おぴにおん0号

反論、質問受け付けますが、何せ思いつくままなので

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そういえば当事、「死後、魂は残るか」に肯定する若者が多いことに、別の見方をする知人がいた。
彼は「そんなに深刻に考えているわけではない」と軽く言い放った。

「宗教は生きていく上で大切なものか」という問いには、8割の若者が「そうは思わない」と答える。一方で<死後の世界>に肯定的なのは矛盾していないか? そう問いかけたら、知人は次のように解説した。

「死は、事故や病気により明日にでも直面する問題であるから、霊魂の存在に興味を示す。しかし宗教は、目の前の問題解決や心の救いに、特に必要なものではない。死はいずれ降りかかる問題であるから、死後の世界や生まれ変わりなどに興味を持つが、宗教を信仰することによって得られるものは、さし当り見あたらないから関心がない」

関心があるし、あった方がいいと思うから、聞かれればイエスと答える。<死後の世界や生まれ変わり>とはその程度のもの。心霊現象を取り上げるテレビ番組にも興味を示すが、深刻に考えて肯定しているわけではない・・・というわけか。

こうした回答姿勢は十分にありえる。
マスメディアや研究機関は、よく一般市民からアンケートを募る。そして、世論を見極めようとする。
だが、回答結果の解釈は単純にはいかない。強く肯定したり否定している場合と、なんとなく肯定したり否定している場合がある。そんな回答者の心情は、集計結果からだけでは分からない。ところが、アンケートを実施する機関は、単に数値だけで、多数派の考えはこうだ!と大きく論評し、「聞かれたから答えたまで」みたいな回答も含めて、強い意思表示のように解説したがる。悪い癖だ。

若者のアンケート結果も、疑ってかかる必要がある。明確な自分の意志として回答したはずだと受け取ると、とんだ間違いを犯すことになりかねない。たとえ明確な意思だとしても、単に移ろいやすいブームに乗っかっての感想程度のものである可能性もある。特に、実生活に影響を与えない、死後の世界やら超常現象などは世間のムードが反映しやすい。

そんなアンケート結果を深刻に捉えて、嘆いたり、喜んだりすることは滑稽なことかもしれない。
ただ、別の意味での懸念もある。アンケート結果は、多数派に属する構成員に対し、自分の考えへの強い肯定感を与える。このとき、多数派を形成した人々の多くが、単にムードに左右されて答えただけだったらどうだろう。単に流行に敏感であることの証明に過ぎないのに、自分の考えは正しいとの思いにつながる。
ちょっと肯定してみたかったに過ぎない<死後の世界>が、多数が肯定していると分かった瞬間、にわかに現実的存在に変貌する。これもまた危ういことだ。

エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』の中で描くように、人間の性格構造全体は、社会構造によって決定される。その時代の社会や経済の特殊性によって、人間性の多くの部分が規定される。
個人の感性は社会の反映であり、個人の実感というものも、社会からフィードバックされたことのみが補強される。よって、ムードに左右されるという現象も、個人を責めるだけではどうにもならない。

ちょっと肯定してみたかったという思いが、フィードバックされて確かな実感となるのは、なにもアンケート結果からだけでない。深刻に捉える必要はないが、社会構造が見え隠れしていると見ることも必要だろう。

ともかく、多数派にいるという安心感だけを頼りにした生き方は危うい。大きな落とし穴にはまる可能性がある。

宗教は、死の恐怖と人生の苦悩を対処するために作り出されたといわれる。それが出発となって、万人の必需品に成長した。しかし、現代は、排他的な宗派が跋扈するようになった。自分たちだけが正しいことを証明するための道具となっている。これは、世界的な宗教に限らない。
そんな排他的な宗教に誘われる素地が、<死後の世界>を肯定したがる安易な心理を持つ人に、そしてそんな自分を、多数派であるからと無批判に受け入れてしまう人にはあるように感じる。
普段は問題なくとも、苦悩に陥ったときに、自分たちだけが正しいという享楽的世界に逃避することになりかねない。それでしか解決策を見いだせない人間になってしまうように思う。

