おぴにおん0号

反論、質問受け付けますが、何せ思いつくままなので

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

Q.悪態の数々! しかし愚痴っているだけでは何の解決にもならない。貴殿の分析が正しければ、円満な関係に導く手段も見つかるのでは? もっとも関係を続けたければの話ですが…

ごもっとも。
今でこそ悪態を浴びせたくなる彼らではあるが、これまで多くの時間を共有してきた。会食を重ね、旅の道連れとなり、娯楽に興じてきた。息の合う仲間として、誘い誘われる間柄であった。

よって、関係を断つ気はない。好みが食い違い、関心事が異なるようになっても、旧知の情は簡単には消えない。それに、情報交換すれば今でもそれなりに有益だろう。近況報告は互いの見聞を広げる。万が一、天災にでも見舞われれば、助け合うことがあるかもしれない。

私の悪態が強烈であることは意識しています。とてもじゃないが面と向かっては言えない。言えば、必ず相手は怒る。それもあって、実社会では自重している。自重しすぎるとマグマが溜まるので、この場で吐き出して、いかばかりか憂さを晴らしている。同感してくれと申し上げるつもりはありません。

面と向かって言えない小心者の繰り言として、大目に見てくれるとありがたい。ユニークなレトリックとなるよう努めております。その辺を楽しんでもらえればと思います。

円満な関係に導くためにも、もう一度、愚痴りたい。彼らが忘れがちなのが、次のような人間関係のルールだ。
<直接的な利害関係があるわけではないので、関係を継続する必然性はない。必然性がないからこそ、相手に対する配慮がそれなりに必要になってくる>

これを忘れ、<直接的な利害関係がないから気安くつき合える>に重点を移すから、甘えとなり、相手に不快感を与えても平気になる。こちらの欲求を優先しろ!、配慮するのはあなたの役目だ!といった傲慢さも、自分勝手な理由で正当化する。
こうした兆候が表れると、さすがの私も、付き合いを続ける気力がなくなる。

甘えがちな人というのは、大抵、傷つきやすく怒りっぽい。反省が嫌いなためです。反省なんて面倒なことをしなくても生き延びてこれた。そんな幸せな人生を歩んできた人たちと言えそうです。そのような人に直接、悪態をつくのは禁物です。恨まれて終わりです。

反省するためには自己を客観視する必要がある。だから客観視の必要性を何度も説いてきました。でも最近はこんなふうに思っています。<客観視>という能力は、苦悩してきた人のみが得られるささやかな特権であると…。幸せばかりだった人には決して身に着かない能力であると…

とはいえ私の方も少し反省する必要がありそうです。おっしゃるとおり、愚痴ばかりでは何も解決しません。

感情の行き違いなど人間関係の齟齬は、おおむね共犯関係です。一方だけに原因を帰すのは間違いだ。甘やかすから甘えてくる。配慮してきたから、配慮する役目を押し付けられる。相手の欲求実現に手を貸してきたから、引き続き手を貸すよう求められる。

ベストを尽くすことが好きな私は、もてなす立場だと自覚した途端、相手の欲求に敏感になる。相手の欲求に十分に配慮し、甘えを許容しようと努めてしまう。すると、相手は助長する。要求はエスカレートしていく。私が図に乗るな!と怒り出すまで続きます。

私は怒ると同時に、相手が反省することを期待します。いままで受けた配慮やもてなしを振り返り、返すことを考え始めるのではないかと期待してしまう。

しかしこの期待は、反省する習慣のある人間が、自分を基準にして導き出した期待でしかないことが判明する。相手は謙虚になったように見えても一時的なものでしかない。私の機嫌が直るのを待っているだけ。過去に味わった甘美な体験は決して忘れられないようで、こちらが隙を見せれば、すぐにその再現をねらう。

