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反論、質問受け付けますが、何せ思いつくままなので

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岩井志麻子氏が、「岩井さんは、ご主人が韓国の方ということで、韓国人気質というものは分かっている?」と問われて放った不適切発言が興味深い。

「手首を切るブスという風に考えておけば、だいたい片付くんですよ」
「(韓国が)『来てくれなきゃ死んじゃうから、死んだらあんたのせいだから』って言って、中国とか北朝鮮は『死ねば』と言っちゃうけど、日本は『そんなこと言うなよ、お前のこと好きなんや』 (と言ってしまう)」

文喜相・韓国国会議長の問題発言に関する議論の中で出だものだが、所詮、バラエティー番組での問答だ。岩井氏は笑いを誘うコメントを期待される立場であり、発言の辛辣さには一定の作為があろう。韓国人との付き合いは数十年に及ぶらしいが、主に男女関係のようだから、韓国人気質を知るといっても限度がありそうだ。

恋愛に限らず、人間には相性がある。あるタイプの人間を引き寄せてしまうという現象はよくある。岩井氏は、狂言じみた行為に走るくらい懸命な相手にほだされやすい。そのことが、あるタイプの人間にはぐバレる。岩井氏にとっても気おくれなく付き合える相手である――といった関係性が思い浮かぶ。

とはいえ、生活を共にするとなれば、恋愛感情だけでは済まない。韓国人の生活態度や考え方に、ある程度は精通することになる。それなりに実感のこもった感想であり、一定の見識が伴っているように思う。

魅力がないことを自覚するゆえ、手首を切るマネをしてでも相手を振り向かせようとする。つまり韓国人は、目的のためには手段を選ばないという意味か。ブスという言葉に“弱者意識”を仮託したのかもしれない。解釈の仕方には幅があるが、“姑息な手段を使うやっかいな相手”ぐらいの受け取り方でいいだろう。

興味深いのは、そんな韓国に対する近隣国の態度を述べる後段。中国や北朝鮮の人たちとは異なり、日本人は噓と分かっていても突き放すことができない。つまり、お人好し。そんな日本人気質を我々に突きつける。

黒田福美氏の発言を思い出す。韓国人に対して同様に辛口だった。

黒田氏といえば、韓国に詳しいタレントとして有名である。さまざまな交流の果てに日韓友好に尽力するまでになった人だ。当然、韓国を擁護する立場だと思っていた。なのに、文議長の発言問題を受けてのインタビューで、韓国人に手厳しい発言をしていたので驚いた。

「日本人の道徳観は“善悪”が基本です。しかし韓国人は“損得”が大切です。韓国人は「ゴールポストを動かす」と言われますが、おそらくそんな意識はないのだと思います。言葉の重みが日本人と違うからです。言葉は韓国人にとって相手を自分の思う通りに動かす手段なので、自分の発した言葉に責任があるという意識が薄い。もしも実現できなかったら、彼らは「理解してください」と言います」(190311日経ビジネス)

言葉は相手を思い通りに動かす手段でしかないのか。しかも責任感が希薄ですか。岩井氏の解釈と似ている。狂言を働いたあげく「あなたのせい」と言い放つ姿と通底する。

3月に書いたようにクレイマーさながらだが、黒田氏は次のようにエクスキューズする。

「彼らもまた、行政や親戚たちから、そのようにされて泣いてきました。だから平気で日本人に対しても、「天皇が謝罪すればおばあさんの心が安らぐ」などと言ってしまえるのです。それが本当にそうなるかどうか、自分の発した言葉に責任を取るべきという感覚はないと思います」

エクスキューズしつつ、再度、容赦のない解釈を付け加えているから、あまり擁護する気はなさそうだ。
そして黒田氏はインタビュー後半で、日本人の振る舞い方を指南する。

「身をもって体感したからこそわかります。日韓関係の改善には、韓国社会や国際社会に対して、発信することが重要です。韓国の若者もユーチューブなどをよく見ていますし、地上波ではその意見を取り上げられない保守派が、ネット番組などを使ってどんどん発信しています。日本もネットを使うことで韓国民に対して、日本人の率直な考えや歴史的事実について、もっと活発に発信すべきだと思います」

