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反論、質問受け付けますが、何せ思いつくままなので

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前回、生きる意欲を取り戻すための方策として、子供を産み育てることを推奨しましたが、現在の子育て環境に不安を感じる人も多いことでしょう。子育ては、本能を躍動させる行為であり、生物としてもっとも重要なことなのに、どうしてそうなってしまったのでしょうね〜

日本の出生率は低く、社会全体として、子育てへの情熱は明らかに減退しています。人間として生まれたからには当然、子を産み育てるもの、という考え方は絶対ではなくなりつつある。特に都市部において顕著です。

養老孟司氏は言います。都市部に住む人々は「感覚入力を一定に限ってしまい、意味しか扱わず、意識の世界に住み着いている」。そのような人間にとって「子供は、経済的でも効率的でも合理的でもないもの、邪魔にさえ映る」。

日本で出生率の低下がはっきりしたのは1970年代であり、都市化の進展と関連付けることは正しい。西欧でも同じような時期に、出生率低下が問題視され始めました。

バリー・コモナーというアメリカの学者は、1971年の著作で、次のように解説しています。
<生活水準が比較的低い場合には、子供達の労働が家族を養うのに欠かせないものであり、子供の労働がふつうに見られた。生活水準が次第に上昇するにしたがって、家族の生活を維持するのに、成人の労働だけで十分になると、義務教育の学校が造られ、もはや必要な経済的資産ではなくなった子供達は経済的負担となった。同時に、社会福祉も改善されてきたので、親達が年を取った時、保険の代わりに子供達に頼るという傾向が少なくなってきた。そういったことの自然の結果として、出生率が低下した」

ひと言でいえば、豊かさが招いた結果。根深い問題なわけです。政府や自治体が子育て環境を良くしようと努力していますが、効果は限定的。改善を果たした国はありますが、かなりの資源を割いている。

近代国家の中で、経済的豊かさを追求しない国はない。個人においても、衣食住を満たすだけでは飽き足らず、さらなる豊かさを求めて経済活動に邁進することになる。幸せとは経済的豊かさのことという思想に染まった人たちにとって、子育て費用は余計な負担であり、養育の時間や労力は経済活動を妨げるものでしかない。

一般の人にとっては思想というより、周りの人より貧しいなんて我慢ならない!といった感じでしょうが…

子育ては精神的にも煩わしいものになっているはず。豊かさの進展とともに自由な時間が増えていく。技術の高度化で家事労働は省かれていく。こうして快適に過すことへの欲求がふくらむ。そんな中、必ずしもコントロールの効かない子供を抱えることは、精神的に大きな負担となる。

今日、母親たちの就労意欲は、生活水準が低かった頃に戻ったかのように高まっているが、理由は異なる。世間並の生活水準を保ちたいからであり、保育園に子育ての一端を担ってもらいたいからだ。思いは、「保育園などの社会資本を拡充してくれるなら、消費税をより多く払ってもいい!」

子供を持たなかった人ならば、「老後を安心して過ごせるよう社会資本を充実してくれるなら、消費税をもっと多く払ってもいい!」となりましょう。経済的豊かさの追求は、カネですべてを解決する思想につながる。

というわけで、よりよい子育て環境を求めるならば、都市部は避けた方がよいということになる。子供を邪魔者扱いにする人々に囲まれての子育ては厳しい。

第一次産業が盛んな地域ならどうでしょう。コモナー氏の言う生活水準の低い時代と似たような待遇を受けられるかもしれません。子供や若者は体力があるというだけで貴重な労働力であり、老後は子供や若者の助けを借りたいという気風が残っている可能性があります。

地域特性はさまざまなので一概には言えませんが、高齢化が進んだ地域であればあるほど、子供は社会資本であるとの観念が強くなることは間違いない。

そういった場所では、他人への干渉という都会にはない煩わしさがありますが、それだけ共同体意識が強いということです。生きる意欲をなくしたような顔をしていれば、きっとおせっかいをやかれる。子育てにも干渉してくる。孤独な時間はあまりありません。

そういえば最近話題のアドラー心理学の惹句に、<あなたが辛いのは「自分のことしか考えていないから」である>というのがあります。詳しい内容は知りませんが、この指摘自体は正確なところを突いています。辛い思いを抱いている人の多くに当てはまる。

思春期に悩みが増えるのは、自意識が過剰になるからです。つまり自分のことで頭の中がいっぱいになる。年を重ねてからの生き辛さも、ほとんどが自己愛の過剰によるものです。そんな人が、他人への過干渉が当然の地域に放り込まれたらどうなるか。きっと別の価値観が芽生える。(都会では干渉するのは親だけ!)