彼らをうまくコントロールできないのは、きっと私にも、そんな意地汚さや自分本意なところがあるからでしょう。中身は大して違わない。
せいぜい言えるのは、「私は自分が俗物であると分かっている程度には、俗物状態から脱している」「小市民と自覚する程度には小市民を卒業している」ぐらいのことなのだ。この違いは大きいと思うのだが、私もまだまだ修行が足りない。

高い評価を得ている小説に対し、「エロい」部分ばかりに目が行く彼は、ことさらエロい人間なのではない。低俗なこと以外に考えることが無いだけ。関心の範囲が狭いから、低俗さが目立つ。

タダで巨匠の作品が見られる喜びに浸る彼は、市民としてのレベルがことさら低いわけではない。小市民的な欲求とは異なる欲求が見い出せないだけのこと。小市民という外套を脱ぐ機会がない。

そうした人たちに気づきの機会を与えるために、「ちゃんとバカにしてやらないといけない」といった手荒な方法があるのは知っている。子供時代はだれもが採用する残酷な教育法だ。子供たちは互いにバカにし、バカにされながら成長していく。

でもね〜、これと同じことを大人になってまでやるべきことなのか。中年を過ぎれば、幼稚さなども一種の個性として認め、許容できる範囲でつき合うべきでないのか。特に、関係を継続する必然性がさほど強くない相手とはね。
実際、幼稚さは欠点ばかりとは言えない。人生には自我や主体性が邪魔になる場面がある。個人的な価値観なんて持たない方が、生き延びやすい社会集団ばかりです。

ということで、もうしばらくは実生活で悪態をつくのを自重し、適当にやって行こうかと思っています。

イメージ 1

別に興味はなかったけれど、誘いに応じてクリムト展を見に行った。

『三世代』などの代表作はたしかにユニークだ。エクスタシーの表情を金箔で囲むというあの作品も、表現として画期的。性愛を大胆に取り入れたことが、評価につながったように思う。しかし、私にはその良さが分からない。

ただ、ジャポニズムの影響を受けていることを知る。金箔や抽象的な図柄は、日本近世の屛風絵などに触発されて多用するようになったと思われる。

初期の肖像画は真っ当なものが多い。中でも『ヘレーネ』は魅力的だ。今展示会で私が唯一、もう少し眺めていたいと思った作品である。真横からとらえた表情だけで、こんなに愛らしい少女に仕上げた手腕に感服。

私にとって、専門家の評価などどうでもよいことだ。絵画鑑賞は、単に、もう少し眺めていたい作品を探しているだけである。

もちろん、ピエール・ブルデューが示唆するように。我々が芸術鑑賞するに際し、純粋に感動するということはない。歴史的な評価方法を意識しながら、優れた作品であると感じているに過ぎない。私も作品の評判などを念頭に置きつつ、自分の評価を下しているはずだ。

しかしながら、自分の価値観を放棄するつもりはない。好きだった作品が見飽きてしまったり、自分が見慣れていない表現というだけで刺激を受け、高い評価を与えてしまうこともある。価値観は変転するし、新たに得た知識が評価の仕方を変質させることもある。そんな流動的な自分を受け入れつつ、自分なりの価値観があるという状態が継続している。

一方、美術鑑賞をしたがるくせに、自分の価値観を持つ気がない人たちがいる。今回誘ってくれた知り合いもその一人だ。そうした人が選択する鑑賞対象は、有名な作品や有名な作家の作品がメインとなる。

ビックネームなら何でも見てやるという気持ちは分からないでもない。私にも、歴史的評価の下った作品はできる限り鑑賞したいと貪欲だった時期がある。しかし、鑑賞を続けていれば自分の好みは固まってくる。キュレーターの紹介文にも影響されるが、基本的には「本物が見たい!」という欲求に従って展示会に足を運ぶ。

ビックネームならなんでも見てやる派の人たちは、そんな私の欲求を無視する。いや、想像できない。そうした欲求を持つことを認めないとでもいうが如く、強引に誘ってくる。
その知り合いは、東京都美術館ならば並ばずに無料で入場できる権利を保持している。付き添い一人もタダだ。それもあって、ビックイベントに連れてってあげるよ、みたい感じで誘ってくる。ほとんど恩着せである。

