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反論、質問受け付けますが、何せ思いつくままなので

政治・政策

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リフレ派は言う。「日銀の大胆な金融政策によって、デフレ基調から脱却し、求人倍率は上がり、失業率は下がった。賃金は上向きとなり、税収も増加した。おかげでプライマリーバランスは改善した。よって財政再建への歩みが滞っているとの見方は間違い」

日銀の新しい副総裁候補である若田部昌澄・早稲田大学教授もリフレ派の一人であり、上記のような意見の持ち主である。しかし、日本経済は好転していると単純に喜んでいてよいのか。

たしかに雇用環境は労働者有利の売り手市場になった。だが、金融緩和による景気浮揚のおかげとは必ずしも言えない。まず、生産年齢人口が減っている。今後も減り続ける。女性の就労を増やせば間に合うというレベルでないことは、企業も分かっている。だから労働者確保に必死である。

すでに人手不足に陥っている産業は多い。建設、運輸、介護、保育士などであるが、原因はそれぞれ、景気浮揚とは別のことが指摘されている。

建設は、災害復旧需要の増大や老朽化したインフラ、東京オリンピックなどである。運輸では、消費構造の変化に起因する宅配需要の増大である。介護士不足は人口の高齢化が主因だし、保育士不足に関わる待機児童問題も“異次元緩和”の前から発生していた。

コンビニや飲食店の店員なんかも時給を上げないと雇えないという。これも、安く使える未熟練労働者つまり若年人口の減少の影響を無視できない。

リフレ派の学者たちは、手柄を独り占めする政治家さながらに、自分たちの経済理論の正しさを誇示する。まさに<エリートたちの尊大>の典型例である。マジで“国家経済をコントロールできる”と思っている。

黒田日銀の異常な金融政策が、経済成長やデフレ解消に一役買っていることは間違いない。毎年80兆円もの国債を市中から吸い上げていれば当然でしょう。事実上の日銀による国債の引き受けである。さらに日銀は、上場投資信託を毎年数兆円規模で市場から購入し、事実上の資本市場への介入にも手を染める。

市中銀行から国債を購入して代金を払うことで、市中に現金を過剰にばらまく。日本円の価値は下がる。輸入物価が上がる。インフレが進む…てなことを無理やりやっているわけだ。

80兆円といえば、GDPを500兆円とすれば16%分である。80兆円すべてが有効需要につながれば、16%も経済成長することになる。株式市場に投じている数兆円の資本増加分も、国内投資に向かえば成長率を押し上げる。

ところが近年の経済成長率は1%台に過ぎない。インフレ率も1%前後。つまり、何もしなければマイナス成長かつデフレ基調のままということか。無理やり高下駄を履かせているからなんとかプラスになっているわけか。

この解釈はリフレ派を喜ばすに違いない。水面上に顔を出し、おぼれずに済んでいるのは金融政策のおかげというわけだ。日銀は国家経済に多大なる貢献をしている! 日銀が日本を支えている!

しかし本当に“貢献”なのだろうか。国家や国民を甘やかしているだけではないのか。

張りぼてのような経済指標という解釈も可能でしょう。国債の大量買い付けは、実体経済を無視して札を大量に刷り、ばらまいているようなものでしょう。まさに「ヘリコプターマネー」(M.フリードマン)。

インフレ経済が最良と考えるリフレ派の中には、財政赤字を拡大すべきとの主張さえあります。シムズ理論によれば、政府が借金返済に窮する状況に陥ることが通貨の下落、つまりインフレ誘導に有効というわけです。

松尾匡・立命館大学教授の昨年のインタビュー記事にも驚いた。「…政府が発行した国債を全部返す必要はないんです。… (日銀が持つ)国債は満期が来たら借り換えればいいので、返さなくていいのと同じ。いま国債の4割以上を日銀が持っていますから、政府の借金は一般に思われているよりずっと少ないんです」(20170926)

