おぴにおん0号

反論、質問受け付けますが、何せ思いつくままなので

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橋本治の著作活動は、普通の人間への思いやりに溢れていたが、晩年の思いは少し違っていたかもしれない。昨年出版された『草薙の剣』刊行時のインタビューで語っていた日本人評は手厳しい。

<Q.執筆して見えてきた日本人像は?
「終戦の場面を書いて思った。当事者意識がなく、食糧難などの被害者になってやっと怒り出す。でも戦後の苦労は忘れる。忘れっぽい。大震災など、繰り返し起こるすごいことも、なんでそんなにさっさと忘れるんだよと言いたい」。そんな普通の日本人に何とかしてもらわないと、と思う。特に政治。「誰が選んだんだ、ってことです」>(180415)

忘れっぽいと言えば、加藤周一の日本人評たる「今=ここ」主義を思い出す。加藤は日本人の柔軟な現実主義に通じるなどと良い面を強調するが、私には目の前の現実しか見ない刹那主義にしかみえない――そう批評したのは、もう10年以上前。

何も変わっていない日本人。相変わらずボーっと生きているわけか。
そして民主主義では、国民の総体的性格が政治に如実に表れる。普通の人間の集団的特徴が政策に反映される。だから「誰が選んだんだ!」ということになる。

「誰が選んだんだ!」という問題は、民主政治が始まって以来つきまとう。事あるごとに指摘されてきた。マスコミは言いよどむが、別にタブーでも何でもない。私も何度も書いた。ただ最近、この手の指摘が識者の間で盛んになったのは、弊害が大きくなったからだろう。それも世界的にだ。

弊害とはすなわち、人間本来の欲望と感情がむき出しになっていく流れである。

経済同友会代表幹事の小林喜光氏が、1月のインタビューで語っていた直言は辛辣だった。
「一国主義を主張する政治家は選ばれた存在に過ぎず、選んでいるのは国民です。悪いのは国民です。各国で国民が劣化したんです」(1901030)

政治家は政策メニューという選択肢を提示するだけの存在。選ぶのは有権者たる国民。政治家は自分の政策の正当性を主張し、政治責任を負うポーズは取るが、最後は国民にその結果を預ける。そんな受け身が許される。野党の役割にしても、与党の政策が破綻したときに備えて、別メニューを提示し続けることでしかない。

小林氏はアベノミクスに対しても鋭い突っ込みを入れる。
「GDPを増やそうとして逆に国内の総負債を増やしたんです。6年間で約60兆円のGDPが増えたといいますが、国と地方の借金は175兆円も拡大しました」

あたかも、日本経済はマイナス成長に陥って当然なところを無理やりプラスにしているとでも言いたげだ。

このアベノミクスにしても選んだのは国民と言える。政府は多くの国民の要望に沿うものであったと開き直れる。安倍政権が債務を肩代わりしてくれるわけではない。膨れ上がった借金は国民が総出で返していくしかない。

そして同じことを繰り返すのだろう。国民は財政難の被害者になったときにやっと怒り出す。

これらは脳の特性と関係している。苦い過去は忘れやすく、甘い記憶の方が残りやすい、と脳科学者は言う。苦しみや悲しみは長くは続かない。生きることが苦しみの蓄積になってしまうのを避けるための機能だ。

一方、足の小指をぶつけたときの痛みは鮮明に記憶され、教訓として長く残る。物理的な痛みをすぐ忘れるようではケガが絶えず、命の危険が高まるからだ。

しかし人類の文明は、そんな本能に頼る危機回避能力だけではコントロールできないくらい発達してしまった。苦い結果に終わった経験をしっかりと記憶し、繰り返さないよう努めることが必須となる。つまり、本能に逆らってでも理性を働かせる必要が生まれた。

野生動物は、平気で福島第一原発の敷地内に入っていく。放射能汚染は目に見えないからだ。一方、知性を得た人間は、見えなくても放射能を避ける。科学的知見が危険を教えてくれるからだ。