この指南も、岩井氏が示す日本人の態度から立ち現れる教訓に通じる。

責任を取らない人の意見に振り回され過ぎてはいけないということでもあろう。
また、「心は、言語化されない状態が最も危険」(小谷真理2017)で、突然の暴力につながりかねないとの指摘がある通り、積極的に発信することは、日本人自身の精神衛生にも寄与する。

ただ、慰安婦問題にしても徴用工訴訟にしても、一般の日本人には当事者意識がない。戦後生まれの日本人だけでなく、存命の戦中世代にしても当時は青少年だったので、主体的な意識を持ちづらい。当時、命令を下していた人たちは死に絶えた今、全般的に他人事とならざるを得ない。
韓国も同じだ。今日、ほとんどの韓国人にとって、被害者意識は切実なものでない。

30年前であれば、日本では、日本軍は悪いことをしたという意識が一定の世論を形成していた。韓国では、戦前のひ弱な国力に思い致す気分があっただろう。互いに謙虚にふるまい、妥協もしやすかった。

しかし、後継の世代にとっての反日や反韓は、クレーマーのように攻撃することが目的と化す。歴史的事実などおかまいなしに、難癖付けることだけを純粋に追求するようになる。これは、当事者意識が欠如していることの裏返しである。

言うなれば、“純化”した姿だ。屈折した思いや、自分たちの落ち度など見たくないものは風化させ、相手を責める材料だけを残存させる。そんな自分に都合の良い純化闘争でしかないから、もたらされる結果についても責任を取るつもりがない。
このような状態に陥っていることに気づくことが、関係改善の第一歩のような気がする。

前回、他者の判断に身をゆだねることが性に合う人がいることで、世の中は上手く回っている――と書いた。しかし時代は、自分で判断することを求める方向へと着実に進んでいる。

裁判員にならなくてよい。公平な判定を下すのは一つの職能であり、訓練を積んだ職業裁判官に任せた方がよいと思うが、法律の制定や存廃に関する意見は持つ必要がある。立法府の代議員を決める選挙への投票権は、国民に等しく与えられている。政治的判断に関与したり評価を下す見識が求められている。

社会生活も判断の連続である。職業選択の自由はほぼ達成された。経済活動における自由度は増している。起業への道も資金調達の方法も多様になった。
移動の自由も保障されている。地縁に縛られることはない。優れた人材は国籍を問われない。

消費生活は、気ままな選択でおおむねやり過ごせるようになったが、判断力を放棄した人を陥れる罠はむしろ増えた。食品の安全性は高まったが、加工食品の多くは偏食すれば毒になる。「安全」は質を保証しない。質を犠牲した商品開発が盛んに行われている。
日用品は欠陥品が少なくなったが、高性能な商品はときに危険性も高い。扱いを間違えると大きな損害を被ることがある。また、宣伝力が高度化した結果、費用対効果が疑わしい商品が増えている。

スマホは個人情報の固まりである。インターネットはトラブルの元になる。SNSは事件の入り口である。情報管理のための判断力も必須となった。

シェアリング・エコノミーという考え方が浮上し、進展中である。ある人は、“個人が主体の経済社会”と表現する。「だから自分の物差しで、リスクを排除するスキルが必要です」(石山アンジュ)180615

一方、人間の組織は旧態依然のように見える。典型は軍隊で、相変わらず判断を上位の者に預ける世界である。上官の命に服すのが絶対であり、下位の隊員は考えてはいけない。それが組織を維持し、軍事力を効率よく発揮する前提である。

しかし軍事行動においては、個人の責任を問う風潮が高まる。国際法は戦争犯罪を定義し、個人を裁く要件を整える。人道に対する罪を犯せば、たとえ命令に従った結果であっても許されない。つまり、命令に従わないという判断を世界中の隊員に認めているのである。

会社組織においても、上司の命令に従うのが決まりだが、法令に反する指示は拒否すべきであり、法を犯せば個人として裁かれる。また、目的を達する手段や、成果を得る方法が個人の裁量に任される職務が増えつつある。自分で判断することが求められる時代傾向と符合する。