ということは、日銀が国債を100%保有すれば、政府の借金は無くなるというわけ? バカな! こうなると詭弁を通り越してトンデモ理論だ!
こんな理論がまかり通っては、だれもカネを貸さなくなる。信用経済は崩壊する。

以前、財政再建を重視しない政府を批判したときは、国家の永遠性を前提にした超長期ローンの安易さを責めたが、今やリフレ派は、100年ローンどころではなく返済不要の無期限ローンのつもりなのかもしれない。

理屈をこねくり回しているうちに、奇怪な論理を構築してしまったリフレ派たち。彼らは、経済活動が人間の営みであることを忘れている。

財界人あるいは経営者たちが一致して財政再建を求めるのはなぜか。借金の常態化は人間を堕落させることを知るからだ。借金体質に陥ると、予算内で何とかするという発想がなくなり、無駄遣いが多くなり、借金は際限なく積み上がっていく。その先には破綻が待つ。企業経営は、そんな人間の弱さとの戦いでもあるからだ。

国家が破綻して国民経済が崩壊すると企業も困る…なんて狭量で財界人は財政再建を求めているのではない。

リフレ派は財政破綻の機運はないと反論するが、それは国民がカネを使わずに貯めんでいるおかげでしょう。国民の過剰貯蓄が国債の消化を容易にしているだけだ。
すでに国民の多くが破綻を恐れている。少なくとも増税と予算削減を予想している。だから貯めこむのだ。

リフレ派の理論は、実験室で試薬を調合した結果程度のもの。空論だからこそ試したい。試したいだけだから責任を取るつもりはない――そんな無責任な彼らの意見に耳を傾ける必要はない。

Q.前回の記事ですが、ナショナリズム? 宗旨替え?

いやいや、日本政府を擁護したいわけでも、韓国人が嫌いなわけでもありません。反抗が目的化した運動体が嫌いなだけです。謝罪が足りないとの言い方で分かるように、要求は吊り上がるばかりでキリがありません。

ナショナリズムの芽は私の中にもありますが、争いごとに情熱を燃やす人生なんてまっぴらです。山口氏の指摘をナイーブだと批判しましたが、山口氏の中にある<平和>を求める心根は認めます。そこは同調したい。

左派・右派と区分したがる言論人は多い。リベラル寄り・保守志向と立場を区切る物言いも盛んだが、私はそのような区別に興味がない。ナショナリズム頼りの政治活動に拒否感を覚えるだけです。隣国の現政権は左派とされていますが、大衆の情念に寄り添うだけの外交をやるのなら、それはナショナリズムです。

ついでに言えば、エリート贔屓のつもりもないし、大衆の側に立つという発想もない。トランプ大統領誕生以降、大衆の持つ悪癖を非難する記事ばかり書いているが、それ以前にはエリートの悪癖も糾弾してきた。

エリートは尊大になりやすい。エリートが尊大になると社会に害をもたらす、片や大衆は増長しやすい。凡人が謙虚さを失うと社会の中での存在価値を失いかねない。(当然、私の存在価値もしばしば危機に瀕する)

互いに謙虚になることが必要だ。大衆はエリートに対し、自分たちができない仕事を引き受けていると思い、一方エリートは、大衆が作り出す土台の上でしか活躍できないことを自覚すべきだ。両者の分断は、大衆がエリートに嫉妬し、エリートが大衆をバカにするから現象化する。そして分断は、社会の効率を悪くする。

国民と政府の関係も同じだ。たしかに民主主義は、大衆の我がままを可能な限り実現しようとする政治制度でありましょう。たとえば、豊かな生活をさせろ!との要望に応えて、政府はさまざまな政策を繰り出す。

だが、富の増大は経済活動の結果です。生産性向上に政治が直接、手を下せるわけではない。政府が需要増大の旗を振り回したって効果の高は知れている。政府ができることといえば経済環境を整えることぐらい。重要な役割だが、自惚れてはいけない。

国民の方も、経済成長の度合いは政策よって定まるとの思い込みを改めるべきだ。経済は自然現象に影響され、国際情勢に左右される。経済の長期的傾向は人口動態と共にある。また、優遇政策によって斜陽産業を延命することはできても、復活させることはできない。