もちろん干渉には、己の優越を確認するためのものもあります。ひやかしや暇つぶしのような干渉も都会では多い。だが、過干渉が当然の地域での他人への干渉は、共同体意識に基づくものです。社会福祉は与えられるものではなく、共同で作るものとの考えに沿う。だから人々は、干渉すると同時に干渉されることを受け入れる。

主体性なんて重要じゃないという価値観でもあります。都市生活で生きる意欲を失う人たちは、そんな価値観の中で生きる方が性に合っている可能性が高い。

まぁ、都会人が考えるほど田舎暮らしは甘くないと言われるように、共同体意識が強く残っている地域は、子育て環境としては良くても、教育を受ける環境としてや、職業生活を営む上では厳しいものがあったりします。都会を離れるかどうかは、それらを踏まえての判断になります。

ただ再度、強調しますが、危機や困難があってこその「生きる意欲」です。危機を乗り越え、困難を克服してこその「生きている実感」です。楽を求め、逃げてばかりの人生では、いずれ意欲を失う。

座間9人殺害事件の容疑者は、殺人者となる2か月前、父親にこうつぶやいたそうだ。
「何のために生きているかわからない」

何があったのか、生い立ちに関係があるのか、精神を患っていたのか、と世間は詮索するだろうが、私には興味がない。この言葉を報じたメディアにしてみれば、生きる意味をなくした先に殺人行為があったと示唆したいのであろうが、事件の本質は“快楽殺人”である。特殊な資質を持つ人間の特殊な犯罪行為である。

ただ、同じような気持ちになる現代人は増えていると思うので、少し考えてみた。

なぜ現代人は漠然とした憂鬱感が襲われることがあるのか。きっかけは様々だろうが、前提にあるのは衣食住の充足です。生き延びるための努力をしている最中に陥る心境でない。

何を当たり前のことを!と言われそうだが、原因は“簡単に生きられる状態”にあると言いたいわけです。こうした心境を呼び起こす土壌は、現代の豊かな生活にあると思うわけです。

人類は今まで、生き延びるために多大な努力を強いられてきた。現生人類が誕生してからでさえ、数万年もの間、<危機回避>や<困難の克服>に多くの時間を費やし、やっと生存を確保できるという状態だった。

旧人類を含めれば、数百万年の間、肉食獣から逃げ、獰猛な爬虫類を避け、害虫から身を守らなければならない生活をしてきた。病を引き起こす毒物や細菌にも囲まれ、危険物を目の前から無くすことはできなかった。さらに食料の確保に多くの労力を費やし、自然現象に翻弄されながら生存の危機と戦ってきた。

今日でも危機や困難は無くなってはいないが、日常的に生命の危機に直面することはなくなった。ともすると、差し迫った危機や困難は消えてしまったとの思いにかられる。そんなとき、精神はエアポケットに入り込んでしまう。あるいは心の小さな傷でさえ、生きる意欲の喪失につながってしまう。

そんな人を見ると「そんなことではいかん!生きる意欲を失っていない人を見習いなさい」と説教したくなるかもしれませんが、通用しません。なぜなら、現代人の意欲のほとんどは、生き延びることとは無関係な競争やゲームに向けられているからです。

「人生、楽しまなくっちゃ」なんてアドヴァイスも無意味です。たしかに現代は、中世までは貴族だけにしか許されなかった放蕩生活を、だれでも求めることができるようになりました。先進国では、短時日なら、ほとんどの人がパラダイスな時間を過ごせます。しかし生きる意味の答えとしては弱い。