私は今回、別の展示会の方に興味があった。アウトサイダーの作品展である。提案したら、「なにそれ?」みたいな反応を返された。あたかも、そんなわけのわからないものより、見る価値があるのはクリムト展でしょ!と言わんばかりであった。

見る価値がある作品とは、みんなが知る作品、みんなが評価する作品、みんなが注目する作品――そんな観念に支配されている。それ以外の価値観を認めないぐらいの強固さを持つ。

実はその知り合いには恩義がある。数年前の若冲展(動植綵絵全30作一挙展示!)の際、6時間待ちの列を横目にすんなり入場できたのは彼のおかげだ。それ以来、頭が上がらず、誘いにはなるべく応じることにしてきた。

誘いに応じる中ではっきりしたのが、先の価値観である。ビックネームの展示会とはすなわちビックイベント。彼らはビックイベントに参加する喜びに浸る。だから作品鑑賞より、作家の偉大さを示す解説を読みたがる。要するに、イメージを食べているだけだ。

面白いのが、展示室の出口にあるグッズ売り場での彼の挙動。彼は「実用的なものを選ばないと…」とTシャツなどを物色し始める。「クリアファイルなんかをよく買ったけど、結局、余るんだよね〜」とつぶやく。
つまり彼にとって、そこは土産物売り場。ビッグイベント参加の記念となるグッズを買う場所。記念品は持ち帰っても無駄になることが多い。それを学習した人が考えるのが「実用的な記念品」。

私もグッズをよく買う。絵葉書や展示作品の印刷物だ。動機は「もう少し眺めていたい」しかないが、彼には理解できない。「なぜ買うの?」と真顔で尋ねる。部屋に飾ったり、出窓に立て掛けるのだけど…

展示会場を出てから、彼とお茶した。そのときの話題は日本の社会福祉の行く末だったりする。絵画展の感想ではなく…

彼と別れた後、西武渋谷店に寄り、『ヨシダナギ展』を見た。逆光なのに極彩色の衣装を鮮明に映し出す技術は見事だ。ただグッズコーナーで買ったのは、ヨシダ本人を映す写真集である「日めくりカレンダー」。作者の個性が面白いという鑑賞の仕方もある。

追記
愚痴ることがまだあった。
連休明けのことだが、別の友人から「リッキー・リー・ジョーンズのコンサートに行きませんか?」と誘われた。私はファンでもなければ、話題にしたこともない。
彼もビックネームが大好きだ。いつからか往年のスターのベスト盤などを好むようになる。もう若くないこともあるが、ビックネームというだけで有りがたがる傾向が強い。数年前に誘われたジャズプレーヤーも、年齢的に来日は最後になるだろうから行かなくては!だった。そして、私に同調を求める。そして、私が提案する若手ジャズプレーヤーには反応しない。
楽曲への思い入れも「たまに聴きたくなるんだよね〜」程度。好きな曲は?と質問しても答えは返ってこない。当然、彼とは音楽談議に花が咲くことはない。

新しい天皇が誕生し、元号が改まり、祝祭ムードが世間を覆う。メディアは式典を詳細に報告し、寿ぐ国民を映し出す。知識人たちは天皇制について語り出す。
さほど関心がなかった私も少し浮足立つ。改元商戦に参加するつもりはないが…

Q.新しい元号、令和の印象は?
A.音の響きとしては、平成なんかよりずっといい。「へいせい」という音を初めて聞いたとき、マヌケで汚ならしいとさえ思った。平らに成るという意味のみに着目した、頭でっかちな選定であった。

その点、「れいわ」という響きは落ち着きがある。令和の字ずらも新鮮だ。
ただ私が選定委員なら選ばない。命令の令である。音からは「お礼は」や「零和」などを連想してしまう。