産業を復活させるのは当事者である。地域を活性化させるのは市民である。政府でも地方自治体でもない。補助金漬けの果てに復活した産業や地域なんてあるのか。一時的な効果を復活とは呼ばない。

にもかかわらず政府は、経済成長という果実は自分たちが作り出したものであるかのように演出する。国民の支持を得るためだが、ナショナリズムの醸成につながるとの期待も大きい。経済力は国際社会での地位に直結すると考えるからだ。

しかし、高い経済成長率を長期にわたって持続させることは難しい。国民の多数が経済力の上昇を実感できる心地良い時代は続かない。やがて、政府による経済成長という演出ができなくなる。そうなると政府は、国民に情緒面での満足を与えようとする。従軍慰安婦問題の追及などもその一つとなる。

ナショナリズムを沸き立たせるには、国民のプライドや虚栄心を満足させればよいことを、権力者は知っている。愛国心を高めるためならば、政府は幼稚なプライドにも寄り添う。好戦的な虚栄心にさえ理解を示す。

まぁ、国民の情緒的な要求に応えるのも、民主国家の役割かもしれませんがね。広い意味で、国民向けのサービスと言える。でもねぇ、国家運営は単なるサービス業なんでしょうかねぇ。

凡人が謙虚になることは難しい。サービスを受ける立場ならばなおさらだ。凡人であることを忘れ、政府が国民サービスの最大化に向けて努力するのは当然だ…と考えるようになる。

そんな増長を、権力側のエリートたちに見透かされるから、政府にいいように翻弄されることになる。結果、浮ついた外交となり、短絡的な内政となる。これは、韓国や日本だけでなく、民主国家すべての問題だ。

国民と政府の間でも緊張関係が必要である。凡人の増長がエリートの尊大を呼び覚ますように、国民の情緒的満足志向が政府の愚策を招く。

政治家と官僚の間でも、行政と国民の間にも、緊張関係が必要だろう。供給者と消費者との関係と変わるところがない。世の中の不祥事のほとんどは、当事者間に緊張関係がないことが原因ではないのか。

政府は国民に好かれることにばかりに関心を寄せ、国民は政府を擁護してナショナリズムの愉悦にひたる。そんな慣れ合いが堕落を生む。

謙虚になるほど真実が見えてくる。謙虚な人ほど緊張関係を尊重する。謙虚な思考から的確な批判が生まれる。これらは逆説でも何でもない。

国民は権力者を謙虚にさせる必要がある。権力側のエリートたちを尊大にさせると、国家経済をコントロールできるとか、産業を復活させることができるとか、地域経済を活性化できるなどと勘違いさせるだけでは済まない。再生はできないが破壊はできる立場であることを忘れさせてしまう。

権力は、国民生活を破壊することだけは確実にできる。歴史を振り返るまでもなく、世界には進行中の実例であふれる。

先日の話に、ある人が反論します。
「多数派を形成したいんじゃない。一致団結することが重要なのだ」

分かります。内紛の多い集団は崩壊しやすい。団結力を強化してこそ、外敵への対処能力が高まる。治安を維持できない国は、容易に他国の介入を許してしまう。

内政における利点も多い。互いに仲間と認め合う人たちで構成された社会は安定し、争いが減り、生産活動が円滑になる。悪意を持った人たちに囲まれての生活ではこうはいかない。非効率な社会になるだけでなく、ストレス過多の生活を強いられる。

ストレスのない社会は理想です。一致団結の重要性は否定しない。素直な欲求として認めます。

ただ、強固な国家意識は、戦争に発展しやすい。近代兵器が及ぼす被害は甚大であり、二度の世界大戦を経て、戦争は避けるべきとの理念が国際社会で確立した。団結力は国家をまたいで広げ、仲間意識は国境を越えるべきとの思想が共有されるに至る。

殺害と破壊の成果を競うのが戦争である。戦費という厖大なコストと相まって、経済的損失が甚だしい。国民全体の生活が苦境に陥り、戦闘員ならずとも生命の維持に苦労することになる。