別の言い方をすれば、人類の遺伝子の変異は遅く、現代生活に追いついていない。相変わらず<危機回避>と<困難の克服>に多大な時間を費やす日常に即した気質を色濃く残したままである。そのため、現代の緊張感のない生活に倦む人がでてくる。競争社会から退出し、遊戯にも飽きたとき、生きる意味が分からなくなる。

そもそも、生物にとって、生きる意味なんて無いですからね。生き延びる能力があるだけです。生き延びる能力を使う必要のない生活をしているから、生きる意味は?などと無用なことを問うてしまうのである。

一方、座間事件の被害者のつぶやきと言えば「死にたい」であった。これも生きる意欲を失った心境であり、同根の現代病である。簡単に生きられる世の中になったからこそ生まれる意識である。

「死にたい」と言う人に限って死なないという俗説は、精神疾患の専門家に言わせると間違いだそうです。自死する確率は、それ以外の人たちと比べて格段に高まるそうです。

とはいえ今日、「死にたい」は日常会話の一つとしてやり取りされている。特に若者たちの間では、マイナス気分の最上級を表す言葉でしかない。苦しみの最上級だけはない。悲しみの最上級であり、寂しさの最上級であり、惨めさ、情けなさ、恥ずかしさの最上級でもあります。

だから聞かされる方としては、さほど切実さを感じない。なにせ、怒りの最上級が「殺すぞ!」ですからね〜

ただ、マイナス気分である以上、一瞬とはいえ生きる意欲が減退していることは間違いない。「死にたい」気分が頻発したり、長期にわたって持続すれば、本物の「死にたい」になる。

加えて、衣食住が満たされた現代人は、苦痛への耐性がどうしても低くなる。少し寒さや暑さを感じるだけで不快になるし、少し腹が減るだけで不機嫌になる。住環境への要求度も高い。当然、マイナス気分もMAXに振れやすい。若者が繰り返す最上級の表現は、年配者が思うほど極端な誇張ではない。

ではどうすべきか。すぐに生きる意欲をなくす精神の不安定さをどう克服すべきか。
原因から導き出される答えとしては、<危機回避>や<困難の克服>の代用となる行為、つまり生き延びる能力を使っているように思える行為を探すことであろう。

ひとつには、競争やゲームに参加することです。先ほどは無意味だと言いましたが、没入すれば、かなりの充実感が得られます。実際、傍から見れば優越だけが目的の競争であり、暇つぶしのような奪い合いだが、当事者たちは真剣です。ゲームのような権力争いや商取引もマジです。

裏を返せば、生きる意味の代用だからこそ、皆、この手の競争やゲームにしがみつく。一番の落胆は、競争に敗れることではなく、競争社会から退出を迫られることです。

いや、現代でも本能が躍動する場面がありました。出産と子育てです。大人社会で劣等感を抱えた女性でも、世話しなければ死んでしまう幼児を抱えると、途端に元気になります。たくさんの事例があります。

いやいや、もっと直接的な代用は、命の危険を顧みない冒険に挑むことです。<危機回避>や<困難の克服>の連続に自ら飛び込む。正真正銘の生きている実感が味わえます。手始めに冒険家の体験談を読んでみましょう。

今年はLGBTという文字をよく目にした。国際ニュースに関心がある人たちにとっては周知の言葉だったが、今では知らない人がいないくらい浸透した。

性的少数者の存在を認め、対等な関係を築きましょうという運動は、ほぼ成功を収めたのではないか。次なる課題は権利の獲得であるが、西欧を中心に進展中であり、近年、同性婚を認める国が次々に生まれている。

世界のそうした流れを否定するつもりはない。しかし性的少数者の権利拡大には若干の違和感がある。同性愛者の婚姻を認めた先には、きっと別種の性的少数者についても同等の権利を!という風潮になる。

案の定、SOGIという用語が出てきた。Sexual Orientation Gender Identity の頭文字をとってSOGI。性的指向と性自認のことで、LGBTに限らず、すべての性的指向を受容し、差別なく権利を認めて行こうという趣旨らしい。国連などで使われているとのこと。

なんか人種差別や男女差別を無くす運動と似たものになりつつあるが、これらと性的指向への偏見・差別とは質的に違うように思う。性的指向は個人的なものだからだ。集団の属性ではない。