いかにもヤンキーが選びそうな名称でもある。日本のいわゆるヤンキーたちの言葉の選択は、カッコよさに淫する。それなりにセンスはあるが、知性と教養を放棄したような言葉選びになちがちだ。
そういえば、安倍首相はヤンキー体質を色濃く持つ。


Q.お祭りムードに対する感想は?
A.好ましいと思っております。私自身はムードに乗るつもりはないし、性格的にも乗れないが、人々が歓喜の色を浮かべて群れ騒ぐ姿を見るのは嫌いではない。楽しそうな群集を見れば、こちらも楽しい気持になる。私も根が俗物ゆえ、気分は伝染してくる。

意外ですか? 確かに、群集欲や集団心理に対する嫌悪を何度も書いてきた。己の愚かさを糊塗するために利用されることが多いからだ。集団心理に自ら陥ろうとする人々の目的は、己の弱さを隠し、無能さを忘れ、怠惰に生きることを正当化するためであったりする。

その種の悪徳に使われるのでなければ、大衆のお祭り気分に水を差すつもりはない。商業主義に乗せられることも止めない。「だって買わなきゃ資本主義から排除されてしまうもの」by岡崎京子

なにより、お祭りは人類にとって必要なものだ。一生のうち何度も訪れる日ではないという特別感は、生きていく上で欠かせない。イベント参加に積極的でない私ですら、たまには高揚感を欲する。

但し、みんなが騒いでいるから自分も騒げるという行動原理や、みんなが欲するから自分も欲するという主体性のなさは冷やかしたくなるけどね。長蛇の列に並ぶことが好きな人たちの精神は、大方が幼稚だ。

そういえば、列に並ぶのが好きなある友人は、「村上春樹の新刊、読んだ?」みたいな話もしたがる。ところが本の感想を聞いても、「エロい」ぐらいしか返ってこない。平成初期の著作『ねじまき鳥クロニクル第一部』に次のような一節があるが、彼はどう思って読んだのだろう。

<自分の価値観というものを持たないから、他人の尺度や視点を借りてこないことには自分の立っている位置がうまくつかめないのだ。その頭脳を支配しているのは「自分が他人の目にどうのように映るか」という、ただそれだけなのだ> だから<どうしようもないほどの見栄っ張り>になる。

絵画展にいっしょに行く機会の多い知人にも困っている。巨匠クラスの展示会ならば、私が喜んで誘いに応じると思っている。だからこの連休は、当然『クリムト展』に行きませんか、となる。彼は高齢になって急に美術に目覚めたが、いつまでたっても自分の価値観が育たない。

それはそれとして、今回のイベントは、諸外国の首長などから祝意が寄せられ、外国メディアも論評を寄せるレベルである。意味もなく酔いしれることを肯定する。


Q.天皇制に賛成か否か?
A.賛成する。
賛否を論じるだけの見識はないし、私には必要のないものだが、現状の日本にとっては必要だと思う。言うなれば、新憲法制定時にGHQが「占領統治に天皇は必要」と考えたのと同じだ。

権力側は“国民をまとめ上げるために有用”いう理屈を持つが、かくいう国民が国民統合の象徴を求めている。まさしく条文の文言どおりだ。国民は天皇を敬うことによって、自分も国民の一人だとの認識を得、日本国に所属しているとの自覚が持てる。

社会に翻弄され、権力者に苦役を強いられ、隣人から蔑まれることがあっても、目線を天皇に向けることによって、なぜか日本の中で地位を得たような気になれる。あるいは己のアイデンティティを見い出す。

理想の人間像を天皇に仮託する人も多い。天皇を憎む国民はいないと断言。天皇がいるからこそ、利害を越えて参集し、団結できる。感情的にすれ違う隣人との融和にも役立つ。そんな媒体としての天皇…

ただ、そんな天皇像が悪用することもできる。戦前戦中に多くの例がある。統帥権干犯!
そこで戦後の憲法は、政治的権能を有さない天皇という制度に改めたわけだが、超越的な存在を求める心性が国民から消えたわけではない。

