おぴにおん0号

反論、質問受け付けますが、何せ思いつくままなので

全体表示

[ リスト ]

役割を全うすることは、喜びになり、生き甲斐にもなりえるが、苦痛にもなる。押しつぶされるような圧迫感にさいなまれ続けば、自律神経は失調する。

どちらになるかの分岐点は、自分の能力の範囲内であるかどうか。したがって、喜びにとどめておくためには、自分の能力を見極めればいい、となるが、事はそう単純ではない。高い理想を掲げてしまう人がいる。

使命感に従うことが好きな人は、理想を描いて、それに自分を当てはめようとする。役割を与えられれば、それを完璧にこなす自分を思い描く。それが喜びであり、優越感であり、自分の存在意義だからだ。

だが理想と現実はしばしば食い違う。相手がある場合は特にそうだ。自分の思い通りに動いてくれるとは限らない。押し付けられることをいやがる相手から、抵抗にあったり、逆らわれたりする。

相手にも自分の描いた理想の行動や反応を求めるからこうなる。老親の介護においても、穏やかなやり取りや、相手からの心のこもった感謝、弱者としての素直な反応を求めてしまう。

一方、現実的な利益から老親の世話を買って出る人もいる。親の年金を当てにし、生活上でも役立つ行動(掃除、子の相手、行政手続…)を期待する。食事などの世話はしつつ、それ以上の貢献を求めるわけだ。

そんな人は、「自分が引き取ってもいい」と言っておきながら、老親が認知症を発症した途端、前言を翻す。認知症とまでいかなくとも、体力や気力の衰えから、身の回りのことをするのが億劫になったりすると、同じことが起こる。世話をする要素が増えるからだ。

身近でも、<体力や気力が衰えても、親であるというプライドが消えない頑固オヤジになってしまい、子が世話する気が失せる>という例を目にしたことがある。

感情を抑制する能力は、年齢と共に衰えるらしい。30代がピークで、70歳前後になれば6歳児と同じ、という話を聞いたことがある。喜怒哀楽が激しい人と生活を共にするのは疲れる。
こうなると、親に世話されることに慣れた人にとっては高いハードルとなる。感情をストレートにぶつけられながら、慣れない世話をしなければならない。

また、感情表現を開放した親が、自分の理想を追求するという、冒頭の例とは反対のケースにもなる。介護される立場としての理想を子供に押し付け、文句や愚痴を言い続ける、なんてことになる。

<介護されることは、親の権利である>という圧力に発展しては、老親と子の関係は崩壊する。それでも介護を強要したければ、金融資産や年金という報酬をちらつかせて子を牛耳るしかない。

このように、介護したくないと思わせる親も増えているのではないだろうか。今は、経済的に裕福な高齢者が多いわけだし、経済面で子に頼る必要がないゆえ謙虚さを失う親も増えているのではないか。

子育ては損得でやるものではない。子に対する親の情愛は純粋である――と信じられている。これが介護される上での根拠になるが、どの程度の情愛を注いだかを測る物差しはない。すべては主観だ。
愛情を注いだつもりの親と、そうとは受け取らない子。この論争は永遠に決着がつかない。ひとつ言えるのが、謙虚でない人の愛情は、得てして過大評価である。

まぁ、親子間の感情的すれ違いは、いまに始まったことではないが。たとえば金閣寺を放火した犯人は、「母は私に期待ばかりしてずっと冷たかった」と頑として母に会わなかったという。期待とは愛情ではない。

兄弟間における、親が与えた情愛の違いは比較的わかりやすいが、それでもすれ違いはある。等しく愛情を注いだ、と言う親に限って怪しい。そんなこと事実上できない。さらに困るのが、愛情の少ない子の方に、「いろいろしてやった」感が強くなること。一般にも、与えたくなかった報酬ほど恩着せがましくなる。

いずれにしろ、一方的になりがちなのが親の情愛だ。「こう育って欲しい」という願いは、容易に「子は親に対しこうあるべきだ」に転化する。これは情愛だろうか。情愛とは、相手が子であっても、相手と誠実に向き合い、相手を知る努力しながら育んでいくものである。

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


みんなの更新記事