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反論、質問受け付けますが、何せ思いつくままなので

政治・政策

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悪用する経営者もいるだろうが、有益さの方が勝る――と反論されたら?

担当大臣も「悪用は厳格に取り締まります」と答弁するでしょうね。実際、裁量労働制の適用拡大にあたって、この論法を使いました。しかしながら、法の起案者が思い描く有益さは、日本では実現しそうにない。

派遣法もそうだったが、雇用に関する新たな規制緩和策には、必ず欧米での先行例がある。高度プロフェッショナル制度も、欧米流のプロジェクト方式を可能にする雇用管理方法のつもりだろう。

とりわけ、IT関連分野で有力なベンチャー企業を多く輩出しているアメリカの雇用形態を意識していると思われる。異なる分野の実力者たちが特定のプロジェクトのために参集する――そんな柔軟な雇用を可能にしてこそ、ソフト優先となった産業社会での成功を企業に約束する、というわけだ。

「第二のグーグルを生み出す雇用環境を、日本にも作りたい」――法制定を画策した経営者サイドは、そんなプレゼンテーションを展開して官僚を焚きつけ、政治家を説得したに違いない。為政者たちは、欧米の有力企業に伍する日本企業を育成するというイメージに弱いですからね。

そんな動機が潜んでいるので、労働強化につながる法案だと非難されても政府はひるまず、法制化を試みる。

欧米流の実力社会を導入するという考え方は昔からありました。知的労働は切磋琢磨があってこそ、生産性が上がり、大きな成果が生まれる。少なくとも知的エリートは、試練を与えるぐらいのことをしないと真の実力を発揮しない――と言われればその通りでしょう。

制度的には、実力社会実現の下地はすでに整っている。裁量労働制を活用すればプロジェクト方式の業務遂行は可能だし、派遣法が実力者の独立志向を後押しする。派遣業者の本来の役割は、専門家集団の離合集散を支えることである。

ところが日本では、裁量労働制も派遣法も、その本来の役割が機能しているとは言えない。プロジェクトを渡り歩く専門家は、依然、例外的な存在のままである。原因は経営側にあるのだが、そうとは判断せず、雇用管理の柔軟さをさらに高める制度が提案される。それが今回の「高度プロフェッショナル制度」である。

でも結果は同じだ。欧米流のプロジェクト方式は広がらないだろう。経営側が成果主義の強化という目的でしか使わないからだ。多様な人材を融合させるという意識が希薄な経営者ばかりだからだ。

日本の企業のほとんどは、実力者を厚遇することよりも、仲間意識に支えられたチームワークを重視する。雇用管理といえば、同じ価値観を持つ仲間になるように仕向けるだけでよかった。多数派に迎合できる人間だけを迎い入れ、少数派は変人扱いにして排除すればよかった。

経営方針も単純だった。「同業者に負けるな」だけでよかった。そんな業種が大半だった。経営者は業績向上に情熱を燃やし、従業員を情愛で包みこみ、先頭に立って奮闘していればよかった。

しかし経済のグローバル化が進み、似た能力を持つ集団によるチームワークだけでは立ち行かなくなる。複雑で高度な課題に取り組むためには、多彩な人材を融合させる必要が生まれる。前提となるのが、各人各様の実力を存分に発揮してもらうことだ。発想力に優れた変人も活用したい。協調性なんかなくてもよい。

かように、雇用管理の巧拙が業績にダイレクトに反映する時代が到来した。にもかかわらず、日本の経営者たちは雇用管理なんかに頭を悩ましたくないと思っている。そこで制度に頼ることになる。政府に労働規制を緩和してもらおうとする。苦手な雇用管理から逃れるためである。

日本的経営の職場では、優れた能力を持つ者が存分に実力を発揮すれば、浮いた存在になることは必定。これを解決する策の一つが裁量労働制である。経営者は、自由裁量を与えるという名目で雇用管理の面倒から逃れ、実力者を浮いた存在のまま会社に貢献させることができる。