こうした日本の現状(多数派の精神性が“ヤンキー”)が変わらない限り、天皇制に賛成し続けることになる。

そういえば平成の初期、「税金でタダ飯を食っている天皇が気に食わない」というセコイ理由で天皇制に反対していた友人がいた。彼は、この度のお祭りムードをどう思っているのだろう。

価値観が育たず、主体になり切れない無明なる大衆は、イメージだけを食べて生きる。

「いま、民主主義が経年劣化を起こしています。それに変わるシステムを生み出す力は人類にはもうありません。だからまたファシズムに戻るのではないか」とは、映画監督・白石和彌氏の言。(190412)

悲壮感あふれる断定である。社会制度の高度化という意味では、人類はもう力尽きたということか。大国でファシズムが復活し、再び総力戦が始まれば、今度は核戦争とならざるを得ない。絶滅する民族が出る!

ただ、白石監督は続けて「そんな危機感を描くには、チープさがかえって武器になると考え直しました」と述べるとおり、公開した映画紹介を兼ねての発言だ。意見表明というほどの押し付けはない。
表現者はナイーブであり、世相への見解は極端になりがちだが、言葉どおりの深刻さを持つとは限らない。鋭い感性で時代を体現する役割を担うが、そこに責任感はない。

危機感は正しい。私も共有する。似たような悲観論を書いてきた。だが目的はあくまでも、大衆よ、目を覚ませ!であった。人類は知性の力で生き延びてきたのだから、歴史を振り返り、同じ過ちを繰り返さないという所作が得意なはずだ。学習能力に難がある人も多いが、説得できないはずがない。そんな思いがまだある。

「民主主義が経年劣化」という解釈も少し違うように思う。民主主義が招いた危機であることに違いないが、劣化したというより、民主主義の実効性が高まったことによる危機と私は見る。なぜなら、真の民主主義とは、愚かな大衆が、愚かな自分に耽溺しながら、数の力で突き進む政治のことだからだ。

先の大戦は、専門家集団に国政を任せっきりにすると大変なことになるという教訓を与えた。政治が一般市民の生命と財産に多大な影響を与える以上、大衆の意志や判断を尊重し、十分に政治に反映させるべき、となった。こうして選挙結果に振り回される政治が生まれた。

大衆に振り回される政治とは、むしろ民主主義の深化を表す。<人に任せて文句を言う>の次は、<自分でやってみて失敗する>である。それが順序である。

愚かな大衆という表現を使ったが、大衆は自分を愚かだと思っていない。少なくとも自分の愚かさに満足している。自分たちの意向が反映されてこそ、“大衆の、大衆による、大衆のための政治”が実現すると考える。

良心的なエリートがやる気をなくすかもしれない。システム構築に長じる専門家が職場放棄するかもしれない。それでもよいのだ。気まぐれで、下品で、いいかげんな人物がリーダーになってもよいのだ。トランプ大統領は自分たちに似ているから支持するのだ!

こうして、権力を欲するのは低俗な人物だけになる。大衆を扇動し、洗脳し、破滅に誘うことが好きな人間しかリーダーを目指さない時代になる。でもそれは大衆の求めでもある。迷いが消え、感情が躍動し、集団心理が満たされるならば、結果なんて気にしない。

トランプ現象にからめて何度か、大衆よ、その選択は自分で自分の首を絞めることになるぞ!と指摘してきました。欧米で広がる反移民運動も、トランプ流孤立主義も、それを支持する大衆のためにならない、デメリットの方が大きいと力説してきました。だが、今となっては恥ずかしい。

それらは力説するまでもないことだった。たとえば、ブレクジットについて、学者はあっさりと断定する。
「悲劇的なことに、EU離脱によって大きな損害をこうむるのは、怒りの声を上げて離脱を求めた低所得者層である」(190418慶応大教授・細谷雄一)

