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反論、質問受け付けますが、何せ思いつくままなので

政治・政策

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「いま、民主主義が経年劣化を起こしています。それに変わるシステムを生み出す力は人類にはもうありません。だからまたファシズムに戻るのではないか」とは、映画監督・白石和彌氏の言。(190412)

悲壮感あふれる断定である。社会制度の高度化という意味では、人類はもう力尽きたということか。大国でファシズムが復活し、再び総力戦が始まれば、今度は核戦争とならざるを得ない。絶滅する民族が出る!

ただ、白石監督は続けて「そんな危機感を描くには、チープさがかえって武器になると考え直しました」と述べるとおり、公開した映画紹介を兼ねての発言だ。意見表明というほどの押し付けはない。
表現者はナイーブであり、世相への見解は極端になりがちだが、言葉どおりの深刻さを持つとは限らない。鋭い感性で時代を体現する役割を担うが、そこに責任感はない。

危機感は正しい。私も共有する。似たような悲観論を書いてきた。だが目的はあくまでも、大衆よ、目を覚ませ!であった。人類は知性の力で生き延びてきたのだから、歴史を振り返り、同じ過ちを繰り返さないという所作が得意なはずだ。学習能力に難がある人も多いが、説得できないはずがない。そんな思いがまだある。

「民主主義が経年劣化」という解釈も少し違うように思う。民主主義が招いた危機であることに違いないが、劣化したというより、民主主義の実効性が高まったことによる危機と私は見る。なぜなら、真の民主主義とは、愚かな大衆が、愚かな自分に耽溺しながら、数の力で突き進む政治のことだからだ。

先の大戦は、専門家集団に国政を任せっきりにすると大変なことになるという教訓を与えた。政治が一般市民の生命と財産に多大な影響を与える以上、大衆の意志や判断を尊重し、十分に政治に反映させるべき、となった。こうして選挙結果に振り回される政治が生まれた。

大衆に振り回される政治とは、むしろ民主主義の深化を表す。<人に任せて文句を言う>の次は、<自分でやってみて失敗する>である。それが順序である。

愚かな大衆という表現を使ったが、大衆は自分を愚かだと思っていない。少なくとも自分の愚かさに満足している。自分たちの意向が反映されてこそ、“大衆の、大衆による、大衆のための政治”が実現すると考える。

良心的なエリートがやる気をなくすかもしれない。システム構築に長じる専門家が職場放棄するかもしれない。それでもよいのだ。気まぐれで、下品で、いいかげんな人物がリーダーになってもよいのだ。トランプ大統領は自分たちに似ているから支持するのだ!

こうして、権力を欲するのは低俗な人物だけになる。大衆を扇動し、洗脳し、破滅に誘うことが好きな人間しかリーダーを目指さない時代になる。でもそれは大衆の求めでもある。迷いが消え、感情が躍動し、集団心理が満たされるならば、結果なんて気にしない。

トランプ現象にからめて何度か、大衆よ、その選択は自分で自分の首を絞めることになるぞ!と指摘してきました。欧米で広がる反移民運動も、トランプ流孤立主義も、それを支持する大衆のためにならない、デメリットの方が大きいと力説してきました。だが、今となっては恥ずかしい。

それらは力説するまでもないことだった。たとえば、ブレクジットについて、学者はあっさりと断定する。
「悲劇的なことに、EU離脱によって大きな損害をこうむるのは、怒りの声を上げて離脱を求めた低所得者層である」(190418慶応大教授・細谷雄一)

そして、大衆はデメリットを受容する覚悟ができていた。その意味でも、力説は空回りだった。
たとえば、オックスフォード大学教授のジェフリー・エバンズ氏によると、離脱すれば経済的な損失で生活に影響すると伝えたとき、離脱派の返答は「それでもやるに値する」だったという。(190403)