本能に逆らうのは苦痛だ。野生のままに生きる方が楽だ。できれば本能が命じるままに食らい、気ままに性欲を満たしたい。生存欲の次には支配欲にも手を伸ばしたい。
社会的抑制がなければ、人間は簡単に野生化する。弱肉強食が大好きな動物に返る。

大きな戦争と大量殺戮という悲惨を経験し、本能の無制御と野生の解放はいけないことだと悟った。人類共通の教訓にしたはずだった。感情優位な人も、知性に従った方が安全だと身に染みた。本能だけに頼る生き方は危険だと痛感したはずだった。

ところが最近はどうも忘れっぽい人間の本性の方が優勢になりつつある。それではいけないと良識のある人たちが声を上げ始めている――というのが現状ではなかろうか。

別の見方もある。この現状を、知性優位な人間特有のペシミズム(悲観主義)のように受け取る皮肉屋がいる。売文家業の一環として無責任に現状肯定する論客気取りがいる。まるで、<本能・野生>VS<理性・知性>という構図を楽しむかのようだ。まったくもって情けない。

確かに識者たちの大衆を責める口調は昔からほとんど変わらない。オルテガ『大衆の反逆』(1930)の繰り返しに過ぎない。ハンナ・アーレント『全体主義の起源』(1951)も参考書だ。日本の近著に『頭にきてもアホとは戦うな!』というのがあるが、2002年には『まれに見るバカ』という本が売れていた。
しかし焼き直しの口調などと冷笑している場合ではない。識者たちは危機感を抱くからこそ繰り返す。人類の未来にとっては、<理性・知性>が勝利を収めてくれないと困るのだ。

松家仁之氏によれば、橋本治は生前、次のように語っていたという。
「自分の頭で考えろと言ってもね、他人の頭が考えたことをなぞるのが精一杯、というのが普通の人間です」

彼なら言いそうである。普通の人間に向けての評論活動を続けてきた人だ。やさしさが滲み出ているが、これが長い評論活動の末の結論であるならば、少し悲しい。

私は若い頃、彼の理屈っぽいエッセイにハマったことがある。評論あるいは啓蒙書の類もいくつか読んだ。平易な表現だけで伝えようとする努力は並々ならぬものがあったが、回りくどくなってしまうのが難点だった。そして、読者に高度な思考を求めることに変わりはなかった。

普通の人間にも自分の頭で考える習慣を身に着けさせることができると期待しての評論活動だったように思う。しかし、その努力も空しかったということか。

分かる気がする。義務教育をへて高等教育を授かる頃までに、ほとんどの人が自分は足りない頭を抱えていることを知る。他人の知恵を盗みながら生きることが最善であると悟る。周りの人からバカにされないためにも、優れているとされる考え方をなぞるようになっていく。

ただ、皆、幼少時は考える習慣など持っていない。他人の考えに耳を傾ける中で、考えるとはどういうことかを知る。他人の考え方を学ぶ中で、考え方は一様でないと悟る。他人が考えたことを理解しようと努める中で、自分の頭で考えるという姿勢が育っていく。

私には、自分の頭で考える習慣を身に着けた人の方が精一杯生きているように見えるがどうだろう。人間は、悪戦苦闘の末、自分の頭で考える人になっていく。

橋本治の感慨も分かるが、実態は、頭や身体を使わなくても生きていけるような豊かな社会に住む私たちに、自分の頭で考えろ!という指令は届きにくい、ということではないだろうか。

最近、このブログに「豊かさはバカの始まり」あるいは「便利は堕落の始まり」みたいな話を書く機会が増えた。それは、そのような自覚がないと生きる力が衰えていく恐怖があるからだ。ゆでガエルになりたくないからだ。そんな人間ばかりになっては人間社会が成り立たず、私も困るからだ。

困る場面は実際に増えている。他人の説明を理解しようとしない人たち…。分からないことは、いつまでたっても分からないままで放ったらかし。当面の安楽だけを求め、危機回避のための行動は後回し。その結果、困難は他人に預けて逃げるしかない弱い人間が増殖中。

