|
その昔、ある友人が、趣味の仲間づくりに精を出していた。友が友を呼び十数人の規模となった。異性関係にも期待が持てたが、彼はモテない。その腹いせに始めたのが、“同性の仲間を引きずり下ろす”だった。
大衆は“みんなといっしょ”が好きだ。“我々”という意識を重視し、“私”というこだわりを嫌う。ただし、平等を求めているわけではない。むしろリーダーを欲し、序列を作りだがる。リーダーがいてこそ集団が形成され、序列を守ってこそ集団が維持されると考える。
“みんなといっしょ”のためならば、喜んで上位者の指示に従う。同じ方向に進むためならば、進んで関心を一致させ、主流とされる判断に身を任せる。
古来、“みんなといっしょ”志向は、生き延びるための有力な資質だったに違いない。
現代は生き延びるのが容易になったが、人々は相変わらずこの資質を引き継ぐ。今でも統率された集団は、生産活動などで有用である。
精神面での効用もある。大方の人間は孤独に耐えられない。“みんなといっしょ”だと、わけもなく安心する。心理学でも指摘されるとおり、同じ悩みを持つ人の存在を知るだけで、悩みは軽減される。同じ苦労を抱えている人が身近にいるだけで、苦労への耐性は高まる。
また、喜びは共有してこそ倍加する。怒りなどの負の感情も、共有することで正当なものとなる。特に女性は“共感”を求めてやまない。自己実現を生きる糧にする人は、今でも少数派である。
“みんな”の範囲は少し注意が必要だ。「人類みな兄弟」みたいな意識は、日常的ではない。凡人が実感する“みんな”の範囲は狭い。家族の結束が保たれることにしか関心を示さない人がいる。仲間に後れを取っていない程度のことで満足する若者がいる。小さな集団の中で、価値観を一致させることを目指し、共通体験を重ねる。
そして利益の分配は公平に!である。長幼や優劣の序列を感じつつも、同類・同質として得られるべき利益に格差があってはならない。仲間の間で差別はいけない、と考える。ただ、ときおり、自分勝手な序列意識を持ち込んでしまう人がいる。「自分がモテないのはおかしい!」などと言いだす。
…容姿の序列でオレは上位にいるのだから、本来ならモテるはずだ。モテないのは理不尽だ。不当な立場に追いやられている。ならば仲間を引きずり下ろすまでだ。悪口を言いふらすなどは、いやらしい行いかもしれないが、正常な序列に戻すためだ。正しい情報を広めるためだ。正当な行いだ!
さて、大衆の時代を向かえ、“みんな”の範囲は広がりつつある。現代人は国民意識を日常的に持つようになった。嫉妬などの強い感情が沸き起こる範囲は狭いままかもしれないが、国は国民格差をなくす努力をすべき!との思いは共有され、大衆の正当な主張となった。
しかし、有能な人が存分に能力を発揮できる環境を作ることも国の仕事だ。研究開発予算は、効率よく仕事ができる人、忍耐強く努力できる人などに投じたい。外国から富を国内に持ってくる人たちを優遇したい。所得再配分は重要だが、そればかりでは国力が衰退していく。
能力差があることは、庶民もよく分かっていたから、以前はそのような施策に不平を言わなかった。おかげで高度経済成長が実現した。凡人とは、低い能力と少しの努力しかできない人のこと、などと言われても、かつてなら、ほとんどの庶民が受け入れた。
今日、先進国では経済成長力が衰え、福祉の充実が停滞。所得再配分しようにも原資が限られる。にもかかわらず、国民の中には富を増やし続ける人たちがいる。“みんなといっしょ”が崩れていく。
大衆は、移民排斥や貿易戦争が、庶民の生活に悪影響を与えるのを承知で賛成する。その真意は、自らの身を切ってでもエリートたちを引きずり下ろす!にある。自分の経済の一部を犠牲にしてでも混乱を引き起こし、富裕層たちに危機感を覚えさせたい。
庶民は甘やかされることで大衆となった。民主主義の名の下、能力差による経済格差を認めなくなった。少なくとも格差が縮まることが正当な民主主義だと考えるようになる。
エリートたちは、こうした大衆をなだめ、なんとか説得しようとする。しかしその説得が論理的であればあるほど、大衆は心を閉ざす。エリートたちに疑い持つからというより、大衆は論理そのものが嫌いなのだ。
そういえば、「倫理的でないトランプ氏と議論しても勝てっこありません」と嘆息する識者がいたっけ。
エリートたちは大衆の劣等感に鈍感だ。論理が理解できないという不安、みじめさ、あるいは恐怖…。
義務教育で机を並べていた頃、エリートたちは先生に盛んに質問していた。一方、劣等生たちは理解できない自分を恥じ入り、将来に不安を抱く。長じても社会生活に一定の恐怖を感じている。だまされているとの被害妄想にも陥りやすい。そうした不安や恐怖をまぎらわすためにも、“みんなといっしょ”志向に走る必要がある。
多様性なんてのも、大衆にとって価値はない。同類・同質の仲間と共感しあうことが至上の喜びなのである。確かに外国人と仲良くなれる庶民はたくさんいるが、彼らは相手の人間性をしっかり見ている。同類・同質であると見極めた上で受け入れている。
“みんなといっしょ”志向とは、一つにまとまることであり、多様性の否定とも解釈できます。
そうした大衆の心理を理解しているエリートも、中にはいるに違いない。そこに悪意がある事を…。みんなで破滅するならそれでもいいという集団破滅思想を持つことを…。
もっとも、こうした大衆現象は、次の言葉が正しければ、今に始まったことではない。
「近代史が、かつて興味を引かないように見えていた集団による、侮蔑あるいは無視に対する一連の反逆として展開されていることは、ほとんど見紛う余地がなかろう」(ペーター・スローターダイク『大衆の侮蔑』)
|