トランプ大統領を支持する農業従事者たちも同様だ。トランプ政策で収益が落ちることになっても支持を続ける、耐えて見せる、などと言う。

“反移民”の本質は、少数者擁護への反発ということも大衆の証言から見えてきた。アメリカで草の根取材を続ける記者によれば、トランプ支持者には次のように映っている。…移民など少数者が、順番待ちの列に突然現れ、自国の経済弱者を差し置いて前列に組み込まれていく!
そういえば、日本にも「在日特権を許さない市民の会」というヘイトスピーチ集団がありました。

少数者擁護は国際世論の主流だ。しかし大衆にとっては、<少数者厚遇=多数派冷遇>である。その種の政策の推進は、多数派に属することを良しとする大衆の価値観の否定につながる。本能への侮辱でさえある。

多数派志向は、大衆にとって生き延びるための手段である。本能に近い。ただ、快楽原則に則るとは単純に言えないのが多数派志向である。多数派に属することで我が身は守られるが、個人の欲求より集団の目的を優先しなくてはならない。ときに我慢を強いられる。つねに大勢に順応するための気働きが求められる。

そんな努力を重ねることで多数派の一員でいられる。それなのに、同じ努力をしない異質な少数者が守られ優遇される。多数派にとって効率の良い社会、仕組み、習慣を変えていく…などというスローガンさえ掲げられる。冗談じゃない! なんで多数派有利を変えなければならないのだ!

正統派を気取るマスメディアは、少数者擁護を共有すべき思想のように扱う。だが大衆にとって正統派メディアの姿は、きれいに着飾った人形にしか見えない。その思想は、仲間を大事にする心への挑戦にさえ見える。

考えてみれば、頭のいい人たちというのは少数派だ。エリートも専門家も少数だからこそ、そう呼ばれる。そういった意味では、大衆は恐れない。民主主義の実効性が高まれば、勝つのは大衆の方である。

昨今の動向は、大衆の増長ではある。しかし見方を変えれば、自分たちの価値観を守る運動とも取れる。

なにが「後出しジャンケン」だよ。
「ふるさと納税制度」の改正を受け、大阪府泉佐野市が今月8日に開いた会見での発言である。過度の返礼品競争を防ぐための法改正である。3月27日に国会で成立していた。

泉佐野市の副市長は「法施行前の取り組みを踏まえた遡及的、恣意的な判断などという“後出しジャンケン”のようなルール制定は、法治国家がとるべき手法とは思われません。総務省がこの権力の濫用に踏み切らないことを、本市としては切に願うばかりです」と訴える。

総務省は昨年来、返礼品を寄付額の3割相当以下にすることや、地場産品に限定するよう地方自治体に通達していた。泉佐野市はこれに逆らい、3割を大幅に超える豪華な返礼品を寄付者に提供。しかも返礼品目には全国各地の特産品をそろえるほか、キャンペーンと称してアマゾンのギフト券を加えるという逸脱ぶり。

ギフト券は金券だ。寄付額から控除されるのはたったの2000円。つまり高額寄付者は、寄付額の半額近いキャッシュをご褒美としてもらえるというわけだ。
いや違う。寄付ではなく露骨な利得目当てにさせている。つまり納税者は、納税先を泉佐野市に変えるだけで、高額のキャッシュが手に入る!

おかげで泉佐野市は多額の寄付を得てきた。2017年度も他の自治体と比べて突出していたが、2018年度はさらに増え、497億円に達する見通しとのこと。(190415)
市の一般会計予算規模は560億円程度というから、大きな収入だ。財政が潤うどころの騒ぎではない。

総務省の通達はあくまでも行政としての指針提示であり、法律のような強制力はない――というのが泉佐野市の言い分だ。何を言っているんだか。法律に違反しなければ何をやってもいいとでもいうのか。まるで脱法行為で節税にはげむ資産家の言い分みたいじゃないか。

同じ考え方から、他にも通達を守らない自治体がある。それに業を煮やした総務省が今回の法改正に動いた。

泉佐野市はきっと、マスコミが騒ぎ、他の自治体も呼応し、法改正阻止の運動が全国的に広がるとでも思って会見を開いたのだろう。世論は自分たちに味方すると市の幹部会で結論したのだろう。キャッシュバックキャンペーンの次は、政府への糾弾キャンペーンだ!と一致したのだろう。