あなたが生き延びたいと願うのならば、国家意識が暴走しないよう働きかけることの方が重要だ。外敵から我が身を守ろうとする本能を抑制しろとは言わないが、国際協調を進めようとする理性を否定してはいけない。

…てな話も、彼らには響かないか〜。「きれいごと言ってんじゃねえ! なによりその説教口調が気に食わん」と怒られそうだ。

主体性を持とう!という論調も、彼らには不評である。主体性なんて団結を乱すものでしかないからだ。主体性を持つ者の自己主張は、仲間と同じように考え行動するという掟をしばしば破る。

ただ、主体性無き人間で構成された集団は危機管理が甘く、対外的対処が稚拙だ。私が今まで見聞きしてきた限りでは、そう映る。リーダーは仲間内での優越に浸り、メンバーはリーダーに同調するだけ、といった集団になりやすい。リーダーの強がりや言い分に根拠がなくとも、構成員は即座に共鳴する。

スポーツなどの団体競技を見ていてもそうである。団結力だけで勝てるほど甘くはない。司令塔を担うリーダーは、主体的な判断を重ねてこそ、有能さが増していく。主体性とは失敗を受け止める能力でもあるからだ。失敗に対する修正能力は、メンバーの個性を見極める際にも生かされる。

高い主体性を持つメンバーの働きも、チーム力向上にとって重要である。リーダーに的確な助言ができるのも、チームに欠けた部分をバックアップできるのも、主体的な思考によるものである。

主体性が不要な集団行動はあります。右翼的凡人相手のストリートファイトなんかは、「数は力だ」作戦が有効です。メンバーは一致して、リーダーに従順であることを相手に示すことが求められる。

どうも右翼的凡人たちは、リーダーに従順であることの逆が、主体性を持つことであると思っているフシがある。裏切る奴の利己心と主体的思考を同一視している。争いと言えば、殴り合いのイメージしかないからだろう。そういえば、野生のオオカミの群れは、判断をすべてリーダーに任せると研究者が言っていた。

主体性なんていらねぇ!という人は野性的なのかもしれない。本能に従うことの方が好きなのだ。
だが、現代人を気取り、野性とは真逆の生活に浸る人たちも、同じように主体性を持つことから逃げているように見える。ある知人と話していて思ったことだが、偉そうにふるまうことが好きな人に、その傾向が強い。

こちらがクルマのデザインの好みを披露すると、知人は否定的な意見があると返す。こちらが主体的な意見を述べると、難癖をつける。そのくせ、自分の好みは表明せず、主体的な判断もしない。

その心理は、なまじっか主体性を持ってしまうと、反論される端緒を相手に与えてしまう、ということなのではないか。主体的に決断を下せば、当然、責任が生じる。偉そうにふるまう立場を保持するためには、相手の嗜好を笑い、相手の思考の欠点を指摘し続ける必要がある。主体性を持つことの意義はなにもない。

現代的な消費生活をする上でも、主体性を持つ意義を見出せない。すべてが商品化され、消費者としては、大口を開けて待っていればよい。次々と商品が放り込まれるから、主体的に動く必要はない。好き嫌いは気まぐれ、判断に迷ったら流行という多数派の判断に従えばいい。

商業主義は、人々を主体性を持たない方向に誘導していく。たとえば食生活。昨年の12月、ラジオを聴いていたら「クリスマスはチキンを食べる日」とマジで答える女子がいた。

節分はいつの間にか「恵方巻を買って食べる日」となった。正月のおせち料理だってどこで何を買うかである。クリスマスのフライドチキンはケンタッキーに行かなくてもスーパーで買える。年越しそばはカップ麺。

日々の食卓も、買ってきた惣菜をそのまま並べる。家事労働において、創造性や熟練を必要とされるものはもうなくなった。主婦の仕事は、出費額と家族の好みを考えるだけ。

買いに行く手間さえ省ける時代となった。お取り寄せやら通販といった宅配に頼ればよい。カタログを取り寄せる必要はなく、電話さえしなくてもよい。ネットの画面をクリックすれば、明日にでも届く。商品の評判もコメント欄に書いてある。気に食わない商品はクレーム送信で対処。