異質な能力を備えた人材も同様に扱いにくい。日本的職場では決して仲間として受け入れてもらえない。しかし、派遣社員としてなら受け入れることができる。仲間意識を持つ必要がないからだ。

いずれも、突出した存在を別の雇用形態の中に隔離するイメージだ。だから派遣社員などは、人間扱いされないといった問題が起きる。高度プロフェッショナル制度の活用でも、似たような問題が発生するだろう。

ところで過労死という現象は、他の先進国でもあるのだろうか。無いとは言えないだろうが、雇用管理の問題とはなっていないように見える。“カロウシ”は世界に通じる日本語の一つだ。

そこで思い出すのが「急ぎの仕事は忙しい奴に頼め」という原則だ。…有能だから多くの仕事を抱えている、それゆえ頼まれた仕事を後回しにしている余裕はない、だからすぐに片づけてくれる、というわけだ。これも日本独特の原則ではなかろうか。

仲間意識を大事にする職場では、業務上の所掌はあいまいになりがちだ。助け合いが重視されるからだ。それに乗じて有能な人間に仕事を押し付ける風潮も育っていく。そんな雇用環境が、「急ぎの仕事は忙しい奴に頼め」という原則を広め、過労死を生んでいるような気がしてならない。

雇用に関する規制緩和が危険なのは、日本の職場には有能な人間に仕事を押し付ける風潮かあるから、という理由も付け足したい。しかも経営者が率先してやるから始末に悪い。

為政者たちもそろそろ気づくべきだ。労働規制を緩和しても、新しい産業社会での成功を企業に約束するという有益さにつながらないことを…。それよりも経営者に意識改革を促した方が有益であることを。

Q.在宅勤務、スマホで報告、AI導入…といった労働環境の変化をどうお思いでしょうか? また、高度で複雑化した知的労働は、チームで取り組むのが通例。安易に独立というわけにはいかないのでは?

ITやモバイル端末の発達のおかげで、場所を限定せずとも行える仕事は増えているんでしょうね。同時に労働者の管理も容易になったから、経営者は在宅勤務や直行直帰を許す。つまり業務によっては、裁量労働制や成果による管理を採用する必要性がなくなる、という側面もありそうです。

問題は、労働時間の長さがそのまま成果に結びつく業務が、機械化・自動化によって減っていることだと思います。ブルーカラーの重労働を軽減してきたこの流れはホワイトカラーにも及び、労働者は単純な作業から解放されたが、見方を変えれば、パターン化された業務から労働者が排除されつつある、と言えそうです。

AIの発達も労働者にとっては恐ろしい。たとえば電話オペレーターの仕事は、自動音声の活用によって減ったが、音声認識システムの発達でさらに縮小されつつある。簡単な質問にはAIに答えさせれば済む。

労働者に残されているのは、研究開発や企画立案などのクリエイティブな業務だけかもしれない。接客サービスでさえロボットに任せる試みが進行中だ。

労働時間と成果が比例する仕事の労働需要は減っている。そういった意味での労働環境の変化は認めます。経営者にしてみれば、現在の労働基準法は工場労働者を想定した規定ばかりだ。すべての社員を裁量労働制や成果による管理の適用対象にしたい、との思いを抱く経営者もいることでしょう。

高度プロフェッショナル制度は時代の要請である!との認識を経営者たちは共有し、国家経営を担っているつもりの為政者たちも、国民がクリエイティブな業務で活躍してくれなければ国家の発展はないと確信している。

これらの考えは、否定しがたい。国際競争の波にさらされる業種は増える一方だ。労働者の多くも共鳴する認識であろう。
にもかかわらず、裁量労働制や成果による管理の積極活用が腑に落ちないのは、能力の低い使用者が好んで採用する管理方法にしか見えないからだ。

成果に応じて報酬を与えることは正しいが、報酬の論拠が成果だけという管理なんてだれにでもできる。それこそ計算能力を備えたロボットに任せればよい。「あいつは期待外れだった」「こいつは期待以上だった」というやり取りだけの評価会議ほどくだらないものはない。