人間関係の構築や継続の仕方が稚拙なままなのも、自分の頭で考えることを怠ってきた結果だろう。感情優位という生き方が一向に改まらない。相手の思考に目を向けない。想像力が働かない。精神年齢は停滞したまま、成人らしい思考回路が構築される気配がない。

友人関係を続けたければ、精神的に成長するな!みたいな圧力を受けることがある。頭を使う会話は敬遠され、互いに小バカにし合う関係が好まれる。感情のやり取りさえしていれば満足な人たちばかりになった。

そんな彼らは、本当に相手の感情を読み取るだけで精一杯なのだろうか。

確かに感情優位の自分を変えられないもどかしさはありそうだ。でもそんな自分を基準に、人間関係は、相手の感情の動きだけを見ていればなんとかなるとの態度が苦々しい。相手の嗜好や思考の仕方を見極める努力もせず、あげくに関係が険悪になれば、すべて相手のせいだ。

こうして“人を見る目”が衰えていく。信頼すべき人間を間違え、だまされる。良きアドヴァイスを聞き流し、利用しようと近づいてくる人の甘言に乗ってしまう。

想像力の欠如は、自己を見つめる能力の欠如でもあるから、異性関係などでも勘違いが多発。
年を重ねても、選ぶのは私の方よ!と自惚れたままの女――関係が発展しないのは男がだらしないからとうそぶく。平均以上の容姿とセンスを持つと信じ切る男――モテないのはだれかが邪魔しているからと思い込む。

自分が何を求めているのかが曖昧なのも、自分の頭で考えていない証拠だ。ところが自意識だけは一人前。友人に振り回されるしかない主体性のない自分を顧みず、意識の中では「つき合ってやっている」。人のマネばかりしているくせに「相手に合わせてやっている」。まるで、自分の方が優位な立場にいるかのごとく。

そして、中身がない人ほど優越感に飢えている。他人を笑う機会をうかがっている。それだけが行動規範のような人もいる。困るのが、そのような人の前で謙虚にふるまうと、自分に自信のない奴と解釈されること…。あきれて物が言えないときの沈黙を、言い争いに勝ったと受け取ること…。暇つぶしといえば、勝てそうな相手にちょっかいを出すぐらいしかないこと…。

これらは、他人の頭が考えたことをなぞるのが精一杯な人間のふるまいであろうか。そのような自覚を持つ人間のやることであろうか。
生き延びるのに精一杯だった時代、人々は宗教の教えに従い、先祖を敬い、保守思想に則って謙虚に生きてきた。ところが楽に生きられるようになった途端、自分を賢いと勘違いし、慢心が目に余るようになる。共生の意味さえ忘却したような危うい行動に走り出す。

やはり、思考力に欠ける人間の尊大は、愚かであることが死を意味しなくなった現代の“病”として位置づけるべきだろう。豊かさは思考停止に誘うと分析すべきだろう。

自分の頭で考える習慣が身に着いていない人に、なぐさめの言葉を与えても何も変わらない。あくまで辛口でいくべきだ。それが、私の最近の結論である。

韓国の国会議長が「盗っ人たけだけしい」と日本を非難したとのニュースを見てビックリ! 本当にそんな強い言葉を使ったのか。和訳が大げさ過ぎたのではないのか。韓国語にも同じような慣用句があるのか。元となる漢語が同じだったりするのか?

