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いじめを扱ったコミック『ライフ』が人気だそうだ。TVドラマ化もされた。先週、私も見てみた。

「マンガ『ライフ』で読み解くいじめのリアル」という副題の本を書いた藤井誠二氏は解説する。
「『いじめから逃げるのがベスト』『いじめられるなら学校へ行かなくてもいい』という処方箋が世の中にあふれているなかで、主人公の歩(あゆむ)は、自分をいじめている女生徒や、助けてくれない先生たちと徹底的に闘うのです。まさに世の中の逆を行っているところが、多くの子どもたちの共感を得ていると思います」(070826)

そうだろうか? コミックを読んでいないので断定的な意見を言える立場にないが、TVドラマをちらっと(2回だけ)見た印象では、“共感”より“痛快さ”の方が勝るのではないか。
いじめられる者は普通、多勢に無勢の状況に立たされる。だから闘うことがなかなかできない。その現実ではできないことが、コミック本の中で展開されている。そこに痛快さを感じているのではないか。

フィクションにはヒーローがつきものだ。歩(あゆむ)もりっぱなヒーローである。人は、悪と対峙したとき、自分の力で退治したいが、現実にはかなわない。それを実現してくれるのがフィクションの世界だ。『ライフ』も、その種の痛快さが人気の基盤になっているような気がする。

とはいえ、リアリティは大事だ。単純なヒーローものなら子供向けにしかならない。『ライフ』で描かれるいじめや、取り巻く人々の反応などにはリアリティがあるのだろう。
ただドラマを見る限りでは、かなり戯画化されている(マンガが原作だから当然?)。藤本由香里氏も「ホラーと見まがうばかりの、凄まじいまでのいじめ」と表現する。フィクションには、現実をデフォルメすることで事の本質に迫るという手法もあるから、ホラーもありだろう。藤本氏も非難めいた解説をしているわけではなく、後段では「最新の展開を見るとき、読者は、いじめの犯人は実はマナではなかったかもしれない、ということに気づく。本当に怖いのは強者の尻馬に乗る人々」とつぶやく。(070829)
いじめの本質に迫る部分があるのだろう。その辺をあぶりだすリアリティも、人気の大きな要素に違いない。


それにしても、最近の大人は子供の世界を覗くのが好きだ。そして当事者でない気安さで、好き勝手なことを言う(私もそのひとりだが)。
藤井誠二氏は次のように言う。
「自分はどういう構造のなかにいて、どういう理由でいじめが起きるのか。子どもたちが自分自身を相対化して、俯瞰してみることができる目を持つことで楽になれると思います」。
正論だ。しかし、どうしたら自分を客体視できるようになるのか? 普通の大人はそこまで教えない。藤井氏は著書(『学校は死に場所じゃない』)でその方法を詳しく説いているのかもしれないが・・・(読んでないので知らない)。

客体視を身につける方法は人それぞれという面もある。だが一番の理由は、大人自身がどうやって身につけたのか分かっていない。どの程度、自分を客体視できているかさえ理解していない。そんな大人が説けるのは、結果論みたいな正論だけである。
そもそも自分の精神の成長過程を説明できない人間が、高度な客体視能力を備えているといえるのか? 疑問だ。

私は、順序が逆だと思う。いじめの対象になることを契機として、自分を客体視する能力が発達する。もちろんいじめだけではない。友人とのいさかいや親との軋轢、好きな異性に嫌われることなどもきっかけになる。そんな「他人から見た自分」を強烈に意識する経験が必要である。
平穏な人間関係だけに囲まれて生きていける人に、自分を客体視する能力は不要だ。この能力は、必要に迫られて身につけるものだ。
客体視とは、自分を批判的にながめることであり、そこには苦しみがともなう。自分の否定的な面を見据えてこそ、自画像は正確なものとなり、客体視が完成する。この苦痛を避け、自分を理想化する人にはできない。
思うに、自分を批判的にながめることが、物事を客観的に捉える思考回路の出発点であろう。