時代はコンビニエンス! 消費は、生活をコンビニエンス化にするためにある! 主体性なんて面倒くさいものを持つ意味なんてあるの?… こうして知性は衰え、野生に帰っていく。

百田某が先日、次のようなツイートをしたという。
「朝日新聞は日本の敵だが、そんな売国新聞を支えている朝日の読者も日本の敵だ」

ついに血迷ったか。朝日新聞に対する敵視発言はたびたびだったが、その読者へも矛先を向けるとは!常軌を逸している。朝日を読んでいる人を見かけたら非難しましょう!とでも扇動するつもりか。

つまり、読者を脅迫するような言質である。新聞社の営業を妨害する意図とも取られかねない。

産経新聞の記事によると、12日に投降したのが始まりらしい。なにかあったのか。年明け早々、官房機密費でももらい、思わずアクセルを踏んでしまったのか。

ただ読者を断罪するのはさすがにまずい。仮に政治家が同じようなことを言ったら、言論統制の企図を疑われる。もう政治側から百田氏へのアプローチはなくなるのではないか。論壇からの退出も近いのではないか。

それとも、非国民を見つけ出せ!みたいな風潮の始まりとなるのか。私の友人にも、朝日新聞の権威失墜を笑い飛ばすのが好きな人がいる。最近は会っていないが、この百田発言を知れば、ほくそ笑むに違いない。今後は、その種の人たちのふるまいが大胆になってくるのかもしれない。

しかし、そんな風潮が蔓延していいのだろうか。その友人にも言ったが、大衆向け新聞のすべてが産経新聞みたいになったら、と想像したことがあるのだろうか。どの新聞も鬼畜米英ならぬ“鬼畜中朝”といった論調で埋め尽くされたら… まるで軍事国家体制の再現じゃないか。

「読者も敵だ」との指弾は優れた戦法である。かくいう私も以前、政治批判をする上での戦法として、似たようなことを書いた。政治批判をするのなら、その政治を支えている有権者も非難すべきであると…。そういった意味で着眼点の良さは認める。

でも有権者と読者は異なる。読者が新聞発行を支えていることに間違いないが、新聞社は政策を決定する公的機関ではないし、読者になることが、その論調への賛同を示すものでもない。

その論調にしたって、良くも悪くも大衆メディアの使命として、権力監視に気張っているだけだ。特定のイデオロギーを広める意図で編集されたものではない。読者にしても、政権批判を楽しみに読んでいるのではなく、批判すべき点の参考資料ぐらいの気持ちのはずだ。

政権を批判すれば、すぐ左翼と判定するのは単純すぎる。政権擁護に偏る新聞のイデオロギー性を認識するからこそ、その逆もイデオロギー的と誤解する。少なくとも、この単純さは言論人の判定の仕方ではない。

言論人なら、言論の自由を擁護すべき立場でなければいけない。民間の一言論機関でしかない新聞の読者を追いつめ、その発行部数を減らそうと画策するのは、言論の自由への挑戦に等しい。

でも百田氏は作家だからと逃げられる立場か〜。それでもよいが、言論人を気取るなら“批判対象がなくなったら寂しい”ぐらいの余裕が欲しいものだ。

…なんて批判しても何も響かないのは分かっている。響かないのは彼らに余裕がないからでも、柔軟な思考力がないからでもない。もっと根深い心理が横たわる。なんと、彼らは自分たちこそ<正常>だとの信念がある。

彼らにとって、朝日新聞は<異常>なのである。その報道姿勢も論説内容も<異常>なのである。その論拠は何か。意識的には、自分たちの方が多数派だとの思いである。無意識的には、自分たちの考えの方が本能に近いとの感覚である。(以下、『人類の基本形は右翼』と題して書いたことと似たものになる)