とはいえ我々は、常に孤独な戦いを強いられているわけではない。「自分で判断する」といっても、大方は常識や通説が導いてくれる。先達の教えに従う生き方は今でも有効である。考えるより真似した方が手っ取り早い事案の方が多い。一般人には、自分の価値観が問われたり、信条を明確にするよう迫られる場面は限られる。

過去に参照するものがない新しい問題や、多くの人が判断に迷う事案にしても、助言や説明を試みる人が増えた。玉石混交とはいえ、インターネットのおかげで、そうした情報が手に入りやすくなった。

注意すべきは、最良の判断を見つけたとしても、それは現時点での最良でしかないことだ。今日の最良が明日の最良とは限らない。新たな発明や発見が、最良を一瞬のうちに最悪にすることさえある。大きな天災や事故・事件などで環境が変われば、判断の仕方も変わってくる。 

変化の激しさが現代の特徴だ。狩猟採集の時代は長老の意見に従っていれば間違いなかったが、現代はそうはいかない。手本となる意見や見本にすべき人物は、次の瞬間、交代を余儀なくされる。

こんなことを言うと、諦念に陥るかもしれない。判断力を身につける努力をしても無駄、所詮 運任せ、とやる気をなくすかもしれない。あるいは、変化を察知するために神経を常に働かせるなんてうんざり、と思うかもしれない。それをこなすだけの知力も体力もない!というわけだ。

開き直ることもできる。参考になるのが漫画家・今日マチ子氏の次の卓見。
「少女の強さは、周りや社会のことがほとんど見えてないことですよね」(170118)

社会を知る努力を放棄し、時代の変化を察知する労力を省いて、ひたすら目の前の享楽にふける。狭い地域から出ず、仲間内だけで情報を共有し、楽しくやっていればよい、との思想は最強だ。

そんな生活を続けていても生きる糧が得られるのなら、それでもよい。しかしほどんどの人はそんな生活を続けることはできない。環境の変化を見極め、社会と対峙していかなければ生活は成り立たない。

自由とは「自分で判断しろ」ということであり、「自由気まま」には自己責任が付きまとう。「自分勝手」の行く末には大きな代償が待っている。これらはよく言われることだが、同時に世の中に絶対はないとの覚悟を持つ必要がある。この覚悟を持ってこそ、判断力が研ぎ澄まされる。

この判断は絶対だ!と思うことは思考停止に陥ることである。相手によって判断を変え、状況によって判断を変え、環境の変化に合わせて判断を変える…。そのような対処能力を身に着けてこそ、判断力は完成に近づく。そのためには、世が平穏なうちに情報を収集し、他者の意見を参照し、判断材料を増やしておく必要がある。

もっとも、判断力はどんなに頑張っても完成しない。個人では森羅万象を知悉できないように、完全な判断力もない。自分の能力に照らして、どこかで妥協する必要がある。そんな諦念を得ることも判断力のひとつである。

努力の先に諦念がある。諦念によって自己認識の正確さが増す。やがて価値観が定まり、信条が明確になる。そして判断する際の迷いが消えていく。

「決断するのは性格に合わず、裁判官ではなく弁護士になった」とドイツの政治家グレゴール・ギジは言う(201803glove)。…なるほど、そんな考え方もあったか。

ギジ氏は、弁護士活動を経て、ドイツ統一後に政治家になった人だ。政治家には決断がつきもの、決して他人の判断に身を任せるタイプではないはずだ。ここで言う「決断する」とは、罪科を決めたり、正否の判定を下すぐらいの意味だろう。他者を裁くよりも、他者を弁護する方が性に合っていた。

ということは、他者を裁く方が性に合う人が裁判官を目指すのだろうか。ただ、そのような自覚を持つ職業裁判官は少ないように思うがどうだろう。裁判官の知人がいれば尋ねてみたいが、あいにくいない。

思想信条が明確な人はいる。自分の価値観に絶対的な自信を持つ人はいる。そうした人たちは、使命であるかのように他者を裁くだろう。実際、しばしば他者を断罪する。反対に他者を称賛するときも手放しだ。その判断は揺るぎない。
しかし、そうした人たちが、公平な判断が求められる裁判官を目指すとは思えない。