もちろん経営者には、企業の進む方向を決めるという重大な任務がある。経営手腕に対する評価の大方は、この任務の能力によって定まる。ただ、大半の経営者はボトムアップによる提案を裁可するだけの存在である。あるいは情報誌や経営コンサルタントの助言に頼るだけで、戦略的思考は持ち合わせていない。

二流の経営者が最も好きな仕事は、人事であり雇用管理である。そのような経営者に限って、人材不足を嘆き、管理強化にやっきとなる。部下の能力不足ばかりに目が行き、自分の能力不足を省みない。

そんな経営者に「高度プロフェッショナル制度」を与えても、「放し飼いにしつつ搾取する」ような使い方しかできない。労働者は自由裁量を得るというより、成果を生み出す方法を自ら編み出すよう要求される。生み出した成果は企業への帰属が義務付けられ、少ない給与で満足するよう強いられる。

チームで行う高度な知的労働でも似たような使い方が可能である。個別業務を個人の裁量に任せ、成果物をチームリーダーに差し出すという形になるだけのこと。

いまや工業製品は先端技術の複合体である。科学技術は細分化と専門化が進んでおり、一つの商品開発に複数の専門企業が関わることが珍しくない。パソコンや家電などでは、すべての部品供給を他社に頼り、組み立てるだけのメーカーがある。設計しかしないグローバル企業さえある。

より小さな単位の知的業務でも同じことが言える。複数の専門家あるいは専門家グループが、専門知識を提供し合うことで、一つの業務を達成する。このとき、専門家あるいは専門家グループは、同じ組織に属している必要はない。フリーランスの集まりでも構わない。

むしろ、高度な知的労働であるほど、専門に特化した外部の人材に頼った方が合理的である。
というわけで「チームで取り組む」は、労働者に独立を躊躇させる理由とはならないような気がします。

実は、独立を躊躇させる原因は他にある。投資に見合う成果が得られる保証がないからです。設備に投資し、労働時間を充分に確保したとしても、見込んだ成果が得られるとは限らない。そうしたリスクがあるからです。

となれば、組織に属したままの方がよい。リスクを組織に預けておける。先端的な研究開発など高度な知的労働に従事する人ほど、リスクへの意識は強くなる。

一方、経営側もリスクは避けるに越したことはないと思っている。そこで登場するのが成果による管理であり、「高度プロフェッショナル制度」の活用である。
成果を提出しなければ報酬をやらないという雇用形態が認められるならば、労働者に自由裁量をいくら与えてもかまわないわけです。自由な働き方ができるなんてのは、労働者にとって利点でもなんでもない。

経営側の悪用の仕方は、前回の記事で示した、安定収入を欲する平凡な労働者に対する過剰労働の強制だけではなさそうです。有能な知的労働者にリスクを持たせるという悪用の仕方も可能であることが分かります。(質問を頂いたおかげです。ありがとうございました)

「高度プロフェッショナル制度」によって無能な経営者が生き延びる――そんな姿は見たくないものです。

しつこいものである。高度プロフェッショナル制度のことである。十年ほど前に「残業代ゼロ法案」と非難を浴びて実現しなかった制度が名を変えて再び登場した。

前回は「ホワイトカラー・エグゼンプション」と呼んでいました。内容は全く同じで、報酬は成果にリンクするとの名目で、労働時間規制の適用から外す雇用者を新たに制度化する。前回は法案提出に至らなかったが、今回の法案は国会上程目前にまでこぎつけた。

さらに今回は「働き方改革」と称する関連法案の一つに紛れ込ます。残業時間の上限設定などの法案と抱き合わせ、単独で否決されることを回避する作戦だ。なんともいやらしい作戦だが、一括上程という手法は、安保関連法のときにも使った。国会論戦を短縮できる利点がある。政府は味を占めたようだ。