自分を正当化することに終始する大人は、この能力が身についていないとみてまず間違いない。

『三本の矢』という小説を何回も引用してきたので、今日はその書評でも書こう。

1998年発行の小説である。財務省はまだ大蔵省であった。
現職の官僚が書いた内幕風のミステリである。著者は某省庁課長補佐とだけ記される。竹中平蔵氏が「読むものを引きつけ一気に読破させる新鮮な魅力と迫真を有している」と絶賛するとおり、読み応えがある。

国会での閣僚の失言から経済恐慌へと発展していく。この導入部のリアリティはかなりのものだ。昭和恐慌などが参照され、現実に起こりうる事態として迫ってくる。
この事態に直面しての経済官僚たちの振る舞いも、内部にいる著者ならではの迫真性ある描写となっている。主計局と銀行局の葛藤などはまことに生々しい。

そして、失言を演出したのは誰か? という犯人探しがある官僚によって進められる。その展開力もなかなかのもので、ミステリとしての水準はクリアされている。結末の意外性はそれほどでもないが、面白く読ませてもらった。

でも、『三本に矢』という題名はどうなんだろう。政財官のトライアングルという日本の経済システムの本質が暗示されており、結末からこの題名の意図もわかるが、どうしても毛利元就の故事を思い出させる。題名からは時代小説を予想してしまう。もっと工夫の余地があったような気がする。

関係ないが、題名といえば村上龍がうまい。どれも高水準だ。下手な部類で思い浮かぶのが小池真理子。なにか思わせぶりなだけで、センスを感じない。私の感性と合わないだけなのだろうが、こうしたセンスは一貫しやすい。人気作家でも編集者が題名の決定権を握っているらしいから、編集者の力量もあるのだろうが。

話を戻す。
この小説は、政財官の結束を題名で暗示しながら、その本質についての新たな視点があるわけではない。小説の進行に沿って、その問題点などが指摘されるが、言い古されたものがほとんどである。
それよりも、官僚たちの世論への非難や、民主主義への懐疑の方が、私には興味深かった。こちらも特段新しいものではないが、官僚たちの本音を聞かされているようで耳を傾けたくなる。

「とにかく国会答弁では、政治家やマスコミの連中に言質を与えちゃいけない−−−それがすべてだ。『この前言ったことと違うじゃないか』とすごむのが、ろくに政策の中身もわかっていない連中とって一番手っ取り早い政府批判になるからな」

「・・・民主主義の寵児ヒトラーの例を挙げるまでもなく、世論が、長期的にみて愚かな選択を多くの場合支持してきたことは否定できなくなる」
「こういう民主主義の悲観論が渦巻くなか、民主主義や、その依って立つ世論の問題点を克服するために唱えられてきたものの代表が、行政府の立法府からの独立なのである。つまり、場当たり的でヒステリックな世論に対抗する勢力として、継続性・計画性・理知性を備えた行政府が必要というわけである」
「・・・アメリカの学者のなかに、強力な日本の官僚制を評価する者が多い背景には、こうやって積み重ねられてきた民主主義の欠点に関する考察と、それをサポートする膨大な量の実証データの蓄積があるのである」

高みに立つのが、官僚たちの矜持である。
ただこうした考えも、政治家やベテラン官僚などから、若手官僚の理想に燃えた気負いだと冷笑されうる。実際、利権をいかに多く獲得するかが行動原理となっている官僚も多いわけだから。

いずれにしても、こうした強力な官僚機構を正当化する論理に、どう対抗していくかを考えるのも、この小説の楽しみのひとつである。

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小説ではない。ノンフィクションということである。
中学時代のレイプ体験から自暴自棄となり、不登校、リストカット、ウリ、夜のホステスへと落ちていく。悲惨な過去が赤裸々に語られる。16歳までにこれだけの経験をするとは…。重い。にわかには信じがたい。

著者はまだ十代である。文章も初々しい…というより自分の感情の羅列にしかなっていないから、読み応えは、それほどない。後半は特に冗長である。最愛のカレシの危機だからしょうがないが。