もちろん性的少数者だって集団を形成できる。現に同性愛者の集まる場所があります。だが、性的指向はいくらでも細分化が可能だ。同じゲイでも好きになる男性のタイプは異なる。レズでもタチ役がもっぱらの人もいればネコにもなれる人がいる。ヘテロ(異性愛者)と同様、好みは千差万別。

私はヘテロであり、友人もヘテロばかりだが、中には同性に興味を持っていそうだと思わせる人がいる。カミングアウトしていないだけかもしれないが、結婚している人もいる。思うに、一人の人間の中で、異性愛8割・同性愛2割みたいに異なる性的指向が同居することがあるのではないか。

つまりヘテロかゲイかは実はあいまいで、各自の指向配分はグラデーションのような広がりを持つ。ちょうど半々なのがバイセクシャルと認識されているにすぎない。もちろん人数は均等ではなく、異性愛100%近辺に集中するので、ヘテロ以外は少数派であることに変わりないが…――と解するわけだ。

同様に、性自認もグラデーションかもしれない。男でも女でもない<中性>という感覚の人がいると聞く。女性っぽい男性は、自覚はなくとも女性の要素を2割ぐらい持っているのかもしれない。そういう人は、女性雑誌を読みたくなったり、女性たちの輪に入って会話をしたくなるときがあるのかもしれない。

こうした二つの性的指向を分かちがたく持つ人たちを受容し、権利を認めるとはどういうことなのか。トイレや更衣室は、性別不問の部屋を別に設けるべきなのか。一度目の結婚は異性と、二度目は同性と、といった届出も認めるべきなのか。

そんな配慮が行き届く世の中になっても私は構わないが、人類にとっては、異性愛以外の性的指向は<異質>なものであり続けてくれなくては困る。生殖を行わない人たちが多数派になったら、繫殖力が落ちてしまう。

ほとんどの民族で「ホモは気持ち悪い」という感情が歴史的に共有され、習俗として定着してきたのは、生物としての本能によるものだ。進化論的に言えば、同性愛の方が正しいという文化を持つ集団は淘汰された。

別種の性的指向についても考えてみよう。フェティシズムやSM嗜好などはどうだ。犯罪につながる盗撮癖、露出狂、幼児性愛、レイプ願望なども性的指向と言える。これらも当然、<異質>あるいは<異常>なものとされ続ける必要がある。

性的指向は性欲に直結している。欲望であるからにはエスカレートする。一定の歯止めが必要なのは食欲と同じだ。食欲の無制御が身体に悪影響をもたらすように、性欲の際限のない解放は生物としての退廃につながる。

正常とされる性生活を送っている人でも、実は、<異質>あるいは<異常>なものとされる性的指向を隠し持っている。たとえば“SM”が日常会話にも出てくるくらい一般的概念になったのは、それに類する性癖を多くの人が持つからだろう。他の性的指向についても、嗜好する人はたくさんいるはずだ。

にもかかわらずエスカレートしないのは、文化的抑制によるところが大きい。だれしも<異質>あるいは<異常>と指弾されたくないので、性欲と強く結びつかないよう自己制御している。

異常性愛とLGBTとをいっしょにするな!と怒られそうだが、性の多様性を認めようという運動が、個性を大事にしようという思想に基づくものである以上、すべての性的指向を認知する方向に踏み出さざるを得ない。だから“LGBTからSOGI”なのである。そしてこの流れは、性欲の解放へと連動していく。

性欲に限らず、欲望を解放すると、<異質>から<異常>へと進展し、<狂気>の出現に至る。<異常>な食欲などは今や個性として認められるようになったが、性欲もそうなってよいのだろうか。「許容する相手がいれば、<異常>な性行為も罪とはしない」となってもよいのだろうか。

欲望はまた、感染しやすい。己の性的指向に他者を巻き込むことができる。<異常>な性的指向でさえ、新たな性の喜びであると洗脳することができる。特に、若者や未熟な人間は感化されやすい。

ゲイはかっこいい! レズ行為が流行!みたいな風潮をつくることは可能だ。性転換手術を後悔する人が続出!みたいな現象はあり得ないにしても、性生活の失敗を経験する人が増えることはあり得る。