野党は「スーパー裁量労働制」などと非難する。経営側に使い勝手の良い制度という意味では、裁量労働制を上回るとの含意だ。実際、裁量労働制は経営側に都合よく利用されている。

昨年12月に次ようなニュースがあった。
<裁量労働制を社員に違法に適用し、残業代の一部を支払わなかったとして、不動産大手の野村不動産の本社(東京)や関西支社など全国4拠点に対し、各地の労働基準監督署が是正勧告>

経営側が求めて実現した労働規制を関する制度は、常に悪用されてきた。特に、残業代を払わずに済む雇用者を拡大したがる。裁量労働制以上に広く利用されているのが「管理・監督者」。経営者と一体となった最高幹部クラスのことなのに、数人の部下しかいない労働者に適用して残業代を払わない中小企業がたくさんある。

裁量労働制は、労働時間の把握が難しい業務を対象としている。高度プロフェッショナル制度はというと、労働時間と仕事の成果を関連付けることが難しい業務をイメージしている。具体的な職種は厚生労働省が省令で定めるとのこと。対象業務を増やす準備は整っている。

一応、年収1,075万円以上という要件が付加されているので、入社数年目の若造が「あなたも今年からプロだ!」とおだてられ、無理やり対象にされてしまう危険はなさそうだが、悪用する手はいろいろありそうだ。

私が経営者なら、まず、退職金制度をなくす。少しでも社員の年収を押し上げるためだ。毎年計上していた退職金相当分を社員の年収に回せば、会社負担は変わらない。

次に、ボーナスに完全成果主義を導入。「あなたが能力を十分に発揮したとき、ボーナス額は500万円になります」と告げ、固定給と合わせた予想年収を1,080万円に設定。これで高度プロフェッショナルの対象!

対象にして終わりではない。年度途中に「成果が上がっていない」とその社員を責め、ボーナスを減額。あるいは成果が上がるまで没収とし、しばらく払わない。年度末になったら、「成果に照らすと2カ月休職していたに等しい。支給額は1080万円のままだが、ペナルティとして2割ほど差し引く」と言い渡す。

こんな措置をあからさまに行えばブラック企業と叩かれるが、もっと穏便な方法はありそうだ。経営者は必ずや、過大な成果を要求し、1,200万円払うべきところを1,075万円に抑える方法を考え出す。

そうはならないと制度設計者は言うだろう。なぜなら、対象となる労働者は、労働条件について会社側と対等に交渉できるぐらいのプロフェッショナルなのだからと…。

しかし、そこまでの実力者なら独立しているんじゃね? そうなんです。この制度の目的は、独立するほどの実力のない労働者をうまく丸め込んで、都合よく使うことにある。まるで請負や業務委託のような関係をつくって労務管理の手間を省き、なおかつ安く使おうという魂胆だ。

いや、魂胆というより、この制度はそういうふうに使う以外に使い道がない。だって、成果に見合う分しか払いたくないという欲求は、“外注”によって簡単に満たせるではないですか。外注よりも支出が抑えられるとの見込みがなければ高度プロフェッショナル制度を使う意味がない。

現段階で想定されている対象業務は、金融商品の開発・ディーリング業務・アナリスト・コンサルタント・研究開発業務の5種類だそうだ。これらは、おおむね外注可能である。大企業ならば子会社を作って業務委託する場合もあろうが、経営コンサルタントやシンクタンクなどが引き受けてくれる業務だ。

ただ、いずれ対象業務は拡大していくはずだ。
派遣法がそうでした。始まりは高度な職能を有する専門職だけでした。ところが対象業務は数年毎に拡大されていく。同時に脱法的利用が広がり、「正社員よりも安く使える労働者」として定着していく。定着ついでに一般化しましょうということになり、職種のしばりが消え、だれでもなれる派遣労働者!が完成。