だから彼らは群れたがる。多数派を形成することにやっきになる。多数派であることが<正常>であることの証しだからだ。本能が“多数派の方が生き延びる可能性が高い”と教えるからだ。

そういった意味では現実的である。子供の頃はケンカに強いことに憧れ、強い奴に付き従う。大きな集団に属した方が有利であることを覚え、単独での弱さを克服する。長じて右翼となり、ミリタリールックに身を包む。

右翼活動家になる人間は少ないが、心情は同じである。強いか弱いかが人生の大きなテーマであり続ける。彼らにとって、暴力反対やら少数者差別禁止などは偽善的な左翼のたわごとでしかない。

まぁ私も中学生の頃まで、プラモデルで戦闘機や戦車を組み立てて喜んでいた口です。学校でも暴力的な序列の洗礼を受け、それなりに順応してきました。あまり偉そうなことは言えない。

しかしそんな過去があるからこそ、いつまでたっても理性的になれない人たちに我慢がならない。理性的なふるまいを偽善と捉える幼さに苛立つ。

右翼的凡人の多くは、理性的な思考や判断力に対する苦手意識あるいは劣等感を持つようだ。だがそれは、多数派という立場に逃げ、自分たちの方が<正常>だと慰めてばかりの怠惰が招いたものではないのか。

格差社会の進展が右寄りの大衆を生み出していると言われるが、この格差も、多数派に属することばかり考え、本能の命じるままに「自分たちさえ良ければ」みたいに生きていることが原因の一端ではないのか。

とはいえ、ほとんどの人は努力しても凡人から抜け出せない。私もその一員である。でもだからこそ、思考力に優れた人たちの意見に耳を傾けてきた。理性が生み出す判断力への理解に努めてきた。そして、思考力に優れた人が凡人をだますことを知る。権力が大衆をだますことによる影響の重大さに気づく。

また、格差是正は、共感力のような本能的な情動だけでは実現しないことを学ぶ。理性的な行動こそ改善に役立つ。そしてその行動を支えるのは、不公平を嫌う理性である。差別禁止を唱える理性である。ゆえに私は、歯を食いしばって理性的にふるまおうとしているメディア人たちを応援します。

最高裁は12月6日、NHKとの受信契約を義務づける放送法の規定を合憲とした。受信料制度は「国家機関などからの独立した表現の自由を支えている」ゆえ、「契約の自由」に反しない、というわけだ。

予想に反しない判決だし、放送法の主旨は理解するが、実態としては腑に落ちない点がいくつかある。

まず、一人暮らしの学生からも受信料を徴収することがおかしい。今は5割引き制度があるらしいが、私が若い頃は、どんなに貧しい学生からも正規料金を強制的に徴収していた。苦々しい思いをさせられたものだ。

同じ強制でも税金ならば考えられない。「生計が同一」であっても住まいが二か所なら受信料は二倍。もし、旦那が単身赴任で、二人の子供が学生で別居していると、4つも受信契約を結ばなければならない。生活費が割高になる別居世帯に、追い打ちをかけるように高額な受信料を請求する。そんな公共料金はない。

加えて、所得金額にかかわらず同一料金だ。資産の多い少ないも関係ない。テレビの台数も考慮しない。3世帯同居の大豪邸にテレビが10台あっても一契約分の受信料で済む。高額所得者や資産家と、一人暮らしの学生との間に区別はない。究極の逆累進性。消費税より悪質な貧乏人いじめ。

電波は垂れ流しなのにね〜。つまり、テレビの設置台数が増えてもNHKにとって追加の設備投資は発生しない。ケーブルテレビやインターネットのように家屋ごとの配線工事はないし、メンテナンスの必要もなし。

ついでに言えば、受信状態の良し悪しについてもNHKは頓着しない。ブースターをつけなければ満足に映らない場所、天候や季節によって受信状態が変わる場所がありますが、受信料は一律です。(さすがに全く電波が届かい場所は請求してないようですが…)