でもどうでしょう。意図通りになるでしょうか。他の自治体の市民に使われるはずだった税金を横取りしていることに、なんら痛痒を感じない厚顔をさらしただけではないでしょうか。もっと言えば、市民税をタダにしたってやっていけま〜す、交付税がなくたって平気で〜すぐらいの寄付を集めたことが知れ渡っただけ。

ふるさと納税という名称は、あたかも、自己財源に乏しい地方自治体に、都市部の住民が自発的に税金の一部を移転するというイメージを与えるが、実態は違う。地方の貧しい自治体でも流出が上回る例がでている。一方で、泉佐野市のように過激な強奪ができてしまう。そんな法律だ。

今回の改正は、法律の欠陥を修正するためのものだ。泉佐野市にとっては寄付額が減るだけでなく、交付税の減額を招く。だから反対なのは分かるが、「権力の濫用」と非難されるほどの悪を政府が為したとは言えない。

考えてみて欲しい。流出超過の自治体はどうするか。泉佐野市のマネをするしかないではないか。“目には目を”だ。あっちの返礼が3割なら、こっちは4割。4割が当たり前になれば5割にする。そんな薄利多売の過当競争みたいになる。しかも、得するのは高額納税者だけ。金持ちの節税対策として使われるだけだ。

すでに返礼品一覧は、高額納税者にとって“ギフトカタログ”になっている。コンサルタント役の業者が暗躍し、品目選定やウェッブ出稿、ネット広告の手助けをしている。優雅な返礼品ライフを送る人たちがいる。

自分さえ良ければ…と考える人は、社会に対する責任感に欠ける。他の人たちも自分と同じことをするようになったら、世の中どうなるのかという想像が働かない。

私が若い頃に教わった人間性の判定方法に、「あなたと同質の人間が世の中で増えることを望むか?」と質問をする、というのがあった。
この質問に「みんなが私みたいであって欲しい」と答える人間はたいてい友達が少なかった。人間性に偏りがあるからではなく、自分と異なる資質や性格に関心がないからである。自分が理解できない人間など認めないぐらいの独善性を備えている可能性がある。

それにしても、ふるさと納税制度はだれが発案して、だれが画策して、だれが制度設計したのでしょうね〜。想像するに、地方創生の後押しになるとかなんとか言いながら、素人考えで出発し、責任感の乏しい代議士を巻き込み、言いなりの官僚が結果も考えず細部にも気を配らす適当に作り上げたんでしょうね。

安倍政権が制定した法律には、そんな杜撰なものが目白押しだ。ふるさと納税制度は、法律の欠陥が発覚した一例に過ぎない。

いまさら3割&地場産品という制限を設けたって、ふるさと納税の名にふさわしい制度になるわけではない。貧しい自治体を助ける制度ではなく、納税者の恣意的な判断で、特定の自治体に税金が移動するだけである。しかも相変わらず、高額納税者の節税手段のまま。少額納税者=貧乏人にメリットはない。

そんな実態が明らかになったのだから、廃止しろという声が大きくなりそうなものだが、朝日新聞の世論調査(4月13日〜14日)によれば、「やめる方がよい」はたったの20%。「利用したことがある」人が12%しかいないのに、「続ける方がよい」が62%とはどういうこっちゃ!

ふるさと納税という名称に惑わされている国民よ、早く目覚めて欲しい。泉佐野市の横暴ぶりがその端緒になることを願う。

先日、日銀が物価見通しを引き下げたが、ほとんど話題にならない。すでに2%達成が難しいことを認めており、その上での微調整でしかないからだ。日銀が10月31日に示した数値は、2018年度が0.9%(前回1.1%)、19年度は1.4%(同1.5%)、20年度が1.5%(同1.6%)。

日銀は2013年以降、異次元緩和と称する金融政策を掲げて2%の物価上昇を目指したが、思い通りにはいかず、1%前後が続く。日銀の物価見通しは、もうだれも信じない希望的数値になっている。