自分の判断を広めたり、従う人間を増やすことが好きな人はいる。裁判官が性に合っているように見える。しかしこの性格も、裁判官になる意志に直結しない。裁判官は、判定を下す立場であると同時に、自身も公平なジャッジをしているかどうかを世間に判定される立場でもあるからだ。

欧米の裁判では、一般市民が審理に参加する。特にアメリカの陪審制では、陪審員となった一般市民だけで審理が行われる。職業裁判官は、有罪と評決された被告の量刑を決めるだけである。ここで期待される裁判官の職能とは、過去の判例を参照しながら、罪状に見合う量刑を導き出すことである。

日本でも十年前に、無作為に選出された一般市民が審理に参加する裁判員制度が始まった。量刑も裁判官と合議で決める。対象となるのは刑事裁判の一部に限られ、二審は裁判官だけの審理になるが、一部とはいえ市民感覚を裁判に反映させることが可能になった。他者を裁く権限は裁判官が独占するものではなくなった。

裁判員制度の運用上の問題として、栽培員を辞退する人の増加が挙げられる。今や、三分の二が辞退を申し出るという。無断欠席者もかなりいるようだ。世論調査では約8割が「審理に参加したくない」と答える。

ほとんどの市民は「判断する自信がない」のである。他者を裁くことが性に合う人というのは、一般市民の間では異質な存在と言ってよい。

日常生活でも、独自に判断して行動する人というのは少数派ではないか。
2月に新聞で見た投稿には笑った。
<会社の先輩は長女。上手に仕事を教えるのに、他人に指示されるとイラっとするらしい。次女の私は、指示されると安心する。履歴書にきょうだい構成の記入欄があればいいのに、と思います>

他者の判断に身をゆだねることが性に合う人がいることで、世の中は上手く回っている。
人に任せて文句を言うだけの受け身な有権者が多数いることで、政治的混乱は抑制される。
他者の願いをかなえたり、施しを与えることに愉悦を覚える人いてこそ人間関係が育まれる。

「判断できない」とか「主体性がない」と非難するのは簡単だが、人間集団の形成には、そのような人たちが不可欠である。社会を成り立たせるための役割分担とさえ言える。

裁判員制度は司法を民主的なものにする。しかし、裁判官が性に合わない法律家がいるように、一般市民すべてに公平な判断を下す立場を求めるのは無理がある。

司法を「民主化」してはならないと主張する学者がいます。
<裁判員制度は国民の司法参加によって、司法を法の支配ではなく、多数の支配のための機関に変えてしまいました。これでは、三権がいずれも多数支配の原理によって運用されることになり、権力の抑制・均衡が働く余地がありません>(斎藤文男『ポピュリズムと司法の役割』)

判断を下す自信がない一般市民が裁判員になったとき、頼るのは世相です。世の中の多数派が納得するような判定を下すしかない。いきおい情緒に流されることが増える。情緒こそ市民感覚のもっともたるものだからだ。裁判員制度を導入する意図と矛盾しないが、多数派による断罪となる恐れは強い。

もちろん職業裁判官の判断にも世相が反映される。市民感覚を無視するようでは裁判官失格である。法律が改正されるように、判例も時代と共に変容してよい。ただし、より正義に近づくよう変容する必要がある。

裁判官は、永続性のある正義に基づき公平な判断をする義務がある。その上で、己の名誉にかけて判決を下す。それでこそ、裁判官としての地位が約束される。
そんな覚悟は裁判員にはないだろうから、自分の判断が将来あるいは二審で覆されても傷つくことはない。裁判官と違って、永遠に匿名の判事のままでいられる。

アメリカの陪審だって問題を抱える。以前、有名なプロスポーツ選手の犯罪審理で、刑事と民事の評決が異なることがあった。一方で有罪、片や無罪。なぜ逆転したか。弁護士の力量ということらしい。陪審員は自分の心情に重きを置いて判断するから、いかに彼らの情緒に訴えるかが勝負となる。事実よりもプレゼン力!