学校でもLGBTへの偏見を排することを目的とする授業が行われているようだが、性の問題を過剰に意識させることにならないか心配だ。興味の範囲が狭く、思考密度が低い凡人や若者は、少しの刺激で性的な思考が意識を占めがちになる。性に多大なる関心があるとの前提は正確ではない。

なんかLGBTの人たちに恨まれそうなことを書いてしまった。でもLGBTに非凡な才がある人がたくさんいるのは、少数者であることの証だと思います。私もゲイの人たちがつくった楽曲に親しんできました。

日本の元軍人が、先の大戦を回想して曰く。「日本軍の司令官は“突撃!”と後方から命じる。一方、米軍の司令官は“Follow me!”と先頭に立つ」「日本軍は部下を犠牲にして生き残った奴が出世していった。そんな日本がアメリカに勝てるわけがない」。

もちろん誇張ではある。自虐的な笑い話でもあろう。でも真実の一端を示しているように思える。

日本軍にも優秀な司令官がいたから、最初の半年ぐらいは勢力範囲を拡大できたのだろう。しかしアメリカとの物量格差は如何ともし難かった。なにも日本の司令官の保身傾向が敗戦の主因とは言えない。

問題は劣勢に転じて以降だ。範を示すタイプの司令官が真っ先に犠牲となり、部下に命令するだけの司令官が多数派になったことは想像に難くない。だから、物量格差を精神で乗り越えろ!みたいな訓示が横行し、無謀な作戦が次々と下令されるようになった。

「補給はない。武器は大事に使え。食料は現地調達せよ」と言った過酷な進撃命令。おかげで餓死者続出。
防衛戦にしても「援軍は期待するな」であり、それでも「死守せよ」との命令が下される。部隊全滅続出。

一方の米軍にも情けない司令官がいたでしょうが、“生きて虜囚の辱めを受けず”という軍規はないから、部隊が全滅しかねないときは白旗を上げて捕虜になった。米軍の勝利は司令官の勇敢さが原因ではない。

戦術が勝敗を分けたとも言えない。戦争末期の日本軍は戦術を組み立てられないほどの壊滅状態でした。一方の米軍が盛んにおこなった無差別爆撃は戦術の名に値しない残虐さです。日米双方とも、司令官の力量は全く関係ない戦い方となった。

それにしても、白兵戦が主体の戦争じゃあるまいし、精神論だけで勝てるわけがないのに、日本軍の司令官たちは何を考えていたんでしょうかね〜。確かに、勇敢でない軍隊など軍隊とは言えない。日本の司令官が部下に勇敢さを求めたのは間違っていない。

しかし、部隊が全滅しても「最後まで勇敢に戦った」と称賛される軍隊はおかしい。単なる無為無策。戦力に圧倒的な差があれば退却するのが司令官にとっての勇気というもの。高校野球じゃあるまいし、全力疾走!と同じ感覚で戦争をやられては困る。

ある女優が小学生のときの冒険を回想して、「無謀なことにも果敢に挑戦するのが、子供の特徴。危険を察知し、他人の気持ちを斟酌できるようになることが大人の条件」と語っています。(山口果林)

子供みたいな司令官ばかりになってしまったんでしょうね、日本軍は。敗色が濃厚でも果敢に戦うことが軍人としての美学みたいになってしまい、戦いに勝つという使命を忘れる。捲土重来を期す大人になれない。

考えてみれば、夏の甲子園は過酷なスポーツ大会だ。よりによって最も暑い時期に屋外で行われるんですから…。熱中症指数は「過激な運動は厳禁」レベル。そんなの炎天下で、高校球児に全力プレイさせるですから。

とめどなく流れる汗。歯を食いしばる投手。力の限りのスイング。打球に食らいつく野手。懸命に駆ける打者。最後まで諦めない!――そんな姿に大人たちは感動し、暑さを忘れて応援します。

日本の司令官も「進撃は自殺行為」レベルの劣勢化で、果敢にアタックすることを強いた。弾が尽きても諦めてはいけないと命じ、飢餓に耐えることを命じ、敵に背を向けてはいけないと命じた。ついには文字通り決死の作戦を遂行させるに至る。死地に赴く兵士たちを見て司令官たちは感涙……したのでしょうか?