次なるターゲットは裁量労働制。労働時間の把握が難しいのは外回りの営業マンばかりではないと、対象業務の拡大を提起し、法案化に成功。「働き方改革」と称する関連法案の一つとなったが、あいにく頓挫。だが安心はできない。官僚たちはしつこいですからね。

高度プロフェッショナル制度の対象業務は省令で定めることになっているから、拡大はいとも簡単。国会論戦を経ないで済むようにしたのは、裁量労働制での頓挫を見越したかのようだ。

ということで、自分とは関係ないと思っている雇用労働者の皆さん。ホワイトカラーの業務に就いているのなら、いずれ対象にされると思っておいた方がよい。年収1,075万円以上なんて要件も安心できません。インフレが進めば自動的に対象者が拡大していくわけです。年収条件を下げる法改定だってあり得ます。

高度プロフェッショナル制度は、独立できるぐらいの実力者以外は反対すべきです。

12日の偽装告白は衝撃的だった。財務省が明確に公文書の書き換えを認めてしまうとは思わなかった。しかも、80ページに及ぶ対比表付き報告書だ。精密な仕事っぷりも、さすが官僚!である。

追いつめられて認めたのだろう。朝日新聞のスクープは、それなりの情報源だったに違いない。内部告発ならば隠しようがないし、検察や国交省などの他の政府機関からのリークであれば下手に噓をつけない。

追いつめられたにせよ、首相夫人や政治家の名を削除したことを明かす覚悟はそれなりに認めたい。今後の自浄作用を期待する。

朝日新聞の調査能力を褒めなければならないが、それより気になるのが正義感のある通報者の存在である。あまりにも国会を軽んじ、官邸中心の政治になりすぎていることに憤りを感じてのリークと察する。

佐川・前理財局長の国会での強弁は、まるで官邸幹部の強気な姿勢が乗り移ったかのようだった。都合の悪い部分を隠し通す姿は、規範意識の低い安部首相に習うかのような態度であった。そんな慢心した政治を嫌う関係者はいたはずだ。

安部政権によって設置された内閣人事局への反感もあったかもしれない。省庁の幹部人事を官邸に握られ、政権の顔色を窺いながら仕事する傾向が強まった。これでは官僚たちの士気が下がる。

いずれにしろ、「正直さは意志によるものである」(P.G.ハトマン)と言われる通り、今回の正直な告白は、それなりの意志表明であろう。最優秀の人材は「最優秀の犯罪者になる」(岡田斗司夫)はずが、白旗を挙げたわけだ。官僚機構が痛手を負うだけでは済まない覚悟と目論見があるに違いない。

目論みといっても、安部政権が倒れることを意図するみたいな大げさものではない。もちろん、官僚機構をつかさどる立場から、内閣への責任追及はなされる。だが、官僚の忖度が偽装の主因だと結論されれば、政権運営に支障をきたすほどの痛手にはならない。

とはいえ、情報操作への反感や隠蔽体質への嫌悪が、国民の間で広まることは確実である。それに呼応して、有権者との信頼関係を構築すべきとの機運が、与党内などで高まってくるはずだ。そのような方向に進むことへの期待が、告発者にはあったのではないか。

まぁ、これは私の期待かな。政治スキャンダルが起こると、すぐに「政局だ!辞任だ!退陣だ!」などの言説が飛び交うが、大方は面白がっているだけである。権威の失墜を楽しむ輩が騒いでいるだけである。だから、朝日新聞を笑い飛ばしていたその同じ口から、今度は政権や官僚を冷笑する言葉が出てくる。

政権の尊大さを戒めるためには言論攻撃は必要である。私も攻撃してきました。ただその本意は、政権が国民と真摯に向き合う姿勢に転じてもらうことであり、この記事も同じことを期待している。

また、マスメディアの“炭鉱のカナリア”としての役割にも、改めて着目したい。

安部政権の方針を盲目的に信じる“安部信者”のような人たちや、政権批判する言論人を一律に反体制派と色分けする人たちは、今回のスクープを、朝日新聞の反転攻勢のように捉えます。でもこの単純さは、成熟した民主主義国の一員としては幼稚すぎます。