ところで1%の物価上昇ってなんなんでしょうね。庶民の一人としては実感が湧きません。個人の消費生活において1%なんて誤差の範囲内でしかない。黒田氏が日銀総裁になって以来、判で押したように毎年1%前後なのもよく分からない。学者なら、統計数値は母数が多くなるほど誤差が小さくなるとでも言うでしょうがね。

日本の場合、内需要因で物価が上昇することはもうないのではないか。物価は需要が高まってこそ上昇する。日本は少子高齢化が進む。人口が減れば、消費財の需要は減る。高齢化が進めば世帯平均の消費額は減る。少子化によって、子育て費用も減っていく。

今の高齢者は元気だから、昔と比べれば観光や娯楽への支出は増えているのだろう。健康食品などシニア向け商品も盛んに宣伝されている。だが、収入が限られる高齢者に需要拡大の役割は担えない。

高齢化によって需要が高まる消費財はある。医薬品や介護機器などの需要が拡大する。ただ、医療や介護費用の大半は保険制度で賄われている。つまり、現役世代の可処分所得を減らすことで成り立つ需要である。

しかも高齢者の多くは年金収入に頼る。つまり、収入の大半も現役世代からの贈り物ということになる。一方、高齢者に医療や介護サービスを提供するのは現役世代。高齢者が購入する消費財を製造・販売するのも現役世代。ということは…。高齢者と現役世代との間で資金が循環している構図が目に浮かぶ。

現実の高齢者経済はこれほど単純ではないが、高齢者が国内需要に貢献する度合いはやはり低い。

2%の物価上昇を目指すのはなぜか。それは、経済が順調に発展している指標のようなものだからだ。経済学者たちが導き出した結論のようで、先進国の多くが2%に固執する。2%を上回れば景気が過熱、下回れば景気が低迷と判断される。

でも本当だろうか。過去の経済統計から導き出された単なる相関関係でしかないのでは? 本来の順序は逆で、景気を上向かせる要因が先にあり、それにともなって物価が上昇していく。そう見るのが正しいのでは?

先進国の経済成長率も近年は1〜2%で推移する。経済成長率が上向く要因は物価押し上げ要因よりも多岐にわたるが、両者が連動することからも分かるように、需要拡大が経済成長の強力な要因となる。

日本の経済成長率は、2016年が1.0%、2017年が1.7%。IMFの7月時点での見通しでは、2018年は1.1%、2019年は0.9%。物価上昇率と似た数値が並ぶ。これに対し日本政府は、生産性を飛躍的に向上させればさらに高い経済成長率が見込めるとする。

確かに、生産性が上がれば人口が減っても経済は成長する。ただ、生産性の上昇は供給力の増加を意味する。増加した供給を受け止める需要がなければ無駄になる。経済成長に結びつかない。輸出を増やすか、外国人観光客に消費してもらうしかない。

外国人観光客は増加している。いや急増している。観光庁の訪日外国人消費動向調査によれば、訪日外国人旅行者数は2011年に622万人だったのが、13年に1千万人を突破。15年は1,974万人、17年は2,869万人。旅行消費額は2011年の8,135億円から17年には4兆4,162億円と5倍以上になった。

日本の国内総生産は500兆円規模だから、4兆円と言えば0.8%に相当する。一年で1兆円増加すれば、経済成長率を0.2%押し上げる。1%程度しか成長しない日本経済への貢献度は大きい。

ただ、1%程度の消費増なら、日本の富裕層だって貢献できるだろう。ここ数年、株価は上がり、大企業はベアを積み上げた。大半の日本人は恩恵を受けていないが、収入が大幅に増えた富裕層はたくさんいる。もし上位10%の日本人が、消費額を10%増やせば、国民全体の消費総額は1%増加する。簡単だ。

「ふるさと納税」は節税対策に利用されているだけとの非難があるが、この制度なんかも、高額所得者に節税という喜びを与えて、気前よく消費してもらうことが目的なのかもしれない。貧しい人の収入を増やすよりも、消費慣れした富裕層の収入を増やす方が効果が高いとでも思っているのだろう。

