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前回、他者の判断に身をゆだねることが性に合う人がいることで、世の中は上手く回っている――と書いた。しかし時代は、自分で判断することを求める方向へと着実に進んでいる。
裁判員にならなくてよい。公平な判定を下すのは一つの職能であり、訓練を積んだ職業裁判官に任せた方がよいと思うが、法律の制定や存廃に関する意見は持つ必要がある。立法府の代議員を決める選挙への投票権は、国民に等しく与えられている。政治的判断に関与したり評価を下す見識が求められている。
社会生活も判断の連続である。職業選択の自由はほぼ達成された。経済活動における自由度は増している。起業への道も資金調達の方法も多様になった。
移動の自由も保障されている。地縁に縛られることはない。優れた人材は国籍を問われない。
消費生活は、気ままな選択でおおむねやり過ごせるようになったが、判断力を放棄した人を陥れる罠はむしろ増えた。食品の安全性は高まったが、加工食品の多くは偏食すれば毒になる。「安全」は質を保証しない。質を犠牲した商品開発が盛んに行われている。
日用品は欠陥品が少なくなったが、高性能な商品はときに危険性も高い。扱いを間違えると大きな損害を被ることがある。また、宣伝力が高度化した結果、費用対効果が疑わしい商品が増えている。
スマホは個人情報の固まりである。インターネットはトラブルの元になる。SNSは事件の入り口である。情報管理のための判断力も必須となった。
シェアリング・エコノミーという考え方が浮上し、進展中である。ある人は、“個人が主体の経済社会”と表現する。「だから自分の物差しで、リスクを排除するスキルが必要です」(石山アンジュ)180615
一方、人間の組織は旧態依然のように見える。典型は軍隊で、相変わらず判断を上位の者に預ける世界である。上官の命に服すのが絶対であり、下位の隊員は考えてはいけない。それが組織を維持し、軍事力を効率よく発揮する前提である。
しかし軍事行動においては、個人の責任を問う風潮が高まる。国際法は戦争犯罪を定義し、個人を裁く要件を整える。人道に対する罪を犯せば、たとえ命令に従った結果であっても許されない。つまり、命令に従わないという判断を世界中の隊員に認めているのである。
会社組織においても、上司の命令に従うのが決まりだが、法令に反する指示は拒否すべきであり、法を犯せば個人として裁かれる。また、目的を達する手段や、成果を得る方法が個人の裁量に任される職務が増えつつある。自分で判断することが求められる時代傾向と符合する。
とはいえ我々は、常に孤独な戦いを強いられているわけではない。「自分で判断する」といっても、大方は常識や通説が導いてくれる。先達の教えに従う生き方は今でも有効である。考えるより真似した方が手っ取り早い事案の方が多い。一般人には、自分の価値観が問われたり、信条を明確にするよう迫られる場面は限られる。
過去に参照するものがない新しい問題や、多くの人が判断に迷う事案にしても、助言や説明を試みる人が増えた。玉石混交とはいえ、インターネットのおかげで、そうした情報が手に入りやすくなった。
注意すべきは、最良の判断を見つけたとしても、それは現時点での最良でしかないことだ。今日の最良が明日の最良とは限らない。新たな発明や発見が、最良を一瞬のうちに最悪にすることさえある。大きな天災や事故・事件などで環境が変われば、判断の仕方も変わってくる。
変化の激しさが現代の特徴だ。狩猟採集の時代は長老の意見に従っていれば間違いなかったが、現代はそうはいかない。手本となる意見や見本にすべき人物は、次の瞬間、交代を余儀なくされる。
こんなことを言うと、諦念に陥るかもしれない。判断力を身につける努力をしても無駄、所詮 運任せ、とやる気をなくすかもしれない。あるいは、変化を察知するために神経を常に働かせるなんてうんざり、と思うかもしれない。それをこなすだけの知力も体力もない!というわけだ。
開き直ることもできる。参考になるのが漫画家・今日マチ子氏の次の卓見。
「少女の強さは、周りや社会のことがほとんど見えてないことですよね」(170118)
社会を知る努力を放棄し、時代の変化を察知する労力を省いて、ひたすら目の前の享楽にふける。狭い地域から出ず、仲間内だけで情報を共有し、楽しくやっていればよい、との思想は最強だ。
そんな生活を続けていても生きる糧が得られるのなら、それでもよい。しかしほどんどの人はそんな生活を続けることはできない。環境の変化を見極め、社会と対峙していかなければ生活は成り立たない。
自由とは「自分で判断しろ」ということであり、「自由気まま」には自己責任が付きまとう。「自分勝手」の行く末には大きな代償が待っている。これらはよく言われることだが、同時に世の中に絶対はないとの覚悟を持つ必要がある。この覚悟を持ってこそ、判断力が研ぎ澄まされる。
この判断は絶対だ!と思うことは思考停止に陥ることである。相手によって判断を変え、状況によって判断を変え、環境の変化に合わせて判断を変える…。そのような対処能力を身に着けてこそ、判断力は完成に近づく。そのためには、世が平穏なうちに情報を収集し、他者の意見を参照し、判断材料を増やしておく必要がある。
もっとも、判断力はどんなに頑張っても完成しない。個人では森羅万象を知悉できないように、完全な判断力もない。自分の能力に照らして、どこかで妥協する必要がある。そんな諦念を得ることも判断力のひとつである。
努力の先に諦念がある。諦念によって自己認識の正確さが増す。やがて価値観が定まり、信条が明確になる。そして判断する際の迷いが消えていく。
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