記事によれば、15日、文喜相国会議長が滞在先のアメリカで、韓国メディアの取材に答えたものという。他にも「謝罪する側が謝罪せず、私に謝罪しろとは何事か」「戦争の犯罪には時効がない」とも述べたというから、強い言葉を発するだけの意気はあったようだ。

文議長は先に、天皇陛下が元慰安婦の手を握って謝罪すれば「その一言で問題は解決する」と語っていた。日本政府はこのとき、即座に抗議した。文議長の今回の発言は、日本の抗議に対する返答である。文議長は撤回も謝罪もする気がないことを表明した。

これらの発言は、日本政府の関係者に面と向かって投げつけられたものではない。韓国議会を代表しての表明でもなく、あくまで個人の見解のようだが、国会議長という肩書は重い。

韓国政治は大統領に権力が集中しているから、国会議長といえども、日本人が思うほど内政での重みはないのかもしれない。だが対外的には、国会を取り仕切る重職とのイメージがある。だからこそ日韓双方のメディアが取り上げるのだし、日本政府は抗議することになる。

文議長は「言い争いを続けるのは互いの国益に役立たない」とも付け加えたらしいが、敵国を罵倒するような表現を用いたことは消せない。ケンカを売っているに等しい。

でもまぁ仕方ない。本音としても日本は敵性国なんでしょう。植民地化され二等国民扱いにされた過去の屈辱が忘れられない。逆の立場を日本人にも味わわせたい。それができないかぎり100年経とうとも変わらない。

もしかしたら、北と友好関係を結んだ後、北の核兵器を使って脅せば日本を属国にできるとでも思っているのかもしれない。
いや待て、そのような感想を抱くのは文議長の挑発に乗ってしまったようなものだ。それに、感情優先の人に対し、こちらも感情的になっては対立がエスカレートするだけだ。

ならば、クレーマーに似ているとの感想はどうだ。…相手の汚点は決して見過ごさない。大げさに騒ぎ立て、追求の手をゆるめない。相手が謝罪しても「真の謝罪になっていない」と納得せず、誠意を示せば「まだ足りない」と要求は肥大していく。もはや相手を攻撃し続けることが目的と化す――みたいになっていないか。

一部の人が賠償金をもらったことにより「日本を責めて得するならオレだって」という風潮が蔓延した――との解釈も、クレーマーなら成り立つ。こうして利益獲得のための抗議行動が際限なく繰り返される。

ただし対処の仕方は消費者クレーマーと同様というわけにはいかない。国家間は供給者と需要者のような一方的な関係ではない。やはりクレーマー的な国民を説得する役割は、その国の政府が担う必要がある。ポピュリズム政治をするのならば、こうした大衆の欠点を見据えて運営してもらわないと困る。

ところが韓国政府は、反日的クレーマーが増える素地を自ら作ってきた。反日教育を積極的に実施していた時期がある。いわゆる日本人=鬼子論だ。

もちろん最近の反日気運には、社会的要請の高まりが伴う。自国の産業に自信を深め、経済的余裕が生まれたことが、過去の屈辱に目を向けさせた。同時に、先進国に伍する中で、現状へのいらだちや将来への不安を多くの国民が抱え込むようになる。つまり、憂さ晴らしの対象を求めている部分がある。

それでもなお、反日教育の影響は大きい。漫画家の里中満智子氏の回想を聞くとよく分かる。

里中氏は1994年ごろ、韓国の漫画家から「日本の漫画の海賊版が出回っている。取り締まるよう、我が国の政府に圧力をかけて欲しい」との要請を受け、韓国で神格化されていたちばてつや氏を誘って韓国を訪れた。

<そこで、ある人から「最初は“こんなに心あたたまる漫画を日本人が描けるはずがない”と思い、日本の漫画と分かった後は“私は韓国に残虐行為を働いた鬼の漫画に感動してしまったのか”と落ち込んだ」と打ち明けられた時は、本当にショックでした>(190213)

洗脳のような教育であったことが分かる。(ちなみにこの人は、「でもやがて、こんなにやさしい漫画を描く人は鬼なんかじゃないと思うようになり」、洗脳が解けたようだが…)

「鬼畜米英」という言葉を思い出す。先の大戦中、日本国民のほとんどが洗脳されてしまった。でも戦後は夢から覚めたように、そのような単純化は幼稚な考えであったと悟る。参戦した国々の国民は皆、公民教育を受けて、それなりに賢くなったはずだった。精神的に成長したはずだった。

