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「決断するのは性格に合わず、裁判官ではなく弁護士になった」とドイツの政治家グレゴール・ギジは言う(201803glove)。…なるほど、そんな考え方もあったか。
ギジ氏は、弁護士活動を経て、ドイツ統一後に政治家になった人だ。政治家には決断がつきもの、決して他人の判断に身を任せるタイプではないはずだ。ここで言う「決断する」とは、罪科を決めたり、正否の判定を下すぐらいの意味だろう。他者を裁くよりも、他者を弁護する方が性に合っていた。
ということは、他者を裁く方が性に合う人が裁判官を目指すのだろうか。ただ、そのような自覚を持つ職業裁判官は少ないように思うがどうだろう。裁判官の知人がいれば尋ねてみたいが、あいにくいない。
思想信条が明確な人はいる。自分の価値観に絶対的な自信を持つ人はいる。そうした人たちは、使命であるかのように他者を裁くだろう。実際、しばしば他者を断罪する。反対に他者を称賛するときも手放しだ。その判断は揺るぎない。
しかし、そうした人たちが、公平な判断が求められる裁判官を目指すとは思えない。
自分の判断を広めたり、従う人間を増やすことが好きな人はいる。裁判官が性に合っているように見える。しかしこの性格も、裁判官になる意志に直結しない。裁判官は、判定を下す立場であると同時に、自身も公平なジャッジをしているかどうかを世間に判定される立場でもあるからだ。
欧米の裁判では、一般市民が審理に参加する。特にアメリカの陪審制では、陪審員となった一般市民だけで審理が行われる。職業裁判官は、有罪と評決された被告の量刑を決めるだけである。ここで期待される裁判官の職能とは、過去の判例を参照しながら、罪状に見合う量刑を導き出すことである。
日本でも十年前に、無作為に選出された一般市民が審理に参加する裁判員制度が始まった。量刑も裁判官と合議で決める。対象となるのは刑事裁判の一部に限られ、二審は裁判官だけの審理になるが、一部とはいえ市民感覚を裁判に反映させることが可能になった。他者を裁く権限は裁判官が独占するものではなくなった。
裁判員制度の運用上の問題として、栽培員を辞退する人の増加が挙げられる。今や、三分の二が辞退を申し出るという。無断欠席者もかなりいるようだ。世論調査では約8割が「審理に参加したくない」と答える。
ほとんどの市民は「判断する自信がない」のである。他者を裁くことが性に合う人というのは、一般市民の間では異質な存在と言ってよい。
日常生活でも、独自に判断して行動する人というのは少数派ではないか。
2月に新聞で見た投稿には笑った。
<会社の先輩は長女。上手に仕事を教えるのに、他人に指示されるとイラっとするらしい。次女の私は、指示されると安心する。履歴書にきょうだい構成の記入欄があればいいのに、と思います>
他者の判断に身をゆだねることが性に合う人がいることで、世の中は上手く回っている。
人に任せて文句を言うだけの受け身な有権者が多数いることで、政治的混乱は抑制される。
他者の願いをかなえたり、施しを与えることに愉悦を覚える人いてこそ人間関係が育まれる。
「判断できない」とか「主体性がない」と非難するのは簡単だが、人間集団の形成には、そのような人たちが不可欠である。社会を成り立たせるための役割分担とさえ言える。
裁判員制度は司法を民主的なものにする。しかし、裁判官が性に合わない法律家がいるように、一般市民すべてに公平な判断を下す立場を求めるのは無理がある。
司法を「民主化」してはならないと主張する学者がいます。
<裁判員制度は国民の司法参加によって、司法を法の支配ではなく、多数の支配のための機関に変えてしまいました。これでは、三権がいずれも多数支配の原理によって運用されることになり、権力の抑制・均衡が働く余地がありません>(斎藤文男『ポピュリズムと司法の役割』)
判断を下す自信がない一般市民が裁判員になったとき、頼るのは世相です。世の中の多数派が納得するような判定を下すしかない。いきおい情緒に流されることが増える。情緒こそ市民感覚のもっともたるものだからだ。裁判員制度を導入する意図と矛盾しないが、多数派による断罪となる恐れは強い。
もちろん職業裁判官の判断にも世相が反映される。市民感覚を無視するようでは裁判官失格である。法律が改正されるように、判例も時代と共に変容してよい。ただし、より正義に近づくよう変容する必要がある。
裁判官は、永続性のある正義に基づき公平な判断をする義務がある。その上で、己の名誉にかけて判決を下す。それでこそ、裁判官としての地位が約束される。
そんな覚悟は裁判員にはないだろうから、自分の判断が将来あるいは二審で覆されても傷つくことはない。裁判官と違って、永遠に匿名の判事のままでいられる。
アメリカの陪審だって問題を抱える。以前、有名なプロスポーツ選手の犯罪審理で、刑事と民事の評決が異なることがあった。一方で有罪、片や無罪。なぜ逆転したか。弁護士の力量ということらしい。陪審員は自分の心情に重きを置いて判断するから、いかに彼らの情緒に訴えるかが勝負となる。事実よりもプレゼン力!
人間の判断から情緒を排除しろと言っても無理だ。裁判官だって人の子、一般市民に劣らず情緒が判定に影響する。日本の民事では“公序良俗”というあいまいな概念で判定されることがあるし、“社会通念”なんて言葉も多用される。それでもなお、裁判官は冷静さを失わず、ときには多数派に対峙する覚悟で、時間の経過に耐えうる判決を下そうと努力する職業意識を持つ、と思いたい。
司法を「民主化」してはならないとの意見に、私は賛同する。
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