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橋本治の著作活動は、普通の人間への思いやりに溢れていたが、晩年の思いは少し違っていたかもしれない。昨年出版された『草薙の剣』刊行時のインタビューで語っていた日本人評は手厳しい。
<Q.執筆して見えてきた日本人像は?
「終戦の場面を書いて思った。当事者意識がなく、食糧難などの被害者になってやっと怒り出す。でも戦後の苦労は忘れる。忘れっぽい。大震災など、繰り返し起こるすごいことも、なんでそんなにさっさと忘れるんだよと言いたい」。そんな普通の日本人に何とかしてもらわないと、と思う。特に政治。「誰が選んだんだ、ってことです」>(180415)
忘れっぽいと言えば、加藤周一の日本人評たる「今=ここ」主義を思い出す。加藤は日本人の柔軟な現実主義に通じるなどと良い面を強調するが、私には目の前の現実しか見ない刹那主義にしかみえない――そう批評したのは、もう10年以上前。
何も変わっていない日本人。相変わらずボーっと生きているわけか。
そして民主主義では、国民の総体的性格が政治に如実に表れる。普通の人間の集団的特徴が政策に反映される。だから「誰が選んだんだ!」ということになる。
「誰が選んだんだ!」という問題は、民主政治が始まって以来つきまとう。事あるごとに指摘されてきた。マスコミは言いよどむが、別にタブーでも何でもない。私も何度も書いた。ただ最近、この手の指摘が識者の間で盛んになったのは、弊害が大きくなったからだろう。それも世界的にだ。
弊害とはすなわち、人間本来の欲望と感情がむき出しになっていく流れである。
経済同友会代表幹事の小林喜光氏が、1月のインタビューで語っていた直言は辛辣だった。
「一国主義を主張する政治家は選ばれた存在に過ぎず、選んでいるのは国民です。悪いのは国民です。各国で国民が劣化したんです」(1901030)
政治家は政策メニューという選択肢を提示するだけの存在。選ぶのは有権者たる国民。政治家は自分の政策の正当性を主張し、政治責任を負うポーズは取るが、最後は国民にその結果を預ける。そんな受け身が許される。野党の役割にしても、与党の政策が破綻したときに備えて、別メニューを提示し続けることでしかない。
小林氏はアベノミクスに対しても鋭い突っ込みを入れる。
「GDPを増やそうとして逆に国内の総負債を増やしたんです。6年間で約60兆円のGDPが増えたといいますが、国と地方の借金は175兆円も拡大しました」
あたかも、日本経済はマイナス成長に陥って当然なところを無理やりプラスにしているとでも言いたげだ。
このアベノミクスにしても選んだのは国民と言える。政府は多くの国民の要望に沿うものであったと開き直れる。安倍政権が債務を肩代わりしてくれるわけではない。膨れ上がった借金は国民が総出で返していくしかない。
そして同じことを繰り返すのだろう。国民は財政難の被害者になったときにやっと怒り出す。
これらは脳の特性と関係している。苦い過去は忘れやすく、甘い記憶の方が残りやすい、と脳科学者は言う。苦しみや悲しみは長くは続かない。生きることが苦しみの蓄積になってしまうのを避けるための機能だ。
一方、足の小指をぶつけたときの痛みは鮮明に記憶され、教訓として長く残る。物理的な痛みをすぐ忘れるようではケガが絶えず、命の危険が高まるからだ。
しかし人類の文明は、そんな本能に頼る危機回避能力だけではコントロールできないくらい発達してしまった。苦い結果に終わった経験をしっかりと記憶し、繰り返さないよう努めることが必須となる。つまり、本能に逆らってでも理性を働かせる必要が生まれた。
野生動物は、平気で福島第一原発の敷地内に入っていく。放射能汚染は目に見えないからだ。一方、知性を得た人間は、見えなくても放射能を避ける。科学的知見が危険を教えてくれるからだ。
本能に逆らうのは苦痛だ。野生のままに生きる方が楽だ。できれば本能が命じるままに食らい、気ままに性欲を満たしたい。生存欲の次には支配欲にも手を伸ばしたい。
社会的抑制がなければ、人間は簡単に野生化する。弱肉強食が大好きな動物に返る。
大きな戦争と大量殺戮という悲惨を経験し、本能の無制御と野生の解放はいけないことだと悟った。人類共通の教訓にしたはずだった。感情優位な人も、知性に従った方が安全だと身に染みた。本能だけに頼る生き方は危険だと痛感したはずだった。
ところが最近はどうも忘れっぽい人間の本性の方が優勢になりつつある。それではいけないと良識のある人たちが声を上げ始めている――というのが現状ではなかろうか。
別の見方もある。この現状を、知性優位な人間特有のペシミズム(悲観主義)のように受け取る皮肉屋がいる。売文家業の一環として無責任に現状肯定する論客気取りがいる。まるで、<本能・野生>VS<理性・知性>という構図を楽しむかのようだ。まったくもって情けない。
確かに識者たちの大衆を責める口調は昔からほとんど変わらない。オルテガ『大衆の反逆』(1930)の繰り返しに過ぎない。ハンナ・アーレント『全体主義の起源』(1951)も参考書だ。日本の近著に『頭にきてもアホとは戦うな!』というのがあるが、2002年には『まれに見るバカ』という本が売れていた。
しかし焼き直しの口調などと冷笑している場合ではない。識者たちは危機感を抱くからこそ繰り返す。人類の未来にとっては、<理性・知性>が勝利を収めてくれないと困るのだ。
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