確かにマスメディアには反体制派と似たところがある。なぜ反体制活動をするのかと問われれば、「そこに体制があるから」と答えそうな反体制派たち…。そんな遊戯のような無責任さはマスメディアにもあります。社会に与える悪影響を考慮することなく、政権に与えるダメージが大きくなるほど達成感が覚える気風がある。

このたびのスキャンダルでは、内閣人事局の設置が、官邸の強権につながり忖度政治となったとされています。マスメディアもそのような論評を盛んに報道するが、過去の政権に対しては、官僚主導政治と冷やかし、「決められない政治」と揶揄してきました。なんか矛盾というか、手のひら返しというか、マッチポンプというか…

マスメディアのポピュリズム批判も少しおかしい。政治は大衆の情動を利用しますが、メディアも有権者の感情に訴えかけようとします。

マスメディアは政治批判に専心していると言っても過言ではないわけで、危険を知らせるカナリアというより、いつもわめいているオウムとの比喩の方が正しそうです。

しかし、“炭鉱のカナリア”としての役割を忘れているわけではない。危険の大小にかかわらず鳴き続けるカナリアだと思えばよい。常に、大衆に向けてメッセージを発しているに過ぎない。

要するに、マスメディアが権力監視という役目を果たしているかどうかは国民が決める。権力の暴走を押しとどめる主体はあくまでも国民である。常に鳴いているので、本当に危険なのかどうか分からなくなると突き放す前に、その存在意義をしっかりと認めるべきである。

6年前、原発事故発生時に双葉町長だった井戸川克隆氏が「こんな事態に陥ったのは、物事の隠蔽を可能にさせている国民性である」と憤っていました。

「任せられる者と任せる者との信頼関係の下に隠蔽や偽りがない代務を行うことを原則として、任せられた者は任せた者の意向を勝手にできない約束ができていることが大切です」「“信頼”に大きな権限を与え、代務者に資格基準を求め、品性、品格、正義がなければならない」(船橋淳『フタバから遠く離れて』)

鳴き続けるカナリアの声も、このような価値観を持って聴けば、きっと危険の度合いを判断できる。どちら側の“信者”になるのかといった単純な判断から脱皮できる。
ともかく、マスメディアは民主主義社会の重要なメンバーである。

先日、ロバート・ゲラー氏(東大名誉教授)が、地震発生確率を発表した政府の地震調査研究本部に対し、「科学的根拠のない確率発表はやめろ」と批判していた。(20180302)

その内容が、私が以前、地震予知連絡会を非難したときの意見と全く同じであったので驚いた。と同時に、地震学者たちが今も変わりなく活動していることを知り愕然とした。

ということで、また書きたくなった。

ゲラー氏曰く。政府の確率計算は周期説に基づくが、米国の研究者らが周期説は誤りだと繰り返し指摘している。にもかかわらず「政府は血税を使って無意味な確率予測の発表を続けている」。

「確率的予測や事前予知に携わっているのはほぼ同じ地震学者たち。学術的根拠がないのに、研究費欲しさに批判の声を上げない」とも言う。

私は、東日本大震災の後、地震予知連絡会の存在を知った。“予知”なんて思わせぶりな名称を使っていることを非難した。東海地震を事前に予知するなんて全くの出鱈目を吹聴して世間を騒がせ、税金の無駄遣いをしてきた地震学者たちが、まだ懲りていないと思ったからだ。

調べたら、地震予知連絡会は今も現在の名称で存続していた。「現在の地震学の実力を示して今後の地震観測活動を行ってゆく」という姿勢を示し、名称変更を行わないことを決めただとさ。

ゲラー氏も東海地震予知に関する活動に触れ、「科学的裏付けに欠ける予知を“できる”と40年間も人々を欺いてきた責任をだれ一人とっていない」と厳しい。

当然だ。地震学者たちが東海地震予知に金を使っている間に何が起きたか。奥尻島で死者多数の震災が発生し、震災は当面ないとされた阪神地域で6千人も命を落とし、首都圏も防災を!と言ってる間に新潟で震度7。その後の東日本大震災も熊本地震もノーマーク。少なくとも行政を動かすほどの注意喚起はなかった。