そんな実態を無視して「公平負担」とは笑わせる。NHKの現会長は「公共放送として、公平公正、不偏不党は譲れない」なんて台詞を吐くが、ならば受信料についても公平公正を期せ!と言いたい。

二つ目の不公平は、ワンセグ受信できる携帯電話やカーナビを一台持っているだけで、正規料金を請求されること。あんな画質の悪い放送になんで同一料金を払わなければならないのだ。テロップの文字が小さいと判読不能だし、サッカーの試合ではボールの行方を見失う。野球のボールは端から見えない。

ハイビジョン放送が当たり前になり、テレビの画面サイズは32インチ以上が一般化した。そんな今日にあって、ワンセグ放送は、画面が10インチ以上になるととてもじゃないが見られたものではない。情報量の格差がはなはだしい。セグメント数でいえば12分の一だ。

コンテンツの内容は変わらない? 情報は同じように伝わる? 災害などの緊急情報を受け取る利益にも差がない? いやいや全く同じなのは音声情報だけでしょ。ラジオから得る情報と似たようなものでしょう。

つまり、ワンセグ放送しかアクセスできない視聴者は、格段に劣った配信サービスしか受けていないわけです。にもかかわらず同一料金を請求するのは商道徳ではあり得ない。公共放送だから商道徳なんて無視ですか? その割には家計上、無視できない経済的負担を庶民に課している。

地上波のみの受信料金は、口座振込で月額1,260円。12か月前払いで13,990円。金持ちにとっては、たかだか月に千円ちょっとなのかもしれないが、貧乏学生にとっては水道代やガス代に匹敵する。

まぁ今どきの若者は、スマホ通信代に月額一万円近く使う。ガラケーおじさんには理解できないお金の使い方ですが、逆に言えば、映像コンテンツにはもう十分に支出していると言える。音楽コンテンツ代も含まれるから、CDおじさんとは考え方が違う。あとゲーム代もか。

そんな世代間の違いは置くとして、三つ目の疑問は、月額1,260円が妥当なのかどうかだ。これは、公共放送としての役目を果たすのに複数のチャンネルを持つ必要があるのか?という疑問につながる。さらに高額の制作費問題が生ずる。

公共放送ならば報道と教育だけをやっていればいいじゃないか。テレビ放送の黎明期じゃあるまいし、それ以外の番組はすべて民間放送に任せられる時代だ。にもかかわらず、映画並みの制作費をかけてドラマを作ったり、高額なスポーツ放映権を買ってみたり…。芸能タレントに頼る番組も毎日のように目にするようになった。

デジタル化もあり、民放のコンテンツは飛躍的に増えた。有料放送も充実。つまりNHKのやっていることのほとんどは民業圧迫。そうまでして1,260円という受信料を維持したいのがNHKの魂胆である。

BBCの受信料はもっと高いって? なるほどNHKはBBCにならってドキュメント番組にも力を入れる。しかしその種の番組だって民放と争っているのが現状だ。今ではインターネットでも告発調の動画を見ることができる。ルポタージュやノンフィクションを扱う文字媒体の横溢も昔の比ではない。

つまり教育番組以外において、NHKは単なる一媒体に成り下がった。報道さえもNHKが担う必然性はない。「いざという時」の緊急情報の伝達だって、国や自治体がNHKに全面的に頼る状況ではない。

子会社を使って放送技術の研究や調査活動なんかもやっているが、ルーズな金の使い方になりがちなのは役所と同じ。だから使い込みなどの不祥事が定期的に起こる。これらも民間に任せるべきでしょう。

ちなみに番組制作を下請けに任せる体質は、民放同様、NHKにもあります。NHKから制作業務を請け負うことをもっぱらとする民間会社がたくさんあります。私の知人もそんな会社に勤めています。「NHKの仕事をやっている」と誇らしげです。

ということで、民業圧迫分野をNHKから一掃して、受信料は月額500円以下にすべきと考えます。ワンセグ受信機器への請求に関しては、ユニバーサル料金として50円以下でよい。NHKの予算は国会承認が求められており、国会議員に促せば実現できます。


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