そして、大衆はデメリットを受容する覚悟ができていた。その意味でも、力説は空回りだった。
たとえば、オックスフォード大学教授のジェフリー・エバンズ氏によると、離脱すれば経済的な損失で生活に影響すると伝えたとき、離脱派の返答は「それでもやるに値する」だったという。(190403)

トランプ大統領を支持する農業従事者たちも同様だ。トランプ政策で収益が落ちることになっても支持を続ける、耐えて見せる、などと言う。

“反移民”の本質は、少数者擁護への反発ということも大衆の証言から見えてきた。アメリカで草の根取材を続ける記者によれば、トランプ支持者には次のように映っている。…移民など少数者が、順番待ちの列に突然現れ、自国の経済弱者を差し置いて前列に組み込まれていく!
そういえば、日本にも「在日特権を許さない市民の会」というヘイトスピーチ集団がありました。

少数者擁護は国際世論の主流だ。しかし大衆にとっては、<少数者厚遇=多数派冷遇>である。その種の政策の推進は、多数派に属することを良しとする大衆の価値観の否定につながる。本能への侮辱でさえある。

多数派志向は、大衆にとって生き延びるための手段である。本能に近い。ただ、快楽原則に則るとは単純に言えないのが多数派志向である。多数派に属することで我が身は守られるが、個人の欲求より集団の目的を優先しなくてはならない。ときに我慢を強いられる。つねに大勢に順応するための気働きが求められる。

そんな努力を重ねることで多数派の一員でいられる。それなのに、同じ努力をしない異質な少数者が守られ優遇される。多数派にとって効率の良い社会、仕組み、習慣を変えていく…などというスローガンさえ掲げられる。冗談じゃない! なんで多数派有利を変えなければならないのだ!

正統派を気取るマスメディアは、少数者擁護を共有すべき思想のように扱う。だが大衆にとって正統派メディアの姿は、きれいに着飾った人形にしか見えない。その思想は、仲間を大事にする心への挑戦にさえ見える。

考えてみれば、頭のいい人たちというのは少数派だ。エリートも専門家も少数だからこそ、そう呼ばれる。そういった意味では、大衆は恐れない。民主主義の実効性が高まれば、勝つのは大衆の方である。

昨今の動向は、大衆の増長ではある。しかし見方を変えれば、自分たちの価値観を守る運動とも取れる。

なにが「後出しジャンケン」だよ。
「ふるさと納税制度」の改正を受け、大阪府泉佐野市が今月8日に開いた会見での発言である。過度の返礼品競争を防ぐための法改正である。3月27日に国会で成立していた。

泉佐野市の副市長は「法施行前の取り組みを踏まえた遡及的、恣意的な判断などという“後出しジャンケン”のようなルール制定は、法治国家がとるべき手法とは思われません。総務省がこの権力の濫用に踏み切らないことを、本市としては切に願うばかりです」と訴える。

総務省は昨年来、返礼品を寄付額の3割相当以下にすることや、地場産品に限定するよう地方自治体に通達していた。泉佐野市はこれに逆らい、3割を大幅に超える豪華な返礼品を寄付者に提供。しかも返礼品目には全国各地の特産品をそろえるほか、キャンペーンと称してアマゾンのギフト券を加えるという逸脱ぶり。

ギフト券は金券だ。寄付額から控除されるのはたったの2000円。つまり高額寄付者は、寄付額の半額近いキャッシュをご褒美としてもらえるというわけだ。
いや違う。寄付ではなく露骨な利得目当てにさせている。つまり納税者は、納税先を泉佐野市に変えるだけで、高額のキャッシュが手に入る!