ゲラー氏が言う通り、これだけ「想定外」が続けば、誰もが予測は疑わしいと感じる。それなのに地震学者たちは、観測網を充実させれば…みたいな言い訳をし、厚顔にも研究費の積み増しを提案する。

観測網といえば、火山噴火予知連絡会という組織もある。こちらもまた「想定外」の連発だ。なんでこうも名称に“予知”を付けたがるんでしょうかね。きっと、「予知のため研究」と言えば政治家が振り向いてくれ、役人が予算を回してくれるんでしょうね。

しかし、観測の相手は“地球”である。46億年の歴史を持ち、数万年なんて一瞬の活動単位でしかない。地層を調べれば活動歴の一端が分かるというが、予知に結びつくほどの情報は得られない。古文書で分かる活動歴も数千年がせいぜい。しかも現代の目で見れば、詳細な記録とは言えない。

現代の測定機器は精密になりました。震源地やマグニチュードの特定はかなり正確になったようです。しかし、それらの測定値が予知に役立つようになるのは、一億年後ぐらいじゃない? それくらいの情報の蓄積がないと、満足のいく地震発生確率は出せないはずだ。その頃にはもう、人類は滅亡している!?

つまり、いくら観測網を充実させても、地震学は“実社会に役立つ科学”とはならない。莫大な費用をかけて深海に測定器を設置する意義は全くない。相手は地球なんだし、全体像把握という意味では、小学生のアサガオ観察記録にさえ及ばない。

地震学者たちのこうした欺瞞は、東日本大震災の発生後、さすがに多くの市民にバレてしまった。当時、東大地震研究所助教だった大木聖子氏の嘆きを思い出す。大木氏のところにも、数々の非難や中傷が寄せられたと、インタビューで語っていた。

大木氏は中越地震の後、メカニズム研究から情報発信と防災教育に転身したらしい。その分、メディア露出が多く、若くて美人な地震学者だったこともあってターゲットになりやすかったのでしょう。そのため、地震学への過剰な期待と誤解を解消することが大事だと、より一層、思うようになったと述べる。

「一つ一つの地震は複雑な要素がからむ一回限りのできごと。科学研究の基本である実験もできません。地震の予知はみなさんが思っているよりはるかに難しいんです。地震の予知に期待するより、地震は常に起こることを前提に、被害を少なくするための行動を起こすことがまず大事だと思います」(20130107)

予知は難しいと潔く認めるところは良い。「実験もできない」と、アサガオ研究にさえ劣ることも認めている。だが、表現の仕方が引っかかる。地震学者たちの欺瞞や予算欲しさのあざとさへの反省が感じられない。市民の非難を地震学者への期待の裏返しとでも思っているのか、市民の誤解を暗に責めている。

違うよね。市民は糾弾しているのだよ。社会のために研究してますとか、税金を使うに足る意義ある研究ですといった尊大さを振りまき、高給を得ていながら何の役にも立っていないことに苛立っているのだ。

大衆の心理にうといのは、浮世離れしたお勉強ばかりしてきたことが原因だろう。時代の変化にも鈍感のようで、生産的ではない研究活動が今でも許されると思っている。はっきり言って、地震学者への助成は、彼らの高学歴というプライドを満たしてやるために税金を使っているようなものです。

政治家や役人の皆さま、その辺の認識を新たにしてください。地震学者に限らず、研究費をせびってくるのは科学的センスの低い学者たちです。百万人に一人レベルの学者となれば世界が放っておきません。東大などの肩書にもだまされてはいけません。その7〜8割は百人に一人レベルの能力しかありません。学者をうまく使いこなせるかどうかも、その国の行政能力を測る大きな要素です。


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