人間の判断から情緒を排除しろと言っても無理だ。裁判官だって人の子、一般市民に劣らず情緒が判定に影響する。日本の民事では“公序良俗”というあいまいな概念で判定されることがあるし、“社会通念”なんて言葉も多用される。それでもなお、裁判官は冷静さを失わず、ときには多数派に対峙する覚悟で、時間の経過に耐えうる判決を下そうと努力する職業意識を持つ、と思いたい。

司法を「民主化」してはならないとの意見に、私は賛同する。

消費税の増税を再々延期するのではないかとの憶測が流れる。政治部の記者たちが描くシナリオは、安倍首相が再々延期の是非を国民に問うとして衆議院を解散し、7月に衆参同日選挙を行うというもの。
記者たちは、まるで延期を煽るかのように、首相や官房長官に、予定通り増税するのかと再三尋ねる。

記者たちの思いは分からないでもない。政府は、リーマンショック級の事態が起こらない限り再延期はないとの約束をあっさり反故にしている。「新しい判断」だと称し、国政選挙で国民に判断を仰げば公約違反も許されるとの理屈だった。二度あることは三度あるである。

民主主義を絶対視するならば増税はなしだ。増税を喜ぶ国民なんていない。野党もそれを知るから、我が党こそ国民の味方だとばかりに、こぞって「増税したら大変なことになる」などと主張する。

政府は今回、増税後の消費減退を緩和すべく、さまざまな対策を準備している。食料品に対する軽減税率導入だけでなく、商品購入代金の2%分をポイント還元するだの、商品券を配るだの、住宅ローン減税を拡充するだの…。経過措置もたくさんあり、行政経費の増大が心配になるほどだ。

増収分の使い道もすでに決まっている。社会保障の充実に使うのは前回同様だが、今回は保育費や高等教育の無償化が加わる。恩恵を受ける国民は少ないが、金額は大きい。いきおい、財政赤字を減らすという本来の目的から遠ざかる。
軽減税率によって当初の見込み額から1兆円程度減ることを考え合わせると、心もとない増収効果である。

なんか、計画性のない家計を見ているようだ。浪費癖のある家人は、後先考えずに、金を使ってしまう。おかげで収支は赤字だが、そんなことも忘れ、収入が増える見込みの段階で、早々に新たな使い道を考え始める。初めてこずかいをもらう小学生じゃあるまいし、自制心というものがまるでない。

増税延期となれば、滑稽さはさらに増す。商品やサービスを物色し、購入を通知し、支払いを約し、後戻りできなくなったところで収入が消える! 小学生なら泣いて許されるかもしれないが、そうはいかない。

支出への執着あるいは無駄遣いは、民主国家の宿痾かもしれない。人間集団特有の問題でもあろう。人はしばしば、集団となった途端に幼稚で無責任になる。恥ずべき幼稚な振る舞いも、みんなといっしょだと臆することがない。集団の一員としてなら無責任な行動も平気になる。不良少年はたいてい集団で悪さをする。

<赤信号 みんなで渡れば怖くない>である。赤字に鈍感になった国民は、財政の赤信号を無視して、遠慮なく集団使い込みに走る。みんなのお金となった税収に、オレもわずかだが拠出したとの言い分を掲げ、寄ってたかって食らいつく。他の納税者に対する感謝はなく、使う権利ばかりを主張することになる。

ところで税金の使い道となると、なぜだか“政府に要求する”という構図ばかりが強調されるが、とても違和感がある。たしかに政府は予算を差配する権限を持っている。しかし国家予算を決めるのは国会だ。国会議員は国民の代表であり、国民の意向を忖度して議事に反映させる役割を担う。つまり税金を使いたければ、本来は国民の理解を得ることの方が大事だ。

たとえば著名な学者たちが、基礎研究に予算を投じるよう訴えている。しかし、実需に結びつくかどうか分からない基礎研究なんて、借金大国が無理してやることではないと、国民の大半から言われれば引き下がるべきだ。
芸術分野への助成も同じ。
日本人がノーベル賞を受賞したり国際映画祭で優秀賞を獲得するのは誇らしいが、受賞は助成の目的ではない。
納税者に対する認識に欠けるから、国の助成=国のおかげのようなすり替わりが起きる。