ところが韓国はしばらくの間、洗脳教育を続けていた。あたかも「鬼畜日帝」と叫ぶが如く…

簡単に残虐行為を働ける人はいまでもいる。日本にもいる。韓国にもいる。どの国にもいる。しかし残虐行為を例示してその国民すべてを“鬼”のように扱うのは作為である。時代錯誤も甚だしい作為である。

一定の社会性を備えた人ならば、だれでも国粋主義者になれる。国家としての優越を求め、わが民族は優秀であると思いたい。政治家の中には、同じ思いを抱く国民に支えられていると思いながら、国家運営の中枢で活躍しようとする人がいる。その一人が文議長なのだろう。

民主政治においては、社会的要請によって政治家の行動や遂行すべき政策が決まってくる部分が大きい。しかし、韓国のクレーマー的反日気運が純粋な社会的要請であるかどうかは疑問が多い。

クレーマーたちの憂鬱

クリーニング取り次ぎ店で働く人が「クレーマーが増えている」と嘆いていた。

クレーマーという言葉をだれもが口にするようになって久しい。揶揄する響きは初めからあったが、最近は社会に害をなす非難すべき対象として語られるようになってきた。苦情を繰り返すことで業務を妨害したり、威圧的な態度で相手を困惑させ、理不尽な要求をする人たちというわけだ。

となれば、人々の間で「クレーマーと呼ばれたくない」という心理が生まれそうだが、実際にはクレーマーは増えているようだ。脅迫罪に発展する事件もよく耳にする。店員に土下座を強要して、その様子をネットにアップするなんていう甚だしい人権侵害さえ起こっている。

犯罪となる事例はともかく、事業者にとってクレーム処理が日常業務になったことは間違いない。サービスや商品流通の末端に位置する一般消費者が苦情を申し立てるケースが多くなった。

クレームの増加には、消費者保護に対する社会的要請が強まり、そのための政策が充実してきたことが大きく影響している。製造者責任法ができてから20年以上たつ。販売やサービス契約におけるクーリングオフ制度も拡充していく。消費者庁という専門官庁までできた。

さらに消費者生活センターが設置され、行政による苦情受付の体制が整う。直接メーカーに苦情を持ち込むのをためらう人は多い。苦情として成立するかどうか迷ったら、消費者生活センターに相談すればよい。

メーカーの対応も丁重になっていく。すぐに「全品回収します」と告知するようになる。消費者に損害や健康被害を及ぼせば賠償だけでは済まない。会社の信用問題に発展する。通信の発達により、風評は瞬時に広がる。健康被害が出ていなくとも、不正を働けば、雪印のように業務撤退を余儀なくされる時代となった。

豊かになれば安全や安心を求めるようになるのは当然。衛生管理は完璧を目指すことになる。「一億総潔癖症!」と皮肉る向きもあるが、安全や安心の最大化は人類共通の願いである。

ただ、こうした消費者保護気運の高まりは、クレーマーと呼ばれる常習者を育む土壌ともなる。

彼らの魂胆はあくまでも利益獲得にある。精神的な利益である「相手に謝罪を求める立場の獲得」も動機となるが、常習者たちの最大の目的は、やはり実際的な利益獲得にあろう。

クリーニング店の窓口にやってくるクレーマーたちは、それなりの雰囲気をかもすという。苦情を申し立てるのは当然とばかりに威圧感を漂わせるから、それとすぐ分かるそうだ。ひと言でいえば“クレーム慣れ”している。受ける方としては「またか」と心中でつぶやくことになる。

彼らの目的は店側に弁償させること。新品購入と同額の賠償金を手にすること、いや、「この服はもう手に入らない」と認めさせれば、それ以上の「誠意」を受け取れると期待している。

本部はクレーマーたちの過剰な要求に手を焼き、対応マニュアルをつくった。取り次ぎの窓口では安易に謝罪したり、「弁償します」と言ってはいけない。「お調べして、ご連絡します」と締めくくること。

先日の記事によると、製造小売の衣料品チェーン店には、品質保証が目的の返品制度を悪用し、着古したものを返品しようとするクレーマーがくるそうだ。拒否すると怒鳴り散らす! (190209)