作戦室で命令を発するだけの司令官なんかは、夏の甲子園大会をテレビで観戦する大人たちと同じ心境だったのではないでしょうかね〜。戦時中は冷房の効いた室内で観戦、というわけにはいかなかったでしょうが、過酷なことをやらせているという自覚に欠けるのは同じ。

大人たちにとって高校野球は単なる娯楽でしかない。観客の大人たちには責任は及ばない。司令官の場合は責任が生じるし、日本の行く末を担う覚悟が求められた。しかし戦闘で負けても、部分的な成果を強調して任務を果たしたように装い、次なる作戦を立案・進言してやり過ごした。

狡猾な奴ほど絶対的な権威をまとい、絶対的な命令を発したがる。それでこそ、失敗や敗退は部下などのせいにできる。
このような底の浅い絶対者による指揮・統治は、決して過去のものではない。

東芝の元社長の発言を思い出す。部下が書類を持ってきたら、中身を見ることなく「最初はそのまま突っ返す」。すると「次は必ずよりよいものが出てくる」と嘯(うそぶ)く。

こんなくだらない仕事っぷりを堂々と披瀝できるのだからお目出たい。経営危機に陥る前のインタビュー発言だが、経営が順調であっても滑稽で笑える発言であることに変わりない。やり直す時間を与えれば、当然、中身は洗練される。明らかに、自身の判断力の無さが露わになっている。(そういえば、私の上司にも似たような人がいました。その上司は出世しなかったが…)

その程度の指揮・統治力で、なぜトップにまで上り詰められたのでしょうかね〜。不思議だ。でもこれが日本の組織の特徴かもしれない。「部下を犠牲にして生き残った奴が出世していく」――それは旧日本軍の時代から続く、日本の組織文化なのかもしれない。

部下をこき使うことが上に立つ者の役目と任ずる企業経営者や日本軍司令官たち。リーダー=導く者であるという自覚はない。そんな組織文化を許す先に、炎天下での高校野球大会開催がある。日本軍の戦い方や企業経営が高校野球レベルになってしまうことの説明にもなる。

それはともあれ、花咲徳栄高校、優勝おめでとう! ご苦労様でした。

前回の引用は、いずれも古い本ばかりでした。4年前の小説、5年前のルポ、7年前の評論、8年前の新書…。移り変わりの早い世相を語るには、いささか古すぎたかもしれない。

特にインターネットの世界は様変わりだ。今はブログよりSNSの時代だし、ネット発信の大衆化は格段に進んだ。地味な人たちのサロン化は相変わらずだが、その専有率は低くなった。社交性のある普通の人たちが、明るい画像やユーモアあふれる動画を大量にアップしている。

「神っている」など肯定的な表現もネット言論の定番になり、地味な人たちがつくる罵声と残虐性の世界は影が薄くなった。<炎上>はよくある風景となり、大衆も慣れてきた。

同時に、在特会のようなヘイトスピーチ集団が担ってきた右傾化も、大衆を巻き込んでの世相になりつつある。ヘイトスピーチへの規制が強まり、残虐性は抑え込まれたが、ネガティブ情報がネット上を飛び交い、差別意識はより広まった感がある。インテリや著名人も参入し、差別発言に説得力が加わる。

こうした世相は、広まる前の兆候といった段階で、変化に敏感な人たちが先取りして評論してくれることが多い。誰もが感じる風潮になってしまえば、あえて指摘するまでもない、となる。そういった意味で、古い本の中にある表現や論評の方が参考になりやすい面はあるように思う。

また、地味な人たちがネット上でも影が薄くなりつつあるのだから、もう彼らを攻撃する必要はなかろう、という意見があるかもしれない。しかし、彼らが抱える想像力の欠如という問題が大衆化しつつある、と捉えたらどうなる。それが、右傾化の理由だとしたら見過ごせない。

社会生活を営むためには、自分と異なる性格の他者を理解する必要がある。他者を知ろうとする意欲が芽生えてこそ、想像力という知性が高まる。同質性の中で想像力を使わずに過ごす生活は、怠惰な精神を育むだけだ。保育器のようなSNSの中で安穏に過ごす人たちに未来は無い。そんな国民ばかりの日本に未来は無い。

