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「いま、民主主義が経年劣化を起こしています。それに変わるシステムを生み出す力は人類にはもうありません。だからまたファシズムに戻るのではないか」とは、映画監督・白石和彌氏の言。(190412)

悲壮感あふれる断定である。社会制度の高度化という意味では、人類はもう力尽きたということか。大国でファシズムが復活し、再び総力戦が始まれば、今度は核戦争とならざるを得ない。絶滅する民族が出る!

ただ、白石監督は続けて「そんな危機感を描くには、チープさがかえって武器になると考え直しました」と述べるとおり、公開した映画紹介を兼ねての発言だ。意見表明というほどの押し付けはない。
表現者はナイーブであり、世相への見解は極端になりがちだが、言葉どおりの深刻さを持つとは限らない。鋭い感性で時代を体現する役割を担うが、そこに責任感はない。

危機感は正しい。私も共有する。似たような悲観論を書いてきた。だが目的はあくまでも、大衆よ、目を覚ませ!であった。人類は知性の力で生き延びてきたのだから、歴史を振り返り、同じ過ちを繰り返さないという所作が得意なはずだ。学習能力に難がある人も多いが、説得できないはずがない。そんな思いがまだある。

「民主主義が経年劣化」という解釈も少し違うように思う。民主主義が招いた危機であることに違いないが、劣化したというより、民主主義の実効性が高まったことによる危機と私は見る。なぜなら、真の民主主義とは、愚かな大衆が、愚かな自分に耽溺しながら、数の力で突き進む政治のことだからだ。

先の大戦は、専門家集団に国政を任せっきりにすると大変なことになるという教訓を与えた。政治が一般市民の生命と財産に多大な影響を与える以上、大衆の意志や判断を尊重し、十分に政治に反映させるべき、となった。こうして選挙結果に振り回される政治が生まれた。

大衆に振り回される政治とは、むしろ民主主義の深化を表す。<人に任せて文句を言う>の次は、<自分でやってみて失敗する>である。それが順序である。

愚かな大衆という表現を使ったが、大衆は自分を愚かだと思っていない。少なくとも自分の愚かさに満足している。自分たちの意向が反映されてこそ、“大衆の、大衆による、大衆のための政治”が実現すると考える。

良心的なエリートがやる気をなくすかもしれない。システム構築に長じる専門家が職場放棄するかもしれない。それでもよいのだ。気まぐれで、下品で、いいかげんな人物がリーダーになってもよいのだ。トランプ大統領は自分たちに似ているから支持するのだ!

こうして、権力を欲するのは低俗な人物だけになる。大衆を扇動し、洗脳し、破滅に誘うことが好きな人間しかリーダーを目指さない時代になる。でもそれは大衆の求めでもある。迷いが消え、感情が躍動し、集団心理が満たされるならば、結果なんて気にしない。

トランプ現象にからめて何度か、大衆よ、その選択は自分で自分の首を絞めることになるぞ!と指摘してきました。欧米で広がる反移民運動も、トランプ流孤立主義も、それを支持する大衆のためにならない、デメリットの方が大きいと力説してきました。だが、今となっては恥ずかしい。

それらは力説するまでもないことだった。たとえば、ブレクジットについて、学者はあっさりと断定する。
「悲劇的なことに、EU離脱によって大きな損害をこうむるのは、怒りの声を上げて離脱を求めた低所得者層である」(190418慶応大教授・細谷雄一)

そして、大衆はデメリットを受容する覚悟ができていた。その意味でも、力説は空回りだった。
たとえば、オックスフォード大学教授のジェフリー・エバンズ氏によると、離脱すれば経済的な損失で生活に影響すると伝えたとき、離脱派の返答は「それでもやるに値する」だったという。(190403)

トランプ大統領を支持する農業従事者たちも同様だ。トランプ政策で収益が落ちることになっても支持を続ける、耐えて見せる、などと言う。

“反移民”の本質は、少数者擁護への反発ということも大衆の証言から見えてきた。アメリカで草の根取材を続ける記者によれば、トランプ支持者には次のように映っている。…移民など少数者が、順番待ちの列に突然現れ、自国の経済弱者を差し置いて前列に組み込まれていく!
そういえば、日本にも「在日特権を許さない市民の会」というヘイトスピーチ集団がありました。

少数者擁護は国際世論の主流だ。しかし大衆にとっては、<少数者厚遇=多数派冷遇>である。その種の政策の推進は、多数派に属することを良しとする大衆の価値観の否定につながる。本能への侮辱でさえある。

多数派志向は、大衆にとって生き延びるための手段である。本能に近い。ただ、快楽原則に則るとは単純に言えないのが多数派志向である。多数派に属することで我が身は守られるが、個人の欲求より集団の目的を優先しなくてはならない。ときに我慢を強いられる。つねに大勢に順応するための気働きが求められる。

そんな努力を重ねることで多数派の一員でいられる。それなのに、同じ努力をしない異質な少数者が守られ優遇される。多数派にとって効率の良い社会、仕組み、習慣を変えていく…などというスローガンさえ掲げられる。冗談じゃない! なんで多数派有利を変えなければならないのだ!

正統派を気取るマスメディアは、少数者擁護を共有すべき思想のように扱う。だが大衆にとって正統派メディアの姿は、きれいに着飾った人形にしか見えない。その思想は、仲間を大事にする心への挑戦にさえ見える。

考えてみれば、頭のいい人たちというのは少数派だ。エリートも専門家も少数だからこそ、そう呼ばれる。そういった意味では、大衆は恐れない。民主主義の実効性が高まれば、勝つのは大衆の方である。

昨今の動向は、大衆の増長ではある。しかし見方を変えれば、自分たちの価値観を守る運動とも取れる。


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