おかげで泉佐野市は多額の寄付を得てきた。2017年度も他の自治体と比べて突出していたが、2018年度はさらに増え、497億円に達する見通しとのこと。(190415)
市の一般会計予算規模は560億円程度というから、大きな収入だ。財政が潤うどころの騒ぎではない。

総務省の通達はあくまでも行政としての指針提示であり、法律のような強制力はない――というのが泉佐野市の言い分だ。何を言っているんだか。法律に違反しなければ何をやってもいいとでもいうのか。まるで脱法行為で節税にはげむ資産家の言い分みたいじゃないか。

同じ考え方から、他にも通達を守らない自治体がある。それに業を煮やした総務省が今回の法改正に動いた。

泉佐野市はきっと、マスコミが騒ぎ、他の自治体も呼応し、法改正阻止の運動が全国的に広がるとでも思って会見を開いたのだろう。世論は自分たちに味方すると市の幹部会で結論したのだろう。キャッシュバックキャンペーンの次は、政府への糾弾キャンペーンだ!と一致したのだろう。

でもどうでしょう。意図通りになるでしょうか。他の自治体の市民に使われるはずだった税金を横取りしていることに、なんら痛痒を感じない厚顔をさらしただけではないでしょうか。もっと言えば、市民税をタダにしたってやっていけま〜す、交付税がなくたって平気で〜すぐらいの寄付を集めたことが知れ渡っただけ。

ふるさと納税という名称は、あたかも、自己財源に乏しい地方自治体に、都市部の住民が自発的に税金の一部を移転するというイメージを与えるが、実態は違う。地方の貧しい自治体でも流出が上回る例がでている。一方で、泉佐野市のように過激な強奪ができてしまう。そんな法律だ。

今回の改正は、法律の欠陥を修正するためのものだ。泉佐野市にとっては寄付額が減るだけでなく、交付税の減額を招く。だから反対なのは分かるが、「権力の濫用」と非難されるほどの悪を政府が為したとは言えない。

考えてみて欲しい。流出超過の自治体はどうするか。泉佐野市のマネをするしかないではないか。“目には目を”だ。あっちの返礼が3割なら、こっちは4割。4割が当たり前になれば5割にする。そんな薄利多売の過当競争みたいになる。しかも、得するのは高額納税者だけ。金持ちの節税対策として使われるだけだ。

すでに返礼品一覧は、高額納税者にとって“ギフトカタログ”になっている。コンサルタント役の業者が暗躍し、品目選定やウェッブ出稿、ネット広告の手助けをしている。優雅な返礼品ライフを送る人たちがいる。

自分さえ良ければ…と考える人は、社会に対する責任感に欠ける。他の人たちも自分と同じことをするようになったら、世の中どうなるのかという想像が働かない。

私が若い頃に教わった人間性の判定方法に、「あなたと同質の人間が世の中で増えることを望むか?」と質問をする、というのがあった。
この質問に「みんなが私みたいであって欲しい」と答える人間はたいてい友達が少なかった。人間性に偏りがあるからではなく、自分と異なる資質や性格に関心がないからである。自分が理解できない人間など認めないぐらいの独善性を備えている可能性がある。

それにしても、ふるさと納税制度はだれが発案して、だれが画策して、だれが制度設計したのでしょうね〜。想像するに、地方創生の後押しになるとかなんとか言いながら、素人考えで出発し、責任感の乏しい代議士を巻き込み、言いなりの官僚が結果も考えず細部にも気を配らす適当に作り上げたんでしょうね。

安倍政権が制定した法律には、そんな杜撰なものが目白押しだ。ふるさと納税制度は、法律の欠陥が発覚した一例に過ぎない。

いまさら3割&地場産品という制限を設けたって、ふるさと納税の名にふさわしい制度になるわけではない。貧しい自治体を助ける制度ではなく、納税者の恣意的な判断で、特定の自治体に税金が移動するだけである。しかも相変わらず、高額納税者の節税手段のまま。少額納税者=貧乏人にメリットはない。

そんな実態が明らかになったのだから、廃止しろという声が大きくなりそうなものだが、朝日新聞の世論調査(4月13日〜14日)によれば、「やめる方がよい」はたったの20%。「利用したことがある」人が12%しかいないのに、「続ける方がよい」が62%とはどういうこっちゃ!

ふるさと納税という名称に惑わされている国民よ、早く目覚めて欲しい。泉佐野市の横暴ぶりがその端緒になることを願う。


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事