食品では昔から、異物混入などの事故があった場合、メーカーは現品を上回るお詫びの品を被害者に返送し、謝罪の意を示す慣習があった。
私ももらったことがある。若い頃、カップ麺一つの事故で、詰め合わせセットをもらった。十年ぐらい前には、ソーセージ一袋の事故で、数袋入りの小箱が送られてきた。

そんな食品メーカーの対応を念頭に置きながら、小売業やサービス業へも過分な「誠意」を求めるようになったのではないか。実際、しばしば成功するのだろう。

そういえば思い出した。これもだいぶ前の話だが、友人宅でのこと、レジ打ちの間違いを友人が電話で伝えると、スーパーの店員が一パックのブドウを持って友人宅まで謝りに来た。

こうした経験に味を占め、一部の人たちが常習者となる。気分としては「クレームはもうかる!」。余得に与ることが目的となり、少しでも不手際があろうものなら、大げさに難癖をつけ、利益をせしめようとする。それが高じて作為的なクレームにも発展していく。

習慣とは恐ろしいもので、クレームをつけることが面倒でなくなる。500円分の利益のために半日ついやすのも平気になる。もはや遊戯だ。
多くの人は「そんな暇人、いるわけがない」と思うだろうが、さにあらず。金銭面で意地汚い人を思い浮かべてほしい。たった十円だろうが相手が得することに我慢がならない。ひとりの時は浪費するくせに、いっしょに食事したときなどの支払いはえげつない。相手に多く払わせたくて仕方がない。

その手の人は金銭以外でもセコイので、友を失い、縁者に愛想を尽かされる。人間関係が希薄になっていく。だから暇なのだ。だからクレームに多くの労力を費やせるのだ。

精神面でも空虚を抱えるから、被害妄想のようなクレームともなる。なめられてはいけないとばかりに気張るし、孤独を紛らわすためであるかのように、長い時間、相手に食ってかかる。

クレームを繰り返すたびに人間性はますます卑しくなっていき、さらに人が離れていく。そんな悪循環になるが、もはや止められない。だれからも相手にされない日頃の憂鬱を払拭するためにも、生きている実感と利益が得られるクレーム活動に専念するしかなくなる。

断っておくが、前回の話は、苦手なら思考力なんか身に着けなくてよいということではない。また、記憶力など無用だという意味でもない。

たしかに高度な思考力が要求される仕事に就くことは難しい。これまでも機械化の進展によって、低レベルの思考力で足りる仕事が減ってきた。今後、AIが行き渡れば、中レベルの思考力も仕事上で生かす機会が減っていく。しかし思考力を高める努力は放棄しては、ますます就労の機会が狭まる。

外国人労働者が増えている。スキルが不要な仕事ならば、日本語ができるというだけで、スキルのない外国人に勝てるが、日常会話ができるようになった外国人には負けるかもしれない。

小学生レベルの思考力では、中学生レベルの学生アルバイトに負ける。並みの中学生にバカにされる。
中学生レベルの思考力を身に着ければ、平均的な小学生にバカにされることはないし、勉強を教えることができる。高校生レベルの思考力を身に着ければ、普通の外国人労働者に負けることはない。

中学で落ちこぼれて公立高校に入学できない生徒にも、一部の私立高校が門戸を開いている。そこでは小学生レベルの算数から指導してくれる。腐ることなく努力すれば、就職への道は広がる。

努力しても平均レベルに達しないかもしれない。遊んでいられるのは今のうちだけと言うかもしれない。ゲーマーのコミュニティに入り浸って「楽しくやっているよ」とうそぶく生徒もいるようだ。だが、社会に出たときに「真面目な東南アジアの若者を雇った方がマシ」と言われたらどうする。

記憶力に秀でた人たちも似たような学習態度になりがちだ。…どうせ努力しても理数系では優秀レベルに達しない。優越感を得られる記憶力勝負の暗記科目だけに専念して何が悪い。その方が楽しくやっていける。