まぁ仕方のないことだ。前にも書いたが、一般的な人は衣食住が足りれば消費意欲は落ちる。先進国で衣食住に窮する人はとても少ない。否応なく消費が増える子育てをする人も減っている。となれば、内需拡大は難しい。

人類の欲望はほぼ満たされたという見方もできる。飢えは無くなり、死の危険を遠ざけることができた。さらなる豊さ、老いや死を遠ざける努力もなされているが、総体としては、人類の意欲は減少傾向だろう。

高齢化による意欲の減退も大きい。好奇心が衰える高齢者が増え、新しいモノを欲しがる若者が減っている。しかも若者の収入は少ない。次々に新製品が出る時代になったが、手に入れたければ他の消費を減らすしかない。

これらは先進国全般の傾向だろう。だから物価上昇率も経済成長率も低迷する。人口が増加している国だけが2%以上の成長率を達成できるだけのこと。人口が増えない先進国は、デフレに陥らないよう無理やり消費を増やし、経済規模が縮小しないよう奇策を弄している状態なのだ。

この状態を全面的に悪いとは言わない。だが“無理やり”が続けば、必ず歪(ひず)みが蓄積される。いずれ揺れ戻しが来る。大きな反発力が我々を襲う。

麻生副総理の「新聞を読まない人は全部、自民なんだ」発言には笑った。産経のように安倍政権擁護を鮮明にする大衆紙もあるから、この場合の「新聞」とは朝日新聞や毎日新聞などを指すのだろう。

一応、根拠はある。若い世代ほど自民党支持率が高い。若い世代は「一番新聞を読まない」。そんな傾向を基に、新聞を読まない人は自民党支持だと極論することになる。

6月に行われた講演会での発言であり、内輪話みたいなもの。とはいえ、「新聞を読まない人」という大雑把な括り方はほんとに子供っぽい。己の幼稚性を認識できない人間を国政のナンバー2に頂くことのあわれ…。これはもう笑うしかないではないか。

朝日新聞の世論調査(7月14〜15日実施)によれば、「一番参考にするメディア」として18〜29歳が選んだのは、「ネット」38%、「テレビ」35%、「SNS」16%、「新聞」8%。30代は「ネット」53%、「テレビ」28%、「新聞」12%、「SNS」7%の順だった。

そして「SNS」を選んだ層の内閣支持率は48%、「ネット」層は42%、「テレビ」層は38%、「新聞」層は32%。情報源として新聞に頼らない人たちの内閣支持率は高い。しかし自民支持率とは連動しない。「SNS」層の自民支持率は34%、「ネット」層は37%、「テレビ」層は34%、「新聞」層は32%。

「全部」みたいな稚拙な表現は麻生副総理の得意とするところ。物事を単純化して投げつける悪罵は、子供同士の喧嘩ではよくあるが、要職を務めてきた政治家にしてはレベルが低すぎる。元首相だぞ。要するに日本の政治のレベルは低いということか。

それとも、「私は自分に味方してくれる仲間に囲まれているひとときが大好きです」という構えの安倍総理を頂く政治状況が、レベルダウンにつながっているのか。

まぁ仕方ない。その手の批判は何度も書いてきた。矛先を変えよう。なんで若者は自民支持なのだ!

昨年の衆院選での出口調査で、自民党支持率が比較的低かったのが60代。新聞の主な購読者は60歳以上と言われている。「新聞」と自民党支持率には、麻生副総理が指摘する通り、負の相関関係があるようだ。

だがあくまでも相関関係だ。新聞の論調に影響されて反自民になるとの見方は単純すぎる。テレビだって政権批判が盛んだから、「マスコミ」と言い換えてもよい。マスコミの与える影響が大きいとすれば、若年世代だって反自民が優勢でなくてはおかしい。

政治状況を判断する能力は、高齢者に一日の長があると解釈することができるのではないか。あくまで平均すればの話だが、高齢者の方が、政策を評価する能力も、政党を比較する能力も、政治家を見極める能力も、おしなべて高いと考えてもよいのではないか。