執筆動機として「同じように悩んでいる人、苦しんでいる人、生きるのがつらい人、自分がどうしたらいいのかわからない人の支えになれたらと思った」と書くが、これも成功しているとはいえない。
なぜなら、ある意味、幸せな物語だからだ。彼女は孤独ではない。大きく傷つきながらも最後は救われる。人に助けられ、苦しみや悲しさを解消できる境遇を得る。

だからこそ、自分の過去を公にすることができたのだ。多くの人に聞いてもらいたいという気持ちになったわけだ。同じような悩みを抱えて苦しんでいる人は、孤独だから生きずらいという気持ちにまでなる。彼女の境遇は参考にならない。
傷口をなめあうという効果はあるかもしれないが、それだけでは本当の支えにはならない。

彼女は、素直で信じやすい性格である。それがために繰り返し騙されてしまう。友人の友人に騙されてレイプされるという体験を繰り返すことになる。
学習しないというより、寂しがりやの性格が見透かされてしまっている。信じやすいというのは、人間関係に飢えていることの裏返しである。

しかし、この弱みがまた魅力となる。落ちていくように見えても、そこには必ず受け止めてくれる人が待っている。利用する人ばかりではない。
素直で信じやすい人間は、人生の先輩にとっては保護欲をそそる存在である。仲間にとっては、信頼できる友人となる。信じてくれる相手には、信頼を返したくなるのが人情だ。

こうして多くの人に好かれ、愛される境遇を得る。心の傷は癒え、孤独は去る。
最愛のカレシにも出会うことができた。悲劇によってその関係が潰えようとも、この事実は消せない。たとえ短い時間であったとしても、大きな幸せをつかんだという事実は大きい。
そして、最愛のカレシを失うという悲劇からも立ち直れる環境を彼女は持っていた。

悩める人だれしもが出会える人間関係ではないし、大きな苦しみを抱えれば、後に、そうした境遇が得られるわけではない。不幸のあとには幸せが待っているという法則は必然ではない。
ただ、幸せを感じる心を持てるようになり、幸せをつかむために貪欲になるという変化はあるが。

同じ悩みを抱えた人の支えになるという、彼女の意図は成功しているとは思えない。
ただ、伝わる教訓はある。「信じる者は救われる」

(なお、写真は私の撮った青空。著書とは全く関係ない)
ドラマ「ハケンの品格」の最終回を昨日見たが、インパクトに欠ける終わり方だった。
明らかになった大前春子の素性である、両親がいないとか、実は情に篤い人間だとかは、いままで充分暗示されていたので、なんら驚きはない。
派遣期間を更新しないという理由も、長くいると情が移るからぐらいでは、腑に落ちない。組織に従属しつつ、一匹オオカミ的に生きることは不可能ではない。
クルクルパーマを好きになる理由も弱い。
結局、いつものように、最後は助けに来るという大団円が待っていただけで、最終回という感じは薄い。

「いっしょに仕事をするということは、いっしょに生きることだ」に忠実な、情に篤い主任が、最後に成功を収めるという予定調和は許される。見る人に夢を与えるのも、フィクションの大きな使命である。
ただ、そうしたハッピーエンドだけが強調されては、人間ドラマとしての後味に欠ける。

そんな感じでちょっとがっかりした最終回だったが、いままで楽しませてもらったことには感謝しよう。
スーパーウーマンものとして面白かったし、弱い立場にある派遣社員が強者の正社員に歯向かうという図式は、勧善懲悪ドラマのような痛快さがあった。
それに、春子が吐き出すセリフなどにも、ドラマの本筋と関係ないところで、いろいろと考えさせるものがあった。

たとえば「会社を信用していない」というセリフがあったが、現実にも、そんな思いの社員で構成される企業はある。多いといってもいいかもしれないが、そんな会社ははたして存続に値するのだろうか。
社員に信用されない会社は、結局、社会的にも信用をなくすのではないか。社員が寄せる信用と、顧客や取引先寄せる信用はリンクしているのではないだろうか。