おっと、日本に未来は無いだなんて私らしくない表現でした。ときに、排外主義や差別意識の拡散を右傾化と見なすのは、右翼=国粋主義のイメージからでしょうね。保守を自認する人たちも日本が大好きですが、中には「罵倒するだけの奴らといっしょにするな!」と思っている人もいるようです(IB議員とか…)。

前回指摘した通り、罵倒の繰り返しは<怒りの娯楽化>に通じます。真面目な言論にはなりません。在特会のある会員は「タブーを突破することで、権威や権力と闘っているのだという思いがあった」と言います。右翼の人たちも同じでしょう。敵を見出し、闘うことを目的とする。武器は拡声器。

怒りたいのなら、昔は左翼、いま右翼――といったところでしょうか。
…今日、言論上の権威はマスメディアが担う。保守政権を批判し、排外主義や差別意識を悪徳として扱うマスメディアは左翼。そんな権威に闘いを挑むために右翼になる――といった感じでしょうか。

ところがどっこい、最大部数を誇る大新聞が<御用新聞>と言われる状況になってしまった。昭和の頃は、右寄りの大衆紙は夕刊Fぐらいでしたが、大手のSK新聞が保守系新聞となり、ついにYU新聞という最大手が保守政権擁護を鮮明にするに至る。

一応、YU新聞も排外主義や差別意識を否定する。中立を装い、政策への批判も怠らない。ただ、保守的な政策に好意的であることは明らかで、右翼的言質の肯定と拡散に貢献している。

こうして右翼的言質は、大衆にも聞き慣れたものになった。もうタブー感はない。そのうち右翼団体の存在感も薄れていくだろう。地味な人たちのネット上での存在感と同じ運命になる。
思うに、YU新聞は自ら右傾化したのではない。おそらく世相に寄り添っての変質である。訊けば、自分たちで考えた末の編集方針だと答えるだろうが、ネット世論や現政権の支持率の高さに影響されている。

新聞社とて商売である。…売り上げを伸ばしたい。それには人気者を取り上げることだ。現首相は人気者である。過半数の国民が現政権を支持している。政権擁護の姿勢は歓迎され、発行部数拡大につながる――といった発想になってもおかしくない。なにせ、人気球団とともに発行部数を伸ばしてきた新聞である。

YU新聞は当然、こうした見方を否定するだろう。だが近年、新聞社の経営は厳しい。発行部数の減少と広告収入の落ち込みが止まらない。大衆に寄り添うことが営利にかなうという意識が強くならざるを得ない。

いずれにせよ、大衆紙としては世相に従うのが使命である。極端な話、間違った戦争であろうがなかろうが、大衆が高揚していれば、政権に誘導されるまでもなく、戦闘を賛美する記事を載せる。そして売り上げが伸びていく。先の大戦での実例である。

しかし現在は、YU新聞が思っているほど右傾化していない。安定感を求めているだけの有権者が政権支持を大きく見せている。「他の政権よりマシ」が支持理由トップであることからも分かる。

ネット世論による錯覚も大きい。積極的に発信する人は注目を浴びたい意識が強い。だからトレンドに迎合し、過激な表現を用いる。話題は怒り合える同士が多い事柄に集中し、いびつなネット世論が形成されていく。そもそも政治的話題を発信する人は多くない。ネット世論は世相を正確に映すものとはなっていない。

AH新聞が慰安婦偽証でバッシングを受けていた頃を思い出す。私の友人も嬉々としてネット言論を語っていた。普段はノンポリで、主体性にも想像力にも欠ける普通の人間だが、権威を冷やかす機会は見逃さない。(実は私も、AH記者の「萎縮するなという声をいただいた」との文章には、「こういう時ぐらい萎縮しろよ」と冷やかしたくなりましたが…)
ともかく、ネット言論なんてものは、ふわふわとした世相なわけです。迎合する新聞社はバカだ。

毎度、最後は厳しい口調になってしまうが、想像力が無い人はやはりバカです。そう指摘する人があまりいないのは、バカのままでいてくれた方が自分に有利だからかもしれませんよ。


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