国のおかげなどとは口が裂けても言わない是枝祐和監督の認識も似たようなものだ。
昨年、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した『万引き家族』に対し、ネット投稿者などから「文化庁の補助金を受けていながら日本の恥部を描く反日映画を作った」との非難があった。

これに対する是枝監督の主張は明快である。「補助金をもらって政府を批判するのは真っ当な態度なんだ」という価値観を定着させたいとし、「公金を入れると公権力に従わなければならない、ということになったら、文化は死にます」と訴える。(180625)

私は是枝監督に賛同するが、この主張も、国民の大半から否定されれば「死にます」。補助金の原資が税金である以上、文化に公金を投じることの是非も国民の意向を無視できない。

でもまぁ、なんだなぁ〜、国民の意向を尊重しすぎたばかりに、日本は借金超大国をなってしまったわけで…。「原資は税金である」と書いたが、日本はこの論拠を失いつつある。
近い将来、国民に問うまでもなく、基礎研究や文化に公金を投じる原資がありませ〜んとなりそうだ。
すでに、労働力を確保しないと経済が維持できない、あるいは子育て環境を改善して出生率を高めないと国家の存続があやぶまれるといった危機感が漂う。
戦争論を唱える人たちも危機感を持つべきだ。借金超大国のままでは、戦費がありませ〜んとなりかねない。

ところがどっこい、海の向こうからヘンテコな経済理論が舞い込む。現代金融理論(MMT)と称し、「インフレを招かない限り、財政赤字は心配ない」と説く。アメリカの経済学者の間で一つの勢力になっており、なんと、その実例として日本の財政が挙げられているそうだ。
これには積極財政論者のポール・クルーグマンもビックリ。IMFが否定し、主流の学説にはなりそうもないが、財政赤字の擁護に使われかねないし、危機感を緩和させる効果がある。いやはや恐ろしい。

人間は集団になると経済政策でも間違える。このことを理路整然と説く経済学者が増えてほしいものだ。広く集めた金を集団で使うとなると、途端に幼稚さが露出し無責任がはびこる。そうした実例は古今東西いくらでもあるではないか。
借金による積極財政も超低金利政策も、一時しのぎのカンフル剤でしかない。カンフル剤は常用によって耐性がつき、麻薬と化す。身体がボロボロになろうとも、麻薬は死ぬまでやめられない。

その昔、ある友人が、趣味の仲間づくりに精を出していた。友が友を呼び十数人の規模となった。異性関係にも期待が持てたが、彼はモテない。その腹いせに始めたのが、“同性の仲間を引きずり下ろす”だった。

大衆は“みんなといっしょ”が好きだ。“我々”という意識を重視し、“私”というこだわりを嫌う。ただし、平等を求めているわけではない。むしろリーダーを欲し、序列を作りだがる。リーダーがいてこそ集団が形成され、序列を守ってこそ集団が維持されると考える。

“みんなといっしょ”のためならば、喜んで上位者の指示に従う。同じ方向に進むためならば、進んで関心を一致させ、主流とされる判断に身を任せる。

古来、“みんなといっしょ”志向は、生き延びるための有力な資質だったに違いない。
現代は生き延びるのが容易になったが、人々は相変わらずこの資質を引き継ぐ。今でも統率された集団は、生産活動などで有用である。

精神面での効用もある。大方の人間は孤独に耐えられない。“みんなといっしょ”だと、わけもなく安心する。心理学でも指摘されるとおり、同じ悩みを持つ人の存在を知るだけで、悩みは軽減される。同じ苦労を抱えている人が身近にいるだけで、苦労への耐性は高まる。

また、喜びは共有してこそ倍加する。怒りなどの負の感情も、共有することで正当なものとなる。特に女性は“共感”を求めてやまない。自己実現を生きる糧にする人は、今でも少数派である。

“みんな”の範囲は少し注意が必要だ。「人類みな兄弟」みたいな意識は、日常的ではない。凡人が実感する“みんな”の範囲は狭い。家族の結束が保たれることにしか関心を示さない人がいる。仲間に後れを取っていない程度のことで満足する若者がいる。小さな集団の中で、価値観を一致させることを目指し、共通体験を重ねる。