人間社会において信用は大事だ。人間関係の骨格にあるのが信用といってもいいだろう。会社も信用がなければやっていけない。信用をなくす不祥事は倒産につながる。

給料をちゃんと払わない会社は社員に信用されないが、支払いが滞る会社も社会的信用なくす。これは当然だが、昨今の成果オンリーの会社も、社員が信用される会社といえないだろう。こうした会社は取引先に対してもドライに対応することになるだろう。仕入れ先には低コストだけを要求し、価格が高ければどこにでも売る。社員を簡単に解雇するように、相手企業に対しても簡単に取引停止を言い渡す。
業績回復手段が、リストラと称する人員削減しかない会社は、取引先にも圧力をかけることしか考えないだろう。社員にあいそをつかされるように、取引先との間にも溝ができる。

こんなことをドラマの営業部長に申し立てようものなら、「あいつは戦力にならん」という烙印を押されそうだが、最近、信用をなくす大手企業は多い。業績のみを追求する企業風土が招いた部分も大きいのではないか。
疲弊した労働者は、会社への忠誠心、本当の意味の忠誠心をなくし、業績を向上させるための手段を選ばなくなる。競争に勝つためならと、不正行為にも意に介さなくなる。軽微な不正がやがて大きな不正に発展し、社会に露出して断罪される。

会社は、自身の社員に信用される努力も必要だろうな。そんなことをちょっと思った。
重松清の『その日のまえに』を読んだ。「涙!涙!!涙!!!」という帯にある評価は誠に正しい。
登場人物たちも泣くし、読んでるこちらも泣かずにいられない。そんな短編小説集であった。

プロットは単純である。
若くして死んでしまう人がたくさんでてくる。不意に現れる不治の病・・・早い死期は理不尽であり、家族にとっても受け入れがたい。
そんな哀しみに包まれた家族や、近い死を宣告される人間の苦悩を見せられて、涙しないほうが無理だ。
読者を泣かせるための設定は整っており、プロット自体に新奇性は何もない。

しかしうまい。
細やかな情感を鮮やかに描き出す。死に往く者と、それを受け止める者の間で交わされるやりとり、亡き後の空白感、静謐な余韻・・・それらを著者は、なんとも味わい深く描写してくれる。親近者の死は、人間にとって人生最大の悲劇であることを強烈に印象付ける。そんな著者の力量には感服する。

でもずるい。死に往く登場人物には、皆、情愛を傾けてくれる親近者がいる。もっといっしょにいたかったと、心から思ってくれる人がいるからこそ、深い悲しみがともなう。愛されている人だからこそ、その早い死の理不尽さが際立つ。

数ヶ月の余命を宣告された人間が多くでてくるが、その苦悩も醜くは描かない。
キューブラー=ロスによれば、死に臨んだ患者の心理過程には、5つの段階があるという。すなわち「否認→怒り→取り引き→抑うつ→受容」。
この小説に登場する患者は、大方がすでに受容の域に達している。取り乱すことはない。最後まで愛されるべき人間として描かれる。怒りや抑うつ状態を表に出さずにコントロールできるすばらしい人々ばかりだ。そこがまた涙を誘う。ずるい。

しかし許そう。愛されているという安心があるからこそ、たやすく受容の域に達することができるのだろう。

「事実性の不滅」という言葉があるそうだ。「死は生きている存在のすべてを破壊するが、生きたという事実を無と化すことはできない」(ジャンケレヴィッチ)という意味で、もう少しくだけた言い方をすれば「私が生きたという事実は、私が死んでも取り消せない」となる。(山崎広光『<いのち>論のエチカ』)

自分を深く愛してくれる人に看取られることで、生きた証の不滅感はより強固になる。だから死を受け入れることも、より容易になるのかもしれない。

ひとりひとりの人間の死を、ていねいに描くこの小説には、そんなことを思わせる力もあった。
どう死ぬかのヒントにもなっているかもしれない。(ちょっと大げさか!)

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