そうであるならば、現在、判断力の高い人たちは自民党支持率が低いと捉えることが可能だ。

自民党は、経験が浅く判断力の劣った若年世代からの支持が多いことを喜んでいるわけだ。若者は、就職率が向上した現象だけをとらえて自民党政権を支持している、と見る識者もいる。

この「高齢者は経験にもとづいて的確な判断ができ、若年世代は目先の現象だけで政治を判断しがち」という見方も単純すぎる。それは認める。実際には、各世代の政治判断には一種の“クセ”があると私は思っている。

それでもなお、経験の差は大きい。経験を重ねてこそ、噓やはったりを見抜く能力が高まる。政治家の性格を見極め、将来の政治行動を読む力も向上する。特定の政治問題について、重大なことなのか、大げさに騒ぎ立てているだけなのかも分かるようになっていく。

愚かな高齢者も多いが、少なくとも新聞に論評を書き、テレビに解説者として登場する年配者たちは、考察を重ねてきた人たちだ。平均以上の判断力を身に着けていると考えてよい。

もちろん、その論を鵜吞みにする必要はない。メディアには刺激的な論で注目を集めようとする“クセ”がある。著名な論者といえども感情が先立つことがある。ときに詭弁を弄する。理屈をこねくり回すだけで何も言っていないに等しいこともよくある。

新聞には編集方針という“クセ”がある。反面、編集を経ていることは信頼の証になる。個人の独断は排除され、間違いは訂正されやすい。組織的に自省し、歴代の編集者たちの教訓が受け継がれていく。

麻生流の「全部」みたいな発言は、活字になる前に必ず訂正される。マスコミは表現に慎重であり、「完全」や「絶対」なんて言葉は極力使わない。そうでなければマス(=大衆)の審判にかなわない。

経験も実績もない若者が、マスコミを軽んじるなんて尊大だ。会社で先輩をバカにするのと同じだ。若い営業マンは先輩のやり方をまねる。若い技術者は先輩に教えを乞う。若い研究者は先人の論文をひもとく。そうやって一人前になっていく。それと同じことだ。

最新情報を知らない年配者は時代遅れのように見えるかもしれない。しかし職場では、最新情報を知っているだけでは仕事にならない。情報量を誇る人間はたいてい仕事ができない。偉そうなだけで、組織に貢献しない。
情報が氾濫する現代だからこそ、情報の質を見極める能力が求められる。取捨選択しなければ溺れてしまう。

だから若者よ、新聞ぐらい読め。確立した権威に耳を傾けろ。記事内容を理解できない自分を恥じろ。社会の見方を学べ。判断基準を盗め。自分なりの判断力を身に着けるのはそれからだよ。さもないと、誰かさんみたいに愚かで幼稚な高齢者になっちゃうよ。

「加計学園理事長とお会いしたことはありません」。またか。まだ続くのか。安倍政権よ、もう飽きたよ〜

記憶にありません。
記憶はあるが、記録はありません。
記録はあるが、記載はありません。
記載はあるが、記憶にありません――こんなループが繰り返されている。

都合の悪いことが発覚しても、このループに落とし込めば切り抜けられる! 敵が突きつけてくるのは状況証拠ばかりだ。強気を貫けば、そのうちうやむやになる。自分に都合の良い記憶に限って断定しておけばよい!

…そんな対処法が確立した感がある。幼稚な対処法だが、我が国では子供っぽさ=減点とはならない。支持率が高かった昨年、「愛嬌が人の武器になるのも日本独特のもの」(最首悟)と論評する人がいました。愛嬌が武器になるのは万国共通だから、正確には「愛嬌がリーダーの武器になるのは日本独特」とすべきでしょうが…

さすが<カワイイ>文化が花開いた国だけのことはある。「ウソばかりついているとママに言いつけますよ!」「反省しないとママに怒られちゃいますよ!」なんて𠮟ってみたくなる人はカワイイ!