そして利益の分配は公平に!である。長幼や優劣の序列を感じつつも、同類・同質として得られるべき利益に格差があってはならない。仲間の間で差別はいけない、と考える。ただ、ときおり、自分勝手な序列意識を持ち込んでしまう人がいる。「自分がモテないのはおかしい!」などと言いだす。

…容姿の序列でオレは上位にいるのだから、本来ならモテるはずだ。モテないのは理不尽だ。不当な立場に追いやられている。ならば仲間を引きずり下ろすまでだ。悪口を言いふらすなどは、いやらしい行いかもしれないが、正常な序列に戻すためだ。正しい情報を広めるためだ。正当な行いだ!

さて、大衆の時代を向かえ、“みんな”の範囲は広がりつつある。現代人は国民意識を日常的に持つようになった。嫉妬などの強い感情が沸き起こる範囲は狭いままかもしれないが、国は国民格差をなくす努力をすべき!との思いは共有され、大衆の正当な主張となった。

しかし、有能な人が存分に能力を発揮できる環境を作ることも国の仕事だ。研究開発予算は、効率よく仕事ができる人、忍耐強く努力できる人などに投じたい。外国から富を国内に持ってくる人たちを優遇したい。所得再配分は重要だが、そればかりでは国力が衰退していく。

能力差があることは、庶民もよく分かっていたから、以前はそのような施策に不平を言わなかった。おかげで高度経済成長が実現した。凡人とは、低い能力と少しの努力しかできない人のこと、などと言われても、かつてなら、ほとんどの庶民が受け入れた。

今日、先進国では経済成長力が衰え、福祉の充実が停滞。所得再配分しようにも原資が限られる。にもかかわらず、国民の中には富を増やし続ける人たちがいる。“みんなといっしょ”が崩れていく。

大衆は、移民排斥や貿易戦争が、庶民の生活に悪影響を与えるのを承知で賛成する。その真意は、自らの身を切ってでもエリートたちを引きずり下ろす!にある。自分の経済の一部を犠牲にしてでも混乱を引き起こし、富裕層たちに危機感を覚えさせたい。

庶民は甘やかされることで大衆となった。民主主義の名の下、能力差による経済格差を認めなくなった。少なくとも格差が縮まることが正当な民主主義だと考えるようになる。

エリートたちは、こうした大衆をなだめ、なんとか説得しようとする。しかしその説得が論理的であればあるほど、大衆は心を閉ざす。エリートたちに疑い持つからというより、大衆は論理そのものが嫌いなのだ。
そういえば、「倫理的でないトランプ氏と議論しても勝てっこありません」と嘆息する識者がいたっけ。

エリートたちは大衆の劣等感に鈍感だ。論理が理解できないという不安、みじめさ、あるいは恐怖…。
義務教育で机を並べていた頃、エリートたちは先生に盛んに質問していた。一方、劣等生たちは理解できない自分を恥じ入り、将来に不安を抱く。長じても社会生活に一定の恐怖を感じている。だまされているとの被害妄想にも陥りやすい。そうした不安や恐怖をまぎらわすためにも、“みんなといっしょ”志向に走る必要がある。

多様性なんてのも、大衆にとって価値はない。同類・同質の仲間と共感しあうことが至上の喜びなのである。確かに外国人と仲良くなれる庶民はたくさんいるが、彼らは相手の人間性をしっかり見ている。同類・同質であると見極めた上で受け入れている。
“みんなといっしょ”志向とは、一つにまとまることであり、多様性の否定とも解釈できます。

そうした大衆の心理を理解しているエリートも、中にはいるに違いない。そこに悪意がある事を…。みんなで破滅するならそれでもいいという集団破滅思想を持つことを…。

もっとも、こうした大衆現象は、次の言葉が正しければ、今に始まったことではない。
「近代史が、かつて興味を引かないように見えていた集団による、侮蔑あるいは無視に対する一連の反逆として展開されていることは、ほとんど見紛う余地がなかろう」(ペーター・スローターダイク『大衆の侮蔑』)


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