縄。 特に南部は、日本軍と住民が米軍に追い込まれた地で、多くの犠牲の跡が残る中、沖縄戦末期、陸軍病院第3外科壕の跡に建つ「ひめゆりの塔」を訪ねました。
1945年3月24日、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校の生徒222名、教師18名は、沖縄陸軍病院へ看護要員として配属されました。 4月1日、米軍は沖縄本島中部西海岸に上陸。日本軍の死傷者が激増するなか、学徒たちは負傷兵の看護、水汲み、飯上げ、死体埋葬に追われ、5月25日、激しい砲爆撃の中、本島南端部へ撤退していきました。
6月18日、日本軍もいよいよ力尽き、学徒たちに突然の解散命令。 学徒たちは、絶望の中、米軍の包囲する戦場を逃げ惑い、ある者は砲弾で、ある者は毒ガス弾で、ある者は自らの手榴弾で命を失い、数日間で、100余名の学徒たちが死亡しました。 第3外科壕は、生存者5名だけ、最も被害を受けた洞窟病院でした。 6月23日、沖縄日本軍の戦闘は終結しました。
今は、美しい海に囲まれた沖縄の60年前、沖縄の子供や住民12万余りを巻き込み、日本本土上陸を1日でも遅らせる「捨て石」とした、沖縄戦争の悲惨さは、忘れる事ができません。
「ひめゆり」は、植物の花とは無関係だそうです。 当時の沖縄県立第一高等女学校と、沖縄師範学校女子部の校友会誌の名が、「乙姫」「白百合」だったので、「姫百合」となったそうです。
「ひめゆり」とひらがなで使うようになったのは、戦後のようです。
「ひめゆりの塔」の隣には、「ひめゆり平和祈念資料館」があり、この日も多くの修学旅行生が訪れていました。 「ひめゆり」の生存者の高齢化も進む中で、「語り部」としての話も聞くことができました。 亡くなった学友や遺族の痛恨の思いから、語る事はほとんどなかったそうです。
このあと、慰霊碑や資料館の建つ、沖縄戦最終の地、「平和祈念公園」を訪ねました。
東シナ海を一望する、沖縄本島南端の岬、「喜屋武岬(きゃんみさき)」。 米軍に追いつめられ、逃げ場を失った日本軍、住民、学徒たちらが、この岬から身を投げたそうです。
戦争の悲惨さを伝える話は沢山ありますが、沖縄を訪れて若いバスガイドさんが一生懸命、話してくれる「ひめゆりの塔」にまつわる話は、何度聞いても感動させてくれます。
( 1月18日 撮影 )
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琉球石灰岩の石畳の道、全長約400mの通り「壷屋やむちん通り」には、沖縄を代表する陶器やシーサーなど、焼物の店舗や工房が軒を連ねています。 1682年、琉球王府により、各地の陶工はこの地に集められました。 「やむちん」とは「焼物」のことだそうです。
沖縄戦の戦火を奇跡的に逃れたため、古い家屋が残り、昔ながらの「壷屋焼」が、今も守り続けられているそうです。
「壷屋やむちん通り」をぬけて、市場本通りにある「牧志第一公設市場」へ、初めて行きました。 沖縄らしい魚介類や食肉類が並び、東南アジアのマーケットを彷彿させてくれました。 終戦後、自然発生的に出来た「闇市」が、公設市場の始まりだそうです。
沖縄で「豚」は、「鳴き声」以外は全部食べると言われているそうです。 コラーゲンたっぷり、お肌ツヤツヤの豚足ですが、市場で生に見ると食欲も減退します。
「牧志第一公設市場」から、市場通りをぬけると、国際通り三越前辺りに出ました。 戦後の目覚しい発展から「奇跡の1マイル」と呼ばれる「国際通り」は、約1.6㎞の沖縄らしい独特の魅力あふれる、「メインストリート」。 数多くのショップや飲食店が並ぶ沖縄随一の賑わいでした。
( 1月18日 撮影 )
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16世紀、旧首里城守礼門東南わきにあった石門から、南部へ至る重要な官道の一部が今も残っている「金城町石畳道」を散策しました。 琉球石灰岩を敷き詰めた全長約300m、道幅約4mの路の両脇には、石垣と赤瓦の民家が立ち並び、「日本の道百選」にも選ばれです。
石畳の途中に、NHKドラマ「ちゅらさん」の撮影に使われた民家がありました。
約500年もの間、風雨に耐え、交通の要路だっただけでなく、人々の生活に不可欠な水の確保にも貢献しています。 石畳に落ちた雨水が用水溝へ注がれ、共同井戸へ誘導されます。 島の貴重な水資源を守る、先人たちの高度な土木技法を見る事が出来ました。
石の表面は、長い年月で磨耗し、世界遺産「首里城」の琉球王朝時代の歴史を感じ、古都の風情の残る、石畳の道散策でした。 ( 1月18日 撮影 )
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「久米島&沖縄の旅」3日目の早朝散歩は、夜の明けるのを待って海に向かって歩きました。 那覇の北西約1kmほど行った海の側、「波の上ビーチ」の崖の上、「波上宮(なみのうえぐう)」の社殿まで歩きました。 境内入口・鳥居の右手には、孔子廟や護国寺があります。
「波上宮」の社殿は、何度も火災に遭い、その度に再建されてきましたが、沖縄戦で壊滅的な被害を受けた時は、ハワイの人々の寄進により、本殿は再建されたそうです。 この神社には、浜辺で言葉を語る、光る霊石が見つかり、石に祈ると豊漁となったと言う、いい伝えがあるそうです。 那覇市の史跡、名勝文化財に指定されており、那覇のパワースポットだそうです。
3日目、ホテルを出たあと、「金城町の石畳」を散策しました。 ( 1月18日 撮影 )
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