昔書いた『神の前にひれ伏している場合か!』にコメントをいただいた。
曰く「科学の進歩といっても、たかが月に行った程度。大した進歩ではない」。曰く「目に見えないからって、否定するのはおかしい」。「(死後の世界や生まれ変わりを信じる)最近の若い子のほうが、むしろ正しいのかも知れない」。

私の書いた文章には、挑発的な部分も多いから、反発を招くことは想定していた。そこから、何か考えてもらえればと思っていた。だが、挑発や理屈だけでは<死後の世界>信者には通用しないことは、すでに感じていたことでもあった。

書いた当時、ある知人は、<死後の世界>信者だったが、オウム真理教事件で新興宗教への疑いの目が向けられていたこともあり、私の文章に理解を示してくれた。しかし、時が過ぎ、オウム事件も記憶のかなたに追いやられるようになると、ほどなく元の<死後の世界>信者に戻った。完全に戻ったかどうかをはっきりと確かめたわけではないが、その種の発言が復活した。

文章の中でも書いたが、感情的な理解に偏る人が、<死後の世界>信者になってしまうような気がする。感情的理解を覆すには、結局、感情的な部分に訴えかけるしかないのだろう。
「頭では分かっているが、どうしようもならない」という言い方がある。植木等の言い草なら「わかっちゃいるけど、やめられない♪」だ。悪いと思っていてもやってしまう。自分に不利だと分かっていても行動してしまう。これは人間だれでも持っている性分みたいなものだ。
同じように、理屈では理解できても、どうしても心からの納得にならない、ということもよくある。

こうした矛盾に突き当たったとき、どうするかが分かれ道だ。
自分をコントロールして、不利な行いを止めようと努力するか。それとも感性のいざなうままに任せるか。
理屈への理解力を高め、心からの納得となるように努力するか。それとも、そのままの心情を受け入れるか。

感情を選択する方が、ある意味、素直な行動といえる。たいていは、そちらの方が気持ちよい。
別の選択に導くには、感情の赴くままに行動したら、痛い目にあったとか、恐怖を覚えたとかの体験が必要だ。そうした肉体的苦痛や、精神的苦痛を実感して初めて、別の選択という学習になる。現代においては、経済的損失も学習効果が大きい。

結局、感情的理解を優先する人は、そうした生き方をしてきて、大きな間違いはなかったという実感があるに違いない。
それに、気持ちよいことを選択する方が多数派だから、そうした感性を維持する方が孤立しないで済む。孤立することは苦痛だ。仲間意識を分かち合えることは快楽だ。感情的理解を優先するによって、仲間意識の輪が広がり、多数派にいるという安心感につながる。
みんながそう思っているのなら、そうに違いないという思い込みもよくあるが、仲間意識が育つという効用も大きい。

そんな効用を秘めた感情的理解である。理屈だけでは覆せない難攻不落な牙城に見えてくる。

感情は大事である。感情を作り出す感受性に、その人の人生が集約されている。感情の動きこそ、個々人の人間性のありかと言ってよい。

ただ、感情的理解に偏る人が、目に見えないものを信じることには奇妙な感じを覚える。なぜなら、感情優先の正体は、五感優先だからである。五感に訴えかけるものを大事にするからこそ、快不快に敏感になる。精神的な苦痛や恐怖は、五感よりも高度な感性であるが、それをありのままに受け止めるのは、五感と同じように、紛れもない実感と解釈するからである。
目に見えないものとは、本来、五感に訴えかけないものである。にもかかわらず、死の恐怖や精神的苦痛から逃れるために、だれも見たこともない<死後の世界>を信じるという教えに誘われていく。
精神的苦痛は、ときに他人によって操作される。だが、操作されたものであっても、自分の実感だから確かなものだと勝手に思い込む。そのベースには、五感優先という単純さがある。だからつけ込まれ、いつのまにか超感覚の世界を信じ込まされる。そこにある大いなる飛躍に気がつかない。

そんな混乱に陥るのが、感情的理解に偏ることの欠点である。
だから、教祖を盲目的に信じることへの矛盾に鈍感になる。TVにでてくる専門家の言いなりになる。科学的な証明といった説明にだまされる・・・・・・この辺で止めておこう。繰り返しになる。

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