しかし、負けるからやらないという態度は幼稚だし、思考力が低いままでは生きていく上で損失が大きい。就ける仕事の範囲が狭まるだけではない。生活者としても不利な立場に追い込まれる。

家電品のマニュアルが理解できないなんてのは笑い話で済むが、役所の窓口で職員の話が理解できないとか、記入要領が理解できないとなれば、義務付けられた申請書さえ提出できない。質問もしづらくなる。困ったときに公的機関に助けを求めることを躊躇するようになる。

消費者としても愚かなままだ。日用品を買うときに損得勘定を間違える。家財道具をイメージに踊らされて購入しては浪費を重ねる。保険商品は販売員に勧められるままに契約して後で後悔し、金融商品を購入する際は証券マンに言いくるめられて損害を被る。

友人に助けてもらう? でも論理的な説明が理解できないようでは人間関係の広がりは期待できない。バカにされるのが怖くて頭の良さそうな人に近づけない。思考力がないことがバレるのを恐れるあまり寡黙になる。一般に、理解できない相手は恐怖の対象だから、社会生活そのものが辛くなる。

気心が知れた縁者とだけ付き合っていた方が気楽だが、助けてもらえる人が限られるという意味では弱者だ。

助け合いという意味で面白いのが、高学歴を誇るプライドの高い集団よりも、学業不振のマイルドヤンキーたちの方が仲間内での助け合いが盛んで、対処能力が高かったりすることだ。特に、実利に直結する事柄では、的確な対処方法が仲間内で流布する。

もちろん、生活弱者を助ける制度はあるし専門家もいる。確定申告の時期には税務署が無料相談会を開いてくれるし、いざとなれば税理士に頼めばよい。他の分野でも行政の無料相談は充実してきた。法テラスもできた。行政に頼らずとも、金さえ払えば、在野の行政書士や司法書士、弁護士などがなんとかしてくれる。

ただ専門家の請求額は高い。半日仕事をさせようものなら平気で5万円ぐらい請求してくる。5万円といえば、数日間、汗水流して働かないと稼げない金額だ!と嘆息する労働者も多いだろう。

5万円取られるぐらいなら、調べるなり訊くなりして自分でやってやる!――そんな気持ちになったとき、思考力があれば心強い。時間はかかるだろうが、日給1万円で働く人なら、5日以内でやり遂げればペイする。

かように知識や思考力がないために、出費が増えるという現実がある。ますます働かなければならなくなり、生活の余裕が失われていく。貧乏から脱することなく人生を終えるなんてことになりかねない。

知識に関しては、インターネットのおかげで簡単に手に入るようになった。記憶力はさほど必要なくなったように見える。しかしネット検索するにしても、用語を知らなければ調べようがない。たとえ説明文にたどり着いたとしても、一定の知識がなければ理解できない。役所の窓口での状況と同じことになる。

だから思考力だけでなく、基本的な知識も日頃から習得しておく必要がある。AI時代だからといって記憶力が無用になるなんてことはない。学校でのように先生が褒めてくれるわけではないから学歴エリートには物足りないだろうが、社会に出れば記憶力の使い方が違ってくると思い定めるべきだ。

その辺のことが分からず、相変わらず記憶力勝負の分野に逃げ込んでプライドを保とうとするから、社会に出てから落ちこぼれたり、“記憶力バカ”なんて悪罵に見舞われるのである。

マイルドヤンキーだって同じだ。目の前の利益ばかりを追い、勉強を怠るから、自分が持つ権利さえ気づかずに奪われる(たとえば行政の給付金なんかは自分で申請しないともらえないものばかりだ)。理解力が足りないから仲間以外を信じることができず、専門家を疑い、あげくに社会そのものへの不信感を募らせる。

浅くていいから広く知識を得ておこう。基本用語だけでも把握しておけば、いざというときに役に立つ。知りたいことが理解できる。「理解できないことがあるのはくやしい!」ぐらいの気持ちで頑張ろう。


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