太田理財局長が「国会審議を冒瀆したという批判を浴びても、何も言い逃れできない」と潔く陳謝している傍らで、自分に責任はないとばかりに厚顔でいられるのも、子供じみた自己正当化に逃げ込むのが得意だからだ。

規範意識の低い人は、実は、誤魔化しているとか、噓をついているという認識を持たない。会ったうちに入らないという気分さえあれば「お会いしたことはない」と口にできる。話をしたうちに入らないと自分に言い聞かせるだけで「話をしたことはない」と変換できる。そこに罪悪感はない。

振り返れば、規範意識の低いリーダーは、短期間しか活躍できなかった。田中角栄なんかもそうでした。大企業の経営者も不正がバレて短期で退役する。彼らのユニークな活躍はときに有益だが、いずれは、規範を守ろうとする勢力につぶされる運命にあった。

しかし、世の中は変わってしまったようだ。他の先進国でも、規範なんかに目もくれず、権勢をふるうことに専念するタイプのリーダーが台頭しつつある。フェイクニュースに熱狂する大衆の支持を得ながら…

ただ、この自己正当化に溺れやすい性格は、大きな弱点を抱える。子供は他者に嫌われると、とても傷つく。

田中角栄は札束をばらまいて権力を手にした。みんなに好かれたいから金を配ったのであり、味方を増やすことで地位の確保と安定を図った。だから、同族議員に裏切られたときのショックは大きかった。晩年、精神に変調をきたしたのは、このショックが大きく影響したと私は推量する。

安倍首相も支持率に敏感だ。支持率を上げるためなら、消費税増税の約束を反故にしても平気だ。つまり、みんなに好かれるためならば、自分の信用が落ちたってかまわないのである。

解散総選挙に打って出るタイミングも、似たような心理が作用する。野党からの攻めがきつくなったり、メディアや専門家からの批判が高まったとき、それらを打ち消す方法として真っ先に思いつくのが、選挙に勝って自分には味方が多いとアピールすることである。

本来なら、反撃し、反論を尽くした後に「国民に信を問う」ということになるが、愛嬌で生き延びてきた人は反撃や反論があまり得意ではない。攻撃されれば𠮟られた子供のように感情を乱し、言い訳も稚拙な言葉の繰り返しになりがち。いきおい味方の数で勝負!という心理になる。

そして、味方を執拗に求めるリーダーだからこそ、<忖度文化>が育まれていく。

このようなリーダーが側近を選ぶ基準は、自動的に「自分を好いてくれる人かどうか」になる。業務遂行の能力は二の次、ましてや有意義な“戒め”を与えてくれる人では決してない。自分の意を先回りして体現してくれる人は、さらに好ましい。味方であることの最高の表現だからだ。

もっとも、官吏にとって、忖度は有能さの証である。民間企業においても上役の意をくむことが部下としての務めであり、出世のキモである。閣僚の意向を無視して官吏は務まらない。指示待ち社員じゃあるまいし、命令されるまで動かないようでは単なる下僕である。

しかし、忖度だけに注力するとなると別の問題が発生する。リーダーにのみ奉仕する者となり、意志を持たない忠犬に堕する。受け持つ業務の目的を忘れ、責任感は消える。

忖度が習慣化すると、リーダーからも責任感が消えていく。直接指示しなくても自分の意向が実現していくのだから、いちいち責任を意識する必要がない。単なる“責任ある立場”という気分に後退していく。

この“相互に無責任”という体制も「日本独特のもの」ではなかろうか。
先の大戦時も、高級官僚たちは無責任だったようだし、敗戦時には、権力者たちの責任逃れを主な目的として、公文書が徹底的に焼却処分された。

エリート官僚も、政治家も、本来は誤りたくないし、謝りたくもない。そのための究極の方法は、官僚たちにとっては“判断しない”ことであり、政治家たちにとっては“指示しない”ことである。そんな両者にとって<忖度文化>はまことに都合がよい。

そして事件は起こる。実行者はプレッシャーの中でやらざるを得なかったと言い、リーダーは指示していないと言い張る。だれも責任を取らぬまま時は過ぎていく。戦後が終われば、すぐに戦前が始まる。


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